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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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早速楽しいネタ振りをしてくれてありがとう


今回の返事の元ネタは、
内田樹のお友達の平川さんの著書、
「ビジネスに戦略なんていらない」という本に書いてあったことです
キーワードは「オーバーアチーブ(over-achieve)」です


さて、
今回のお題は、
「自由」と「幸せ」の関係についてだと思います
そこでまずはじめに、
これらについてあらためて考えてみました

ここでいう自由とは、
自己の現状を設定する自由度のことを指していると思います
大昔だと、農業や狩猟をサボるとご飯が食べられず死んでしまいましたし、
戦後の日本も、まぁ一次産業からサラリーマンへとシフトしましたが、
生きるために行動するという点で、
原始的な生活と同じだったでしょう
そのような環境に属する人に求められるのは、
そう、まさに他人から「求められること」が「自分のすべきこと」だったんですね
「求められること」によって自由が奪われていたのです

一方現代の日本では、
ただ単に生きていくだけに自分自身の自由が奪われることはありません
ニートですね
そんな「他人から何かをすることを求められない状況」では、
「自分の実施することは自分で決める」ことができます

いきなりわからなくなってきましたが、
ここは大体の感じで次にいきます

「幸せ」についてですが、
今日のお話では、
「オーバーアチーブした時に幸せを感じる」という風に定義させてください
オーバーアチーブというのは、
文字通りにオーバーにアチーブするのですが、
簡単に言えば現状打破でしょうし、
「すべきこと」よりもさらに一歩踏み越えて「何か余計なこと」をすること、
と言っていいかと思います

ここでようやく自由と幸せの関係についてです
まず「不自由な自分」であった昔のケースですが、
上に述べた通り、
「不自由な自分」に対しては「外からの要求」が押し寄せてきています
この時に重要なことは、
「不自由」ということは、
「自由が無い」わけではなく、
「自由が制約された状況」であるということです

いきなり具体例ですが、
たとえば自分が稲作農家だとします
そんな自分は野球選手になれないし、都会で遊ぶこともままなりません
そういう職業選択や時間利用の自由は制限されるでしょう
でも、稲作の範囲内であれば、自由です
たとえば、
効率的な水路を構築したり、田んぼに蛙を放ったり、
色々な工夫が可能です
そしてその工夫により、
多く収穫があったり、
あるいは作業自体にバリエーションができたり、と、
単に同じ方法で稲作をするよりも余計な何かが生まれます

これは、
不自由だからこそ、
外からの要求で狭い枠の中に閉じ込められているからこそ、
自分の力でその枠を飛び出す、
あるいは枠を再構築する、
つまりオーバーアチーブすることが容易で、
幸せを感じることができるのだと思います

では、「自由な自分」ではどうでしょうか
「自由な自分」の行動の源は、
「理想の自分の獲得」にあるでしょう
そして、
ここには大きな問題が潜んでいます
それは、
「理想の自分」というのは、
文字通り理想的な状態で、
その状態以上のものはありません

つまり、
「自由」に「理想の自分」を目標に行動する限りにおいては、
“絶対にオーバーアチーブすることができない”のです
悲しいですね
そしてさらに悲しいことに、
「理想の自分」には制限がなくて、
時には現実よりも理想が先に更新されていきます
つまりこの状況下では、
“オーバーアチーブはおろかアチーブすらできない”のです
あぁ嘆かわしい

昨今、それこそ新入社員さんなどが、
「自己実現」を高らかに謳っているのを見ると、
悲しくなります
そういうゴールを設定してしまうと、
過程でも結論でも、
幸せにはなれないんですね

タモリの言葉に、
「俺は全体像にまったく欠けている。
 なんか、全体像を持つと不幸ですよね。
 こうあるべきとか位置づけると不幸ですよ。」
というのがあって、
これには大いに賛成するわけであります


ここまでで回答は終わりなんだけど、
もう二つ言っておきたいことができました

「不自由がゆえに実現できないことがあって不幸せだった」
というのは、
現在から過去を見て、
あるいは過去にさかのぼって未来(現在のこと)を見て、
そう思っているだけであって、
それは不幸せではないと思うんです

「ある過程で幸せを得られなかったから不幸せ」ってことは無いんです
それを実施したかった過去の時間は別のことに費やされていたわけで、
そこで幸せを感じていたらそれで良いんですよ
「オーバーアチーブ感」は過程や手段を選びませんからね
過去にさかのぼって、
過去から未来の、つまり現状の自分を見て、不幸せだとか言うのは、
幸せかどうかとは本質的には無関係な、
単なる夢物語ですよ


もう一つは、
「ゲーム」と「スポーツ」におけるオーバーアチーブ感の違いについてです
「ゲーム」というのはテレビゲームや、
あるいはたとえば野球をゲームとしてとらえたらということですが、
ゲームというのはですね、
オーバーアチーブする機会を随所に埋め込んだシステムを指すと思うんです
目的が設定されていて、
手段が決められていて、
その中で上手に自分が行動することで、
相手に勝ったり良い結果を出すというオーバーアチーブを体験する、
そういう仕組みのものだと見なせる、ということです
ゲームでは容易にオーバーアチーブを体感できるのですが、
それはゲーム内に限定的なものなので、
たとえばテレビゲームには、こうすればクリア、というのが設定されているし
「ゲームとしての野球」のバッターにとっては、まぁホームランが限界でしょうから、
ゲームの範囲内には「もうオーバーアチーブできない」限界点が存在するんです

一方、スポーツでは、
また野球を例に取りますが、
ホームランを打つことにオーバーアチーブ感はあまり無くって、
たとえば、
「うまくバットを振れた」
というところにオーバーアチーブがあるんですね
このオーバーアチーブ感の特徴は、
無段階、そして無限にあると思います
ゲームのように目標や枠というものが具体的でない分、
にわかにはオーバーアチーブが実感しにくいものの、
無段階・無限にオーバーアチーブできるので、
永遠に楽しむことができますよね

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kawagucci
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自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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