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「プロ」ってことについて考えるのは,
研究や教育を担っていく人間としてすごく重要だと思っていて,
それを考えること自体も研究や教育とともにライフワーク的になっている。

世の中には色んな形の「プロ」があると思う。
中でもボクの考えるその発端となる部分で言うと,
「モノvsカネ」とか「カネvsカネ」とか「衣食住サービスvsカネ」とか,
そういう産業活動の範疇にない仕事,
芸術とか教育とか娯楽とか,そういうものを提供する仕事のこと。

そういう活動に従事することが社会から認められ,
報酬のようなものとしてカネを受け取ること,
その意義(あるいは正当性)みたいなものを,
自分の中で確立できていないと,
「社会で必要とされて無くて吹けば飛ぶような存在なのではないのか」
とか,もっと言うと,
「この社会に生きている価値があるのか」
とか,
そういう風に考えてしまうから,
そういう意味で「プロ」ということについて,
考えてしまう。

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「プロの作家」として生きていくことに決めた友人がいて,
その経緯とか,現状とか,すごく共感できて,
いや,共感というか,
「自分ではなりたくてもなれなかった姿」と感じていて,
友人の一人として,とにかくすごく応援したいと思っている。

で,その友人を見ていて,
仕事の本丸である「文章」は「カネをもらうに値する」もので,
感心・感動させられることもしばしばなのだが,
それ以外の仕事を取り巻くもの,あるいはその振る舞いが,
どうしても「プロ」として許せなくて,
ついついツイッターで噴火してしまった。

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ボクはプロの研究者として「見られている」ことには敏感。
「見られている」の境界線をどこに置くかは自分次第。

「思ったより見られている」ということが多い。
だからボクは逆に考えて「すべて見られている」つもりでいる。

「見られていないと思ってやっていることを見られること」の恐怖。

「自分」を大事にすべき局面と「見られている自分」を大事にすべき局面がある。
似て非なるもの。

「見られる部分」はすべて客観的には「実」。
「見られない部分」は客観的には「虚」。
この「虚実の薄皮」に対する感度は「見られる立場」にある人間にとって生命線。

「虚実の薄皮」を巧みに利用するのが真のプロフェッショナル。

「未熟な自分」を売り物にするってのは「自分を消費」している。
アマチュアの稼ぎ方。
いずれ底をつく。
「創造物」であれば枯渇しない。
それがプロ。
性風俗も同じ。
自分で作り上げたわけではない「身体」を売るということは,それが消費されたらオシマイ。

表現と自己表現は違う
「表現」と「自己表現」は違う。もちろん入口に自己表現は必要なんだが、学生なんかは特に安易な自己表現こそがアートとかクリエイティブだと思い込んでいる輩が多すぎるからなぁ。自己表現からの脱却が、本当の意味でプロになるという事。

「いつでも確実に要求水準をクリアする」というプロ意識と「持てる力の全てを注ぎ込んで最高のものをつくる」という一種のアマ意識は 同居し得るもの

甲本ヒロトの「カッコ悪さ」だって演出かもしれない。
奥田民生の「脱力感」だって演出かもしれない。
あれが「自己表現」なのか「表現」なのかなんてわからない。
それがわからないのは「端的に自己表現とわかる姿」を見せないから。
だから「プロの表現者」は「自己表現」を晒すことに慎重になるべき。

「自己表現」を晒してしまうと「表現」に含まれる「ウソ」が露わになってしまう。

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「プロ」ってのはアウトプットの質で評価される。
ここで言うアウトプットってのは,
「作家にとっての本」とか,
「研究者にとっての論文」とか,
それだけの意味ではない。

それは,それぞれの「プロダクトに対する評価」であって,
もちろん「その人のプロとしての評価」を構成する大きな部分ではあるが,
評価されるのはそれだけではない。

たとえば「透明感」をウリにしているアイドルがいて,
プライベートでの喫煙写真が雑誌に掲載されたとする。
その写真は「プロとしてのプロダクト」ではないけども,
その姿は「プロとしてのアウトプット」である。

「お笑い怪獣=タイガーマスク論」として以前書いたけども,
「明石家さんま」はテレビや舞台に留まらず,
人目につくところ,
たとえば新幹線車内や飲み会,家庭での話題に至るまで,
「明石家さんま」としてアウトプットしている。

それはきっと,
他人に見られる「プロ」として,
「明石家さんまはプライベートでは物静か」ということが知れると,
どれだけ「プロの仕事」として陽気に振る舞っても,
「あぁ,これは仕事としてやっているのね」と思われてしまう,
そういうリスクを回避するためのものだと思う。
そこまで考えて,
人目につくところは,たとえ温泉に浸かっていても,
すべて「プロ」として振る舞うことに徹しているのだろう。

それはもの凄い,つらい,孤独な戦いだと想像する。
ビジネスで接する人と,生身で会話することはない。
「本当の自分」として一息つけるのは,自宅の中だけ。
でも,それが「プロ」として生きると決めた人の,
覚悟と矜持なんだろう。

マスクの中で涙を流しても,
タイガーマスクはヒーローで無ければならないのだ。

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そういう風に「プロ」というものを考えるときに,
「努力」とか「愛」とか「運」とか,
そういうものを持ち出して,
自分のアウトプットの質が低いことを正当化しようとするのは,
同情によって自らを価値付けしようとしている点で,卑怯だ。

当人にその意図がなくても,
「プロ」がそういった「プライベート」なものをちらつかせるのは,
それが「プロのアウトプット」として「見せるため」のものでなくとも,
見る側は「そういうもの」として受け取るわけで,
「いや,そういう意図で見せているわけではないんだ」と言っても,
それは通用しない。

「不格好」なことと「不格好に見せる」ことは違う。
「不格好に見せよう」と演出して,
「不格好に見せようとしている」と受け止められたら,
それはプロのアウトプットとして破綻している。
同時に,
「不格好になってしまっている」ことを自己肯定して,
「これは不格好にしているんだ」と言い張ることも,
「格好良く作れないだけでしょ」と見られてしまえば,
ただ単に「不格好なだけ」のものになってしまう。

この部分が,虚実の入り交じるところである。
見る側からすれば,見えるものはすべて「実」である。
「不格好」に見えることも,
「不格好に見せよう」としているように見えることも,
見る側がそう受け取ったら,
それが「実」なのである。

一方で,
見られている側である「プロ」が,
「本当に不格好」なのか,
「不格好な自分が好き」なのか,
「不格好の格好良さを演出している」のか,
その内面は見る側からはわからない「虚」である。

見る側からは見えない「虚」をさらけ出して,
「これが「実」なんですよ」とやることは,
プロとしての「底」を見せることになる。
「底」を見せるということは,
自分の「私」がそのまま見られるということ。
つまり「心身」を売り物として差し出すこと。

それは性風俗と似ている。
その人に見いだされた価値は,
神から授けられたモノであり,
自ら創造したモノではない。
だから消費され,劣化し,飽きられても,
自分ではそれに抗えない。
ただ「プロとしての死」を迎えるだけ。

プロとして生きるなら,
「虚」の部分だけは守らねばならない。
それが「見られるもの」であるプロとして生きる上で,
大事なことなんじゃないかと,
そう思ってボクは生きている。

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予想通りグダグダになった。
この話をしっかりまとめられれば,
もう少し気楽に生きられる気がする。
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たぶん,すでに色んな人が考えていると思うけど,
同僚とか共同研究とか学生指導とかの関係性の中で,
お願い事というか要求というか,まとめると交渉というか,
そういうものが発生して,
それをどうやって進めていくのが良いか考えて,
なんとなく見えてきたことがあるので,メモ代わりに。

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誰かと親しい仲になる時は,
ある時にその存在を知って,面識ができて,仲良くなって,深い仲になって,という,
「遠い距離からじょじょに接近していく」
のが通常の経緯だと思う。
もちろん,存在を知るのと面識ができるのが同時ってこともあるし,
いきなり深い仲まで行く場合もあると思うけど,
それだって極端にかかる時間が短いだけで,
時系列で言えば,そういう順序で親しくなっていくのだと思う。

この場合,関係構築を損得勘定で考えると,
まずは損も得もゼロのところからはじまって,
さぐりさぐり,獲得できそうな得と,付随しそうな損と,
その強度をじょじょに大きくしていって,
差し引きで得が大きくなるかどうかを見積もっている,
とも考えられる。

だからこの形式の交渉だと,
お互いに対する要求は小さいところからはじまって,
じょじょに大きくなっていく。

「男女の仲」になることを考えるとわかりやすいかも。
はじめは「オレみたいなキモブタが話しかけても」とか思っていて,
話すようになると「本当に楽しんでくれてるかな」とか思って,
そのうち「一緒に歩く」とか「手をつなぐ」とか,
そうやって接近した関係になっていく過程で,
それが相手にとって許容できない要求なのかどうかを探る感じ。
1度でも衝突があると没交渉になってしまう脅威を感じながらなので,
その範囲でえられる最大限となると,
どうしても「本当に要求したい最大限」よりも,
小さなものしか得られない可能性が高い。

簡単にまるめてしまえば,
「人間関係を構築する」のがこっちの交渉法。



もう一つの交渉法が,
いきなり最大限の要求をバンっと突きつけるやり方。
「インドのタクシー」を想像するとわかりやすいかも。

タクシーに乗りたい私がいて,タクシーに乗せたい運転手がいる。
まず大きい額を突きつけられる。運転手にとって最大限の要求。
それに対しこちらは「それは飲めない。君との交渉はおしまいだ。」と言って,
そこから妥協点を探る。
こちらは最低限,乗車はしないと困る。
むこうは少なくとも得たい額がある(油代とメンテ代と生活費との積算)。

こういう「衝突してから離れていく交渉」は,
最終的に交渉が決裂しない限りは,
ほしかった最大限,あるいは得られる最大限がえられる蓋然性が高い。

「ビジネスを成立させる」のがこっちの交渉法。


で,
そうやって考えていって,
研究室とか,共同研究ってのは,
両方が混じっていて,なんとも難しい側面がある。
そういう風に思うけど,本当にそうかと言うと,
そうでも無い気がする。

個人的に慕っていようが嫌悪していようが,
この人間関係の端緒が「研究」である以上,
やっぱりそこは「ビジネス」なんじゃないか,と。

それは,たとえ教員と学生であっても,
研究室に所属する以上は,
まずはじめに「ビジネス」の関係であって,
その関係を大前提とした上で,
「私的な人間関係」も構築していくべきなんじゃないか。

これは一見すると学生にはつらい見え方かもしれないけども,
でも実際のところで言えば,
リスクが少ないのは「ビジネス交渉」の話法での教員ー学生関係だと思う。

(学士・修士・博士に限らず)学位を取得したい,
あるいは研究したい,研究力を身につけたい,という学生の要求と,
その場や労力を提供するからには「コレコレであれ」という教員の要求と,
それが一旦衝突して,その上で接点が見出されて,
その接点が共有できてから,
研究室での教員ー学生関係が進行していった方が,
立ち返る場所があるというか,立脚点があるように思う。
「ビジネス・ファースト」が共有されていれば,
各々の私的な思惑が顔を見せても,
それは二の次といって棄却することを要請できる(お互いに)。

一方で,
研究室を「ファミリー」的に運営して,
そこからスタートしてしまうと,
互いにジリジリと要求を高めていって,
その要求が「学位」に行き着く前に没交渉になってしまった場合に,
そこではじめて,急にビジネスの話になって,
これまで衝突を避けてきたのに,衝突からはじまるコミュニケーションに転換して,
もうどうにもならなくなってしまう,のではないか。

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途中で別件のメイル対応したせいでgdgdになってしまったので,
また今度,仕切り直そう。

言いたかったことは,
少なくともボクの周囲の典型的な交渉法が「人間関係構築型」で,
でもサイエンスを進めるビジネスなんだから,
そこは互いに「これはビジネスなんですよ」って割切って,
いきなり「ビジネス型」の交渉をはじめれば,
忖度とかなくなって,仕事がうまくまわるだろうに,
って思います,って話。

地球のあらゆるフィールドに出向いて,
試料を採取して持ち帰り多種多彩な分析にかけ,
そうして出てきたデータを解析することで,
地球の姿を明らかにしようとしているような,
われわれ地球科学者にとって,
研究分野の人口,つまりはマンパワーというのは,
研究を進める上で重要な要素だ。

たぶん,
生命科学/生物学者にも,同じようなことが言えると思う。
(だからこそ「ピペド」が必要なのだろう)

その一方で,
理論物理学が扱うものが,
終始一貫して「理論」なのであるとすれば,
数量の意味でのマンパワーは研究推進に必ずしも重要では無く,
たとえそれが必要だとしても,
それはとてつもなく低い確率で出現するはずの,
「質」の高い人材,いわゆる天才,が現れる期待値を稼ぐためなのではないのか。
そんな風に考えていた。
たぶん,
ボク以外の多くのフィールド/実験科学者も,
そのように考えていると思う。

そんな疑問がある中で,
理論物理学者であり,
同時にボクと同じくツイッター芸人でもある阪大/理研の橋本さんが,
サイエンスアゴラに(自らを)出展されるということで,
その様子を見た後で,
かねがね抱いていた質問をぶつけてみたのである。

「大天才がポッとあらわれたら,その人だけで理論物理の研究は進むのでは?」

もっと失礼な表現を使ったような気もするが,
まぁそういう質問をしたところ,
橋本さんと,一緒に展示されていた初田さんという理論物理学者が,
口を揃えて「それは違う」とおっしゃられた。

たとえば,ということで,
過去の,いわゆる大天才と言われるような人の例をあげ,説明してくれた。

いわく,
「アインシュタインは様々な人との議論を経て相対性理論を前半生で提案した後,
 後半生は一人で難問に取り組んだが,結局,その問題を解決できなかった」
とか,
「湯川さんのノーベル賞を受賞した仕事の論文は符号が間違っている箇所がある。
 (結果的にそれはマイナーな部分なので仕事の価値を損なってはいないが)」
ということだった。

これで理論物理学と研究者の数について,
かなり印象が変わった。

今回,ボクの抱いたイメージでいうと,
最先端の最先端の,究極真理に到達するためには,
その手前の部分にしっかりとした土台が必要である。
それ無しに最先端を目指しても,
どこかで曲がってしまったり,折れてしまったりする。
(アインシュタイン後半生や湯川論文)

やはり最先端に到達するための土台として,
理論物理学の先端(最先端ではない)を熟知している人間が一定数必要で,
そこでアイデアを出し検証する議論を交わすことこそが,
早く,正確に,最先端を見出し,究極真理に到達する一番の近道である,
もちろんステキなアイデアを出す天才の登場は歓迎されるが,
別にそれが無くとも(?),あるいはそれがあったとしても,
先端研究者の議論(重要なのは検証)を通じてのみ,最先端に到達できるはずだ。
と,
そういう意味で,
理論物理学にたくさんの研究者が必要なのだろう。



で,
急にしょうもない話になる。

やはり,理論物理学においても,
研究の進捗を「急がない」のであれば,
研究者人口が少なくなっても,
つまり,
「いつか必ず究極真理が明らかにされる」
という信念を持って知見を積み上げていくことで,
究極真理に辿り着けるのであれば,
研究者人口が減ることを受け入れることが可能なのではないだろうか。
----------------------------------------------
格闘色の強いプロレス団体の台頭してきた時代。
そのただ中にあって,
プロレスの老舗新日本プロレスの強さの象徴であるエース橋本真也。

一方の小川直也。
柔道界最強ではあったものの,
柔道体型・柔道技術をベースとしたプロレスではファンの心を掴めず,
プロレスへ転身してからは鳴かず飛ばず。
リングに上がることも少なくなっていた。

そんな中で組まれた橋本vs小川。
花道から現れた小川は脂肪を削ぎ落としすっかり肉体改造。
手にはグローブ,足にはレガース。
マウスピースをはめてギョロ目を剥く。

試合がはじまるや,小川はまったくプロレスをせず,一方的に殴る蹴る。
あっけにとられた橋本はやられるがまま。

強さの象徴である橋本を無残な姿にして言い放った一言が,
「新日本プロレスファンの皆さん,目を覚ましてください!」
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新日本の橋本に強さを見出し会場に足を運んだ観客の心を動かした事件。



研究発表で聴衆の考え・思いを180度ひっくり返そうと思ったら,
これぐらいの劇的な舞台・状況・パフォーマンスが必要なんだよ。

というような話を聞いたのでメモ。
対外試合。
18歳ぐらいとかいう謎の集団が相手。
会場の中学に到着すると,大型スクーターがずらりと並んで,
そこにたむろするガラの悪い若者多数。
実際,サッカーをやったのは15人にも満たなかったが,
全部で30人ぐらいいた。
他の連中はなんだったんだろうか。

で,試合分析。



ピッチの縦が短いのが特徴。
GKが大きく蹴ると相手最終ラインに届く感じ。
両軍ともゴールキックはすべてドカ蹴りだった。

敵軍で抜群にうまいのは,一人でCBをこなす18番。
上背もあるし,動きすぎないで冷静。
攻め手では20番と9番が素早くて足技もあってやっかい。
でも意外と仕掛けてくる感じでもなかった。
この二人が1on1をもっと仕掛けてきたら全然違うゲームになっていただろう。

敵軍の攻め方は中盤高めのサイドで人数をかけて,
崩しながら中に侵入していくパターンばかり。
縦に抜けてクロスを狙っている様子はなかったし,
大きなサイドチェンジも大胆なミドルもなかった。
そこまでキック力がある選手もいなかったのかもしれない。

これに対し自軍は4-2-3-1で中央突破を狙う。
ゴールキックがワントップまで飛ぶので,
こぼれを回収して裏抜けすればシュートまでは容易にいけそうな感じではあった。

という双方の特徴があって,これの噛み合わせ通りの試合展開になった。

自軍は4バック2ボラ(+1トップ下)がしっかりひいて守るので,
サイドの狭いエリアに密集が出来て,
敵軍の足技よりもボールの接点でのボディコンタクトが強調され,
足技と敏捷性では劣りながらも攻撃を食い止められていた。

一方,攻撃に転じると,中央突破を指向しているものの,
しっかり守ってカウンターなため,どうしても攻め手が足りない。
また敵陣角がすっぽり空いているもので,
中央突破指向ながらついついサイドに流れてしまったりして,
統一感のある攻撃が出来ず,ゴールが遠かった。

つまり,
【敵軍がサイドで押し込む】
+【自軍はサイドで攻めない】
=【自軍ウイング不要】
というのが改善ポイントだった。

また相手18番の1CBに対してこちらがワントップで挑むのも,
(トップ下が守備に駆り出されていることもあり)
あまりバランスが良くなかった。

そこでウイングを削って守備要員を増やし,
さらにインサイドでの攻撃要員を増やせば,
たとえば4-3-1-2とか,
守りきりながら攻められたのでは無かったかと。


個人的には,はじめの10分のワントップ以外はサイドバックで,
まったくスピードで叶わない9番20番と対峙してヘロヘロだった。
近づきすぎるとかわしにくるので,ちょっと距離をあけて,
サイドを縦にいくように仕向け,角に追い込んでコースを限定するので精一杯。


深海「特殊」じゃない。
むしろ何をもって「特殊」なのか。
「普通」と「特殊」という考えが,どうかしてる。

たとえば面積で言えば,
地球の七割は海だ。
じゃあ海と陸,どっちが「特殊」だ?

深海はずっと冷たくて暗くてたくさんの水がある。
それが地球の七割を覆っているすべての海域でほとんど同じだ。

そんな深海から見て,
太陽が昇って降りて,
風が吹いて雲がかかって雨が降って,
季節があって地域があって,
そんな陸にこそたくさんの「特殊」があるんじゃないか。

キミたちにとっては今住んでいる「XX」が「普通」かもしれない。
でも,たとえばボクにとっては「宝塚」が「普通」かもしれないし,
「札幌」や「沖縄」だって「普通の日本」かもしれない。

そうやって色々と考えると,
やっぱり地球上のどこかを「普通」って考えるなら,
「深海」こそが「普通」じゃないか。

「深海」にはたくさんの水があって,
それが「深海」を安定した場にせしめている。

たとえば水槽で魚を飼ったら,
水を入れ替えないと死んでしまう。
それは排泄物などが蓄積するから。
でも深海は水がたくさんあるから,
「無限希釈」によって,そういうことは問題にならない。

-----------------------------

話はかわって,
高校の理科では,物理・化学・生物・地学がある。

「生命の起源」を考えるのに,
化学物質から生物をつくる「合成生物学」がある。
これは化学側から生物を考えるというアプローチ。
でも,そうやって出来た完璧な「生物」がいるとして,
キミ達はそれを「生物」だと思うか。
たぶん,直感的には「それは生物じゃない」と思う,と思う。

そもそも「生命の起源」に興味を持つのは,
「ボクはいったいナニモノなんだろうか」みたいな話で,
だから「親の親の,そのまた親の・・」という考えこそが,
「生命の起源」に興味を持つ源泉なんじゃないか。

そうやって遡って考えると,
「今の地球上にいる生物の祖先の祖先の,そのまた祖先の」
ってのは,
1つの生物に辿りつくはずなんじゃないか。

じゃあそうやって,40億年前から生きながらえてきた生物がいるとして,
そいつはどんなところに住んでるんだろうか。
こっちが地学側から生物を考えるアプローチ。
ボクはこれをやっています。

で,
こたえは,はじめに話したことに戻ってくる。
「深海」は安定で,広くて,ずっと同じ。
(もちろん酸素が増えた25億年前とか,環境は変わっているけど,短期的には)

そうやって考えると,
「地球の生命」のどいつが「普通」かっていったら,
深海の微生物だよね。

ちゃんちゃん。
増田聡 ‏@smasuda

「「脱落しているひと」の目線を本当に完全に見失っちゃった」人って確かにおるなあ。ほんまにおる。そういう人は守衛のおじさんとか掃除のおばちゃんとかをそこにいない空気のように扱う。ほんまになにもない空気のように扱う

オレは子供二人おるけど保育園行く道でよく会うゴミ収集車の兄ちゃんと守衛のおじさんに挨拶を欠かしたら叱る。偉い先生とかはまあケースバイケースでええけど、ゴミ収集車の兄ちゃんとか守衛のおじさんには具体的に生活のお世話になってるやろが挨拶せんとは何事やと

すごくええことマスメディアとかでゆうてたり書いてたりする偉い人でも自分より「社会的立場が低いと一般に思われている相手」に対してナチュラルに横柄な態度で接する人がたまにおる。例えば居酒屋の店員を召使い扱いするような人。いったんそういうとこ見てしまうともうあかんな。人として

「すごくええことネットとかで書いてたりする人」でも一緒やねん。ゴミ収集車の兄ちゃんに挨拶してるか?生活の世話になってる人に挨拶できんような連中が偉そうに天下国家論じてもあかんやろ、とおもいます。けっこう気の良い兄ちゃん多いでゴミ収集車の兄ちゃんら。さあ明日から!

職業に貴賎はあるよ。他人の生きる死ぬをいろんなかたちで支えることが目的の仕事は尊くて、自分がカネを儲けたり周囲の羨望を集めたりする目的に純化するほど卑しい。個人的にはそうおもいます
酔っ払いながら書きます。
それも含めてのエントリーなので。
今後の考察のメモとして。

-------------------------------------------------------------

社会を営む人間として,
本能的な部分を制御して暮らしている側面がある。
その制御しているものの性質を,
「羞恥」と「残虐」にわけてみよう。
これが今日の思考実験の作業仮説。

社会と関係ないのか,社会生物としてなのか,
それはわからないけども,
誰しも「羞恥」と「残虐」の精神を持っている。
(持っていないヒトがいるかもしれないけど)

あ,やっぱり羞恥と残虐は対応してない気がしてきた。

まぁいいや。

心の中にある「理想」を全開にすることの恥ずかしさが「羞恥」で,
心の中にある「欲求」を全開にすることの危険性が「残虐」で,
みたいなイメージ。

高校野球とか,サッカー日本代表とか,
まぁトーナメント的なものを観戦する楽しみは,
そこに生まれる「敗者」に対する哀れみの心で満足する自分,
あるいは「勝者」としての恍惚で満足する自分,
そういうところにあるように思う。
これは「残虐」にあたると思う。

プロ野球とか,Jリーグとか,
リーグ戦的なものを観戦する楽しみは,
結末がわからない,あるいはわかりきった中で,
それでもそのプロセスを歩んでいくその姿を偏愛するところにあり,
それは「羞恥を捨てる」ところにあるかもしれない。

AKBがセックスアピールをウリにしてるのは,
性欲という残虐性を刺激していて,
それはじゃんけん総選挙みたいなトーナメントと親和的で,
そういう「残虐な物語」の刺激が彼女たちの魅力なんだと思う。

ももクロが「全力」をウリにしているといわれるのは,
「わたしたち泣いている人に何ができるだろうそれは力いっぱい歌って踊ること」
に象徴されるように,
「その成否は問わず」という姿勢を「恥じないで」尽くす姿勢に,
「羞恥を捨て去った」パフォーマンスが魅力なんだろうと思う。

まったくうまくかけない。
でもまぁ,そういうことなんだよ。

「野蛮と茶番」って話にすると,
「野蛮」ってのは「動物としてのヒトが持つ本能」という実像に従うことで,
「茶番」ってのは「社会的生物としてかくあるべし」って虚像に従うこと。
あら,こっちの方がスッキリいくかも。

ということで,
どういうこと?

野球とかサッカーとか,
そういうククリで考えている以上は,
「WBCや高校野球は盛り上がるのにNPBは盛り上がらない」とか,
「日本代表は盛り上がるのにJリーグは盛り上がらない」とか,
そういうくだらない考えに拘泥しているうちは,
解決策は出てこない。
だって,
そもそもの「満たしている感情」の種類が違うのだから。

「野球vsサッカー」じゃなくて,
「残虐vs羞恥」というか,
「野蛮vs茶番」というか,
そういう風に考えないと,
ゴールが見えてこない。

死に様と生き様。
これも違うな。

「コアサポ」の一部が問題視さるのも,
あれは残虐に走っているからで,
そういう意味であれは「サポーター」ではないのだよね。
「サポーター」ってのは,むしろ羞恥を捨て去った,母性的なもの。
滅私奉公じゃないけど,そういうことで得られる満足感が,
「サポーターイズム」の本質なんだろう。

あれ?
「父性」と「母性」なのかな?

もう全然ダメだな。
やめやめ。


追記

以前,カツカワさんが,
「匿名でのネットなんて,何を書いてしまうかわからなくて怖い」
みたいな話をしていた。
ボクもこっち側。

こっち側じゃ無いのは,
「匿名なら,こんな残虐なことも吐き出せる」
という側。

どっちがどっちというわけじゃなく,
ボクもそうだけど,
ネット上で実名で書いていることは,
生身で話すと「恥ずかしいようなこと」だったりするわけで,
一方で2chに代表される匿名でのアレは「残虐なこと」だったりして,
そういうことなんじゃないかな。
何かをする時に,
「なんで,何のためにこれをやるのか」
と自問自答することを考えてみる。

自分のやっていることを,
ただ「習慣だから」とか「言われたから」とか,
そういう風な理由で納得してしまうというのは,
精神的には奴隷に等しい。

この精神的な隷従から自己を解放し,
自ら決断して行動できるようになることを,
「大人になる」というのではないか。
「一身独立する」の第一歩だろう。

これに対し,「まだ子供」である人に対して,
「いいから黙ってやれ」ということがある。
ここで「子供」の側を眺めると,
言われるがままに黙ってやるのは,
「良い子供」ではあるが「大人」ではない。
でも,言われても「なんで?」と言ってやらないのは,
自分の判断基準を過信している「バカな大人」である。

この「言い子供」と「バカな大人」を通過して,
「大人」にならしめるためには,
やはり幾分かの「いいから黙ってやれ」が必要なんだろう。

だからこそ,
「大人」は「黙ってやれ」という内容と態度について,
かなり重大な責任を持っていなければならない。
内容や態度が「子供」の成長段階と噛み合わないと,
子供を子供のまま張りつけてしまったり,
バカなままの大人にしてしまったり,
そうなってしまう。

スポーツ指導なんかだと,より顕著かも。
指導者の力量。
「独立の気力なき者は必ず人に依頼す,
 人に依頼する者は必ず人を恐る,
 人を恐る者は必ず人に諂うものなり。」
(福沢諭吉「学問のすすめ」第三編)

「私徳・私情に動かされるのは子供の常であろうが,
 公徳・公情をもって他人との関係を組み立てるのが,
 大人たることの証だといってよい。」
(西部邁「福沢諭吉」p82)



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非公開
自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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