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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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論理と判断は直結しない

どれだけ論理的に考えても,
判断というのは絶対に恣意的なものになる。

それは論理的といえどもそれは究極的には確率論であって,
さらに判断には未来への予測が幾分か含まれているわけで,
どうあがいても,
どれだけ考えに考えても,
最後の最後の判断の部分では,
絶対に絶対に論理と判断は直結しない。

それを飲み込んで,
その上で,
議論しない限り,
色んなことは結論を出せない。

つまりは,
「双方に理がある」なかで,
「いずれかを選択せねばならない」ということがままあって,
その中での判断に迷うことがあるかもしれないが,
それは単に両者の結論に関わる確率が近しいだけであって,
逆に言えば,
どんな判断であれ,
少なからずそういう側面があるのだから,
確率が近しい時にばかり,
「恣意的にならぬように,フェアに」などと言わず,
「恣意的ではある」ということを飲み込めばいい。


そこで大事になってくるのが,
論理を超越した部分での,
自分の中での判断基準の確立。

たとえばボクは,
「じゃんけんではグーしか出さない」と決めている。
それで負けても悔いがないから,
毎回悩んで出して,その結果と自分の判断に悶えるよりも,
精神的にはずいぶんと楽だ。

その他にも,
「誘いは断らない」というのもある。
何かに誘われる度に,
その事象が自分にとって役に立つかとか,
他の物事との兼ね合いが云々とか,
そんなことは考えたって論理的な結論が出ない。
だったらすべて受け入れようじゃないか。
(明らかに先約があったり体調が悪い場合は断るけども)

まぁこれらは細かいことで,
もっと大きな意味でも確たる判断基準があるわけだが,
それはなんとも文章にするのが難しい。
「生身を大切にする」とか,
「意見は立場を超越する」とか,
そういったこと。

あとそこで大事なことは,
この判断基準が,
その場その場の感情に左右されないこと。
もちろん,自分の感情に従うってのはピュアなことで,
それ自体は尊重したいところなんだけども,
それをやっては社会がたちいかなくなるわけでもあって,
やはり「自分の感情」というのは判断基準には採用できない。


で,
また何が言いたいのかということだけど,
論理的な思考が出来ない上に,
判断基準が「自分の感情」と「金勘定」な人が,
あまりにも多くて辟易する,という話です。

そしてそれは明らかに教育不調によるものです。
子供の頃から,
「ナンバーワンよりオンリーワン」とか,
「友情や愛情は金では買えない」とか,
クソの役にも立たない空虚な論理でしか教育されてないから,
空っぽな大人(というか大人になれない子供)ばかりになってしまうのだ。


「一身独立して一国独立する」(学問のすすめ,福澤諭吉)


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