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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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一番言いたいことは,
「研究者が自らの保身のために大学教員職を利用し,大学の存在を貶めている」
ってことなんだな,って気がしてきた。
ようするにその「不潔さ」がイヤで,
自分がその「不潔」な世界に迎合して職をえることが我慢できないんだな。


色んな理由は見つけてきているけども,
「自分が研究活動をしたい」
ってのが,まずなにより先にあって,
それに付随して,
「学生と一緒にやりたい」
「後継者を」
「教育が」
があるんじゃなかろうか。
そういう人が大半なんじゃなかろうか。

「それなら研究者になれば良いじゃないか」ということなんだけど,
現在の社会運用上,
「研究者職」の大きな受け皿が「大学教員職」だから,
大学教員になっているわけで,
たとえば「研究」を本務とするような「研究所」が多数あれば,
そこが研究者の受け皿になっていれば,
研究者でいたい人は大学教員になんかならないんじゃないか。

その次に考えていきたいのは,
動機はともかくとして,
大学教員になった以上は,
「大学」とか「大学教育」ってものを必ず考えるべきだってこと。
考えるべきなんだけど,
その作業において,研究作業では当然で必須として行っているような,
「過去の知見」を調べた上で「自分の考えを確立」する,
って作業がまったく行われてなくって,
単なる経験的私見だけで「大学」とか「大学教育」を考えてる。
だから,
かなり「研究者の都合」に偏った「大学観」「大学教育観」「大学教員観」を,
臆面もなく主張できるんだろうなぁ,と。
その「不潔さ」に,気付くことすら出来ないんだなぁ,と。

たとえば,
「何が教育学者だ」
「おれは子供の教育もしてるし,学生の指導もしている」
「あいつらの言っていることは机上の空論だ。現場を見ていない」
みたいなことを言えてしまうのも,
そういう偏狭さゆえなのだろう。
「自然科学」は「客観的」で,「社会科学」は「主観」から逃れえない,
という前提があるのかな。

以前,社会的共通資本としての研究者ってまとめかたをしたけど,
「研究者」ってだけでも,その役割をまっとうせず,権利を主張しているわけで,
これに「教員」って要素も加えたら,本当にヒドイ有様だと思う。
「給料あげろ」とか「採用枠増やせ」とか,
なんて「自分に甘い」職業的規範なんだろうか。


まとまってないから,ただのグチになってしまった

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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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