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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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社会のあれやこれやを考えているわけだけど,
そんな中で友人(だと勝手に思っている)による,
「端的に、この国は人権概念が薄い」という思いにドキリとさせられる。
もっとも端的に言ってしまえば,そういうことだと思う。

この国で「人権」というと,
「人」の「権利」という具合で,
「私には人権がある」という感じで,
なんというか「主張」のようなニュアンスに感じられる。
これはたぶんに教育上の問題で,
社会科の授業で「人権」について教えている人が,
そういう具合に教えているので,
なんとなく,そんな具合に考えるようになっているからだろう。

別にちゃんと勉強したわけではないので,
正しいかどうかはわからないけど,
というか,人権ってのはおそらく概念的なもので,
これは人権,これは人権じゃない,みたいな,
クリアカットにできる性質のものじゃないんだろうけど,
それでも人権ってものの本質のようなモノは感じている。

「私には人権がある」というような類のものではなくて,
「他人の人権を侵してはならない」という類のものだと思う。

人権というのは個人に付与されている何かではなくて,
「何人たりとも誰かに何かを強要してはならないという意識」を,
強要された側の個人から見たものなのだろう。
だから人権について考える時に,
まず人権というものが存在すると考えると,
かえって人権という概念の本質に近づけないのだと思う。
社会科の教科書的には「人権は個人に備わった権利」なのかもしれないが,
そうではなくって,
「誰かに何かを強要してはならない」ってことの裏返しが人権なのだろう。

だから人権ってのは,
侵された時に認識されるもので,
(それは実際に,でなくても思考上かもしれないが),
かならず相手を迂回するものである。

一人称で人権を語る人々がいて,
それがモノとカネが行き交うだけの市場経済と合わさると,
もはや本当の意味での人権はないがしろにされて,
人権意識が希薄な社会が形成されるのだろう。

人権に立ち返ると,
「誰かに何かを強要する権利は誰にも付与されていない」ということで,
それを裏返して読んだ時に
「人は誰からも何も強要されずに生きる権利を有する」となる。

だから人権意識を持って社会活動を営むと言うことは,
「私には人権が存在する」ということではなくって,
「私は誰かに何かを強要するようなことはしない」ということなのだろう。
そしてそれは家族でも友人でも会社でも,もちろんそうあるべき。

「私には権利があるから」という主張をしたければ,
「私の権利の行使が誰かの権利を侵していないか」を同時に吟味しなければならない。
それなしに,自分の権利だけが先に存在するということは,ありえない。

すべてのベースにこういうことがあって,
その上で個人の権利について,
国や組織や法律との間で,管理したり保護したりという関係が生じる,
そういう順番でものを考えるべきなんじゃないかと思う。

よくわからん。
ちゃんと勉強せねば。

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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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