自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
「大学の教育力」金子
「大学とは何か」吉見
「落下傘学長奮闘記」黒木
「アメリカの大学・ニッポンの大学」苅谷
(「学校って何だろう」苅谷)
もうずっと「大学」ってものについて考えがまとまらなくて,
航海の間に関連書籍を読んでみた。
大学本というと「入試本」とか「就活本」が多いのだけれど,
上記はいずれも「大学」自体にフォーカスしたものだった。
大枠でザックリまとめるなら,重要な点は2つ
(1)「フンボルト理念」の確立と普及
「フンボルト理念」については,それ自体が解釈のわかれるところかもしれないが,
とりあえず一番大雑把に言えば「大学教育は研究を通じて達成される」ということ。
これは大学教員が研究者であるという,現在の一般的な状況の原型であるわけだけど,
一方で,この理念においては,学生もまた研究者である(とボクには読めた)。
米国でうまれた大学院制度との比較もあるけれども,
現在の日本の状況は,大学教員の大半のアイデンティティが研究者であるという点で,
フンボルト的と言えるのではないだろうか。
(2)近年の爆発的な大学大衆化
経済的な発展と資本主義の浸透によって,
大学進学が広く一般的になってきた。
(技術的専門職よりも,いわゆるサラリーマン的職種が増えたし)。
今では進学率50%を超えるが,少子化とあわさればもっと高い数字になるだろう。
これらの2点は,うまく融合できない。
それは研究それ自体は,経済活動への寄与を指向するものではない。
にも関わらず,
労働年齢にある若者の大半が数年にわたって研究に従事する(大学に在籍)というのは,
「大学の存在」を可能にする「社会」を維持する力を,
「大学の存在」自体が滅していると考えることができる(かもしれない)。
国民が広く教育を受け,その知性や理性を磨き,人間・世界理解を深めることは,
それ自体は極めて社会的に有効で望ましいことであるし,
それこそが,大学に期待されていることの本質であろう。
そう考えた時に,
フンボルト理念に基づく大学教育ってのがはたして有効なのだろうか。
特に科学技術が高度に専門化・細分化されている現代では,
研究に従事することで獲得できる知識というのは,
ある特定の範囲でのみ有効な知識でしかない。
これに対してよく行われる反論は,
【研究をする中で磨かれる「考え方」こそが大学教育の本丸】という主張である。
しかしこの主張は,あえて辛辣に言えば,
大学教員側が「大学教育」から目を背け「研究」に逃げこむ言い訳であり,
「考え方」を教えるメソッドを持ち合わせていないことを端的に表しているのではないか。
大学教員にとっては,自らが研究を進めたいという中で,
高校卒業生に「考え方」を教育する術をもたず,
高校卒業生はいきなり研究をさせられるほど知識も考え方も持ち合わせておらず,
程度の低い知識の伝達の場にすぎない授業に従事せねばならない。
産業界,あるいは大きく社会一般にとっては,
労働年齢にある若者が一定期間,社会に寄与しないことは損失である。
高校生にとっては,
はげしい大学受験という負担があるが,
大学にいるのは上記のような大学教員による大学教育で,
大学在学中から上記の社会からにらまれている。
ということで,
話を今日のお題に持っていくと,
誰も幸せになれない「大学」の現状を作っているのは,
「大学教育」が未発達であるせいではないだろうか。
もう一度,大雑把に整理すると,
「先端研究」と「大衆化」という正反対のベクトルが,
【大学教員】と【産業界・社会】のうちにあって,
【大学生】や【大学という場】が乖離させられる状況にある。
正反対のベクトルが敵対するのに加え,
間にいて乖離させられるモノもある。
三者の誰もが不幸になる。
これが現在の日本の大学の現状である。
ちなみにアメリカの大学の状況はと言うと,
アメリカの大学に行ったこと無いからわからないけども,
学部教育の大きい部分を,大学院生TAが担っているらしい。
そして,
大学生が,大学教員では無く,TAからしか学べないこと,
院生TAが,本来やりたい研究では無くカネ稼ぎのTAに時間をとられすぎること,
の2つが,アメリカでの大学問題となっているらしい。
【2つ以上の問題を同時に解決できることを,アイデアという】
ってのは任天堂の社長だったかな。
とにかく,そういうアイデアを考える必要がある。
ボクの現在の考えは,
現状の【大学教員】の部分を【教員】と【研究者】に割ること。
古い人には「それは教養部時代に戻るだけじゃ無いか」と言われるだろうけども,
今のところ,三者問題を同時に解決するには,それしかないし,
教養部とは少し仕組みを変えていけば,うまくハマル気もする。
ある意味では,大学院重点化の本質なのかもしれないが,
大学院教員と大学教員を明確に分離してしまえば良い,という考え方である。
つまり,
「現在の大学教員」は「大学院教員」となって,研究に従事する。
「新設の大学教員」は「大学教員」となって,学部教育に従事する。
「新大学教員」は高校教員と研究者の間ぐらいの位置付けになるかもしれない。
博士号を持つなど何か専門性を有する人が,
一定の教育メソッドなどを学んだ上で「新大学教員」になる仕組み。
大学生は,教育メソッドを有する教員から学べる
大学院教員は,研究に従事する時間が増える
大学は,大学の理念に基づく教育メソッドを普及させ特色を出せる,
産業界・社会は,大学でより成熟した大人が増えればより良くなる,など,
悪いことはないと思う。
とはいえ,
現状の教員に加えて,新教員を設置できるほど,人件費もないので,
現在の大学教員から,半々ぐらいで振り分ける必要が出てくるだろう。
「任期付の研究者たる大学院教員」と「任期無の教育者たる大学教員」にわけるのは,
大変に困難な作業だろうけども,
いずれ避けては通れない道なんだし・・・。
(じかんぎれ)
まぁとにかく一番言いたい部分は,
今の大学の問題点は,システム云々以前の問題として,
「大学教育」ってソフトの部分が,
三者問題で三者ともが目を背けるピットフォールになっているってことです。
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「大学とは何か」吉見
「落下傘学長奮闘記」黒木
「アメリカの大学・ニッポンの大学」苅谷
(「学校って何だろう」苅谷)
もうずっと「大学」ってものについて考えがまとまらなくて,
航海の間に関連書籍を読んでみた。
大学本というと「入試本」とか「就活本」が多いのだけれど,
上記はいずれも「大学」自体にフォーカスしたものだった。
大枠でザックリまとめるなら,重要な点は2つ
(1)「フンボルト理念」の確立と普及
「フンボルト理念」については,それ自体が解釈のわかれるところかもしれないが,
とりあえず一番大雑把に言えば「大学教育は研究を通じて達成される」ということ。
これは大学教員が研究者であるという,現在の一般的な状況の原型であるわけだけど,
一方で,この理念においては,学生もまた研究者である(とボクには読めた)。
米国でうまれた大学院制度との比較もあるけれども,
現在の日本の状況は,大学教員の大半のアイデンティティが研究者であるという点で,
フンボルト的と言えるのではないだろうか。
(2)近年の爆発的な大学大衆化
経済的な発展と資本主義の浸透によって,
大学進学が広く一般的になってきた。
(技術的専門職よりも,いわゆるサラリーマン的職種が増えたし)。
今では進学率50%を超えるが,少子化とあわさればもっと高い数字になるだろう。
これらの2点は,うまく融合できない。
それは研究それ自体は,経済活動への寄与を指向するものではない。
にも関わらず,
労働年齢にある若者の大半が数年にわたって研究に従事する(大学に在籍)というのは,
「大学の存在」を可能にする「社会」を維持する力を,
「大学の存在」自体が滅していると考えることができる(かもしれない)。
国民が広く教育を受け,その知性や理性を磨き,人間・世界理解を深めることは,
それ自体は極めて社会的に有効で望ましいことであるし,
それこそが,大学に期待されていることの本質であろう。
そう考えた時に,
フンボルト理念に基づく大学教育ってのがはたして有効なのだろうか。
特に科学技術が高度に専門化・細分化されている現代では,
研究に従事することで獲得できる知識というのは,
ある特定の範囲でのみ有効な知識でしかない。
これに対してよく行われる反論は,
【研究をする中で磨かれる「考え方」こそが大学教育の本丸】という主張である。
しかしこの主張は,あえて辛辣に言えば,
大学教員側が「大学教育」から目を背け「研究」に逃げこむ言い訳であり,
「考え方」を教えるメソッドを持ち合わせていないことを端的に表しているのではないか。
大学教員にとっては,自らが研究を進めたいという中で,
高校卒業生に「考え方」を教育する術をもたず,
高校卒業生はいきなり研究をさせられるほど知識も考え方も持ち合わせておらず,
程度の低い知識の伝達の場にすぎない授業に従事せねばならない。
産業界,あるいは大きく社会一般にとっては,
労働年齢にある若者が一定期間,社会に寄与しないことは損失である。
高校生にとっては,
はげしい大学受験という負担があるが,
大学にいるのは上記のような大学教員による大学教育で,
大学在学中から上記の社会からにらまれている。
ということで,
話を今日のお題に持っていくと,
誰も幸せになれない「大学」の現状を作っているのは,
「大学教育」が未発達であるせいではないだろうか。
もう一度,大雑把に整理すると,
「先端研究」と「大衆化」という正反対のベクトルが,
【大学教員】と【産業界・社会】のうちにあって,
【大学生】や【大学という場】が乖離させられる状況にある。
正反対のベクトルが敵対するのに加え,
間にいて乖離させられるモノもある。
三者の誰もが不幸になる。
これが現在の日本の大学の現状である。
ちなみにアメリカの大学の状況はと言うと,
アメリカの大学に行ったこと無いからわからないけども,
学部教育の大きい部分を,大学院生TAが担っているらしい。
そして,
大学生が,大学教員では無く,TAからしか学べないこと,
院生TAが,本来やりたい研究では無くカネ稼ぎのTAに時間をとられすぎること,
の2つが,アメリカでの大学問題となっているらしい。
【2つ以上の問題を同時に解決できることを,アイデアという】
ってのは任天堂の社長だったかな。
とにかく,そういうアイデアを考える必要がある。
ボクの現在の考えは,
現状の【大学教員】の部分を【教員】と【研究者】に割ること。
古い人には「それは教養部時代に戻るだけじゃ無いか」と言われるだろうけども,
今のところ,三者問題を同時に解決するには,それしかないし,
教養部とは少し仕組みを変えていけば,うまくハマル気もする。
ある意味では,大学院重点化の本質なのかもしれないが,
大学院教員と大学教員を明確に分離してしまえば良い,という考え方である。
つまり,
「現在の大学教員」は「大学院教員」となって,研究に従事する。
「新設の大学教員」は「大学教員」となって,学部教育に従事する。
「新大学教員」は高校教員と研究者の間ぐらいの位置付けになるかもしれない。
博士号を持つなど何か専門性を有する人が,
一定の教育メソッドなどを学んだ上で「新大学教員」になる仕組み。
大学生は,教育メソッドを有する教員から学べる
大学院教員は,研究に従事する時間が増える
大学は,大学の理念に基づく教育メソッドを普及させ特色を出せる,
産業界・社会は,大学でより成熟した大人が増えればより良くなる,など,
悪いことはないと思う。
とはいえ,
現状の教員に加えて,新教員を設置できるほど,人件費もないので,
現在の大学教員から,半々ぐらいで振り分ける必要が出てくるだろう。
「任期付の研究者たる大学院教員」と「任期無の教育者たる大学教員」にわけるのは,
大変に困難な作業だろうけども,
いずれ避けては通れない道なんだし・・・。
(じかんぎれ)
まぁとにかく一番言いたい部分は,
今の大学の問題点は,システム云々以前の問題として,
「大学教育」ってソフトの部分が,
三者問題で三者ともが目を背けるピットフォールになっているってことです。
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