学術界の理念は、なんとなくリベラル(左翼)っぽい印象がある。
でも実態の体質としては、多分に保守(右翼)だなと思う。
それはまぁいいや。
政治的なレッテル貼りをしたいわけではない。
ネトウヨとかパヨクとか、そういうのとは全然関係がない。
ただ、研究テーマあるいは研究スタイルを考えるのに、なんとなく分類したいだけだ。
〜〜
技術的にも着眼的にも、今のホットトピックに連なるものを、右翼の科学と呼ぶことにする。
保守的というか、現状是認から漸進的な歩みを続ける感じ。
身の回りを眺めても、ほとんどの研究が、右翼の科学だと思う。
そんな右翼の科学に、ボクはあまり興味が持てなくなっている。
ここの心情の表現はとても難しいところなのだが。
あえて言うなら『内輪ノリ』のようなモノを強く感じてしまう。
「それ、お前らの間で盛り上がってるだけやぞ」というような。
右翼の科学への嫌悪感は、いわゆる「学術界の社会との断絶」も一因かもしれない。
特に環境学に近いところに身を置いているせいで、その感慨が強いのだろう。
気候変動にしても、ローカルな環境破壊にしても、こんな状態なのにまだ右翼の科学かよ、と。
解決せねばならない問題のタイムリミットに対して、研究の進捗スピードが間に合わないことが自明であるのに、それでもなお「科学にもとづく基礎が大事」というテーゼを金科玉条に掲げている態度が、気に入らないのだ。
それならば、いっそ看板を掲げずに、誰の目も届かないところで好きな右翼の科学をやっていればいい。
でも、興味が持てないことの根源は、それだけじゃないんだよな。
それとはまた別の視点で、しらけてしまっている。
解きたい問題に対して選択する手段が本当に効果的か、という吟味が足りないというか。
あるいは、まだ見ぬ効果的な方法があるんじゃないか、という謙虚さが足りないというか。
ああ、そうだ。
解くべき問題というのは、もう大体、出揃っていると思っている。
だからこそ、アプローチの選択が重要なわけだ。
解きたい問題が固定されているのに、手段も固定的だと、進捗は早くはならない。
にもかかわらず「この問題にはこの手段」という具合で進める研究が多すぎる。
かつて地球化学の巨匠・増田彰正が「1本も引用しない論文を書きたい」と言ったという。
これが左翼の科学の極北だと思う。
もちろんこれは極端だし、現代科学の風習として許されないだろう。
現代的には「あの論文とその論文、両方を引用するような論文があるんだな」というイメージかな。
いずれにせよ引用自体はどうでも良いことで、主題はその左翼性だ。
「この問題に、その手段で挑むの?」
『だって原理からしたら、効果的っぽいでしょ』
「この手段を、その問題に使うの?」
『だって理屈からしたら、かなり有効でしょ』
「なんでそんな問題に取り組むの?」
『だって、重要でしょ』
いま目指している左翼の科学は、そういうことなのかもしれない。
〜〜
左翼の科学の問題は、ちゃんとした説明が難しいことだ。
原理的には正しそうだが、現代科学的な、つまり右翼の科学にある緻密さがない。
右翼の科学は、すでに浸透しているがゆえに、受け手がすでに文脈を持っている
だからいきなりハイコンテクストで緻密な議論ができる。
左翼の科学では、そうはいかない。
これもまたイメージだが、左翼の科学の効能は、秘孔を突くようなものかもしれない。
突いた箇所にすぐ何かが起こるのではない。
でも、あるとき大きな効果が出る。
左翼の科学でも、大した成果が出ないことは、多分にありえる。
その部分で、つまり成果の見通しが暗いことで、批判を浴びることはあろう。
でもそれは、大きな問題なのだろうか。
見通しだけは良い右翼の科学で、微々たる進捗しかないことと比べて、問題なのだろうか。
成功しても微々たる進捗しかない仕事をするなら、失敗しそうな仕事をしたい。
そういうことかもしれない。
〜〜
取り組む課題は、人類にとって重要なら、現代科学にとって重要でなくてもいい。
取り組むべき課題が定まっているなら、どんな手段を使ってでも早く解決に近づきたい。
ただそれだけのことなのだ。
でも実態の体質としては、多分に保守(右翼)だなと思う。
それはまぁいいや。
政治的なレッテル貼りをしたいわけではない。
ネトウヨとかパヨクとか、そういうのとは全然関係がない。
ただ、研究テーマあるいは研究スタイルを考えるのに、なんとなく分類したいだけだ。
〜〜
技術的にも着眼的にも、今のホットトピックに連なるものを、右翼の科学と呼ぶことにする。
保守的というか、現状是認から漸進的な歩みを続ける感じ。
身の回りを眺めても、ほとんどの研究が、右翼の科学だと思う。
そんな右翼の科学に、ボクはあまり興味が持てなくなっている。
ここの心情の表現はとても難しいところなのだが。
あえて言うなら『内輪ノリ』のようなモノを強く感じてしまう。
「それ、お前らの間で盛り上がってるだけやぞ」というような。
右翼の科学への嫌悪感は、いわゆる「学術界の社会との断絶」も一因かもしれない。
特に環境学に近いところに身を置いているせいで、その感慨が強いのだろう。
気候変動にしても、ローカルな環境破壊にしても、こんな状態なのにまだ右翼の科学かよ、と。
解決せねばならない問題のタイムリミットに対して、研究の進捗スピードが間に合わないことが自明であるのに、それでもなお「科学にもとづく基礎が大事」というテーゼを金科玉条に掲げている態度が、気に入らないのだ。
それならば、いっそ看板を掲げずに、誰の目も届かないところで好きな右翼の科学をやっていればいい。
でも、興味が持てないことの根源は、それだけじゃないんだよな。
それとはまた別の視点で、しらけてしまっている。
解きたい問題に対して選択する手段が本当に効果的か、という吟味が足りないというか。
あるいは、まだ見ぬ効果的な方法があるんじゃないか、という謙虚さが足りないというか。
ああ、そうだ。
解くべき問題というのは、もう大体、出揃っていると思っている。
だからこそ、アプローチの選択が重要なわけだ。
解きたい問題が固定されているのに、手段も固定的だと、進捗は早くはならない。
にもかかわらず「この問題にはこの手段」という具合で進める研究が多すぎる。
かつて地球化学の巨匠・増田彰正が「1本も引用しない論文を書きたい」と言ったという。
これが左翼の科学の極北だと思う。
もちろんこれは極端だし、現代科学の風習として許されないだろう。
現代的には「あの論文とその論文、両方を引用するような論文があるんだな」というイメージかな。
いずれにせよ引用自体はどうでも良いことで、主題はその左翼性だ。
「この問題に、その手段で挑むの?」
『だって原理からしたら、効果的っぽいでしょ』
「この手段を、その問題に使うの?」
『だって理屈からしたら、かなり有効でしょ』
「なんでそんな問題に取り組むの?」
『だって、重要でしょ』
いま目指している左翼の科学は、そういうことなのかもしれない。
〜〜
左翼の科学の問題は、ちゃんとした説明が難しいことだ。
原理的には正しそうだが、現代科学的な、つまり右翼の科学にある緻密さがない。
右翼の科学は、すでに浸透しているがゆえに、受け手がすでに文脈を持っている
だからいきなりハイコンテクストで緻密な議論ができる。
左翼の科学では、そうはいかない。
これもまたイメージだが、左翼の科学の効能は、秘孔を突くようなものかもしれない。
突いた箇所にすぐ何かが起こるのではない。
でも、あるとき大きな効果が出る。
左翼の科学でも、大した成果が出ないことは、多分にありえる。
その部分で、つまり成果の見通しが暗いことで、批判を浴びることはあろう。
でもそれは、大きな問題なのだろうか。
見通しだけは良い右翼の科学で、微々たる進捗しかないことと比べて、問題なのだろうか。
成功しても微々たる進捗しかない仕事をするなら、失敗しそうな仕事をしたい。
そういうことかもしれない。
〜〜
取り組む課題は、人類にとって重要なら、現代科学にとって重要でなくてもいい。
取り組むべき課題が定まっているなら、どんな手段を使ってでも早く解決に近づきたい。
ただそれだけのことなのだ。
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