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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書) Kindle版
杉田俊介 (著) 』が面白い。
https://www.amazon.co.jp/dp/B01N6E5WYZ/

ここ最近ずっとモヤモヤして悩んでいることの根底にあるのは何かと考えている。
人生の大きな目標みたいなもの
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20161216/

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ジェンダー・健康・就職・家庭などの意味で,非常に恵まれた状況にいる自分というのが,前提条件としてそびえ立っている。つまり社会的弱者とは認定されず,むしろ言外ながらに「恵まれた人」「うまくいっている人」という目で見られる状況にある。しかし自分の中には,もちろん他人と比べた時には些末なことかも知れないけど,少なくとも自分にとっては重大な問題が心の真ん中に大きな塊として鎮座している。体調面で言えば,巻爪とか,不整脈とか,肥満とか,風邪ひきやすいとか,姿勢が悪いとか,二日酔いがひどいとか,なんだかんだと。

それと同じぐらいにまとわりついてくるモノとして,男性であり,定年制職をえた研究者であり,家庭の主たる収入源である,ということがある。毎月のように風邪をひくといっても生理がこないことを考えればチョロいもんかもしれん(これはわからんけど)。飲み会の会話が不愉快なことはあっても「相手いないの?」「30すぎてどうこう」「この後どう?」とか直接セクハラかまされることもない(これは女性が男性をいじってもあまりセクハラと言われないという別の問題もあるけども)。任期切れに悩むこともないし,だから明日の我が身を憂う必要もない(研究業界の行方とか我が社の現状は憂うべき状況にあるけども)。たとえば夫婦仲が決定的に破綻したとして,自分には収入があるのだ(もちろん慰謝料や養育費は発生するだろう)。

======(以下一般論)======

しかし一方で,これをまったく逆さまに見ると,それはそれで違う景色が見える。つまり一般に社会的弱者とされている人々の状況を踏まえた上で,もう一度男性の側に立って考えると,そこには「強者だから良いでしょ」という風に「無視されている男性ならではの悩み・弱さ」が見つかるのでは無いか。

性差による社会的・肉体的障壁があるにも関わらず女性に男性並みの働きが求められる。でもこれを裏返すと,障壁が無い男性が女性と同等の仕事しかしないことは,それはそれで問題と言える。そんなことを言うと「そういうことを言っているから永久に女性と男性が対等にならないんじゃないか」と言われるかもしれないし,じゃあ「余力がある男性がペースを落とすことが社会的に(会社的に?)許されるか」というとそうでもない。男性にとっては「頑張れば,ずるい」「頑張らねば,しっかりせい」というダブルバインドである。これは家庭の役割を抜きにした,単に肉体的な話だけでも,まぁそういうことになる。

たとえば,子供が3人いて当面働く意志のない専業主婦の家庭がある(うちがモデルケース)。この状況にあって,男女の対等とはどのように達成されるのか。「父は外で稼ぎ,母は家を回す」という役割分担が,差別的で平等ではないというなら,どのようにして平等が実現されるのだろうか。この場合の差別性は潜在的な意志の実現可能性に依存すると思うけども。つまり「専業主婦でいたい」という妻を持つ夫は「負担を強いられる社会的弱者」に位置付けられることはないのだろうか。「そういう希望を持つ人を妻に選んだのはあなた」という言い分が成立するのならば,「家庭を顧みないで働いてばかりいる夫」を選んだ人が責め立てられるのは不条理だ。だからといって専業主婦を責め立てろというわけではない。そこはそういう風にはならない。単に「働く気がない妻」と「家事をしない夫」に対等性があるのかということ。

これは現状認識にとどまらず,将来的なポテンシャルの意味でも言える。仮に夫が現職を辞めて挑戦したい冒険的な将来計画を抱いたとして,一方には収入のない妻と3人の子供がいる。この悩みにかかる精神的負担は「持つものの特権であり負担とは言えない」のだろうか。つまり,夫には選択肢があるかわりに絶えず決断を強いられる負担もある(妻には選択肢がないが(その存在だけで)絶えず夫を「脅迫」している)。

逆の立場は一般に広く考えられている。つまり,(現状専業主婦である)妻には復職したいが子供がいるという悩みがある。この場合,妻の復職は妻の判断であり,夫はこれを妨げることは(社会正義的に)許されない。しかし夫の生活は妻の決断いかんで大きく変わる(変えられてしまう)。この状況で妻が自由に決断できる社会が奨励されているのであれば,先にあげた状況で,夫が自由に決断できる社会であるべきではないか。つまり専業主婦である妻を「捨てた」という言い分は成立しないのでは無いか,ということである。

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そんな脳内シミュレーションを繰り返すと「マジョリティあるいは優位にあるがゆえの悩みがある」という現実に加え「それを暴露することが社会正義(ポリティカルコレクトネス)的に許されないという悩み」というのもあるよね,というようなことが,『非モテの品格』では述べられている,のだと思う。

だから,職場でもなく,家庭でもない,第三の居場所というのを求めている心にあるのは,そういうことなのかもしれない。仕事の比較や社会的「かくあるべし」が責め立てられない,あるいはニュートラルでラディカルにそういう話題が言い合える居場所というのが,自分にとって理想的な「居心地の良い空間」なのだ。それの半分,より精神的な部分はインターネットが満たしてくれている。もう半分の,より身体的な部分が満たされるような居場所については,完璧を求めないなら「職場にいる気の置けない仲間達」がそれにあたる。仕事と完全に切り離されない点は残念だけど,非常に近い距離に居場所があるというのは悪くない。仕事から切り離されていて,しかも求める時に与えられるような近い距離にある居場所を見つける(あるいは作る)ことは,とても難しい。
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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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