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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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奥方が実子の教育で「失敗」したと感じている(ネット上での噂では実子との関係が良くない)ことが引き金になって,幼稚園や小学校での管理教育に執着するようになり,夫はそれに従うしかなくなった,という状況なのだとしたら,これまで見えなかった動機としては有力なんだけども。

奥方が滅入っているところに,園の教育運営方針について示唆を与える(宗教団体などの)存在があらわれたら,それに依存してしまうことは大いに考えられる。むしろ夫にせよ妻にせよ,本人が独創的にああいう教育をしようという風には組み上げられないと思う。

幼児教育だけではなく成人するまでドップリと面倒を見て理想の大人に育て上げたいと。実子での「失敗」で負った心の傷をそれでもって癒やすと。そのためには学校を設立する必要があると。という動機がまずあった上で,でもお金がないので・・・ということであれば,動機と行動が繋がる気がする。

政治家はカネをほしがっているように考えられがちだが,それは二次的な要素で,一次的にほしいのは「票」で,それを「買う」ためにカネが必要だということ。だから直接「票」を献上できる団体は影響力あるよね,きっと。

となると第三極がないとおかしいんだよね。「票がほしい政治家」「学校がほしい人々」に加えて「学校が出来ることで政治家に票(カネ)を与えて何らかの利益がえられる人々」が。もちろん不可分に混じり合っているのだろうけども,一体として捉えられるモノではないと思うので。

学校の新設となると,建設に加えて噂のゴミ撤去もあるわけで,建設関係の企業が利益をえるわなぁ。そこに融資する金融機関も助かるわなぁ。これはいわゆる建設業界や金融業界に便宜をはかるという,政治家の一般的なやり方で,見返りは政治家への献金だわな。そうなると3者が輪になって繋がる気がする。

建設関係は「建てたら利益回収でオシマイ」だから学校の運営が怪しかろうが関係無い。金融機関は回収しそこねる可能性もあるわけだが,そこは政治的なゴニョゴニョで補償されるという目算なのだろうか。

学校で育てようとしている人物像は,裏で支援している宗教(的)団体の思想を反映したものだろうけども,初等教育みたいな時間スケールの長いものだけで全員が一致団結するとは思えない。もっと短期的なこと(つまり票やカネ)が関わっていないと,機能しないでしょうよ。

ということで。

学校:個人的なアレ+所属宗教団体としての活動
政治家:宗教団体が票田+建設金融からの献金
建設金融:学校新設で利益
宗教団体:理想の実現のための教育+政治への介入

という4者が絡み合っているのかな,と。
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主にネットで(?)親しくしていただいている朱野帰子さんから新作をいただいたので,
お礼として書評を。

ちなみに,ボクの読書はもっぱらノンフィクションで,
小説は人生で10編も読んでないので,そういう人が書く書評と言うことで,ご勘弁を。




今回は本当にまったくの私事です。

7月18日(水)に移動をして,
横浜での四人核家族(父母と子二人)がはじまりました。
予想していたよりも大変です。

・上の子の「赤ちゃん返り」
噂には聞いていましたが,
これが大変です。
下の子は授乳が必須なのですが,
母が授乳をはじめると,上の子がぐずり,母にすがります。
父,無力。
上の子は機嫌が良い時は散歩好きで人見知りもないので,
外に連れ出して気晴らしをさせつつ時間を稼げるのですが,
朝晩と昼寝あたりの,寝付く前,寝起き直後は,
やはり母親の存在が必要で,
このタイミングと授乳が重なると地獄絵図になります。

・下の子の風邪
「半年までは母親からの免疫が有効」と言いますが,
母親も風邪にかかっているようなので,
免疫も意味をなさず,風邪にやられています。
鼻がつまってオッパイを飲むのも一苦労で,
眠りも浅く咳き込んで起きてしまいます。
これに付き合う母親も当然のように眠れないわけで,
母子ともに不健康な状態が続いています。
病院に行ったところ,まだ風邪か重大な疾病か判断出来ないとのことで,
とりあえずは乳児用の抗生物質などを飲ませて過ごしています。
ちなみに元凶となった上の子の風邪は治り,父親もほぼ完治しました。

・暑い
暑い上に家のクーラーが働かないもので,
扇風機と窓のすだれだけで涼をとっています。
とはいえ,我が家は一軒家なもんで,
午前と午後で過ごす部屋を変えれば,
日の当たらない風の入る部屋で過ごすことができ,
今のところ,何とか暮らすことは出来ています。
今後,無風の酷暑日があったりすると,怖いです。
クーラーはフィルターやリモコンを代えたものの機能せず,
やはり買い換えしかないか,と思っているところです。
大家さんに相談しないと。

・大体の生活スタイル
朝食(7時)と夕食(17時)には家にいるようにしております。
その間の時間の使い方はパターン化しつつあるところ。
朝食後に上の子と連れだって出勤し,
子供をあやしながら実験室で同僚と口頭で議論など。
涼しいし,元々の雑音も大きいので,子供が少し騒いでも大丈夫。
今のところ,部屋に入るとすぐに寝てしまうので大きな問題はなし。
その隙にちょちょっと仕事も。
昼前に会社を出て,買い物をして帰宅し,昼食を家で取る。
その後は再出勤しても良し,家で子供の相手をしても良し。
これ以外だと,
朝食前と妻子就寝後が家での仕事可能時間なのだけど,
元々家で仕事をする習慣がないので,メイル仕事のみで終わっている。
実験などのまとまった時間のいることは出来ないけども,
意外とどうにか仕事を進められるんじゃないか,という気はしてきた。
(それぐらい従前から実験をしていなかったということですが)
航海などの長期出張は実家に帰ってしまえば良いので,
意外と問題は多く無い。(移動は大変だし一緒にいられないけども)
むしろ学会とかでの2泊程度の出張が難儀かもしれん。
そこに出張を重ねて長期出張期間にしてしまい,
実家に帰すのが具合良いかも。

とにかく,
母親の負担が,
子1人だった時よりも相当に大きいようなので,
父親としては,子供のケアというよりも,
母親の負担軽減のために動くわけです。

このネタは全然まとまっていないのでグダグダと書いていく。


いきなりだけども,
ボクは「自分は天才だ」と思っている。
小学校とかそれぐらいの頃から,なんとなくそういう感じがしていて,
結構本気でそう思って生きてきた。(実は今でも思ってる)
最近になって,そういう評価を受けることがままあるけど,
学生の頃にそんな風に言われたことは本当になかった。
自己評価と周囲の評価のギャップが苦しかった。

小学校の時のテストの点数なんかは悪くなかった(と思う)けど,
うちの小学校には灘中など難関私立を目指す「受験組」がいて,
学校のテストなどは満点で当たり前的な部分もあり,
ボクが飛び抜けて勉強ができると認知される環境ではなかった。
それでも当時から,
「ボクの能力なら,普通に灘とか,入れるんじゃ無いかな」
みたいなことを思っていたことは覚えている。
その思いが転じて,
「高い金を出して塾で勉強して灘に行ってようが,
 公立に行ってようが,
 最終的に東大に行けば変わらんやろ」
と考えるようになっていた。

進学した地元の公立中学・高校では,
学校の勉強,特に定期試験にマジメに取り組まなかった。
中学の時には実兄が地元の公立高校から京大に現役合格して,
「今の学校のテストの点数なんてどうでもいい」
「最終的に東大に入れば中高の成績など関係ない」
という思いはドンドン強まっていた気がする。
さらに実兄がボクのことを「アイツは天才だ」と周囲に言っていて,
他人を介してボクがそれを聞いていたことも,
自分の天才を信じる根拠になっていたかもしれない。

そんなこんなで,
常に勉強に対しては斜に構え続け,
北海道大学理学部という,
当初の「東大余裕やろ」からはだいぶ劣るが,
世の中的には「まぁまぁ立派」という受験成果を出すに至った。

いざ北大に入学して周りを見渡しても,
なんだか皆さん頑張って勉強して北大に入ったようで,
「受験時にポテンシャルは全部絞り出しました」みたいな出がらしに見え,
「全力で取り組んだわけじゃないもんね」という言い訳を残したボクの中の,
「自分はやはり天才なんじゃないか」という思いが瓦解することはなかった。
むしろ大学に入っても勉強をせず成績もひどいものだったボクのことを,
同期の連中は劣等生だと思っていたわけでしょうけども。
この頃の思いはというと,
「大学の試験の成績じゃねえんだよ。
 最終的に研究で成果を出せるかどうかなんだよ。」
と,中高の時と同じ論法で,
自分の頑張りどころを先延ばしにして,
自分の天才ポテンシャルを発揮する機会も先延ばしにしていた。

4年生になって研究室に入って指導教員と研究の話をする中で,
「この人は自分よりもスゴイかもしれん」
と思った。
「自分よりもスゴイ」と思う人に出会ったのは,
20年の人生で初めてだった。
「この人に認められたい」と思った。

卒論から修論に至る研究をする中で,
早くに論文業績が出て,学振DCにも採択されたりして,
世の中の人々に「すごいね」と評価されるようになった。
でも,
これまでの人生で「自分の才能を評価されたい」と思ってきたのに,
まったく納得がいかなかった。
むしろ悔しかった。
この頃の業績なんてのは所詮,指導教員の指導の範疇であって,
結局はこれまで目の敵にしていた,
「塾に行って難関私立に行って東大を目指す」ような環境にいるだけで,
自分自身が評価されているとは到底思えなかった。
そして何より,指導教員の範囲で研究をしているという時点で,
指導教員がボクのことを評価するような状況では無かった。

なんだかんだで博士では別の研究室に移って研究をして,
その頃になると「彼は優秀」という評価の方が一般的になり,
今までの劣等生扱いとは違ったのだけれども,
それでもその「優秀」という評価は,
指導教員のおかげで得た「学振DC」という看板に対するもので,
やはり自分に対する評価では無いと思っていた。
身近な人では唯一(?),研究室の准教授は,
ものすごく客観的にいろいろなことを話してくれて,
ボクに対する直接的な評価を述べてくれたことは無いけど,
「君はまあまあだけど,まだまだだよ」というようなことを示唆してくれた。
ボクの「この人に認めてもらいたいリスト」に,この准教授が加わった。

そんな頃に業界でも誰もが「スーパー」と認める研究者に出会った。
話すと確かに噂通り(個人的には噂以上だと思っている)で,
結局この人に雇ってもらい今に至るまで一緒に研究をしていて,
もちろんボクの「この人に認めてもらいたいリスト」に加わっている。


グダグダと考えてきて,
ようやくわかってきたことだけど,
ボクが求めているのは,
『「自分がスゴイと思っている人」から「対等な存在と思われること」』
なんだろう。

そういう視点で考えると,
今までは,学生だったり雇用されていたり,
最初っからそんなボクの欲求は満たされるはずがない状況だった。
そしてその「構造的に対等になりえない状況」に甘えて,
「認められないこと」の責任から自分自身を逃避させて,
「自分は天才」という殻に閉じこもって満足していたのだろう。

でも,これからは違う。
いや,今までも違ったのだけど,
もう本当に生身をさらけ出して勝負しなければならない。
ポテンシャルではなく,目に見える実力で,
「この人に認めてもらいたいリスト」をコンプリートしなければならない。
そう思う一方で,
それすらもやはり無理なんじゃないか,と思う部分もある。


こういうのっていわゆる「承認欲求」の一種で,
「社会的・心理的な父・兄」というモノとの闘争なんだろう。
幼少の頃の家族構成がこういう根源的な欲求に与える影響ってのが,
やはり大きいのかな,とも思う。
ボクは(実父はそうでもないのに)実兄のことをずっと尊敬していて,
今でも超えられない壁だと思っている部分がある。

そう考えると,
研究生活での「この人に認めてもらいたいリスト」の3人は,
ボクにとって父的ではなく,兄的な存在だ。
「三つ子の魂百まで」じゃないけど,
やはり家庭環境というのは,そういうものなのかもしれん。


最後に後味悪く終わらせるのは気が引けるけども,
橋下さんってのは「父との戦い」をしているのだと思う。
ボクは彼の考え方に同意する部分が多いのだけど,
やはり何かが違うという引っかかりも感じていて,
それはボクの対象が「兄」であり,彼の闘争対象が「父」で,
ボクは「対等」を求めていて,彼は「超越」を目指していて,
そういう違いに起因するのかもしれない。

ヒトは成長して「父」にはなれるけど「兄」には絶対になれない。
一方で,生物学的な「父」を生物学的に超越することは絶対にできない。
だから父や兄との闘争は死ぬまで続ことになる。
闘争をやめない限りは。

それは敗北を受け入れるということではなく,
(そもそもこの闘争は子・弟による一方的な闘争だから)
現状を承認して飲み込むということになるのだろう。
一般に生物学的な「父兄の死」や「子の生誕」は大きいだろうが,
ヒトが社会生活を営むイキモノである以上,
社会的なキッカケで「父兄なるものとの和解」を達成することは可能だろう。
要するに,
「父兄からの直接的な他者承認」ではなく,
「自らの中にある父兄なる幻想の自己承認」こそが,
トラウマ的に求めているものなのだろう,ということだ。

いまさらながら,
福澤諭吉「学問のすすめ」を読んでいます。
これまでの人生で一度も読んだことがないってのが不思議ですが,
まぁボクが読書をはじめたのは25歳からなので,仕方ない。

しかしすごい。
本当にすごい。
諭吉すごい。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
という超有名なフレーズではじまる初編ですが,
これについては,
「でも身分とか貧富とかは生まれつきやろ,,,」
みたいな思いを抱いていました。
しかしそんな程度の陳腐な反論は,
福澤諭吉大先生にはもちろんお見通しで,
それに対する回答もすぐ後で述べています。


初編では次のようなことも語られています。(意訳)
「人はうまれつき自由なものだけども,
 程度を知らないとただのワガママ放蕩に陥ってしまう。
 重要なことは,
 天の道理に基づき,人の情に従い,他人の妨げをせず,
 自分一人の自由を達成することだ」
悪い例もあげています。
「自分の金で夜な夜な遊ぶのは自由だ。
 だけれども,
 そうした暮らしを皆が真似しだすと世の風俗が乱れ,
 結果的にマジメに暮らしたい他人の邪魔をすることになる」


さらに興味深いのが次の指摘。
「学の無い人間の一番ダメなところは,恥を知らないこと。
 自分に学が無いから貧窮に陥っているのに,
 それを棚にあげて富める人を怨み,
 自分の都合の良いときは法に頼り,
 自分の利益のためには法を平気で破る。」
これで終わらず次に続くのがこれ。
「こうした愚民には道理が通じない。
 理屈抜きで厳しくしなければ愚民を正すことはできない。
 「愚民の上に苛き政府あり」というけども,
 それは政府が厳しいから愚民になるのではなく,
 愚民の態度が悪いから,自分たちの行いの悪さで,
 政府を厳しくさせてるんだよね。」


諭吉先生,今の日本を見て語っているようです。
その通りです。
今の日本はあなたの危惧した通りの状況です。

諭吉先生は本書を通じて,
「勉強して偉い学者さんになりなさい」と言っているわけではないのです。
そうではない。

============
人間一人一人が社会を構築する一員なのだから,
畜生のように本能のままに言動するのではなく,
勉学することで世の道理,人の情を知って,
一人一人が良い暮らしをしようじゃないか。
さらに一人一人が学問をして道理と情を身につければ,
それが公序良俗に通じ,皆が幸せに暮らしていけるよね。
============

そういうことを言っているのです。
すばらしい,すばらしいよ,諭吉さん。

(・∀・)ガリレオ!
( ゚Д゚)ガリレヨー!
(・∀・)ガリレオ!
( ゚Д゚)ガリレヨー!
( ゚Д゚)ガリレオフィガロー!
(・∀・)マグニフィコー
オ━━(・∀・)━オ━( ・∀)━オ━( ・)━オ━(  )━━(Д゚ )━━( ゚Д゚)━━!!
(;´Д`)アイムジャスタプーアボーイノーバディラブズミー
(;´Д`)ヒージャスタプーアボーイフロムポーファムリースペーリンヒズライフロムヒズウォッツコシティ
( ゚Д゚)イジカムイジゴーウィルユレットミゴ
(・A・)ビスミッラッ!
(;´Д`)ノー!
( ゚Д゚)ウィウィルナッレチュゴ
(・∀・)レヒゴー!
(・A・)ビスミッラッ!
( ゚Д゚)ウィウィルナッレチュゴ
(・∀・)レヒゴー!
(・A・)ビスミッラッ!
( ゚Д゚)ウィウィルナッレチュゴ
(・∀・)レヒゴー!
( ゚Д゚)ウィウィルナッレチュゴ
(・∀・)レミゴー!
(;´Д`)ネバネバネバネバレミゴー!
オ━━(・∀・)━オ━( ・∀)━オ━( ・)━オ━(  )━━(Д゚ )━━( ゚Д゚)━━!!
(・A・)ノー!(`Д´)ノー!( ゚Д゚)ノー!(´ゝ`)ノー!(#゚Д゚)ノー!(;゚A゚)ノー!(・A・)ノー!
(・∀・)ママミヤママミヤ
( ゚Д゚)ママミヤレミゴー
(・∀・)ビーヤーズブハズアデボプッタサイドフォーミー
(;´Д`)フォーミー!
(;´Д`)フォーミー!
 
ボクがこの世に,この類いの才能を持って生まれた意味を考えると,ボクのやるべきことは,今やっているようなことではないと,ほぼ確信している。それでも動かないのは,ボクの怠慢だ。そう感じることが、最近多くなってきている。

それはどういうことかと言うと「科学者が科学の殻から飛び出して知識人となる」ということを,多くの科学者が自発的に実践せねばならない,ということ。今の科学者(研究者)に「知識人」と呼べるような人はほとんどいない。ものすごく我欲の強い,自己中心的な人ばかり。そうじゃないと研究者を続けられないという側面もあるが,はっきり言って,滅びるべき悪。

ボクの周りにいる「優秀な研究者」の中に「知識人」「賢者」と言えるような人はほとんどいない。「優秀な研究者」の多くは「科学的議論」には強くても「人間」「社会」というものに対する洞察や考察があまりにも浅はか。高学歴エリートコースを歩んできたという自覚が無いから,社会の一般人へのリーチが欠けているのも一因だと思う。政治や社会について語る時,それは筋は通ってはいるものの,本当の意味で「社会を良くしよう」というよりは,「自分が,自分の研究分野が発展するために」という出発点からの思考である場合が圧倒的に多い。

研究者は,研究者である前に社会人であることを認識すべきである。その上で,社会人でありながら一般人にはならないで、あくまで知識層である自覚も持ち続けなければならない。その匙加減は難しいが,漱石や諭吉を読むとそのアンバイが絶妙で,これが知識層のあるべき姿だ,というのを感じさせる。ボク自身が到達すべき地点を,今はそこに見据えている。

これは最近よく主張していることだけど,研究者というのは知識層で,そのことが認められているが故に,多額の税金と科学業界の自治が委ねられているのである。そこを無しにして,科学業界の発展のため,自分たちの利益のために振る舞うようなことは,あってはならない。「科学は広く世界人類に貢献するものである。国際競争は科学の進歩を促す。だから金をよこせ」は,一見すると筋が通っているように思えるが,科学の重要性を主張するのが科学者自身のみであるなら,そんな主張は通らない。たとえば相撲協会が「相撲は伝統文化で庶民娯楽だから協会へ投入する税金をもっと増やせ」なんて言ったら,消し飛ばされてしまうだろう。


蟻とキリギリスの話は,なにも「キリギリスは短絡的なアホだ」という意味だけではないと思う。物事のは常に両面があり,どちらを選択するか,選択させられるかは,無数の因子によって決まる。が,そういう時に,まず経済・カネの理論で考えるのは危険。それは経済は本質的に常に相対的なものだから。

絶対的な事象というものがある。イリイチが「ヴァナキュラー」と呼んだそれらは,「何かと交換することができない」もの。たとえば出産。たとえば健康。地震など天災,地球環境もこれに含まれるのかもしれない。これら代替不可能性を帯びたものと,代替によって定義される経済とを,同じ天秤に乗せて議論すべきではないし,することはできない。

経済に侵される前の世界では,それは当然のことだった。売春や同性愛,不貞行為がほとんどの宗教で強く禁じられているのは,これらの行為に差し出されるものが,代替不可能な,生身であるから。それは二度と戻ってこないものを差し出す,本質的な意味での消費行為であるから。

そして今,問題とされている人間活動による地球環境の変化や化石・地質資源の発掘・利用は,科学理論的には代替・再生可能であるかもしれないが,金銭的価値とは代替不可能なものである。それは過去の生命や地球活動の遺産であり,過去から今に至る時間を我々は再現することができないから。

原子力の利用はむしろこれの対極に位置し「本来的には存在し得ないもの」を作り出し,利用している。人間社会がヴァナキュラーを出発点にし,そこから軸足を動かすことができない以上,原子力は「勘定に入れることができないもの」であり,それを勘定に入れると,その歪みはヴァナキュラーに跳ね返る。 

この
「本来存在し得ないもの」を「存在させる」という意味においては,原子力は金融と同じである。ほとんどの宗教で「利息」は禁じられている。それは「存在し得ないもの存在させる」ことの暴走によって,ヴァナキュラーから始まり交換・代替によって保たれている世界の調和が崩壊させられるから。


と,いうようなことを考えてみたり。今の科学はあまりにも細分化し過ぎていて,今の科学の先端を行こうとすると,あまりに多くのことから目をそらさなければならない。そんな行為が,本当の意味で,人類の役に立つとは,到底思えないのです。

だから,ボクがすべきだと感じることは,高度に細分化された現在の科学業界で認められる研究をして,業界内で一定の発言力を身につけつつ,科学業界の内側から,上に述べたような,本質的な意味での「科学と社会のあり方」を提言していくこと。これは精神的にも能力的にも,大変な困難な道だと感じていますが,それでもボクは,そうあるべきことを目指すのを諦めてはならないとも思っています。


補足1 ヴァナキュラー的な考え方の実践のためのスポーツ

科学やってると「自分(の意見)の正しさを,論理的かつ科学的に正しい方法で主張する」ことに侵されていて,生身の人間という生物としての尊厳を感じ合ってないよね。それができる一つが,スポーツなんだよ。

サッカーでもバスケでも同じこと。「ここまでしか飛べない」「このスピードでしか走れない」っていう,生身の体の(しかも個々人によって差がある)絶対的な限界がある。それを互いに理解し合って,考慮すること。考慮した上で,自分の振る舞いを決めること。技術や個人戦術の拙いチームメイトであることを織り込み済みにして,上級者がチームをコントロールし,チームとしての最大値を目指すところが,生身世界に上手に理屈を導入した社会的な営みであるし,人間らしい部分。


補足2
ボクは決して先端科学を否定するモノではないし,今すぐ,そして永久にやめろと言っているわけじゃない。ただ,科学者同士での競争のために,研究のスピードを上げることに注力し過ぎているのが現状ではないか。もっとゆっくりやっても,明らかにすべきことは変わらない。過度な競争のために,人的・経済的・地球的な資源を最悪燃費で浪費する必要はない。新たな資源を発掘するような研究であっても,その実現可能性やそれにかかる様々な意味でのコストは常に勘定に入れねばならないし,そうした時に,競争原理で大量の資源を投入して急ぐ必要はどこにもない。研究者人口は,今の半分になっても良いと思っている。しかし,人類が科学をすべて放棄することは,それはそれで大変危険なことだとも思う。人間は”すでに”科学無しでは生きられないから。

うちの娘が特別かわいいとか、
目に入れても痛くないとか、
仕事なんてしないでずっと見ていたいとか、
そんな感情はぜんぜん湧きません
なんででしょうかね

大事に思って大切にしてるんだけど、
なんかそういう感じにならないんだよな
元々、動物苦手だし、
今のほぼ動物状態の7ヶ月児に対してはそんなものかもしれん

これから人間としての社会的な側面が出てきて、
どんどん人間らしくなってくると、
一緒にいて楽しいのかもしれん
それはそうなってみなければわからない

とりあえず、
家族が不自由なく食べていけるぐらいの稼ぎをするのが、
ボクにとって家族を大事にする第一の仕事だと思う

それ以上のことは、
適宜、気付いた時に対応というか、
むしろ娘の母親としてのヨメのケアですかね

 
だってさ、
そんなもん、
理論的に存在し得ないじゃない

政府側、反政府側
原発推進、反原発
理詰めで考えたとて、
どちらにも一理あるのに間違いない

だから、
第三者ってのは、
「両方の言い分に一理ありますなぁ」
としか言えない
仮に、第三者機関が、
「こっちの道に進むのが確からしかろう」
と言ったら、
逆の道を推している人達は、きっと、
「あぁ、あいつらはあっちとグルだったのか」
と言うだろうね

そもそも、
「信頼できる」ってのは、何かと考えた時、
大体の場合、
それは「看板」の力なのよね
「東大」とか「政府委員会」とか「要職を歴任」とか、
そういうやつ
つまりは、すでに「何か」の属性を強く帯びていることになる

一方で、たとえば、
「反原発だったから閑職におかれいまだ助教」
とかいう人が出てきても、
「本当に意見の相違だけで助教なの?実力がないからじゃ?」
という疑問は、たぶん証明することができず、晴れない

つまりまとめると、
実力のある第三者->純粋に第三者である場合は皆無
実力のない第三者->信頼性の部分に問題あり
であり、
実力があり真に第三者である人がいたとしても、
どちらかの判断を下した際に、
事後的に、
「やはりアイツは・・・」
と言われることは回避できず、
結局、信頼できる第三者なんてものは存在し得ないのですよ

だから、
「信頼できる第三者機関の設置を」
という発言は、
そのまま、
「私は社会のことがわからないアホです」
と読み替えることができるだろうね

また、
「信頼できる第三者機関」を作り上げて、
裏で利益誘導を謀ることこそが、
「政治手腕」というものであることも、重要な事実であろう

IAEAの日本人職員は、
外務省・経産省・東電などからの出向者がほとんどだという噂
だとすると、
「核の番人IAEA」はまったく第三者機関ではない
ってか、
「どうやったらIAEAの職員になれるかな?」って考えれば、
どう考えても、そのルートしかないよね


ヤマネと会った

震災後、初めて会ったヤマネは、
少し痩せたものの相変わらずもっさりしていてひげも汚く伸び、
はっきり言ってブサイクに拍車がかかっていた
まぁ見た目についてはこんなもんだろう

ヤマネはボクが3年の時に入ってきた1年で、
キャラ的にはさほど目立つ存在ではなかった
ゴージャス松野に似ているということでゴージャスと呼ばれ、
それなりの地位を築いていたようにも記憶している

バタフライを専門としていたことから、
それほど長い期間ではなかったが、
濃密な関係が築かれていった

ヤマネはマイルドな人当たりで誰とでも仲良くなり、
その(ブサイクな)笑顔は周囲の人を幸せにする不思議な力を持つ
一方で、東北人特有の頑固な一面もあり、
先輩に対してもノーと言える芯の強さがある
ボクに対しては舐めた態度をとることもしばしばである

その後、ヤマネは水産学部で函館に移行し、
ボクも中野の海洋研に移り、会うこともなくなっていたが、
ボクがD3になった年、
ヤマネがドクターから海洋研の大槌沿岸センターに入学した
ボクも研究室の後輩ナリタ (これも水泳部でヤマネの1つ下)の研究で、
大槌センターに春秋と訪問して観測しており、
ここでまた、ヤマネとの関係が復活した
しかもヤマネはコウチャンの下でLA-ICP-MSなどを使っていたので、
周辺の人間関係はより濃密になっていった

ヤマネは沿岸魚類の回遊・生態学を研究対象として(たぶん)、
手法として先にあげた通り先端分析化学を利用している

ヤマネ自身は大槌の北にある宮古の漁師の長男で、
ヤマネ父は、息子が業界入りする前から、水産研究の協力者として、
海洋研の教員などとも一緒に仕事をしており、
いわゆる地元の名士というようなポジションだという

つまりヤマネは、
今回の津波を目の当たりにした被災者であると同時に、
宮古・大槌の水産業を、産・学の両面から支えるという、
大変に希有な存在であるから、
復興における重要なキーパーソンなのである

そして、
誰よりも本人がそのことを強く自覚している

久々の再会でそのブサイクな笑顔を眺めながら、
本当に他愛もない話をしていたのだが、
復興の話になった途端に、目が変わり、強い口調になった
「ボクがやらないでどうするんですか」
そう言ったかどうかは忘れたけど、
そう考えていることはヒシヒシと伝わってきた
ボクは泣きそうになった


ヤマネコウダイという男がいる
ボクはヤマネを応援する
どんな支援も惜しまない

男ヤマネごっつぁん!

プロフィール
HN:
kawagucci
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性別:
非公開
自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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