長い低空飛行が今なお続いている。
このブログで半年もあいたのは初めてじゃないだろうか。
心の矢印が(悪い意味で)内側に向き続けている。
原因はなんとなく掴めてきたような気がしている。
大きく構えて言うならば、世界観の違い、なんだろう。
卑近に言えば、世の中のことが気に入らない、わけです。
〜
10年以上にわたってライフワーク的に「学者の公共性」を考えている。
世に言う「納税者に対する説明責任」よりも、広範な意味での公共性だ。
天皇機関説じゃないけども、そういうようなイメージでの考察。
たとえばジェンダー界隈の議論は、左右両極に、とてもウイングが広がっている。
片方では、男たるもの・女なんだから、と違和感なく口にする。
もう片方では、女性専用車両・トイレの増数ではダメだ、と主張する。
そんな人々の議論では、真ん中にある現実問題、痴漢や不遇な職場環境などは置き去りだ。
学術界でも同じようなことが起こっているのではないか。
片方には、学者内での評価によってのみ学者の価値が決まる、と考えている。
それは査読付原著論文数や引用数、インパクトファクターなどの議論に表出している。
もう片方では、社会における学者の価値を評価すべきだ、と考えている。
ボクはどちらにも一定の意義があるとは思っている。
だけど、片側に寄りすぎているんじゃないか、という思いが強い。
そして、その「寄りすぎていること」への無頓着さが、腹立たしい。
自分が寄って立つ世界が、何に立脚しているのか。
そういうことに無頓着な人間のことを、学者とは言えないんじゃないか。
両極にある価値をいずれも認めた上で、その間に自分を位置づける。
もちろんどちらかに寄るのは当然で、そこが自分にとって最適なのだろう。
だけどそれは、世界にとって至上の位置ではない。
〜
ウエになればなるほど、価値観に対する態度が難しくなる。
自身の価値観を明快に表明することと、どんな価値観の人も許容することとは、相反しない。
自身の明快さと他者への許容力を同時に最大にして、対立させずに包摂することこそが、重要だ。
これは簡単ではないし、かなり自覚的に振る舞わなければ実現しえない。
組織と個人の関係でも同じことが言える。
組織として目指すところは、明快に示されるべきだ。
一方で、組織に属する個人の立ち位置まですべて一つに集中させてはならない。
いや、ならないことはないが、狭い範囲に限定しては、集まれる人が限られてしまう。
そうすると組織としての柔軟性や伸びしろが確保できず、社会の変化に対応できなくなる。
組織を長く活動せしめるには、緩衝力や冗長性が不可欠だ。
難しいのは、自身の価値観から見て反対側のウイングに位置する物事への評価だ。
左右の位置とは別に、その位置におけるクオリティがある。
自身に近い位置ならば、高い解像度で評価できる。
しかし遠い位置の価値観の物事については、どうしても解像度が下がってしまう。
それでもなお評価はせねばならないし、価値観が異なるからこそ、公正に評価できるようにしたい。
〜
ここまで書いてきて最後に出てきたが、この辺が最近の引っかかりなのかもしれない。
清濁併せ呑んで色々なことを進めなければならないからこそ、核心の部分は公正でありたい。
そういう思いが年々強くなっている。
一方で、世の中の多くは、核心の部分が私利私欲だから、表面は公正であろうとしているんじゃないか。
なんとなくだけど。
そこの部分の逆転した構造が、自分の感じる苛立ちの正体なのかもしれない。
やっぱりこうしてダラダラと心情を書くのには、意味があるな。
サボらずに続けていこう。
このブログで半年もあいたのは初めてじゃないだろうか。
心の矢印が(悪い意味で)内側に向き続けている。
原因はなんとなく掴めてきたような気がしている。
大きく構えて言うならば、世界観の違い、なんだろう。
卑近に言えば、世の中のことが気に入らない、わけです。
〜
10年以上にわたってライフワーク的に「学者の公共性」を考えている。
世に言う「納税者に対する説明責任」よりも、広範な意味での公共性だ。
天皇機関説じゃないけども、そういうようなイメージでの考察。
たとえばジェンダー界隈の議論は、左右両極に、とてもウイングが広がっている。
片方では、男たるもの・女なんだから、と違和感なく口にする。
もう片方では、女性専用車両・トイレの増数ではダメだ、と主張する。
そんな人々の議論では、真ん中にある現実問題、痴漢や不遇な職場環境などは置き去りだ。
学術界でも同じようなことが起こっているのではないか。
片方には、学者内での評価によってのみ学者の価値が決まる、と考えている。
それは査読付原著論文数や引用数、インパクトファクターなどの議論に表出している。
もう片方では、社会における学者の価値を評価すべきだ、と考えている。
ボクはどちらにも一定の意義があるとは思っている。
だけど、片側に寄りすぎているんじゃないか、という思いが強い。
そして、その「寄りすぎていること」への無頓着さが、腹立たしい。
自分が寄って立つ世界が、何に立脚しているのか。
そういうことに無頓着な人間のことを、学者とは言えないんじゃないか。
両極にある価値をいずれも認めた上で、その間に自分を位置づける。
もちろんどちらかに寄るのは当然で、そこが自分にとって最適なのだろう。
だけどそれは、世界にとって至上の位置ではない。
〜
ウエになればなるほど、価値観に対する態度が難しくなる。
自身の価値観を明快に表明することと、どんな価値観の人も許容することとは、相反しない。
自身の明快さと他者への許容力を同時に最大にして、対立させずに包摂することこそが、重要だ。
これは簡単ではないし、かなり自覚的に振る舞わなければ実現しえない。
組織と個人の関係でも同じことが言える。
組織として目指すところは、明快に示されるべきだ。
一方で、組織に属する個人の立ち位置まですべて一つに集中させてはならない。
いや、ならないことはないが、狭い範囲に限定しては、集まれる人が限られてしまう。
そうすると組織としての柔軟性や伸びしろが確保できず、社会の変化に対応できなくなる。
組織を長く活動せしめるには、緩衝力や冗長性が不可欠だ。
難しいのは、自身の価値観から見て反対側のウイングに位置する物事への評価だ。
左右の位置とは別に、その位置におけるクオリティがある。
自身に近い位置ならば、高い解像度で評価できる。
しかし遠い位置の価値観の物事については、どうしても解像度が下がってしまう。
それでもなお評価はせねばならないし、価値観が異なるからこそ、公正に評価できるようにしたい。
〜
ここまで書いてきて最後に出てきたが、この辺が最近の引っかかりなのかもしれない。
清濁併せ呑んで色々なことを進めなければならないからこそ、核心の部分は公正でありたい。
そういう思いが年々強くなっている。
一方で、世の中の多くは、核心の部分が私利私欲だから、表面は公正であろうとしているんじゃないか。
なんとなくだけど。
そこの部分の逆転した構造が、自分の感じる苛立ちの正体なのかもしれない。
やっぱりこうしてダラダラと心情を書くのには、意味があるな。
サボらずに続けていこう。
PR