自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
Tです.お久しぶりです.
前回からずいぶん時間が空きました.
こちらは新しい環境にも慣れて,順調です.
以前の場所よりも,専門的な分野について深く学ぶ機会が多いです.
その点,当初のねらい通りに行っています.
ここで身につけたことをどんどんと研究成果にしていこうと思います.
今日は学生が卒論などの途中経過を発表する形のセミナーについてです
これが面白くないんです.
面白くないというのは,聞き手も話し手も
セミナーを通じて得るものが少ないと感じるのです.
その原因について考えます.
内輪のセミナーだし,学生の研究の経過報告だし,
不十分な部分が少なからずあることは当然でしょう.
これを「不完全な研究」と呼ぶことにします.
ちなみに「完全な研究」とは,ここでは
とりあえず投稿論文くらいの完成度のものとしておきます.
「不完全な研究」は「十分な部分」と「不十分な部分」とに分けられます.
「十分な部分」は「完全な研究」にとって必要十分な要素で,
「不十分な部分」は「完全な研究」にとって
不足していたり,不必要であったり,修正が必要であったりする部分です.
学生のセミナー発表はたいがい「不完全な研究」です.
このとき,セミナーの話し手(ここでは学生)は,
自分の研究が「不完全」であることを知っていて,
どこが「十分な部分」でどこが「不十分な部分」かを
ある程度認識していると思うんです.
この話し手の認識を「話し手の研究に対する話し手の評価」としましょう.
一方で聞き手は,セミナー発表を通じて
話し手の研究について「十分な部分」と「不十分な部分」を
判断すると思います.
これを「話しての研究に対する聞き手の評価」とします.
また,話し手も聞き手もその研究に対して
「十分とも不十分とも評価できない」部分もあると思います.
聞き手によっては発表のほとんどがこの部分になるかもしれません.
僕は,講座セミナーの最大の目的とは
「話し手の研究に対する話し手の評価」と
「話し手の研究に対する聞き手の評価」を
一致させることだと思っています.
セミナーの目的をこのように決めると,聞き手の意見や質問は自然と決まってきます.
意見は,
話し手が「十分(もしくは不十分)」と思っている部分に対して,
聞き手が「それは「いやそれは不十分(もしくは十分)」だよ」という行為.
質問は,
聞き手が「十分とも不十分とも評価できない」部分に対して,
話し手自身がどう評価しているのかを確認する行為.
ではないでしょうか?
こうした意見や質問を通じて,
話し手の研究に対する話し手と聞き手の評価が一致,
一致しないにしても以前よりも近づいたなら
セミナーは意義あるものとなると思っています.
さらに,「不完全」な部分の打開策について協議できたらなお良いと思う.
それは「不完全な研究」を「完全な研究」へと進める行為ですから.
それに対して,意味のない意見というのがあります.
話し手が「不十分(もしくは十分)」と評価している部分に対して,
聞き手が「そこは不十分(もしくは十分)だよ」と言う意見です.
この意見には,
「話し手の研究に対する話し手の評価」にも
「話し手の研究に対する聞き手の評価」にも変化を与えません.
まあ,確認くらいにはなるかな.
最初にも書いたけど,
話し手(学生)は自分の研究が「不完全」なものであり,
どこが「不十分」かはある程度分かっていると思うのです.
その部分について聞き手(特にポスドクや教官)が
「そこは不十分じゃ」
と言ったところで,
話し手にしてみれば
「そんなこと知ってるよ」
という感じではないでしょうか.
でも,「不十分」という負い目から,口では「すいません」としか言えませんよね.
セミナーではこういった「意味のない意見」があまりに多い気がします.
これでは,話し手の意欲が落ちるのは当然です.
だって,
自分でも「不完全」と分かっている研究について,
「不完全じゃ」と言われて,
「そうですね」と答えるだけで
発表によって得られるものが何もないのですから.
K氏は内輪で行うセミナーについてどうお考えですか?
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前回からずいぶん時間が空きました.
こちらは新しい環境にも慣れて,順調です.
以前の場所よりも,専門的な分野について深く学ぶ機会が多いです.
その点,当初のねらい通りに行っています.
ここで身につけたことをどんどんと研究成果にしていこうと思います.
今日は学生が卒論などの途中経過を発表する形のセミナーについてです
これが面白くないんです.
面白くないというのは,聞き手も話し手も
セミナーを通じて得るものが少ないと感じるのです.
その原因について考えます.
内輪のセミナーだし,学生の研究の経過報告だし,
不十分な部分が少なからずあることは当然でしょう.
これを「不完全な研究」と呼ぶことにします.
ちなみに「完全な研究」とは,ここでは
とりあえず投稿論文くらいの完成度のものとしておきます.
「不完全な研究」は「十分な部分」と「不十分な部分」とに分けられます.
「十分な部分」は「完全な研究」にとって必要十分な要素で,
「不十分な部分」は「完全な研究」にとって
不足していたり,不必要であったり,修正が必要であったりする部分です.
学生のセミナー発表はたいがい「不完全な研究」です.
このとき,セミナーの話し手(ここでは学生)は,
自分の研究が「不完全」であることを知っていて,
どこが「十分な部分」でどこが「不十分な部分」かを
ある程度認識していると思うんです.
この話し手の認識を「話し手の研究に対する話し手の評価」としましょう.
一方で聞き手は,セミナー発表を通じて
話し手の研究について「十分な部分」と「不十分な部分」を
判断すると思います.
これを「話しての研究に対する聞き手の評価」とします.
また,話し手も聞き手もその研究に対して
「十分とも不十分とも評価できない」部分もあると思います.
聞き手によっては発表のほとんどがこの部分になるかもしれません.
僕は,講座セミナーの最大の目的とは
「話し手の研究に対する話し手の評価」と
「話し手の研究に対する聞き手の評価」を
一致させることだと思っています.
セミナーの目的をこのように決めると,聞き手の意見や質問は自然と決まってきます.
意見は,
話し手が「十分(もしくは不十分)」と思っている部分に対して,
聞き手が「それは「いやそれは不十分(もしくは十分)」だよ」という行為.
質問は,
聞き手が「十分とも不十分とも評価できない」部分に対して,
話し手自身がどう評価しているのかを確認する行為.
ではないでしょうか?
こうした意見や質問を通じて,
話し手の研究に対する話し手と聞き手の評価が一致,
一致しないにしても以前よりも近づいたなら
セミナーは意義あるものとなると思っています.
さらに,「不完全」な部分の打開策について協議できたらなお良いと思う.
それは「不完全な研究」を「完全な研究」へと進める行為ですから.
それに対して,意味のない意見というのがあります.
話し手が「不十分(もしくは十分)」と評価している部分に対して,
聞き手が「そこは不十分(もしくは十分)だよ」と言う意見です.
この意見には,
「話し手の研究に対する話し手の評価」にも
「話し手の研究に対する聞き手の評価」にも変化を与えません.
まあ,確認くらいにはなるかな.
最初にも書いたけど,
話し手(学生)は自分の研究が「不完全」なものであり,
どこが「不十分」かはある程度分かっていると思うのです.
その部分について聞き手(特にポスドクや教官)が
「そこは不十分じゃ」
と言ったところで,
話し手にしてみれば
「そんなこと知ってるよ」
という感じではないでしょうか.
でも,「不十分」という負い目から,口では「すいません」としか言えませんよね.
セミナーではこういった「意味のない意見」があまりに多い気がします.
これでは,話し手の意欲が落ちるのは当然です.
だって,
自分でも「不完全」と分かっている研究について,
「不完全じゃ」と言われて,
「そうですね」と答えるだけで
発表によって得られるものが何もないのですから.
K氏は内輪で行うセミナーについてどうお考えですか?
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