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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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野村克也(ノムさん)がよく使うフレーズ。
「エースと4番は育てられない」
そのこころがどこにあるのか。

競技の特性に基づく戦術・戦略があり,努力の方法論がある。
これらを知り,努力を重ねることで,一流の選手にはなれる。
しかし「超一流」になるには,そうした「論」を超えた「能力」が必要である。
この能力は,持っている人しか持っていない。
持っていない人が,努力によって獲得できるものではない。

生物的な意味での「先天性/後天性」ではなくて,
業界に入る段階の前後でわける意味で「先天性/後天性」を使うならば,
「エースや4番」には先天的な能力が不可欠である,ということになるだろう。

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野球の話はここまでにして,研究の話。

友人とチャットをしていて「学問と歴史」の話に。
「本郷」には本邦学問の歴史がある。
連綿と続くその歴史を感じて今を生きると,それはある種の呪いのようだ。

東大とは。
大学とは。
学問とは。

新たな研究の地平を切り拓く研究者を生み出すことは,大学の使命である。
少なくとも東大の教授というのは,そういう使命を帯びている。
では「東大教授になる人」は育てられるのか。

「エースと4番は育てられない」という意味にのれば,
ボクの答えは「No」である。

ある「才能」が東大に入る。
東大教授は,前世代において「才能」であり,今まさに東大教授である。
教授という華が放つ臭気が,才能を引き寄せる。
才能は才能を知る。
才能は,教授の下でついに開花し,やがて教授となる。

これを傍から見れば「育てた」と見えるかもしれない。
しかしやはり「才能が,自ら臭気をかぎつけ,開花し,教授となった」のである。

一方で,ミノル・オジマの言葉だと又聞きしたが,
「大学の使命は次の教授を育てることである」
という言い回しがある。

東大は「才能」を集める。
東大には「才能」を開花せしめる教授がいる。
才能と教授との遭遇は,偶然でしかない。
この偶然の確率を引き上げるのが「東大」という場である。

巨視的に見れば「東大が育てる」ことに間違いはない。
しかし微視的には「東大で才能が教授と出会う」だけである。

学問を為す主体が人間である以上,学問の歴史は人の歴史がある。
人の歴史とは,出会いである。
出会いは,偶然である。

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というような「お話」は,もはや架空の世界のことかもしれない。
大学というモノ,東大というモノを,研究に特化して,しかも先端の先端だけを見れば,
「東大の使命」というのは,こういうことなんじゃないだろうか。

「東大」やら「教授」やら「人事」やらの実態は,
もちろんこんな「脳内お花畑」的なモノではないだろう。

ただ,理想というか,理念というか,そういう概念的なものとして,
こういうような位置付けを考えてみるのも,
「大学論」みたいな話では意味があるのかね,なんて思ったりして。


余談。
いま文科省によって大学が3つに分類されている。
トップ・特色・教育だっけ?
これとは別に学部・修士・博士という3分類もある。
この3x3マトリクスをベースに,大学というものの位置付けをするのも面白いかも。
という話題もあった。
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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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