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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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まったく大丈夫な時と,全然ダメな時がある。

1: お酒を飲みながら水を飲まない
2: お酒とともに炭水化物を摂取しない
3: お酒を飲んだ後に入浴・水分補給・ベロ磨きをしない
4: ウコン系を摂取する
5: 寝起きに入浴しない
6: 朝ご飯に油系/乾き物を摂取する
7: 日中の水分補給が不足している

など。

逆に言えば,これらを毎回ちゃんとせねばならんということで。
ホテル連泊中(たいてい学会中)の飲酒と対策については万全にせんと,
これから先の人生,大変だ。

PR
90日期限いっぱいまで使ってしまった。
(はじめの60日は何もしなかったんだけど)

こういってはなんだけど,
やっぱりガッチリ勉強した分野じゃないと,
自分の中にあやふやさが残ってしまって,
どういうことは自明で,
どういうことは言及すべきなのかとか,
そういう次元で勝手がわからない。

初めに投稿したものと比べると,
Discussionパートは完全に別物だけど,
それを査読者がどうとらえるかは,
もうあちらの問題なので,
次の返事がくるまでは別の論文にとりかかっておこう。


論文の状況
・メタン菌培養(通称コバヤシ論文) 再投稿中(2月14日からUnder Review)
・表層(通称ナリタンセイ論文) 改訂投稿中(4月15日投稿)
・インド洋熱水(通称ドードー論文) 初回共著者回覧まであと少し
and more


うちの会社ではヒラ研究員に求める業績が,
「年平均1報でもB評価なー」
という水準であるという噂が流れて,
みな戦慄している状況ですが,
今のところB評価以上のペースで続けられている(ニヤリ)
若いころに、誰に教わったのか忘れたけれど、
 ケンカするときの心得として、
 「ドアを閉め切ってやっちゃいけない」と言われた。
 「たとえ、こっちがどれだけ強くても、
  相手の逃げ場をなくさせるようなやり方を
  しちゃぁいけない」ということだった。
(中略)
逃げ場を奪った戦いは、比喩的な意味でいうのだけれど、
 「相手を殺してしまう」ということがあるのではないか。
 勝つだけでよかった、あるいは、
 敗けないだけでもよかったかもしれないケンカが、
 相手のすべてを消してしまうようになったら、
 それは、もう、望んでいたものではなくなる。
(中略)
誰も生かさない戦いになってしまうように思うのだ。
(中略)
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
模擬的な戦いとしてのスポーツって、あってよかったよね。
@gaou_akさんの2014年4月13日22時頃の一連のツイート

======================
科学とは、真理を探究するための《方法》である。だが、一般の認識で言えば、科学とはそこから得られた体系化された知識や経験、あるいは技術の総称であろう。ここがSTAP騒動における科学者と一般市民との認識の大きな違いとなっているように思われる。

科学の根底は科学的方法にある。仮説を導出し、それを綿密なデータによって検証し、報告し反証を待つ。非常に回りくどく遠回りな方法だが、少なくと現時点で人類が知を得て智を創る過程で一番確実な方法ではある。科学は科学的方法に基づくから科学なのであって、そうでないものは科学ではない。

データを持って仮説が証明できないけれど、その現象は存在する、という言い回しは科学的方法に基づいていない。よって疑似科学である。これは明確に科学の否定である。現象の有無ではなく、その方法自体問題であることを我々科学者が再重要視しているのは、それが科学の礎だからである。

だから、道を誤れば、いや、正直なところ残念ながら道半ば既に誤っていると思うが、日本の科学は終わる。

科学的方法に基づいていなくても現象があるという言説を信じる一般市民。それを指示する発言をする文部科学大臣(来歴者含む)。方法の問題解決の前に検証を重視しているように見える理研。国、市民、組織、その多くが今科学という営みから逸脱しようとしている。

一人の科学者として、日本の科学が窮地に立っている状況を身震いするほどの恐怖感を持って傍観している。繰り返すが、科学的方法をとらないなら、即ち科学は死ぬ。
======================

・科学の根底は科学的方法
・科学は科学的方法に基づくから科学なのであって、そうでないものは科学ではない。
・科学的方法をとらないなら、即ち科学は死ぬ。


あらかわさんの危機感は深く理解できる。
そしてこれは,この国の科学者の少なくない人々が,
科学というものと向き合わず,また伝導してこなかったためであって,
つまり,この国の研究・教育が,延々と,組織的に,目をそらしてきたことだということも。


科学は方法であり,
科学は価値判断に大きな影響を及ぼすが,
科学それ自体は価値判断を示すものではない。

科学は,正しく利用することで多大な威力を発揮する。
科学がそこにあっても,正しい判断がないと威力は発揮されず,
また判断そのものは科学的ではない。

科学と,そうでないものと,
両者に担うべき範疇があって,
互いに影響を及ぼし合いながら,
互いに相反することなく,
しかし両者を不可分とせず,
一個の人間の中に同時に存在させることが,
大事なことなのかもしれない。
ボク自身に「使っている」という意識はなくて,
むしろ「一緒にやってる」と思っているんだけど,
まぁ一般的な視点で言えば「使っている」んだと思う。

現状は,
ラボ全体の洗い物やルーチン分析を請け負うパート2名,
ガス分析法の開発・維持・運用をするテクニシャン1名,
雇用関係はなくなったけどテーマを共有(指導?)しているポスドク1名,
10月にはさらにテクニシャンが1名増えて,
そのうちさらにテクニシャンが増えそうな気配も。

各人がやっている仕事をどこまで把握して,
そして「管理」するのかという距離感が悩ましい。

もちろん第一義にはビジネスで,
研究が順調に進むように「使う」のだけど,
でもお互いに人間だし,
それぞれに人生観があるわけで,
そういうモノを損なわないようにはしたいし,
せっかくなんだから仕事をしている中で充実感をえてもらいたい。
とはいえ,
やはり表向きはビジネスパートナーなわけで,
その一線は,緩くするにもキツくするにも,
防衛線になるわけで。

でもそれだって,
大学教員が研究室運営をしていることと比べれば,
ぜんぜん責任も(それに伴う負担も)軽微なんじゃないかな,とも。
クリティカル・シンキングと,
アカデミック(テクニカル)・ライティングと,
この二つは身につけておきたいところ。

そのために,
現状のレポートや卒論・修論・博論を通して,
いわゆるオン・ジョブ・トレーニング(OJT)的に習得する仕組みとは別に,
相当の時間を割いて,
それら専門の授業が存在すべきだと思う。

ブロイラー的な学生実験とか,
徒弟制度的な研究室生活とか,
そういう仕組みじゃ大多数の人は身につけられていないことは,
現状の理系卒の人々(研究者含む)があまり出来ていないことからも明白。

「大学改革」するなら優先順位が高い項目だと思う。


まずNHKソースで。

----------------------
調査委員会が「改ざん」とした点について、「画像を見やすくするために一部を挿入したが、正しい実験結果は得られていて、結果を作り上げるなどの改ざんには当たらない」としています。
また、細胞の万能性を示すとした写真が実際には別の実験の写真だったことを、調査委員会が「ねつ造」と認定した点については、「画像を誤って取り違えたが、故意ではなく、正しい写真も存在しているので、ねつ造ではない」と反論しています。
----------------------


世間(含む科学者)の見解と彼女の言い分には,
そもそものターゲットの差があるように思う。

たぶん彼女は,理研「内」での懲戒処分のことを言っているんだと思う。

理研内部の規定で「悪意をもってやった行為を捏造」と書いてあって,
だから彼女は「悪意をもってやったわけではないから捏造ではない」と主張し,
(だから捏造としての懲戒処分は不当だ)
(不適切な行為としての懲戒処分なら妥当だ)
という意味のことを考えているのではないだろうか。
そんな主張が会見で行われるのではないか,という予想をしている。

で,
もし彼女がそういう主張をするとして,
それって単に「理研職員」である「一個人」の主張であって,
それってつまり,
彼女が「科学者として未熟」とか,そういう以前に,
彼女は「科学者」になったことは一度もなくて,
単に「学生」から「理研職員」になっただけで,
「科学者倫理」とかそういうことなんて微塵も考えて事がないんじゃないだろうか。
今もなお。

そっちの方が,論文捏造云々より,闇が深い気がする。
彼女の,ではなく,日本の大学院&科学者コミュニティーの闇。

こわい。

1.物事の関わりと人の行動原理を理解しよう。そうすれば、自分が何をなそうとしているかも理解できる。

2.自らの行いは価値ある目標へと向けよう。ただしそれに到達できるかどうかを問うてはならない。そうした行いは規範や実例となるものであって、目標と取り違えてはならない。

3.それがどのような影響をもたらすかを鑑みることなく、すべての人に自分自身へと語るように語りかけよう。そうすれば、人々を自らの世界から締め出し、孤独の内に人生の意味や、完全な創造性への信念を見失ったりしないだろう。

4.自らが創造できないものを破壊してはならない。

5.空腹でない限り、料理に手をつけてはならない。

6.自らが持てあますものを欲しがってはならない。

7.必要もなしに嘘をついてはならない。

8.子供を尊ぼう。敬意をもって彼らの言葉に耳を傾け、限りない愛情をもって語りかけよう。

9.6年の間は仕事に打ち込もう。ただし7年目には、おのれ一人となるか、見知らぬ人々の下へと歩みだそう。そうすれば、友人たちの思い出が自らが歩んできたことを妨げることはない。

10.人生を気楽に過ごし、声が掛かったときにはいつでも旅立てるようにしよう。
山本義隆
「専門のことであろうが、専門外のことであろうが、要するにものごとを白分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を表明できるようになるため。たったそれだけのことです。そのために勉強するのです」
「外国では、自己主張しない人間は単に不勉強で無能だと思われるだけです」



立川涼
「決められた時間で自分の意見を明確に理解させ、あるいは決められた字数で速く必要なものを書くことは、専門にかかわらず、きわめて重要なことです」「日本語の表現能力は一生の問題です」

出口治明
「学ぶ方法は三つある...一つは本、活字から学ぶこと、二つ目は、旅、自分の脚で歩いて世界から学ぶこと、そして、人、人間に会って話を聞いて学ぶこと」
大学教育の本質的な意義を(抽象的に)あらわすならば,
「子供を大人にする」
ということに尽きる。

じゃあ「大人」ってなんなのと聞かれれば,
それは福沢諭吉に言わせれば「独立自尊」だろうし,
ちょっと具体的に言えば「主従関係によらない人間の確立」とか,
「自分の頭で考えて,自分で判断すること」とか,
そういうようなこと。

今の大学教育ってそういう能力を開発するようになってますかね?
ボクにはとてもそう思えない。

出欠を取ったり,
試験で点数をつけたり,
レポートを提出するだけで終わったり,
それってまさに「大人」から出た指令をこなす「子供」を養成していて,
学生を「大人にする」どころか「子供に固定化する」方向にしか働かない。

また「優秀な子供」こそが「優秀な学生」として顕彰されるわけだから,
現状の大学が輩出する「大学で教育された人材」の中でブリリアントな人は,
必然的に「子供のまま」ということになってしまう。

やっぱり,そんなのおかしいよね。

大学生に,大学に所属する間に求めるのは,
「賢い子供じゃなくて,バカでもいいから大人になる」
ということ。

だから大学教員に求めるのは,
「子供を大人にするための場の構築」
なのです。
学生と教員が,
対等かつ相互批判的な関係でガンガン対話するような,
そういう場が望ましいな,と思う。

そのために重要なのは,
ついつい「子供」として振る舞いがちな学生に対して,
ついつい学生を「子供扱い」してしまいがちな大学教員の側が,
徹底的に「大人同士」という態度をとり続けることだと思う。,


未完
プロフィール
HN:
kawagucci
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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