コーチ業と子育てとをやってきて、上手くいっていないことを書く。
まだちゃんと言語化したことがない領域なので、うまく表現できるかわからない。
間違えるとオオゴトになるので、書くことを避けてきた領域でもある。
練習を真面目にやらない子が多い。
メニューのはじめは間違ってないか不安だからかもしれないが、
同じメニューが続くと飽きてきている様子が伝わってくる。
並んでいる間に近くの連中と喋りはじめるのはほぼ全員。
自分の出番に全力で取り組まないのもほぼ全員。
ちょっと上手い子に多いのは、変なアレンジをして練習の意図から外れるパターン。
手を抜くのは本人に跳ね返るが、その雰囲気が全体に伝播するから困る。
ジャマをするようになると最悪。
お喋りも楽しいうちはまだ良くても、イジりや煽りになってくると、問題だ。
子供達は加減がわからない。
あまりに酷いときは、練習を止めて、注意することもある。
「それじゃ上手くなれないぞ」
「周りのジャマをするならココにいてほしくない」
その時は気まずそうにはする。
気まずそうにすらせず、「また言ってきた」と、ふてくされるのもいる。
こういう場面で、割を食っているのは、真面目にやっている連中だ。
練習時間を潰されて、自分には響かないことを言われる。
ふざけたゆるい雰囲気から、怒られたというイヤな雰囲気に変わる。
そんなことを繰り返して、根本的に間違えている気がしてきた。
なにを間違えているか。
大人の立場から「それは良い/それはダメ」と言うのは、ジャッジだ。
子供の立場からすれば、決めつけ押しつけにも思えるだろう。
そういう考えから、「キミはどう思うの?」という問いかけが推奨されてはいる。
しかし、子供達はそれにも慣れていて、大人の文脈を汲み取って考える。
実質的には、大人がジャッジしていたのと、変わらないじゃないか。
そもそも、「良い/悪い」という考えに、根本的な問題があるんじゃないか。
そんな考えから、最近試し始めているのが、美意識に問いかける方法だ。
「自分でダサいと思うことはするな」
「他の子がやっているのを見たらダサいと思うことを、自分もやっていないか」
そんな表現を使っている。
練習で手を抜くことは「悪い」のではない。
「ダサい」のだ。
他の子のジャマをするのは「悪い」のではない。
「ダサい」のだ。
「アイツ、だっせー」とイジっていた当の自分に「ダサい」が降りかかってくる。
そこには「自意識の中の他人の目」がある。
これで「自分の心に矢印を向ける」ということになるんじゃないか。
大人側から「今のお前はダサいぞ」と言うのは、違う意味を持ってくる。
一歩間違えばただの感情論になるからだ。
集団として「ダサい」という価値観の軸が出来たら、成立するだろうけども。
反対に、褒める時も「良い」と言うだけでは足りない。
メニューの指定にある内容を上手に出来ている場合は「良い」にあたる。
その場合は「良いね」と褒める。
そうではない場合。
こちらが直接に伝えていないが良いプレーをした場合は、「驚き」を伝える。
「良い」よりも「スゴい」の方が、子供には響いているように見える。
驚きは感情であって、思考ではないからジャッジでもないから、受け止めやすいのかもしれない。
そんなわけで。
「ダサい」と「驚き」の2つを持って、最近は指導にあたっている。
自分自身、まだ徹底できていない部分があって、つい良い悪いを言ってしまうこともある。
反省してしまう。
こうやって反省する機会を毎週持てていることが、コーチ業を続けるメリットでもある。
もちろん子供達の成長を見るのが楽しいというのが動機である。
楽しみにメリットが上乗せされているのだから、悪くない趣味なのだ。
まだちゃんと言語化したことがない領域なので、うまく表現できるかわからない。
間違えるとオオゴトになるので、書くことを避けてきた領域でもある。
練習を真面目にやらない子が多い。
メニューのはじめは間違ってないか不安だからかもしれないが、
同じメニューが続くと飽きてきている様子が伝わってくる。
並んでいる間に近くの連中と喋りはじめるのはほぼ全員。
自分の出番に全力で取り組まないのもほぼ全員。
ちょっと上手い子に多いのは、変なアレンジをして練習の意図から外れるパターン。
手を抜くのは本人に跳ね返るが、その雰囲気が全体に伝播するから困る。
ジャマをするようになると最悪。
お喋りも楽しいうちはまだ良くても、イジりや煽りになってくると、問題だ。
子供達は加減がわからない。
あまりに酷いときは、練習を止めて、注意することもある。
「それじゃ上手くなれないぞ」
「周りのジャマをするならココにいてほしくない」
その時は気まずそうにはする。
気まずそうにすらせず、「また言ってきた」と、ふてくされるのもいる。
こういう場面で、割を食っているのは、真面目にやっている連中だ。
練習時間を潰されて、自分には響かないことを言われる。
ふざけたゆるい雰囲気から、怒られたというイヤな雰囲気に変わる。
そんなことを繰り返して、根本的に間違えている気がしてきた。
なにを間違えているか。
大人の立場から「それは良い/それはダメ」と言うのは、ジャッジだ。
子供の立場からすれば、決めつけ押しつけにも思えるだろう。
そういう考えから、「キミはどう思うの?」という問いかけが推奨されてはいる。
しかし、子供達はそれにも慣れていて、大人の文脈を汲み取って考える。
実質的には、大人がジャッジしていたのと、変わらないじゃないか。
そもそも、「良い/悪い」という考えに、根本的な問題があるんじゃないか。
そんな考えから、最近試し始めているのが、美意識に問いかける方法だ。
「自分でダサいと思うことはするな」
「他の子がやっているのを見たらダサいと思うことを、自分もやっていないか」
そんな表現を使っている。
練習で手を抜くことは「悪い」のではない。
「ダサい」のだ。
他の子のジャマをするのは「悪い」のではない。
「ダサい」のだ。
「アイツ、だっせー」とイジっていた当の自分に「ダサい」が降りかかってくる。
そこには「自意識の中の他人の目」がある。
これで「自分の心に矢印を向ける」ということになるんじゃないか。
大人側から「今のお前はダサいぞ」と言うのは、違う意味を持ってくる。
一歩間違えばただの感情論になるからだ。
集団として「ダサい」という価値観の軸が出来たら、成立するだろうけども。
反対に、褒める時も「良い」と言うだけでは足りない。
メニューの指定にある内容を上手に出来ている場合は「良い」にあたる。
その場合は「良いね」と褒める。
そうではない場合。
こちらが直接に伝えていないが良いプレーをした場合は、「驚き」を伝える。
「良い」よりも「スゴい」の方が、子供には響いているように見える。
驚きは感情であって、思考ではないからジャッジでもないから、受け止めやすいのかもしれない。
そんなわけで。
「ダサい」と「驚き」の2つを持って、最近は指導にあたっている。
自分自身、まだ徹底できていない部分があって、つい良い悪いを言ってしまうこともある。
反省してしまう。
こうやって反省する機会を毎週持てていることが、コーチ業を続けるメリットでもある。
もちろん子供達の成長を見るのが楽しいというのが動機である。
楽しみにメリットが上乗せされているのだから、悪くない趣味なのだ。
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