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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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日韓戦でアレがああなったので,
少しマジメに考えてみた。


「このピッチの上、円陣を組んで、今、散った日本代表は、
 私たちにとっては「彼ら」ではありません。
 これは、私たちそのものです。」

スポーツを観戦する人,
特に母国や贔屓のチームを応援する人にとって,
「選手」は「彼ら」ではなく「私たち」そのものなのです。
いや,正確に言うならば,
「彼ら」は「私たち」ではなく「私」なのです。
「私」は選手の姿を通して「私」を見ているのです。,

でも,選手は,
選手の中の「私」は,
究極的にはピッチの上には存在しない。
ピッチの上の選手は,
あくまで競技/スポーツのフレームに則り行動しなければならないので,
それは「私」ではなく,
「その競技/スポーツの選手」という「役割を担う個体」でしかない。

だからピッチの上では,
それは90分の範囲では無く,
ロッカールームを出て,戻るまでは,
「私」的な行動というのは本来ありえないし,
厳に慎まなければならない。


つまり,
観戦者は選手に「私」を投影するため,
ひいては代表戦は観戦者にとって代理戦争となりうる。
しかし,
選手にとっては,それは単にその競技の試合であり,
そこに「私」の感情の入る余地はなく,
代表戦は代理戦争にはなりえないし,
競技の範疇で「戦争」をするなどもってのほかである。

もちろん,
試合前後の記者会見などでは,
私的な思いを吐いても良いし,
あるいは私的にはどうでも良くても,
観戦者を盛り上げるべく「私的を振る舞う」こともアリだと思う。
後者を突き詰めた形がいわゆる「プロ」なのだろう。


すべての選手が競技を成立させようとしない限り,
競技は成立しえないものである。
競技とはそういうものである。

人間の原始的で根源的な部分にはないもの,
つまりは「一定のルールに則る競技」という「フィクション」を経由することで,
はじめて両者の初期的な立ち位置に対等な関係が成立し,
その範疇で競うものが競技でありスポーツである。

つまり,
スポーツというのは,
競技者の茶番で成り立っているのである。

そこに競技者の私的な精神,
競技者の野蛮を持ち込むと,
もはや競技は成立しない。

競技は茶番であるからこそ,
現実社会とは地続きでは無い。

観戦者は無邪気に自己投影してもかまわない。
しかし競技者は,
競技するということの背景にある精神性,
俗に言うスポーツマンシップはまさにこれを指しているが,
競技はあくまでフィクションであるということを,
決して忘れてはならないし,
その範囲を逸脱した行動を取った場合には,
厳しく罰せられてしかるべきだと考える次第であります。

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