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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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思わぬところで信頼を得ていたり,
いつまでたっても信頼してもらえなかったりする。
それは相手によるものなので,
正直言って,自分自身ではどうしようもない。
困ったことではあるけど,仕方ない。


この数年,特に気をつけていることだけど,
社会ってのをドンドン突き詰めていくと,
どんなことであれ結局最後に行き着くのは,
「人間の生身性」「生身の人間」みたいな部分である。
だから,
「生身の人間」を損なうような言動は慎むようにしている。

たとえば心理的には,
論理的にどれだけ正しいことでも,
納得できないことは納得できないし,
論理的でなかったり根拠がなかったとしても,
なぜか確信的に納得できることもある。
これは震災後により顕著に表れた「安全と安心は別物」っってのに,
非常に顕著にあらわれている。

肉体的な限界というのもあって,
たとえ「やればできる」ことだったとしても,
「やれない」ような肉体的な状況もある。
たとえば,
「時給1000円でも年収870万は可能」ってのは事実で,
「24時間365日休まず働いたら」確かに到達できるけど,
どう考えてもそんなのはムリ筋。
ムリというのは嘘吐きの言葉」っていうワタミの言葉は,
人間が生身であることに対する敬意をまったく欠いている。
(震災が無ければこの人が都知事だったと思うと・・・)

生身であるということは,
それぞれがまったく同一であるということはありえなくって,
つまり「生身の限界」は個々に違っているということ。
たとえば男性と女性は生身の肉体が根本的に違う。
でも,
それぞれの個人の生身というのは,
男女間の肉体の違いと同じぐらい,
それぞれが根本的に異なるものである。

社会というものが個人の集合である以上,
「個人の生身はそれぞれ異なるものである」という点をスタートにして,
その上で社会的な属性(年齢とか性とか)で分類する方が,
社会の構成を認知する上では間違いが少ないのではないだろうか。

極端なフェミニズムが受け入れられないのは,
男女の違いが何よりも大きな個人間の違いであるような印象を与え,
たとえば女性同士での個人の違いみたいなものが矮小化されているからかもしれない。
市場原理主義を社会システムの大黒柱に据えると,
経済的観点では人間の生身性がそもそも考慮されていないので,
生身の人間として先に限界を迎えた人が置いてけぼりを食うことになるだろう。

人間同士のつきあいでも重要なことは,
「論理的な正しさ」や「社会的な属性」なんかではなくて,
「生身に対して敬意を持って接する」ことができるかどうかだ。
人間同士の関係性の根はそこにあると思う。

相手を信頼することの大前提には,
「この人は自分の生身に危害を加えようとしていない」ということがある。
たとえ相手が意図していなかったとしても,
自分の生身の傷つきやすい部分に触れてくるならば,
やはりその人を信頼することは難しい。
そのあたり,いわゆる「人間性」なのだろう。

危害を加えるとは少し違うけども,
ボクが強く不快感を抱く人間というのは,
「自分の正しさを信じてやまない」タイプの人。
こういう人は,
「相手には個別の事情がある」という部分に敬意がなく,
無意識に相手の個人の尊厳という部分を傷つけているのだと思う。
ボクはそう感じる。

逆に信頼をよせられる相手というのは,
自分に危害を加えないことに加え,
自分の生身の部分に敬意を示してくれる人。
それには二通りあって,
傷つきやすい部分に気付いた上で振る舞う人と,
はじめから生身の部分では接点を持たないようにする人。
いわゆる「わかりあえる仲」と「一定の距離を持って接する相手」。
個人的な信頼と,社会的な身分としての信頼,なのかもしれない。

まったくまとまらないな。
やめやめ。

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