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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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どうもご無沙汰していますね
新天地の研究環境が良さそうで何よりです
そういえばそこに行くことに決めたときには、
「移籍に伴うリスク」とか「先行きの不安」なんて言ってましたが、
やはり「やってみるしかない」ですね




さてさて、セミナーの話ですよね


まずはじめに、
ボクは博士過程の時には研究報告形式のセミナーはやってないんですよ
研究室としてやらないのには色々と経緯があったみたいですが、
基本的には、
「そんなジャレあいはいらん。論文書いて持ってこい」
というようなことだったんだと聞いています
(違うかもしれません)

このような話は極論な気がしますが、
あながち極論でもない気がします
この話に最終的に戻ってくることになりますが、
まぁここでは置いておきましょう



T氏のフリは「内輪でのセミナーについて」でしたね
内輪のセミナーにおける、
「ポスドクや教員(大人と呼びます)」あるいは「学生」の立場、
という話をしてみます

学生は一生懸命に自分の研究として発表してるわけですよね
たぶん経験も知識も足りないから、
それはそれは「不十分」でまとまってないものなんだと思います
(完璧な発表をする子供は、もうそれで良いんです)

聞き手である大人はその「不十分さ」に対して、
・サイエンティストとしてコメントする
・教育的立場でコメントする
という二つの側面を持って接することが可能です

サイエンティストとしてコメントする場合というのは、
必ずしも建設的なコメントをしなければならないわけではない
まぁ、そんなサイエンティストは嫌だけども、
とにかく単純に自分が思ったことを発言すればいいと思うんです

教育的立場というのは、これは難しいモノです
「教育的配慮」というのは各々がそれぞれの方法論を持っていますから、
ダメだダメだと責めることで反発心を期待するのもあるだろうし、
手を持って引っ張ってあげるのもあるし、
ただじっと見守るってのもあると思う
まぁ、実は今日の話ではこの教育的立場の方法論は問題ではありません

ここで重要な点
それは、
「大人の立場」と「学生の立場」のとりかたによって、
セミナーの持つ意味がかわる、ってことです

サイエンティストとしてコメントされた学生は、
サイエンティストとして対応しなけれななりませんよね
でも、
大人が教育的立場を意識してコメントする場合においては、
学生は「どんな立場でもかまわない」ということになります

これを逆に読むと、
学生が「学生としてセミナーに参加」している限りは、
大人のコメントは「教育的立場」を経由しないと、
学生には届きません
突然にサイエンティスト扱いされた学生にとってみれば、
「自分はまだ学生なんで詳しいことはわからないです」
という言い訳が心に浮かぶことでしょうからね
この部分で食い違いが生じていると、
どれだけ時間をかけてもお互いの心に響かない会話が続くんだと思います

だんだん話が見えてきました
(自分でも見えてなかったんです)

「内輪のセミナー」における「学生の性格」を、
「被教育者としての学生」とするか「サイエンティスト」とするか
「被教育者」であれば学生は学生としての「甘え」が許されるが、
大人は学生の「甘さ」も含めて科学の方向性を示してあげる必要がある
(あるいは学生とは科学はしません、という立場もアリだけどめ)
学生を「サイエンティスト」とするなら学生には「甘え」が許されない
と、いうようなことなんでしょう

で、
学生をサイエンティストとして扱うことを突き詰めると、
「サイエンスは論文になってはじめてサイエンス」ということになって、
一番はじめに言ったボクの出身研究室のように、
「論文書いて持ってこい」
になるんでしょうな

ボク個人の見解でいうと、
大人は学生に対して、
セミナーを開始するにあたって事前に、
「セミナーはサイエンティストの議論の場である.
 よって、君もここではサイエンティストだ.
 学生としての甘えは許されない」
という旨をしっかりと通告しておいて、
その上で大人が「内心では教育的立場を意識」しながら、
「表面的にはあくまでサイエンティスト」として振舞うと、
良い内輪のセミナーができるのかな、
なんて思います



さてさて、
次の話のフリをはじめますよ

「日本語が滅びるとき 水村美苗」を読んで感じたことで、
内田樹も言っていることなんですが、
「scienceがEnglishだけでdiscussionされている」今の時代だからこそ、
「科学を日本語で議論すること」には、
特別な意味があるような気がします

たとえば数十年前に日本人が付加体の概念を考えた議論を勝手に想像すると、
「プレートがズルズル落ちていくときに表面がガリガリなって、
 それがこうなってああなるとすると説明できるんじゃネエか?」
みたいな会話が行われていたと思うんです(知らんけどね)
言いたいことは、
「そういう風な発想」を許容する「語彙」が、
比較的普通に使われている日本語の中にあったからこそ、
英語圏の人間にとっては思いもしなかったような、
英語圏から見れば奇抜な仮説を作り上げることができた、
という側面も無視できないんじゃないかな

というようなことを考えると、
「論文書いて持ってこい」ではscienceのdiscussionはできるけど、
科学の議論はできない

それに関連して、
日本の学会発表の場についても、
少し物申したい気分になるんです

なんか、
学会発表って「resultに毛が生えた程度のdiscussion」があって、
それになんか表面的な「comment」をしてるだけで、
それって日本語でも英語でもあんまり違いがなくって、
それならわざわざ顔を合わせてやらんでも、
それこそ「論文書いて持ってこい」の世界だと思うんです

ボクは学会発表は、
「日本語だからこそ生まれるような発想の出現を期待して議論する場」
になるといいな、と思うんです
自分でやる勇気はまだないんですが、
「自分は話題提供で3分だけ話して、
 残りの12分を議論にする」
みたいなことがあっても良いかな、なんて


あ、フリにならずに完結しちゃった
ごめん


ということで今日はお開き
次回は適当なネタでお願いします
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kawagucci
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自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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