自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
これで昔話シリーズはおしまいにします
海洋研でやったこととかはこのブログですでに触れているので、
もうちょっと漠然としたこと、もしくはすごく細かいことについて、
雑多に書こう
一部は名誉毀損的になるかもしれないけど、そこは勘弁
まず、
海洋研に移って一番大きかったことは、
「論文にして初めて研究が一段落するということを明確に意識する」ということだった
博士に進むまでは、
なんというか、
「反学歴主義の職人思考」のような、
「論文よりもオンリーワンのスキルの方が価値がある」というか、
まぁそんな感じの考え方をしていたような気がする
で、
それが大いなる誤認識だということに気づいたわけです
もちろん論文の数が絶対的に意味があるというわけではなくって、
そうではなくって、
やや危険な言い方ではあるけども、
論文としてアウトプットしていない仕事というのは、
それが例えいくら素晴らしかったとしても、
科学業界では承認されていない仕事であって、
存在しないことになるのだ
税金を使ってやっているのだからとか、
そういうことではなくって、
「論文を書かない研究者はネズミを獲らないネコ」じゃないけども、
「論文を書くゆえにわれ研究者なり」というか、
研究者にとって「論文を書く」とはそういうものであって、
「観測に行く」「技術を身につける」「学会発表をする」では置換不可能なものなのだ
たとえそれが同様に快感で、
快楽だけが自身の目的だとしても、
セックスが、たとえそれ自体を目的とせずとも、
生命の連鎖を生み出しうるのに対して、
オナニーはどこまでいってもただのオナニーでしかない
そいうことなのかな
だから、
何がだからなのかわかんないけど、
たとえ自分的に納得できなかったとしても、
研究成果を論文にするということは重要なことなのだ
もちろん論文は著者の分身であり、
科学は神聖なものであるから、
100%のものしか論文にするべきではないという考え方もあるだろう
でも、
特に地球科学(化学)のような分野では、
不愉快なノイズもあるいは意味を持つわけで、
論文にして世に問う、という側面もあるような気もする
着地点が見えませんが、
ボクが現時点で思っていることは、
データや技術は秘するものではなく、
とにかく論文を通じて白日の下にさらさねばならない
そしてボクを含む研究者はその使命を遂行してはじめて研究者たりえるのだ
というようなことです
で、
そういう考え方とか、
実際に研究を進める上での、
態度とか姿勢とかいうものは、
オバタさんから教わった部分が非常に大きいように思う
もちろん直接的な助言(指導?)もあったけど、
むしろ雑談の中に含まれる概念的な話が特に印象に残っている
たとえばボクの専門であるところの、
ガス分析や熱水の内容について議論する相手がいないことは残念だったけども、
オバタさんと研究や研究者について様々な話をできたことは、
同じような研究をしている人と狭い専門内で喧々諤々するよりも余程ためになった
本当にオバタさんが研究室にいてくれて良かった
とはいえ、
専門を同じくする人が周囲にいないという環境は中々に困ったもので、
学術的にも精神的にも大変だった
ゼミ無し、かつ、ポスドク無し、
というのは非常に厳しい
自分がドツボに向かっていっている時に、
「ん?それちょっとおかしくない?」
と言ってもらえる機会があることがどれだけありがたいか
一方で、
そういう甘えられる環境でなかったからこそ、
自分でシビアに考えて研究をまとめるという作業を、
逃げることなくできたのかもしれない
ということで、
このこと自体は結果的に非常にプラスになったと思っている
故ゴッドの金言の一つであるところの、
「ゼミみたいなオママゴトをやっている暇があったら論文を書け」(大意、詳細不明)
という考え方に、
全面的ではないけども同意するところであります
色々な価値観に触れられたことも良かった
ついつい陥りがちな、
「身内の語法」ですべてを語ってしまう風潮は、
かなりヤバイ
またもや故ゴッドからの引用だけど、
「金で買えないモノ以外はすべて捨てろ」(こちらはたぶん正解)
というのには、
モノの価値観を考えさせられた
別にモノを捨てる必要はないのだけれども、
モノの本当の価値というのはそういうことなのだろう
特急料金というのは時間を買うためのものだけども、
研究物品の購入においてもそういう考え方はあてはまる
安く研究をすること自体は何の意味も無い
それがために時間を多く消費するのであれば、
むしろそれは、悪だ
もちろんパトロンから得た金を湯水のように使うことは控えるべきではあるが、
それでも迅速にデータを得て論文を書くための金をケチることは、
研究と金との関係を、
パトロンとの関係のためにネジれさせてしまっていることになるんじゃないだろうか
故ナカヤマ氏の「塩検瓶を早く温めるために風呂の湯を云々」という伝説の話も、
ただの笑い話ではないと思っている
なんというか、
ボクも末席に加わっている、
「分析化学によって地球化学を切り開く」研究者にとって、
決して忘れてはいけない部分だと思う
細かい話はイッシキさんのエッセイの「現場主義」の件を読んでいただくとして、
特に大気と熱水を行ったり来たりしていると見失いがちな、
手法と観測のサジ加減には常に気を払っていたい
(参考-- http://www.kochi-wu.ac.jp/~isshiki/isshiki/essay/20021005.html)
比較的同期に恵まれなかった北大時代に比べ(オッサンしかいなかったもんね)、
海洋研ではアトラクティブな同世代の奴らが多くて、
非常に楽しくすごすことができた
論文を書くことの重要性を常々口にするコウちゃんと、
鬼のように観測をこなすタダを見ていると、
自分のやるべきことがクリアになった
研究室に入った時にタゾエモンがいなかったらと思うとゾッとする
姉さんとのくだらない会話は精神的に病みかけている自分にとっては癒しだった
オシャフネさんやトーナイさんとは社会考察にシンパシーを感じることができて、
考えを整理したり構築したりと頭をスッキリさせることができた
ヨメとの出会いも同世代(同期入所、かな)の集まりでした
書くのに一時間以上かかっていると、
だんだんテンションが変わってくるので、
まとまりが一段となくなってくるねぇ
これで昔話を終わりにするのは、
なんだか全然書ききれてない気がするんだけど、
もう終わります
おしまーい
海洋研でやったこととかはこのブログですでに触れているので、
もうちょっと漠然としたこと、もしくはすごく細かいことについて、
雑多に書こう
一部は名誉毀損的になるかもしれないけど、そこは勘弁
まず、
海洋研に移って一番大きかったことは、
「論文にして初めて研究が一段落するということを明確に意識する」ということだった
博士に進むまでは、
なんというか、
「反学歴主義の職人思考」のような、
「論文よりもオンリーワンのスキルの方が価値がある」というか、
まぁそんな感じの考え方をしていたような気がする
で、
それが大いなる誤認識だということに気づいたわけです
もちろん論文の数が絶対的に意味があるというわけではなくって、
そうではなくって、
やや危険な言い方ではあるけども、
論文としてアウトプットしていない仕事というのは、
それが例えいくら素晴らしかったとしても、
科学業界では承認されていない仕事であって、
存在しないことになるのだ
税金を使ってやっているのだからとか、
そういうことではなくって、
「論文を書かない研究者はネズミを獲らないネコ」じゃないけども、
「論文を書くゆえにわれ研究者なり」というか、
研究者にとって「論文を書く」とはそういうものであって、
「観測に行く」「技術を身につける」「学会発表をする」では置換不可能なものなのだ
たとえそれが同様に快感で、
快楽だけが自身の目的だとしても、
セックスが、たとえそれ自体を目的とせずとも、
生命の連鎖を生み出しうるのに対して、
オナニーはどこまでいってもただのオナニーでしかない
そいうことなのかな
だから、
何がだからなのかわかんないけど、
たとえ自分的に納得できなかったとしても、
研究成果を論文にするということは重要なことなのだ
もちろん論文は著者の分身であり、
科学は神聖なものであるから、
100%のものしか論文にするべきではないという考え方もあるだろう
でも、
特に地球科学(化学)のような分野では、
不愉快なノイズもあるいは意味を持つわけで、
論文にして世に問う、という側面もあるような気もする
着地点が見えませんが、
ボクが現時点で思っていることは、
データや技術は秘するものではなく、
とにかく論文を通じて白日の下にさらさねばならない
そしてボクを含む研究者はその使命を遂行してはじめて研究者たりえるのだ
というようなことです
で、
そういう考え方とか、
実際に研究を進める上での、
態度とか姿勢とかいうものは、
オバタさんから教わった部分が非常に大きいように思う
もちろん直接的な助言(指導?)もあったけど、
むしろ雑談の中に含まれる概念的な話が特に印象に残っている
たとえばボクの専門であるところの、
ガス分析や熱水の内容について議論する相手がいないことは残念だったけども、
オバタさんと研究や研究者について様々な話をできたことは、
同じような研究をしている人と狭い専門内で喧々諤々するよりも余程ためになった
本当にオバタさんが研究室にいてくれて良かった
とはいえ、
専門を同じくする人が周囲にいないという環境は中々に困ったもので、
学術的にも精神的にも大変だった
ゼミ無し、かつ、ポスドク無し、
というのは非常に厳しい
自分がドツボに向かっていっている時に、
「ん?それちょっとおかしくない?」
と言ってもらえる機会があることがどれだけありがたいか
一方で、
そういう甘えられる環境でなかったからこそ、
自分でシビアに考えて研究をまとめるという作業を、
逃げることなくできたのかもしれない
ということで、
このこと自体は結果的に非常にプラスになったと思っている
故ゴッドの金言の一つであるところの、
「ゼミみたいなオママゴトをやっている暇があったら論文を書け」(大意、詳細不明)
という考え方に、
全面的ではないけども同意するところであります
色々な価値観に触れられたことも良かった
ついつい陥りがちな、
「身内の語法」ですべてを語ってしまう風潮は、
かなりヤバイ
またもや故ゴッドからの引用だけど、
「金で買えないモノ以外はすべて捨てろ」(こちらはたぶん正解)
というのには、
モノの価値観を考えさせられた
別にモノを捨てる必要はないのだけれども、
モノの本当の価値というのはそういうことなのだろう
特急料金というのは時間を買うためのものだけども、
研究物品の購入においてもそういう考え方はあてはまる
安く研究をすること自体は何の意味も無い
それがために時間を多く消費するのであれば、
むしろそれは、悪だ
もちろんパトロンから得た金を湯水のように使うことは控えるべきではあるが、
それでも迅速にデータを得て論文を書くための金をケチることは、
研究と金との関係を、
パトロンとの関係のためにネジれさせてしまっていることになるんじゃないだろうか
故ナカヤマ氏の「塩検瓶を早く温めるために風呂の湯を云々」という伝説の話も、
ただの笑い話ではないと思っている
なんというか、
ボクも末席に加わっている、
「分析化学によって地球化学を切り開く」研究者にとって、
決して忘れてはいけない部分だと思う
細かい話はイッシキさんのエッセイの「現場主義」の件を読んでいただくとして、
特に大気と熱水を行ったり来たりしていると見失いがちな、
手法と観測のサジ加減には常に気を払っていたい
(参考-- http://www.kochi-wu.ac.jp/~isshiki/isshiki/essay/20021005.html)
比較的同期に恵まれなかった北大時代に比べ(オッサンしかいなかったもんね)、
海洋研ではアトラクティブな同世代の奴らが多くて、
非常に楽しくすごすことができた
論文を書くことの重要性を常々口にするコウちゃんと、
鬼のように観測をこなすタダを見ていると、
自分のやるべきことがクリアになった
研究室に入った時にタゾエモンがいなかったらと思うとゾッとする
姉さんとのくだらない会話は精神的に病みかけている自分にとっては癒しだった
オシャフネさんやトーナイさんとは社会考察にシンパシーを感じることができて、
考えを整理したり構築したりと頭をスッキリさせることができた
ヨメとの出会いも同世代(同期入所、かな)の集まりでした
書くのに一時間以上かかっていると、
だんだんテンションが変わってくるので、
まとまりが一段となくなってくるねぇ
これで昔話を終わりにするのは、
なんだか全然書ききれてない気がするんだけど、
もう終わります
おしまーい
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勉強不足で過去の研究をフォローできていないことは、
敬意を欠いていると受け取られても仕方が無い
ちゃんと勉強せねば
ということで、
バターフィールド・バンダム・ライリーの教科書を勉強開始
今さらかよ、ですけどね
年度末なので、
方々にお別れと連絡先変更のごあいさつをメール
感謝の気持ちをお届け
他人の業績リストを見ると、
単なるリストの裏に、
色々と感じることがあるので面白い
査読の依頼がきた
雑誌はJGRの大気で、
内容はPANとかPNNの話
たぶん、
AGUの会員登録で大気化学を選んでいるせいなんだろうけども、
いくらなんでも専門外すぎる
せめて時間の短縮に、と思い、
すぐさまリンクの張られたweb経由で丁重にお断り
申し訳ない
せめてもう少しわかる分野なら・・・
Tweet
敬意を欠いていると受け取られても仕方が無い
ちゃんと勉強せねば
ということで、
バターフィールド・バンダム・ライリーの教科書を勉強開始
今さらかよ、ですけどね
年度末なので、
方々にお別れと連絡先変更のごあいさつをメール
感謝の気持ちをお届け
他人の業績リストを見ると、
単なるリストの裏に、
色々と感じることがあるので面白い
査読の依頼がきた
雑誌はJGRの大気で、
内容はPANとかPNNの話
たぶん、
AGUの会員登録で大気化学を選んでいるせいなんだろうけども、
いくらなんでも専門外すぎる
せめて時間の短縮に、と思い、
すぐさまリンクの張られたweb経由で丁重にお断り
申し訳ない
せめてもう少しわかる分野なら・・・
まず、
5月末の航海に乗ることになった、っぽい
いまいち全容はつかめないがとりあえず乗る
まぁ今までと同じですね
放射線取り扱い免許があると、
絶対に就職に有利だ、という話題に
どこの組織もRIは使いたい、
でも実験室や航海には有資格者が必要
3年前にツノパパが白鳳に乗ったみたいにね
で、
これはマジで、
サイエンスとはやや離れた部分ではあるけども、
「研究者として生き延びる」ためにはかなり戦略的なのではないだろうか
論文が10本の無資格者と、
論文が1本の有資格者がいたとして、
受け入れる組織が有資格者を求めていたら、
論文の数なんかはけしとんでしまう程、
選考過程では有利な資格なんじゃなかろうか
少なくとも某海洋系の組織では、
若年の有資格者を求めているという噂
PDしながらこっそりと勉強して取得するのもアリか
まぁ、
ボクは試験勉強が苦手なのでパスしますが・・・
共著と謝辞の線引きは難しいね、というネタも話題に
共著に入るということは、
その論文に対して責任を持つということ
だから、
共著に入れるといっても、
責任を負えるほどその論文をフォローしていないからといって、
共著を断るという方針がある一方、
自分の貢献は共著に値するということで、
共著に入れるべきだと考える人もいる
最終的には主著者に任せられているのが現状で、
いわゆる日本的な風潮で「アノ人も」となると断らないことが多いようだ
しかし本来的には、
「あなたこの論文に責任を負いますか」と共著者には確認をするべきで、
いや、だから投稿前に共著者に原稿を送付するわけですが、
それに対してリアクションがないということは承認ということで、
その後、
「ボクも共著に入ってるけど、あの論文は、ねぇ・・・」
というのは反則なのだ
で、
何を言わんとするかと言いますと、
共著の論文が主著者から回ってきたら、
ちゃんと目を通して、
本当の意味で承認すること、
必ずコメントを返すこと(このままで結構です、など)、
それができないなら共著を断ること、
というのは、
これからちゃんとやっていきなさい、
という、
自分へのメッセージなのでした
Tweet
5月末の航海に乗ることになった、っぽい
いまいち全容はつかめないがとりあえず乗る
まぁ今までと同じですね
放射線取り扱い免許があると、
絶対に就職に有利だ、という話題に
どこの組織もRIは使いたい、
でも実験室や航海には有資格者が必要
3年前にツノパパが白鳳に乗ったみたいにね
で、
これはマジで、
サイエンスとはやや離れた部分ではあるけども、
「研究者として生き延びる」ためにはかなり戦略的なのではないだろうか
論文が10本の無資格者と、
論文が1本の有資格者がいたとして、
受け入れる組織が有資格者を求めていたら、
論文の数なんかはけしとんでしまう程、
選考過程では有利な資格なんじゃなかろうか
少なくとも某海洋系の組織では、
若年の有資格者を求めているという噂
PDしながらこっそりと勉強して取得するのもアリか
まぁ、
ボクは試験勉強が苦手なのでパスしますが・・・
共著と謝辞の線引きは難しいね、というネタも話題に
共著に入るということは、
その論文に対して責任を持つということ
だから、
共著に入れるといっても、
責任を負えるほどその論文をフォローしていないからといって、
共著を断るという方針がある一方、
自分の貢献は共著に値するということで、
共著に入れるべきだと考える人もいる
最終的には主著者に任せられているのが現状で、
いわゆる日本的な風潮で「アノ人も」となると断らないことが多いようだ
しかし本来的には、
「あなたこの論文に責任を負いますか」と共著者には確認をするべきで、
いや、だから投稿前に共著者に原稿を送付するわけですが、
それに対してリアクションがないということは承認ということで、
その後、
「ボクも共著に入ってるけど、あの論文は、ねぇ・・・」
というのは反則なのだ
で、
何を言わんとするかと言いますと、
共著の論文が主著者から回ってきたら、
ちゃんと目を通して、
本当の意味で承認すること、
必ずコメントを返すこと(このままで結構です、など)、
それができないなら共著を断ること、
というのは、
これからちゃんとやっていきなさい、
という、
自分へのメッセージなのでした
博士論文や就職、結婚など、
ストレスまみれの生活が続き、
体調がボロボロになってしまっていました
新年度までこれを引っ張ることはできないので、
不本意ながら病院へ行き、
リンデロンとプロトピックを処方してもらいました
かなり抵抗はありますが、
ここまで悪化してしまってはしょうがない
なんとか1週間の処置で回復したい
うーん
やや先走ってますが、
タイトルを変えました!
もうしばらくは書き続けます
Tweet
ストレスまみれの生活が続き、
体調がボロボロになってしまっていました
新年度までこれを引っ張ることはできないので、
不本意ながら病院へ行き、
リンデロンとプロトピックを処方してもらいました
かなり抵抗はありますが、
ここまで悪化してしまってはしょうがない
なんとか1週間の処置で回復したい
うーん
やや先走ってますが、
タイトルを変えました!
もうしばらくは書き続けます
さて、
修士修了までをさっさと書いてしまおう
時系列はグチャグチャです
卒論研究で開発した分析手法について、
投稿用に論文を書き始めたのは、
M1の夏ぐらいからだったような気がする
まぁとにかく、
右も左もわからぬままただ駄文を書いて、
無責任に先生に渡して、
返ってきた赤ペンをなぞってまた渡して、
って作業を繰り返して、
自分で書いた記憶もないままに投稿したわけです
投稿がバレンタイン、返事がホワイトデー、
「English is very poor」というコメントをちょうだいして、
その後reviseは先生とケンカしながらで、
M2の5月頭にrevise投稿して、
3日後にアクセプト
無事、学振の申請に間に合ったわけです
M1の12月には、
はじめての海外&国際学会として、
サンフランシスコのAGUに参加
ThiemensやらClaytonやらなんやらかんやらで、
論文の中の人たちに出会うことにとにかくスゲー大興奮
この勢いで博士に進むことを決意したような、しなかったような
今思うと、
なんて浅はかな決断だったんだろうという感じではある
実はマスター修了に合わせて、
就職活動も少しだけしました
河合塾とウッドワンの二社
河合塾の方は、福岡会場で一次試験を受けたのですが、
前夜に中州で散財するほど楽しんでしまい、
二日酔いで会場入りしてあえなく撃沈
ウッドワンは最終の手前まで、
計4回東京に行ったけども、
「イノウエワカをCMに使うのはイメージダウンじゃないですか?」
と言ったらアウト(そのせいかどうかは知らんが・・・)
交通費10万円以上が水の泡
当時は決まったら就職するつもりだったんだけど、
この中途半端な態度を振り返ると、
もう博士に進む気だったという風にも思えますね
学振申請の前に、
ツノ先生およびガモ先生に博士から移籍する旨の打診をしました
移籍しようと考えたのは、
研究室には直近の5世代までに5人の先輩がドクターにいて、
そのまま同じ研究室でドクターを取ったら、
世間的にも自分的にも、
「ツノ先生のところの六男坊」になってしまい、
劣化コピー甚だしい自分になってしまう危惧を覚えたからです
(先輩方が先生のコピーだという意味ではないです、表現が難しい・・・)
で、
M2の5月の学振申請は、
とりあえずツノ先生にしておいて、
その後、進路変更については熟慮しようという結論を出しました
結論を先送りするという結論です
これは両先生と相談し、そうなった気がします
学振の申請書はほとんど自分で書いて、
先生には一度も見せなかったような気がする
「自分の得る給料のことだからこれはプライベート」
「先生に申請書を添削してもらうのは筋違い」
と考えていた記憶があります
(あ、ナカガワさんには見せたかな?)
コバさんと雑談している時に出てきたネタを書いて提出
自分でも面白いと思っていたし、
通る気マンマンでした
で、
「地獄の淡青」から戻った次の日、
まずカメさんに青い封筒が、
続いてイマヤマさんに葉書が届き、
ボクには何も届かないという時間帯があった
申請書の不備などで申請自体が受理されていないのかと思い、
かなり落ち込んでいたのですが、
その日、五回目ぐらいに事務室に行くと、
青い封筒が来てました
事務室で「ヨシッ」って言ってしまったのは若気の至りです
そうそう、
地獄の淡青は、
地獄でした
石垣四日前入りもビーチに行くことなくひたすら準備
出港後は大荒れの中ひたすらサンプリング&処理
しかも分析の見通しのたってない試料のろ過、
そして熱水探しで外れた試料の塩検
荒れる精神
沈黙の作業
滅びる肉体
これ以上の詳細は思い出したくないので書きません
人生のワースト5には入るであろう出来事だった
下船後の学振採択が無ければ、
業界を去っていたと思う
これはマジで
これ以降、航海が楽しいとは思うまいと決意した
(沖ノ鳥島航海ですぐに翻意したけど)
あ、この航海はイマイさんも一緒だった
詳しく知りたい人は聞いてみるといいかもね
地獄の淡青なども引き金になり、
「研究はもういい」
「東京で学振もらいながら院生をして裏で就活をする」
という思いが大きくなって、
ついに本格的に移籍を決意
もちろん、
「研究が面白くなったらそのまま続ける」
という気持ちもあった
で、
両先生に報告
紆余曲折
皆さんには「ケンカ別れ」だと言われるが決してそんなことはない
ボクは後ろ髪をひかれる思いながら前向きに出ていったし、
先生も残るも出るも君次第という態度だった(と思っている)
まあまあとにかく、
出て行くのを決めたわけです
M2の秋には若手会の主催もしましたね
あれもほとんど記憶ないです
楽しかった
本当に
ただそれだけ
そうだ、
この時にはMLに案内を配布しただけで、
研究室の人には特に参加要請をしなかったんだけど、
そうしたら上の人々がジャマするまいと遠慮してしまったらしく、
これについては失敗だった
皆に出てほしかったのに
で、
肝心の研究だけども、
修士の間はロクにしてなかった
成層圏アーカイブを測定しただけ
修論もそれだけ
あとは、
分析法論文書きとか、
COや硝酸の17Oとか、
チュン教育航海とか、
地獄淡青とか、
なんだか色々と雑多にやって、
何もまとまらないまま
勉強も全然しなかった
これは非常にもったいなかった
後悔
読み直すと凹みますね
ちゃんと書けないのは、
当時の自分を直視したくないからでしょう
あぁ・・・
次はORI編を、できれば一回でまとめたい
Tweet
修士修了までをさっさと書いてしまおう
時系列はグチャグチャです
卒論研究で開発した分析手法について、
投稿用に論文を書き始めたのは、
M1の夏ぐらいからだったような気がする
まぁとにかく、
右も左もわからぬままただ駄文を書いて、
無責任に先生に渡して、
返ってきた赤ペンをなぞってまた渡して、
って作業を繰り返して、
自分で書いた記憶もないままに投稿したわけです
投稿がバレンタイン、返事がホワイトデー、
「English is very poor」というコメントをちょうだいして、
その後reviseは先生とケンカしながらで、
M2の5月頭にrevise投稿して、
3日後にアクセプト
無事、学振の申請に間に合ったわけです
M1の12月には、
はじめての海外&国際学会として、
サンフランシスコのAGUに参加
ThiemensやらClaytonやらなんやらかんやらで、
論文の中の人たちに出会うことにとにかくスゲー大興奮
この勢いで博士に進むことを決意したような、しなかったような
今思うと、
なんて浅はかな決断だったんだろうという感じではある
実はマスター修了に合わせて、
就職活動も少しだけしました
河合塾とウッドワンの二社
河合塾の方は、福岡会場で一次試験を受けたのですが、
前夜に中州で散財するほど楽しんでしまい、
二日酔いで会場入りしてあえなく撃沈
ウッドワンは最終の手前まで、
計4回東京に行ったけども、
「イノウエワカをCMに使うのはイメージダウンじゃないですか?」
と言ったらアウト(そのせいかどうかは知らんが・・・)
交通費10万円以上が水の泡
当時は決まったら就職するつもりだったんだけど、
この中途半端な態度を振り返ると、
もう博士に進む気だったという風にも思えますね
学振申請の前に、
ツノ先生およびガモ先生に博士から移籍する旨の打診をしました
移籍しようと考えたのは、
研究室には直近の5世代までに5人の先輩がドクターにいて、
そのまま同じ研究室でドクターを取ったら、
世間的にも自分的にも、
「ツノ先生のところの六男坊」になってしまい、
劣化コピー甚だしい自分になってしまう危惧を覚えたからです
(先輩方が先生のコピーだという意味ではないです、表現が難しい・・・)
で、
M2の5月の学振申請は、
とりあえずツノ先生にしておいて、
その後、進路変更については熟慮しようという結論を出しました
結論を先送りするという結論です
これは両先生と相談し、そうなった気がします
学振の申請書はほとんど自分で書いて、
先生には一度も見せなかったような気がする
「自分の得る給料のことだからこれはプライベート」
「先生に申請書を添削してもらうのは筋違い」
と考えていた記憶があります
(あ、ナカガワさんには見せたかな?)
コバさんと雑談している時に出てきたネタを書いて提出
自分でも面白いと思っていたし、
通る気マンマンでした
で、
「地獄の淡青」から戻った次の日、
まずカメさんに青い封筒が、
続いてイマヤマさんに葉書が届き、
ボクには何も届かないという時間帯があった
申請書の不備などで申請自体が受理されていないのかと思い、
かなり落ち込んでいたのですが、
その日、五回目ぐらいに事務室に行くと、
青い封筒が来てました
事務室で「ヨシッ」って言ってしまったのは若気の至りです
そうそう、
地獄の淡青は、
地獄でした
石垣四日前入りもビーチに行くことなくひたすら準備
出港後は大荒れの中ひたすらサンプリング&処理
しかも分析の見通しのたってない試料のろ過、
そして熱水探しで外れた試料の塩検
荒れる精神
沈黙の作業
滅びる肉体
これ以上の詳細は思い出したくないので書きません
人生のワースト5には入るであろう出来事だった
下船後の学振採択が無ければ、
業界を去っていたと思う
これはマジで
これ以降、航海が楽しいとは思うまいと決意した
(沖ノ鳥島航海ですぐに翻意したけど)
あ、この航海はイマイさんも一緒だった
詳しく知りたい人は聞いてみるといいかもね
地獄の淡青なども引き金になり、
「研究はもういい」
「東京で学振もらいながら院生をして裏で就活をする」
という思いが大きくなって、
ついに本格的に移籍を決意
もちろん、
「研究が面白くなったらそのまま続ける」
という気持ちもあった
で、
両先生に報告
紆余曲折
皆さんには「ケンカ別れ」だと言われるが決してそんなことはない
ボクは後ろ髪をひかれる思いながら前向きに出ていったし、
先生も残るも出るも君次第という態度だった(と思っている)
まあまあとにかく、
出て行くのを決めたわけです
M2の秋には若手会の主催もしましたね
あれもほとんど記憶ないです
楽しかった
本当に
ただそれだけ
そうだ、
この時にはMLに案内を配布しただけで、
研究室の人には特に参加要請をしなかったんだけど、
そうしたら上の人々がジャマするまいと遠慮してしまったらしく、
これについては失敗だった
皆に出てほしかったのに
で、
肝心の研究だけども、
修士の間はロクにしてなかった
成層圏アーカイブを測定しただけ
修論もそれだけ
あとは、
分析法論文書きとか、
COや硝酸の17Oとか、
チュン教育航海とか、
地獄淡青とか、
なんだか色々と雑多にやって、
何もまとまらないまま
勉強も全然しなかった
これは非常にもったいなかった
後悔
読み直すと凹みますね
ちゃんと書けないのは、
当時の自分を直視したくないからでしょう
あぁ・・・
次はORI編を、できれば一回でまとめたい
11時から安田講堂で、
これが仕事納め、という総長のありがたく長い話
席ではみんながワンセグでWBCを見てる感じ
オケはピット内でダラダラしてた
12:30に終わって、
農学食堂でご飯をかきこんで、
13:00から研究科長賞授与式
あ、このたび、
農学生命科学研究科の研究科長賞をいただきました
やったね
さらに13:30から水圏生物科学専攻の授与式
ここでついに学位記をもらう
全体写真後、懇親会
最後にカワムラさんからありがたいお言葉をちょうだいする
はい、よりマジメな態度を見せていきます
海洋研に戻って、
ウエマツさんにあいさつに言ったらイワモト両親もいて、一杯
4合瓶が一瞬で空いた、さすが
夜はいくちゃんとイワモトと三人で「やまもと」
すっかり顔なじみになったのに、
もうお別れかと思うと残念
さらに残念なことに、月曜はレバ刺しがないとのこと
それでも三人でダラダラ話して帰宅
トサカ部分がかゆかったので、
家に戻ってヨメにお願いして丸刈り
すっきりして就寝
さぁいよいよ社会人
なのだが、
年度末の報告書も書かねばならないのだ・・・・
キクチさんがノムさんと!!??
おめでとう!!
Tweet
これが仕事納め、という総長のありがたく長い話
席ではみんながワンセグでWBCを見てる感じ
オケはピット内でダラダラしてた
12:30に終わって、
農学食堂でご飯をかきこんで、
13:00から研究科長賞授与式
あ、このたび、
農学生命科学研究科の研究科長賞をいただきました
やったね
さらに13:30から水圏生物科学専攻の授与式
ここでついに学位記をもらう
全体写真後、懇親会
最後にカワムラさんからありがたいお言葉をちょうだいする
はい、よりマジメな態度を見せていきます
海洋研に戻って、
ウエマツさんにあいさつに言ったらイワモト両親もいて、一杯
4合瓶が一瞬で空いた、さすが
夜はいくちゃんとイワモトと三人で「やまもと」
すっかり顔なじみになったのに、
もうお別れかと思うと残念
さらに残念なことに、月曜はレバ刺しがないとのこと
それでも三人でダラダラ話して帰宅
トサカ部分がかゆかったので、
家に戻ってヨメにお願いして丸刈り
すっきりして就寝
さぁいよいよ社会人
なのだが、
年度末の報告書も書かねばならないのだ・・・・
キクチさんがノムさんと!!??
おめでとう!!
昨年、非常に楽しむことができたのですが、
今年はさすがに忙しくてムリだと思い、
ボクはエントリーしなかったんですが、
かわりに、
と言ってはなんですが、
うちの義妹が出場しました
線の細い娘なので心配していたのですが、
見事、
完走したようです!!
いやー、めでたい!!
Tweet
今年はさすがに忙しくてムリだと思い、
ボクはエントリーしなかったんですが、
かわりに、
と言ってはなんですが、
うちの義妹が出場しました
線の細い娘なので心配していたのですが、
見事、
完走したようです!!
いやー、めでたい!!
間が空いてしまいましたが、
引き続きお楽しみくださいませ
そういえば、
なんで修士課程に進んだかははっきり思い出せない
たぶん、そういうものなんだろうと思っていたんでしょうね
それか、
「勉強の場では自分の才能は発揮されていない」
「研究の場であればきっと才能は花開く」
という無根拠に高揚した自意識によるものでしょう
研究室として行かねばならぬ航海が年末にあり、
乗り手を募集していたので、
部活も終わり時間がたんまりあるボクは、
興味本位(+アレ目当て)で手を挙げた
で、
いきなり年末の航海に乗せても仕事ができないから、
という理由で、
なぜか10月の航海にも乗ることになった
納得はいかなかったがしょうがない
この時の航海は「かいよう」に「NSS」を積んで、
海底を見ながら相模湾だか駿河湾だかの堆積物を採ることが目的、
だったような気がするが、なんせ初めてだったのでよくわかんない
ツノさん、カメさんと同乗
北海道から出て、
蒲郡ビジネスホテルという、
kawagucci史上いまだ破られぬ、
不滅の金字塔的ホテル(悪い意味で)に前泊し、翌朝に通船で乗船
台風がきて三河湾から出られず、
ほとんど揺れない船の中でひたすらワンピースを読み漁った
(この時に初めて読んだ、25巻ぐらいまで)
この時はアシさんなどが同乗していた
船が動かないおかげで試料はほとんどなかったが、
堆積物を絞って比色分析をしたような気がする
(廃液を無限希釈しようとして顔にかかったことを覚えているから)
年末の望星丸航海でも同様の作業をしたが、
その時も台風が直撃したのでほとんど試料がなく、
イケハラケンさんに「お前はもう乗るな」と通告された
かいよう航海の最終日に午前三時までかかって片づけをして、
あれはたぶんJAMSTECだったと思うが、
着陸したその足で本郷へ向かい、
その後ふかーいお付き合いになる地球化学若手会に参加
若さと疲れで、
ただひたすら飲んで暴れた記憶しかない
実際にそれしかしていなかったのだろうけど・・・
今や昵懇のコバ氏、アベッチ、コウタロウなどと出会ったのもこの時が最初
ある日、先生から電話があり、
「箱根である学会に行く気はあるか?」
と言われた
関西人かつ箱根駅伝好きなボクにとって箱根は憧れの地なわけで、
もちろん即答で「行きます」と回答した
しかし、
これは聞き間違い(ボクは先生の言い間違いだったと思っているが)で、
実は、
箱根ではなく伊東だった
「「伊東に行くならハトヤ」の伊東だよ」と慰められても、
関西人のボクにその意味がわかるはずもなく、
落胆したまま伊東で開かれた同位体比部会に参加した
そんな形で参加したわけだが、
今振り返ると色々と思い出深いものになった
発表こそ難しくてわからなかったが、
「この会は温泉の浴衣が正装だ」
という発表を聞いて、
「学会ってのは町の寄り合いみたいなもんだ」
という誤った(ある意味正しい)認識を得ることができた
また、
先生が発表のときに、
「この装置はあそこに座ってるうちのkawagucciが作った」
と名指ししてきて、ドキっとしたと同時に、
それまでなんだか居場所のなかった会に参加できた気分になった
最後の発表から晩ご飯までのわずかな時間に飛び込むようにお風呂に入ったが、
ツノ先生と親しいオジサンがすでに脱衣場にいたことに驚いた
(その後サノさんの温泉好きを知ることになる)
懇親会の後は“コウタロウが率いられている”女性軍団とともに行動し、
その女性軍団が長老らしき爺さんをたぶらかしたのに乗じて、
夜の街でスイーツをごっつぁんになった
この爺さんはオジマミノルという名前だった
(やばすぎる・・・)
ICPMSを愛するなんだか勢いのある関西人のオジサンとも話し、
この研究室に行ってみたいと思い、
後に実際に東工大の研究室見学までさせてもらった
この時にコウタロウの家に押しかけで泊まったんだったと思う
(少しの勇気を出してヒラタ研に移籍していれば・・・)
さて、
4年生の時はゼミをこなすものイッパイイッパイだったが、
ボクの同期の二人が色々とやらかしてくれたおかげで、
なんとなく、相対的に逃げ切れていた気がする
同期の一人であるハムは、
コンビニ夜勤明けでゼミ発表をして貧血で倒れかかるとか、
後に「ハムの刑」と言われる「先生の部屋に10時-17時の軟禁」とか、
「ここにいる皆の10分の浪費だ!」とか、
そういう感じだった
ハムといえば、
10mLぐらいの吸着剤カラムを冷却し1Lの空気を濃集し、
カラムを密閉した後に冷媒を外すという、
ハム爆弾でステンレス蛇腹を爆発寸前まで追い込んだこともあった
アレを見たから、ナリタ君には冷媒を扱う真空系の作業はさせなかった
で、
もう一人の同期、チバチャンは、
先生が生物関係が苦手だと知り、
自分の研究とはほとんど関係のなさそうな生物関係の論文を紹介したりしていた
利口だ
しかしそんなチバチャンは卒論提出間際のゼミで、
本人的には「いわれの無い罵倒」を受けたと感じ、
周りの人的には「逆ギレ」と受け取られるような形で、
研究室を去ってしまった
そんな「チバチャンショック」の中、
なんとなくボクの卒論は仕上がったのであった
(卒論については記憶がないなぁ)
なかなか時間が前に進まない・・・
次回以降は昔の日記に書いてあることがほとんどなので、
さらっと流していくと思います
「修士修了編」かな
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引き続きお楽しみくださいませ
そういえば、
なんで修士課程に進んだかははっきり思い出せない
たぶん、そういうものなんだろうと思っていたんでしょうね
それか、
「勉強の場では自分の才能は発揮されていない」
「研究の場であればきっと才能は花開く」
という無根拠に高揚した自意識によるものでしょう
研究室として行かねばならぬ航海が年末にあり、
乗り手を募集していたので、
部活も終わり時間がたんまりあるボクは、
興味本位(+アレ目当て)で手を挙げた
で、
いきなり年末の航海に乗せても仕事ができないから、
という理由で、
なぜか10月の航海にも乗ることになった
納得はいかなかったがしょうがない
この時の航海は「かいよう」に「NSS」を積んで、
海底を見ながら相模湾だか駿河湾だかの堆積物を採ることが目的、
だったような気がするが、なんせ初めてだったのでよくわかんない
ツノさん、カメさんと同乗
北海道から出て、
蒲郡ビジネスホテルという、
kawagucci史上いまだ破られぬ、
不滅の金字塔的ホテル(悪い意味で)に前泊し、翌朝に通船で乗船
台風がきて三河湾から出られず、
ほとんど揺れない船の中でひたすらワンピースを読み漁った
(この時に初めて読んだ、25巻ぐらいまで)
この時はアシさんなどが同乗していた
船が動かないおかげで試料はほとんどなかったが、
堆積物を絞って比色分析をしたような気がする
(廃液を無限希釈しようとして顔にかかったことを覚えているから)
年末の望星丸航海でも同様の作業をしたが、
その時も台風が直撃したのでほとんど試料がなく、
イケハラケンさんに「お前はもう乗るな」と通告された
かいよう航海の最終日に午前三時までかかって片づけをして、
あれはたぶんJAMSTECだったと思うが、
着陸したその足で本郷へ向かい、
その後ふかーいお付き合いになる地球化学若手会に参加
若さと疲れで、
ただひたすら飲んで暴れた記憶しかない
実際にそれしかしていなかったのだろうけど・・・
今や昵懇のコバ氏、アベッチ、コウタロウなどと出会ったのもこの時が最初
ある日、先生から電話があり、
「箱根である学会に行く気はあるか?」
と言われた
関西人かつ箱根駅伝好きなボクにとって箱根は憧れの地なわけで、
もちろん即答で「行きます」と回答した
しかし、
これは聞き間違い(ボクは先生の言い間違いだったと思っているが)で、
実は、
箱根ではなく伊東だった
「「伊東に行くならハトヤ」の伊東だよ」と慰められても、
関西人のボクにその意味がわかるはずもなく、
落胆したまま伊東で開かれた同位体比部会に参加した
そんな形で参加したわけだが、
今振り返ると色々と思い出深いものになった
発表こそ難しくてわからなかったが、
「この会は温泉の浴衣が正装だ」
という発表を聞いて、
「学会ってのは町の寄り合いみたいなもんだ」
という誤った(ある意味正しい)認識を得ることができた
また、
先生が発表のときに、
「この装置はあそこに座ってるうちのkawagucciが作った」
と名指ししてきて、ドキっとしたと同時に、
それまでなんだか居場所のなかった会に参加できた気分になった
最後の発表から晩ご飯までのわずかな時間に飛び込むようにお風呂に入ったが、
ツノ先生と親しいオジサンがすでに脱衣場にいたことに驚いた
(その後サノさんの温泉好きを知ることになる)
懇親会の後は“コウタロウが率いられている”女性軍団とともに行動し、
その女性軍団が長老らしき爺さんをたぶらかしたのに乗じて、
夜の街でスイーツをごっつぁんになった
この爺さんはオジマミノルという名前だった
(やばすぎる・・・)
ICPMSを愛するなんだか勢いのある関西人のオジサンとも話し、
この研究室に行ってみたいと思い、
後に実際に東工大の研究室見学までさせてもらった
この時にコウタロウの家に押しかけで泊まったんだったと思う
(少しの勇気を出してヒラタ研に移籍していれば・・・)
さて、
4年生の時はゼミをこなすものイッパイイッパイだったが、
ボクの同期の二人が色々とやらかしてくれたおかげで、
なんとなく、相対的に逃げ切れていた気がする
同期の一人であるハムは、
コンビニ夜勤明けでゼミ発表をして貧血で倒れかかるとか、
後に「ハムの刑」と言われる「先生の部屋に10時-17時の軟禁」とか、
「ここにいる皆の10分の浪費だ!」とか、
そういう感じだった
ハムといえば、
10mLぐらいの吸着剤カラムを冷却し1Lの空気を濃集し、
カラムを密閉した後に冷媒を外すという、
ハム爆弾でステンレス蛇腹を爆発寸前まで追い込んだこともあった
アレを見たから、ナリタ君には冷媒を扱う真空系の作業はさせなかった
で、
もう一人の同期、チバチャンは、
先生が生物関係が苦手だと知り、
自分の研究とはほとんど関係のなさそうな生物関係の論文を紹介したりしていた
利口だ
しかしそんなチバチャンは卒論提出間際のゼミで、
本人的には「いわれの無い罵倒」を受けたと感じ、
周りの人的には「逆ギレ」と受け取られるような形で、
研究室を去ってしまった
そんな「チバチャンショック」の中、
なんとなくボクの卒論は仕上がったのであった
(卒論については記憶がないなぁ)
なかなか時間が前に進まない・・・
次回以降は昔の日記に書いてあることがほとんどなので、
さらっと流していくと思います
「修士修了編」かな