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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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世の中がアンチに溢れていて、
なんだかシンドイ

アンチには、すぐになれる
だって、何かがあって、
「それには反対です」
と言えばいいだけなのだから

でもオルタナティブは違う
ある意見・見解があって、
それに対して、
その論点を理解した上で、
異なる方向性に価値を見いだすようなもので、
それは元の意見・見解を否定するものではないし、
見かけ上、あるいは意見の中身として対立したとしても、
その目的とする方向性は共有している、とも言える

それはさておき、
ワークライフバランス(WLB)って言葉が盛んに使われていますが、
ボクはこれにちっとも共感できない
WLB派閥(があるのか知らないけど)に対して、
嫌悪感すら抱いてしまうことがある
それは、
なんとなくだけど、
ワークとライフを利益相反するものとしてとらえて、
その間の落としどころでバランスさせようと考えているように、
ボクには思えてしまうから

でもワークとライフって、
そもそも対立軸じゃないし、
もっと言うと、
ほぼ同義なものだと思う
ワークとライフは同じモノなんだから、
そもそもバランスさせようがない
(だって同じなんだもの)

ワークとライフが、
お金を食い合う関係とか、
収入と支出だとか、
時間を食い合うとか、
そういう考え方自体が、
なんかもう、シンドイ

まぁそんなことが言えるのも、
こんないい加減な仕事をしてるからだし、
もっと言えば、
WLB的な仕事をしたくないから今の仕事をやってるわけで、
そもそもWLBには近寄らずに生きれば良いのかもしれない

でも、
ボクはこのままいけば人の上に立って、
組織をドライブしていかねばならないわけで、
そうなった時に、
社会の中の多様性とか、
マイノリティに対する視線とか、
そういうものは持ち合わせておくべきだし、
それが出来るのがボクの特性でもあるわけだから、
そこはそことして、
ちゃんと考えていかねばならないと思うわけです

つまりは、
WLB的な考え方をする人も、
ジブンにとってのオルタナティブであるわけで、
ん、ちがう
むしろWLB的な考えをする人のオルタナティブがジブンの立ち位置なので、
相手とジブンのバランスみたいなものを、
どこかに見出しておかねばならないね、という話
じゃなかったけど、
そういうことにして、今日はこれでオシマイ


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 先日の科学技術コミュニケーションに関するエントリーに反響


以前書いてあったSTCについての意見ほぼ同感です。

やるなら外向きにもっと大々的にやるべきなのに、ほとんど内輪で自慰行為の見せ合いみたいになって満足してるようにしか僕には見えません。
トップダウン(のやり方を理解していない馬鹿な為政者)に対抗するのは、トップダウンです。
日本はなんだかんだ言って、「お上」意識が強く、右へならえする風土。
というなわけで、最大のサイエンスコミュニケーションは、政治家・官僚そしてマスコミの上層部に、知的生産の価値を理解する人材を大量に送り込む、そして知的生産行為の「尊さ」(有用性とかいう次元ではなく)を広く国民に浸透させることだと思うのです。

あと、仕分けを受けて学界のありように関してもいろんな声が出ていますが、それらの方向性が、市民団体チックな雰囲気に統一されると良くないと思います。
もちろん、政治に対しては、学界からのボトムアップな意思決定フローを構築すべきだと主張すべき。
しかし内部では、スター性があり、かつ大局を理解する人がトップダウンで決断できるようにしないと、ぐちゃぐちゃになります。
ブログとかツイッターとかでみんな個別事例に対して好き勝手な発言を垂れ流してるのを見て(僕もその一人ですが)、これらが連携するとなんとなく気持ち悪い左翼団体みたいになりそうな気がちょっとしたので。
たぶんそういう思いでkawagucci氏も吠えてるんだと思いますが。
どうもご無沙汰していますね
新天地の研究環境が良さそうで何よりです
そういえばそこに行くことに決めたときには、
「移籍に伴うリスク」とか「先行きの不安」なんて言ってましたが、
やはり「やってみるしかない」ですね




さてさて、セミナーの話ですよね


まずはじめに、
ボクは博士過程の時には研究報告形式のセミナーはやってないんですよ
研究室としてやらないのには色々と経緯があったみたいですが、
基本的には、
「そんなジャレあいはいらん。論文書いて持ってこい」
というようなことだったんだと聞いています
(違うかもしれません)

このような話は極論な気がしますが、
あながち極論でもない気がします
この話に最終的に戻ってくることになりますが、
まぁここでは置いておきましょう



T氏のフリは「内輪でのセミナーについて」でしたね
内輪のセミナーにおける、
「ポスドクや教員(大人と呼びます)」あるいは「学生」の立場、
という話をしてみます

学生は一生懸命に自分の研究として発表してるわけですよね
たぶん経験も知識も足りないから、
それはそれは「不十分」でまとまってないものなんだと思います
(完璧な発表をする子供は、もうそれで良いんです)

聞き手である大人はその「不十分さ」に対して、
・サイエンティストとしてコメントする
・教育的立場でコメントする
という二つの側面を持って接することが可能です

サイエンティストとしてコメントする場合というのは、
必ずしも建設的なコメントをしなければならないわけではない
まぁ、そんなサイエンティストは嫌だけども、
とにかく単純に自分が思ったことを発言すればいいと思うんです

教育的立場というのは、これは難しいモノです
「教育的配慮」というのは各々がそれぞれの方法論を持っていますから、
ダメだダメだと責めることで反発心を期待するのもあるだろうし、
手を持って引っ張ってあげるのもあるし、
ただじっと見守るってのもあると思う
まぁ、実は今日の話ではこの教育的立場の方法論は問題ではありません

ここで重要な点
それは、
「大人の立場」と「学生の立場」のとりかたによって、
セミナーの持つ意味がかわる、ってことです

サイエンティストとしてコメントされた学生は、
サイエンティストとして対応しなけれななりませんよね
でも、
大人が教育的立場を意識してコメントする場合においては、
学生は「どんな立場でもかまわない」ということになります

これを逆に読むと、
学生が「学生としてセミナーに参加」している限りは、
大人のコメントは「教育的立場」を経由しないと、
学生には届きません
突然にサイエンティスト扱いされた学生にとってみれば、
「自分はまだ学生なんで詳しいことはわからないです」
という言い訳が心に浮かぶことでしょうからね
この部分で食い違いが生じていると、
どれだけ時間をかけてもお互いの心に響かない会話が続くんだと思います

だんだん話が見えてきました
(自分でも見えてなかったんです)

「内輪のセミナー」における「学生の性格」を、
「被教育者としての学生」とするか「サイエンティスト」とするか
「被教育者」であれば学生は学生としての「甘え」が許されるが、
大人は学生の「甘さ」も含めて科学の方向性を示してあげる必要がある
(あるいは学生とは科学はしません、という立場もアリだけどめ)
学生を「サイエンティスト」とするなら学生には「甘え」が許されない
と、いうようなことなんでしょう

で、
学生をサイエンティストとして扱うことを突き詰めると、
「サイエンスは論文になってはじめてサイエンス」ということになって、
一番はじめに言ったボクの出身研究室のように、
「論文書いて持ってこい」
になるんでしょうな

ボク個人の見解でいうと、
大人は学生に対して、
セミナーを開始するにあたって事前に、
「セミナーはサイエンティストの議論の場である.
 よって、君もここではサイエンティストだ.
 学生としての甘えは許されない」
という旨をしっかりと通告しておいて、
その上で大人が「内心では教育的立場を意識」しながら、
「表面的にはあくまでサイエンティスト」として振舞うと、
良い内輪のセミナーができるのかな、
なんて思います



さてさて、
次の話のフリをはじめますよ

「日本語が滅びるとき 水村美苗」を読んで感じたことで、
内田樹も言っていることなんですが、
「scienceがEnglishだけでdiscussionされている」今の時代だからこそ、
「科学を日本語で議論すること」には、
特別な意味があるような気がします

たとえば数十年前に日本人が付加体の概念を考えた議論を勝手に想像すると、
「プレートがズルズル落ちていくときに表面がガリガリなって、
 それがこうなってああなるとすると説明できるんじゃネエか?」
みたいな会話が行われていたと思うんです(知らんけどね)
言いたいことは、
「そういう風な発想」を許容する「語彙」が、
比較的普通に使われている日本語の中にあったからこそ、
英語圏の人間にとっては思いもしなかったような、
英語圏から見れば奇抜な仮説を作り上げることができた、
という側面も無視できないんじゃないかな

というようなことを考えると、
「論文書いて持ってこい」ではscienceのdiscussionはできるけど、
科学の議論はできない

それに関連して、
日本の学会発表の場についても、
少し物申したい気分になるんです

なんか、
学会発表って「resultに毛が生えた程度のdiscussion」があって、
それになんか表面的な「comment」をしてるだけで、
それって日本語でも英語でもあんまり違いがなくって、
それならわざわざ顔を合わせてやらんでも、
それこそ「論文書いて持ってこい」の世界だと思うんです

ボクは学会発表は、
「日本語だからこそ生まれるような発想の出現を期待して議論する場」
になるといいな、と思うんです
自分でやる勇気はまだないんですが、
「自分は話題提供で3分だけ話して、
 残りの12分を議論にする」
みたいなことがあっても良いかな、なんて


あ、フリにならずに完結しちゃった
ごめん


ということで今日はお開き
次回は適当なネタでお願いします
Tです.お久しぶりです.
前回からずいぶん時間が空きました.

こちらは新しい環境にも慣れて,順調です.
以前の場所よりも,専門的な分野について深く学ぶ機会が多いです.
その点,当初のねらい通りに行っています.

ここで身につけたことをどんどんと研究成果にしていこうと思います.



今日は学生が卒論などの途中経過を発表する形のセミナーについてです


これが面白くないんです.
面白くないというのは,聞き手も話し手も
セミナーを通じて得るものが少ないと感じるのです.


その原因について考えます.


内輪のセミナーだし,学生の研究の経過報告だし,
不十分な部分が少なからずあることは当然でしょう.


これを「不完全な研究」と呼ぶことにします.
ちなみに「完全な研究」とは,ここでは
とりあえず投稿論文くらいの完成度のものとしておきます.


「不完全な研究」は「十分な部分」と「不十分な部分」とに分けられます.
「十分な部分」は「完全な研究」にとって必要十分な要素で,
「不十分な部分」は「完全な研究」にとって
不足していたり,不必要であったり,修正が必要であったりする部分です.


学生のセミナー発表はたいがい「不完全な研究」です.


このとき,セミナーの話し手(ここでは学生)は,
自分の研究が「不完全」であることを知っていて,
どこが「十分な部分」でどこが「不十分な部分」かを
ある程度認識していると思うんです.
この話し手の認識を「話し手の研究に対する話し手の評価」としましょう.


一方で聞き手は,セミナー発表を通じて
話し手の研究について「十分な部分」と「不十分な部分」を
判断すると思います.
これを「話しての研究に対する聞き手の評価」とします.


また,話し手も聞き手もその研究に対して
「十分とも不十分とも評価できない」部分もあると思います.
聞き手によっては発表のほとんどがこの部分になるかもしれません.



僕は,講座セミナーの最大の目的とは
「話し手の研究に対する話し手の評価」と
「話し手の研究に対する聞き手の評価」を
一致させることだと思っています.


セミナーの目的をこのように決めると,聞き手の意見や質問は自然と決まってきます.


意見は,
話し手が「十分(もしくは不十分)」と思っている部分に対して,
聞き手が「それは「いやそれは不十分(もしくは十分)」だよ」という行為.

質問は,
聞き手が「十分とも不十分とも評価できない」部分に対して,
話し手自身がどう評価しているのかを確認する行為.

ではないでしょうか?


こうした意見や質問を通じて,
話し手の研究に対する話し手と聞き手の評価が一致,
一致しないにしても以前よりも近づいたなら
セミナーは意義あるものとなると思っています.


さらに,「不完全」な部分の打開策について協議できたらなお良いと思う.
それは「不完全な研究」を「完全な研究」へと進める行為ですから.



それに対して,意味のない意見というのがあります.


話し手が「不十分(もしくは十分)」と評価している部分に対して,
聞き手が「そこは不十分(もしくは十分)だよ」と言う意見です.

この意見には,
「話し手の研究に対する話し手の評価」にも
「話し手の研究に対する聞き手の評価」にも変化を与えません.
まあ,確認くらいにはなるかな.


最初にも書いたけど,
話し手(学生)は自分の研究が「不完全」なものであり,
どこが「不十分」かはある程度分かっていると思うのです.


その部分について聞き手(特にポスドクや教官)が
「そこは不十分じゃ」
と言ったところで,
話し手にしてみれば
「そんなこと知ってるよ」
という感じではないでしょうか.

でも,「不十分」という負い目から,口では「すいません」としか言えませんよね.

セミナーではこういった「意味のない意見」があまりに多い気がします.
これでは,話し手の意欲が落ちるのは当然です.

だって,
自分でも「不完全」と分かっている研究について,
「不完全じゃ」と言われて,
「そうですね」と答えるだけで
発表によって得られるものが何もないのですから.


K氏は内輪で行うセミナーについてどうお考えですか?
ご無沙汰しているうちに月が変わってしまったね
社会人になって一ヶ月ですが、そちらはいかがお過ごし?

こちらは前に少し話した通り、
卒業して30日で母校(母研究所)に戻り、
自分が30日前までそうであった博士院生に説教をしてきましたよ

Tさんからの伝言であった、
「学生よ!おもしろくなくても教員の昔話を聞け.
 最低限,自分の研究室の歴代教授ぐらい知っとけ!」
「教員よ!昔話をおもしろく話せ!!」
というの、
すっかり忘れてました


前回のネタとしては、
「共通の情報は盛り上がりに必要」
ということでしたが、
このネタと、
上述の教員のおもしろくない昔話を聞くこととは、
連続的なんじゃないかと思いました



まず一番はじめに思ったのは、
「共通の話題」で盛り上がるってことは、
「別個の人同士」が「すでに同じ話題を知っている」ことが前提条件になりますよね

前回の話題になった野球なんかに代表される、
テレビなどのメディアに乗ってくる話題なら、
話題の発信者は第三者で、
会話をする当人同士は「初めは」両者ともに受け手の立場なんですよね
だから、
「別個の人同士」が「すでに共通の話題を知っている」という状況が、
容易に形成されると思うんです
その後は、共通の話題を土台にして、
ちょっとずつ共通な部分を広げていくイメージでしょうか


一方、
研究室内みたいな狭い環境で、
教員と学生という「別個の人同士」が「すでに同じ話題を知っている」という状況を、
「初めに」満たすことって実はすごく大変な気がします

なんせ、メディアのような情報の絶対的な発信者がいないわけですから、
この場合、
「共通の(同じ)話題」というものはどんな話題になるかわからないわけです
もしかしたらすでに両者ともに「同じ話題」を有しているかもしれませんし、
あるいは「同じ話題」は潜在的にも一つもないかもしれません

いずれの場合にしても、
今後、両者の間が盛り上がるためには、
まず初めに、
「共通の話題」を発掘、あるいは発見する必要があるわけですね

でも、
この発見や発掘のための「初めのコミュニケーションの話題」は、
「共通の話題」であることはないわけだから、
二人の間で交わされるこの「初めてのコミュニケーション」は、
盛り上がらない可能性が高いことになります

こういう状況で行われるコミュニケーションは、
いずれかが「相手にとってとっかかりのありそうな話題」の発信者に、
もう一方が「相手の発する話題」の中から「共通の情報」を探る受信者になります
研究室の場合は、
年や立場的に、
教員が発信者、学生が受信者になりがちですよね
そして、
考えるまでもなく、
この「初めのコミュニケーション」では、
発信者よりも受信者に多大な努力が必要とされます

発信者ももちろん受信者のために、
相手との「共通の話題」になり得そうな「持ちネタ」を発信するわけで、
それが教員が学生に話をするケースならば、
「歴代教授やOBがやらかしたコト」(同じ研究室という共通の情報)とか、
「自分の学生時代の話」(大学院生の生活という共通の情報)とか、
そういう類の話をするわけです
まぁ、
ここで「共通の話題になりそうなネタ」の選択を誤るのが、
教員の話が「面白くない」と断罪される大きな要因だと思いますが、
それはココでは置いておきましょう

コミュニケーションの上手な受信者であれば、
こういった、よくよく考えれば「大した取っ掛かりの無い情報」を受けて、
無理やり「共通の情報」を見つけたり、
「共通の情報」が見つかるまでさらに詳細に聞いてみたり、
もう少し自分側によった話題にネタをずらすための相槌を打ったりとか、
とにかく、
たとえその道程が面白くないものであっても、
「共通の話題」の出現を根気良く探るわけです
だって、
一度「共通の話題」が見つかれば、
あとは雪だるま式にコミュニケーションが広がるわけだからね

でも、
いわゆる「最近の学生さん」は、
「初めのコミュニケーション」のつまらなさで諦めてしまって、
「教員との間には共通の話題が無い」
と判断し、
すでに「共通の話題」の構築されている同年代と戯れるほうを選択し、
教員とのコミュニケーションの継続を拒否してしまっていると思うのです



あぁ、
いつもの通り、
話の収束が見えなくなってきたので、
ここらで無理やりまとめますと、
T氏の提唱する「歴代教授の名前」というのは、
実はものすごく強力なコミュニケーションツールだと思うのです

歴代教授なんて高々5人ぐらいなもんだけども、
それだけの固有名詞を知っているだけで、
「共通の話題」を見出せる可能性がぐっと上がるからです
だって、
これもT氏が指摘している通り、
教員は往々にして「昔話」を「持ちネタ」にしているんだもの
お久しぶりです.
このお題の回答の書き方はかなり悩みました.難しい.

まず,何を持ってして「盛り上がった」と言えるのだろう.
というのも,WBCとプロレスとか例として出ているけど,
各イベントに対する盛り上がりは人それぞれだと思います.

自分の場合はW杯よりもNPBの方がはるかに盛り上がっているし,
朝青龍に無関心という友達もいます.

ここで,K氏が「盛り上がる」といったのは
「世間の注目度」と言い換えていいよね?

「盛り上がった」イベントとは世間のより多くの人が「注目した」イベントだという
ことです.
どうすれば,多くの人が注目するか?

自分は,「多くの人に共通な話題であること」と「内容が簡単であること」の2点が重
要だと考えます.

世間にはたくさんの人がいて,いろんな趣味や嗜好を持っています.
それらの人の大多数が興味を持って,一緒に「盛り上がる」には,
みんなに共通の対象でなければなりません.

では,共通の対象とは何か?

日本国内で考えたとき,最近は流行がコロコロ変わって,ちょっと世代が違うだけで
も,
情報がまったく異なる.
僕も90年代のJ-POPはまあまあ知っていて聴くと盛り上がるけど,
最近の歌はよくわかんないから,学生さんとカラオケ言っても
盛り上がりません.

そういう趣味も知識も違う人たちとの数少ない共通意識って,
どうしても,単純なことになっちゃうと思います.
たとえば「自分は日本人だ」とか.

その結果,日本代表が出る国際大会しか盛り上がらなくなる.
このとき,盛り上がっている人の多くは競技や大会の内容は理解していないと思いま
す.
競技は何であれ,内容はどうであれ,「日本(代表)が勝った!(または,負けた)」
これは,日本人の多くが感情を共有できるので盛り上がる.

昔は,もうちょっと違ったのではないやろうか.
多くの人が似たような教育や家庭環境で育って,そうして,大人も子供も共通の情報を
持った.
例えば,親の世代の男の子で野球のルールを知らない人の方が少ないだろうし,
野球をしたことないって人の方が少ないと思う.だから,野球という競技の内容まで理
解できる人が多かった.
そうすると,NPBの内容について感情を共有する人が増える.結果,盛り上がる.

何が言いたいかというと,昔は情報が少なかった分,多くの人が知っている共通の情報
が多かった.
その結果,その共通の情報を使った盛り上がり方に多様性が生まれ,内容まで踏み込ん
だ盛り上がりが可能になった.
内容まで踏み込んだ盛り上がりって,「茶番」的な楽しみ方よね.

一方,情報が増えてくると,その分,世間の間での共通の情報は少なくなってしまう.
そうすると,盛り上がるには共通の情報が必要なので,
盛り上がるための共通の情報の組み合わせの数が減ってしまう.
だから,盛り上がる内容は単純なもの,結果だけという野蛮的なものとなる.

共通の情報って盛り上がりに必要なものなんじゃないかなーと思っています.

研究室の人たちで集まれば,研究の話で盛り上がり,
野球部の人たちで集まれば,野球の話で盛り上がり,
親戚で集まれば,いない親戚の話で盛り上がり,
居酒屋の隣に座った見知らぬ兄ちゃんとW杯で盛り上がり,
初対面の外国人とは下ネタで盛り上がる.
ちょっと間が空きましたが、
これぐらいのペースの方が色々と考えられていいですね


オーバーアチーブについて、
「共通・相対的」と「個人・絶対的」の二者に分類するのは、
納得がいくものでした
共感

で、
オーバーアチーブは行動の結果に関することだけど、
その行動を実施する際の目的意識・動機付けには、
「内発的動機付け」と「外発的動機付け」があると聞いたことがあります

それぞれの意味は読んで字のごとくで、
内発的動機付けってのは、
自分の内側から湧き出る感情に基づいた行動動機を、
外発的動機付けってのは、
誰かに動機付けられることを言うようです
(専門的な意味はわかんなくって、ボクの解釈です)

T氏が例として挙げた「腹筋100回」というのが面白いので、
これを例にして考えると、
「腹筋100回やる」ことは動機的には内発的でも外発的でもありえると思います
「昨日は99回できたから今日は100回だ」は内発的、
「100回できないと罰が待ってるから100回やらねば」は外発的、
って、そんな感じ
数字を媒介するからなんとなく「共通のオーバーアチーブ」な感じがするけども、
本質的な部分は、
「その数字を設定したのはなぜか」にあるのかと思います


前回は「ゲーム」と「スポーツ」と言ってしまいましたが、
そもそも「スポーツ」ってなんやねん、って部分がややこしいですね
「スポーツ」の「ゲーム」的な部分は「競技」と呼ばれるものだと思います

「競技」ってのは相手と競うものだから、
そのもの自体が外発的動機によって行われてる
たとえば野球ってのは、
すごく競技として発達してるんだけど、
でも、
その競技での勝利を追求していくと、
相手や環境ってのは自分ではどうしようもないから、
どうするかって言うと、
もうそれは自分でできる範囲のことをより良くするしかない
そうすると、
もはや相手の実力や環境、競技の特性、
つまり外発的な事象なんかは到達目標の支配要因ではなくなって、
自分の行うことは内発的な動機に支配されていて、
練習が目的というか、
自分の心身操作(自己研鑽)が目的になっていくんじゃないかな

「競技」を突き詰めると、かえって「競技性」からは遠ざかっていく

そんな感覚じゃなかったかな、と自分を振り返っても思うなぁ
自分の話をすると、
フォームを確認するために泳いでいるときにタイムを採られると、
「今はタイムを計る場面じゃないでしょ!?」
みたいな
わかりにくいね


もう少し一般化すると、
ちょっと焦点がずれるかもしれないけど、
「自分が自発的に何をするか」じゃなくて、
「自分が何が起こることを想定しているか」って感じ
「後の先」ってのはこういうことを言ってるのかもしれない
「後の先」ができるための準備ってのは、
「先の先」だよね
で、
「何が起こるか」を想定するっていったけど、
そこで「世の中、何でも起こりうる」って考えてしまうと、
もう自分が何を想定しているのかが無くなってしまうよね

マンガの「昴」で、
プリシラってプリマドンナが、
まぁすごいバレリーナなんだけど、
この人は、
ただ立ってるんだよね
それってまさに「先の先」だな、って思いましたとさ
(おススメのマンガなのでぜひ読んでください)


なんか話がグダグダになってしまったので、
ちょっとお題らしきものを提案します

WBCが盛り上がったわけなんだけど、
NPB(日本のプロ野球)はいまいち盛り上がらない
サッカーのW杯予選は盛り上がっても、
Jリーグはさほどでもない
五輪のレスリングは盛り上がるけど、
プロレスは全然ダメ(比較対象が悪いか)
朝青龍は何やっても盛り上がるけど、
白鵬は勝っても負けても盛り上がらない

これって、
スポーツの種類じゃなくて、
「競技性の追求」と「それ以外の何か」で決まってる気がする
なんかそれぞれ「野蛮」と「茶番」で説明できそうなんだけど、
どうだろうか
「幸せ」とは,ある「枠(現状であったり目標)」を超えたときに得られるもので,
「不自由」とは,その「枠」が外から決められている状態ということっすか

妙に納得しました.

このときに「枠」を見つけられなかったり,
うまく作れないとキツイいんだと思います.

僕らの世代っていうのは他者が与える「枠」が少ない分,
自分で「枠」を作ることが大事やね.
ただ,うまく「枠」を作れる人はガンガン伸びていくことができる.
そういう時代だったのではないやろうか.

でも,こういう時代ももう終わりつつある.
他者からの「枠」に囲まれまくって,それを壊すだけで精一杯,
でもオーバアチーブはたくさんできるから幸せは感じられる.
これが,本来の世の中なのではないかと思います.


「ゲーム」と「スポーツ」の話は面白いね.
これは「茶番」と「野蛮」にも通じる部分もあるのかな.
(茶番と野蛮は海洋研時代に二人がテーマにしていた話題)

K氏が言う「ゲーム」におけるオーバアチーブは,
誰にとっても「共通のオーバアチーブ」やね.

それに対してK氏が定める「スポーツ」におけるオーバアチーブは,
それを行う人がそれぞれに感じる「個人のオーバアチーブ」なのではないでしょうか.
これは個人で異なるし,
同じ人でも年齢やそのときの状況によって変わってくるので,
いつでも楽しめるね.

この「個人のオーバーアチーブ」には,
いくつかの種類があるのではないかと思います.

ひとつは,「毎日100回腹筋する」とか「東京マラソンで4時間を切る」
とかいった自分で目標を設定するもので,
これは「共通のオーバーアチーブ」に近いタイプ.

僕が面白いと思うのはK氏が書いていたような
「うまくバットが振れた」といったタイプのオーバアチーブです.
これは,とても感覚的なもので,
どううまくバットが振れたのかと言葉で表現するのは難しいし,
数値で表現するのを難しい(実際,複雑な解析をすればわかるのかもしれないけれど).

でも,確かに「うまくバットが振れた」と感じることはあります.
水泳でも「うまく泳げた!」というオーバアチーブを感じることがあると思います.

僕が野球でこの感じを意識するようになったのは大学に入ってからです.
この感覚が得られたときは,
本当に結果(共通のオーバーアチーブが達成されたかどうか)は気にならないことが何度かありました.
つまり,凡退したけど納得みたいな気分.

僕はこの文章を書きはじめたとき,
「共通のオーバアチーブ」に対して「絶対的オーバーアチーブ」という名前を,
そして「個人のオーバアチーブ」に対して「相対的オーバーアチーブ」という名前を
つけようかと考えていました.
でも,これは多分,逆やね.

自分の感覚の(肉体的な?)中で感じる「うまくバット振れた」的な
オーバアチーブこそが「絶対的オーバーアチーブ」なのではないやろうか.
そして,これが達成されると他人が定めた「共通のオーバアチーブ」は
全然気になんないくらいの快感が得られるのではないやろうか.

きっとこういう時って何かしら脳に快楽物質が分泌されているのだと思うけれど,
これって「共通のオーバーアチーブ」(理論的オーバーアチーブとも言えるかも)を達成したときと同じモノが出るのかね.
違ったら面白いんだけどねー.

早速楽しいネタ振りをしてくれてありがとう


今回の返事の元ネタは、
内田樹のお友達の平川さんの著書、
「ビジネスに戦略なんていらない」という本に書いてあったことです
キーワードは「オーバーアチーブ(over-achieve)」です


さて、
今回のお題は、
「自由」と「幸せ」の関係についてだと思います
そこでまずはじめに、
これらについてあらためて考えてみました

ここでいう自由とは、
自己の現状を設定する自由度のことを指していると思います
大昔だと、農業や狩猟をサボるとご飯が食べられず死んでしまいましたし、
戦後の日本も、まぁ一次産業からサラリーマンへとシフトしましたが、
生きるために行動するという点で、
原始的な生活と同じだったでしょう
そのような環境に属する人に求められるのは、
そう、まさに他人から「求められること」が「自分のすべきこと」だったんですね
「求められること」によって自由が奪われていたのです

一方現代の日本では、
ただ単に生きていくだけに自分自身の自由が奪われることはありません
ニートですね
そんな「他人から何かをすることを求められない状況」では、
「自分の実施することは自分で決める」ことができます

いきなりわからなくなってきましたが、
ここは大体の感じで次にいきます

「幸せ」についてですが、
今日のお話では、
「オーバーアチーブした時に幸せを感じる」という風に定義させてください
オーバーアチーブというのは、
文字通りにオーバーにアチーブするのですが、
簡単に言えば現状打破でしょうし、
「すべきこと」よりもさらに一歩踏み越えて「何か余計なこと」をすること、
と言っていいかと思います

ここでようやく自由と幸せの関係についてです
まず「不自由な自分」であった昔のケースですが、
上に述べた通り、
「不自由な自分」に対しては「外からの要求」が押し寄せてきています
この時に重要なことは、
「不自由」ということは、
「自由が無い」わけではなく、
「自由が制約された状況」であるということです

いきなり具体例ですが、
たとえば自分が稲作農家だとします
そんな自分は野球選手になれないし、都会で遊ぶこともままなりません
そういう職業選択や時間利用の自由は制限されるでしょう
でも、稲作の範囲内であれば、自由です
たとえば、
効率的な水路を構築したり、田んぼに蛙を放ったり、
色々な工夫が可能です
そしてその工夫により、
多く収穫があったり、
あるいは作業自体にバリエーションができたり、と、
単に同じ方法で稲作をするよりも余計な何かが生まれます

これは、
不自由だからこそ、
外からの要求で狭い枠の中に閉じ込められているからこそ、
自分の力でその枠を飛び出す、
あるいは枠を再構築する、
つまりオーバーアチーブすることが容易で、
幸せを感じることができるのだと思います

では、「自由な自分」ではどうでしょうか
「自由な自分」の行動の源は、
「理想の自分の獲得」にあるでしょう
そして、
ここには大きな問題が潜んでいます
それは、
「理想の自分」というのは、
文字通り理想的な状態で、
その状態以上のものはありません

つまり、
「自由」に「理想の自分」を目標に行動する限りにおいては、
“絶対にオーバーアチーブすることができない”のです
悲しいですね
そしてさらに悲しいことに、
「理想の自分」には制限がなくて、
時には現実よりも理想が先に更新されていきます
つまりこの状況下では、
“オーバーアチーブはおろかアチーブすらできない”のです
あぁ嘆かわしい

昨今、それこそ新入社員さんなどが、
「自己実現」を高らかに謳っているのを見ると、
悲しくなります
そういうゴールを設定してしまうと、
過程でも結論でも、
幸せにはなれないんですね

タモリの言葉に、
「俺は全体像にまったく欠けている。
 なんか、全体像を持つと不幸ですよね。
 こうあるべきとか位置づけると不幸ですよ。」
というのがあって、
これには大いに賛成するわけであります


ここまでで回答は終わりなんだけど、
もう二つ言っておきたいことができました

「不自由がゆえに実現できないことがあって不幸せだった」
というのは、
現在から過去を見て、
あるいは過去にさかのぼって未来(現在のこと)を見て、
そう思っているだけであって、
それは不幸せではないと思うんです

「ある過程で幸せを得られなかったから不幸せ」ってことは無いんです
それを実施したかった過去の時間は別のことに費やされていたわけで、
そこで幸せを感じていたらそれで良いんですよ
「オーバーアチーブ感」は過程や手段を選びませんからね
過去にさかのぼって、
過去から未来の、つまり現状の自分を見て、不幸せだとか言うのは、
幸せかどうかとは本質的には無関係な、
単なる夢物語ですよ


もう一つは、
「ゲーム」と「スポーツ」におけるオーバーアチーブ感の違いについてです
「ゲーム」というのはテレビゲームや、
あるいはたとえば野球をゲームとしてとらえたらということですが、
ゲームというのはですね、
オーバーアチーブする機会を随所に埋め込んだシステムを指すと思うんです
目的が設定されていて、
手段が決められていて、
その中で上手に自分が行動することで、
相手に勝ったり良い結果を出すというオーバーアチーブを体験する、
そういう仕組みのものだと見なせる、ということです
ゲームでは容易にオーバーアチーブを体感できるのですが、
それはゲーム内に限定的なものなので、
たとえばテレビゲームには、こうすればクリア、というのが設定されているし
「ゲームとしての野球」のバッターにとっては、まぁホームランが限界でしょうから、
ゲームの範囲内には「もうオーバーアチーブできない」限界点が存在するんです

一方、スポーツでは、
また野球を例に取りますが、
ホームランを打つことにオーバーアチーブ感はあまり無くって、
たとえば、
「うまくバットを振れた」
というところにオーバーアチーブがあるんですね
このオーバーアチーブ感の特徴は、
無段階、そして無限にあると思います
ゲームのように目標や枠というものが具体的でない分、
にわかにはオーバーアチーブが実感しにくいものの、
無段階・無限にオーバーアチーブできるので、
永遠に楽しむことができますよね

現在ようやく「日本語が亡びるとき」を読んでいる(思った通り面白い!)ので,読み終わったら感想書きたいと思います.



最近は「人生,不自由な方が幸せなこともある」というのを考えております.

今の日本の20-40代くらいの人たちは,世界の歴史で見ても例外的に「自由」な世代だったのではないやろうか?
でも「自由」なおかげで,自分の人生を自分で背負わなくてはならなくなった.
「不自由」な場合は,その「不自由」を言い訳にできたと思うんですよ.
「俺は○○したかったけど,××というどうしようもない理由があったからからできなかった.(それがなければ○○できたかも)」みたいなことが言えたし,本気でそう思えたんじゃないかな.

でも,「自由」だと自分が頑張りさえすればできるわけだから,できなかったのは全て自分の責任と思ってしまうのではないやろうか?
「頑張れば夢は必ず叶う」って言葉は「夢が叶わなかったのは,お前が頑張らなかったから」っていう意味でもあるよね.
実際は頑張っても夢は叶わないし,頑張ることができるのは一部の人間だけだと思うのです.
そもそもみんなが頑張る必要はないと思うし.

というより「頑張る」ってめちゃ抽象的な言葉やね.
何を持って「頑張った」と言えるのか.
まあ,これはまた今度話しましょう.
とにかく,今の20-40代で夢が叶っていない人たちっていうのは,無意識にそういう「自分は頑張らなかった(だからダメダメだ)」という負い目を感じながら生きているのではないかな,と思うことが最近ありました.
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