自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
このネタは全然まとまっていないのでグダグダと書いていく。
いきなりだけども,
ボクは「自分は天才だ」と思っている。
小学校とかそれぐらいの頃から,なんとなくそういう感じがしていて,
結構本気でそう思って生きてきた。(実は今でも思ってる)
最近になって,そういう評価を受けることがままあるけど,
学生の頃にそんな風に言われたことは本当になかった。
自己評価と周囲の評価のギャップが苦しかった。
小学校の時のテストの点数なんかは悪くなかった(と思う)けど,
うちの小学校には灘中など難関私立を目指す「受験組」がいて,
学校のテストなどは満点で当たり前的な部分もあり,
ボクが飛び抜けて勉強ができると認知される環境ではなかった。
それでも当時から,
「ボクの能力なら,普通に灘とか,入れるんじゃ無いかな」
みたいなことを思っていたことは覚えている。
その思いが転じて,
「高い金を出して塾で勉強して灘に行ってようが,
公立に行ってようが,
最終的に東大に行けば変わらんやろ」
と考えるようになっていた。
進学した地元の公立中学・高校では,
学校の勉強,特に定期試験にマジメに取り組まなかった。
中学の時には実兄が地元の公立高校から京大に現役合格して,
「今の学校のテストの点数なんてどうでもいい」
「最終的に東大に入れば中高の成績など関係ない」
という思いはドンドン強まっていた気がする。
さらに実兄がボクのことを「アイツは天才だ」と周囲に言っていて,
他人を介してボクがそれを聞いていたことも,
自分の天才を信じる根拠になっていたかもしれない。
そんなこんなで,
常に勉強に対しては斜に構え続け,
北海道大学理学部という,
当初の「東大余裕やろ」からはだいぶ劣るが,
世の中的には「まぁまぁ立派」という受験成果を出すに至った。
いざ北大に入学して周りを見渡しても,
なんだか皆さん頑張って勉強して北大に入ったようで,
「受験時にポテンシャルは全部絞り出しました」みたいな出がらしに見え,
「全力で取り組んだわけじゃないもんね」という言い訳を残したボクの中の,
「自分はやはり天才なんじゃないか」という思いが瓦解することはなかった。
むしろ大学に入っても勉強をせず成績もひどいものだったボクのことを,
同期の連中は劣等生だと思っていたわけでしょうけども。
この頃の思いはというと,
「大学の試験の成績じゃねえんだよ。
最終的に研究で成果を出せるかどうかなんだよ。」
と,中高の時と同じ論法で,
自分の頑張りどころを先延ばしにして,
自分の天才ポテンシャルを発揮する機会も先延ばしにしていた。
4年生になって研究室に入って指導教員と研究の話をする中で,
「この人は自分よりもスゴイかもしれん」
と思った。
「自分よりもスゴイ」と思う人に出会ったのは,
20年の人生で初めてだった。
「この人に認められたい」と思った。
卒論から修論に至る研究をする中で,
早くに論文業績が出て,学振DCにも採択されたりして,
世の中の人々に「すごいね」と評価されるようになった。
でも,
これまでの人生で「自分の才能を評価されたい」と思ってきたのに,
まったく納得がいかなかった。
むしろ悔しかった。
この頃の業績なんてのは所詮,指導教員の指導の範疇であって,
結局はこれまで目の敵にしていた,
「塾に行って難関私立に行って東大を目指す」ような環境にいるだけで,
自分自身が評価されているとは到底思えなかった。
そして何より,指導教員の範囲で研究をしているという時点で,
指導教員がボクのことを評価するような状況では無かった。
なんだかんだで博士では別の研究室に移って研究をして,
その頃になると「彼は優秀」という評価の方が一般的になり,
今までの劣等生扱いとは違ったのだけれども,
それでもその「優秀」という評価は,
指導教員のおかげで得た「学振DC」という看板に対するもので,
やはり自分に対する評価では無いと思っていた。
身近な人では唯一(?),研究室の准教授は,
ものすごく客観的にいろいろなことを話してくれて,
ボクに対する直接的な評価を述べてくれたことは無いけど,
「君はまあまあだけど,まだまだだよ」というようなことを示唆してくれた。
ボクの「この人に認めてもらいたいリスト」に,この准教授が加わった。
そんな頃に業界でも誰もが「スーパー」と認める研究者に出会った。
話すと確かに噂通り(個人的には噂以上だと思っている)で,
結局この人に雇ってもらい今に至るまで一緒に研究をしていて,
もちろんボクの「この人に認めてもらいたいリスト」に加わっている。
グダグダと考えてきて,
ようやくわかってきたことだけど,
ボクが求めているのは,
『「自分がスゴイと思っている人」から「対等な存在と思われること」』
なんだろう。
そういう視点で考えると,
今までは,学生だったり雇用されていたり,
最初っからそんなボクの欲求は満たされるはずがない状況だった。
そしてその「構造的に対等になりえない状況」に甘えて,
「認められないこと」の責任から自分自身を逃避させて,
「自分は天才」という殻に閉じこもって満足していたのだろう。
でも,これからは違う。
いや,今までも違ったのだけど,
もう本当に生身をさらけ出して勝負しなければならない。
ポテンシャルではなく,目に見える実力で,
「この人に認めてもらいたいリスト」をコンプリートしなければならない。
そう思う一方で,
それすらもやはり無理なんじゃないか,と思う部分もある。
こういうのっていわゆる「承認欲求」の一種で,
「社会的・心理的な父・兄」というモノとの闘争なんだろう。
幼少の頃の家族構成がこういう根源的な欲求に与える影響ってのが,
やはり大きいのかな,とも思う。
ボクは(実父はそうでもないのに)実兄のことをずっと尊敬していて,
今でも超えられない壁だと思っている部分がある。
そう考えると,
研究生活での「この人に認めてもらいたいリスト」の3人は,
ボクにとって父的ではなく,兄的な存在だ。
「三つ子の魂百まで」じゃないけど,
やはり家庭環境というのは,そういうものなのかもしれん。
最後に後味悪く終わらせるのは気が引けるけども,
橋下さんってのは「父との戦い」をしているのだと思う。
ボクは彼の考え方に同意する部分が多いのだけど,
やはり何かが違うという引っかかりも感じていて,
それはボクの対象が「兄」であり,彼の闘争対象が「父」で,
ボクは「対等」を求めていて,彼は「超越」を目指していて,
そういう違いに起因するのかもしれない。
ヒトは成長して「父」にはなれるけど「兄」には絶対になれない。
一方で,生物学的な「父」を生物学的に超越することは絶対にできない。
だから父や兄との闘争は死ぬまで続ことになる。
闘争をやめない限りは。
それは敗北を受け入れるということではなく,
(そもそもこの闘争は子・弟による一方的な闘争だから)
現状を承認して飲み込むということになるのだろう。
一般に生物学的な「父兄の死」や「子の生誕」は大きいだろうが,
ヒトが社会生活を営むイキモノである以上,
社会的なキッカケで「父兄なるものとの和解」を達成することは可能だろう。
要するに,
「父兄からの直接的な他者承認」ではなく,
「自らの中にある父兄なる幻想の自己承認」こそが,
トラウマ的に求めているものなのだろう,ということだ。
いきなりだけども,
ボクは「自分は天才だ」と思っている。
小学校とかそれぐらいの頃から,なんとなくそういう感じがしていて,
結構本気でそう思って生きてきた。(実は今でも思ってる)
最近になって,そういう評価を受けることがままあるけど,
学生の頃にそんな風に言われたことは本当になかった。
自己評価と周囲の評価のギャップが苦しかった。
小学校の時のテストの点数なんかは悪くなかった(と思う)けど,
うちの小学校には灘中など難関私立を目指す「受験組」がいて,
学校のテストなどは満点で当たり前的な部分もあり,
ボクが飛び抜けて勉強ができると認知される環境ではなかった。
それでも当時から,
「ボクの能力なら,普通に灘とか,入れるんじゃ無いかな」
みたいなことを思っていたことは覚えている。
その思いが転じて,
「高い金を出して塾で勉強して灘に行ってようが,
公立に行ってようが,
最終的に東大に行けば変わらんやろ」
と考えるようになっていた。
進学した地元の公立中学・高校では,
学校の勉強,特に定期試験にマジメに取り組まなかった。
中学の時には実兄が地元の公立高校から京大に現役合格して,
「今の学校のテストの点数なんてどうでもいい」
「最終的に東大に入れば中高の成績など関係ない」
という思いはドンドン強まっていた気がする。
さらに実兄がボクのことを「アイツは天才だ」と周囲に言っていて,
他人を介してボクがそれを聞いていたことも,
自分の天才を信じる根拠になっていたかもしれない。
そんなこんなで,
常に勉強に対しては斜に構え続け,
北海道大学理学部という,
当初の「東大余裕やろ」からはだいぶ劣るが,
世の中的には「まぁまぁ立派」という受験成果を出すに至った。
いざ北大に入学して周りを見渡しても,
なんだか皆さん頑張って勉強して北大に入ったようで,
「受験時にポテンシャルは全部絞り出しました」みたいな出がらしに見え,
「全力で取り組んだわけじゃないもんね」という言い訳を残したボクの中の,
「自分はやはり天才なんじゃないか」という思いが瓦解することはなかった。
むしろ大学に入っても勉強をせず成績もひどいものだったボクのことを,
同期の連中は劣等生だと思っていたわけでしょうけども。
この頃の思いはというと,
「大学の試験の成績じゃねえんだよ。
最終的に研究で成果を出せるかどうかなんだよ。」
と,中高の時と同じ論法で,
自分の頑張りどころを先延ばしにして,
自分の天才ポテンシャルを発揮する機会も先延ばしにしていた。
4年生になって研究室に入って指導教員と研究の話をする中で,
「この人は自分よりもスゴイかもしれん」
と思った。
「自分よりもスゴイ」と思う人に出会ったのは,
20年の人生で初めてだった。
「この人に認められたい」と思った。
卒論から修論に至る研究をする中で,
早くに論文業績が出て,学振DCにも採択されたりして,
世の中の人々に「すごいね」と評価されるようになった。
でも,
これまでの人生で「自分の才能を評価されたい」と思ってきたのに,
まったく納得がいかなかった。
むしろ悔しかった。
この頃の業績なんてのは所詮,指導教員の指導の範疇であって,
結局はこれまで目の敵にしていた,
「塾に行って難関私立に行って東大を目指す」ような環境にいるだけで,
自分自身が評価されているとは到底思えなかった。
そして何より,指導教員の範囲で研究をしているという時点で,
指導教員がボクのことを評価するような状況では無かった。
なんだかんだで博士では別の研究室に移って研究をして,
その頃になると「彼は優秀」という評価の方が一般的になり,
今までの劣等生扱いとは違ったのだけれども,
それでもその「優秀」という評価は,
指導教員のおかげで得た「学振DC」という看板に対するもので,
やはり自分に対する評価では無いと思っていた。
身近な人では唯一(?),研究室の准教授は,
ものすごく客観的にいろいろなことを話してくれて,
ボクに対する直接的な評価を述べてくれたことは無いけど,
「君はまあまあだけど,まだまだだよ」というようなことを示唆してくれた。
ボクの「この人に認めてもらいたいリスト」に,この准教授が加わった。
そんな頃に業界でも誰もが「スーパー」と認める研究者に出会った。
話すと確かに噂通り(個人的には噂以上だと思っている)で,
結局この人に雇ってもらい今に至るまで一緒に研究をしていて,
もちろんボクの「この人に認めてもらいたいリスト」に加わっている。
グダグダと考えてきて,
ようやくわかってきたことだけど,
ボクが求めているのは,
『「自分がスゴイと思っている人」から「対等な存在と思われること」』
なんだろう。
そういう視点で考えると,
今までは,学生だったり雇用されていたり,
最初っからそんなボクの欲求は満たされるはずがない状況だった。
そしてその「構造的に対等になりえない状況」に甘えて,
「認められないこと」の責任から自分自身を逃避させて,
「自分は天才」という殻に閉じこもって満足していたのだろう。
でも,これからは違う。
いや,今までも違ったのだけど,
もう本当に生身をさらけ出して勝負しなければならない。
ポテンシャルではなく,目に見える実力で,
「この人に認めてもらいたいリスト」をコンプリートしなければならない。
そう思う一方で,
それすらもやはり無理なんじゃないか,と思う部分もある。
こういうのっていわゆる「承認欲求」の一種で,
「社会的・心理的な父・兄」というモノとの闘争なんだろう。
幼少の頃の家族構成がこういう根源的な欲求に与える影響ってのが,
やはり大きいのかな,とも思う。
ボクは(実父はそうでもないのに)実兄のことをずっと尊敬していて,
今でも超えられない壁だと思っている部分がある。
そう考えると,
研究生活での「この人に認めてもらいたいリスト」の3人は,
ボクにとって父的ではなく,兄的な存在だ。
「三つ子の魂百まで」じゃないけど,
やはり家庭環境というのは,そういうものなのかもしれん。
最後に後味悪く終わらせるのは気が引けるけども,
橋下さんってのは「父との戦い」をしているのだと思う。
ボクは彼の考え方に同意する部分が多いのだけど,
やはり何かが違うという引っかかりも感じていて,
それはボクの対象が「兄」であり,彼の闘争対象が「父」で,
ボクは「対等」を求めていて,彼は「超越」を目指していて,
そういう違いに起因するのかもしれない。
ヒトは成長して「父」にはなれるけど「兄」には絶対になれない。
一方で,生物学的な「父」を生物学的に超越することは絶対にできない。
だから父や兄との闘争は死ぬまで続ことになる。
闘争をやめない限りは。
それは敗北を受け入れるということではなく,
(そもそもこの闘争は子・弟による一方的な闘争だから)
現状を承認して飲み込むということになるのだろう。
一般に生物学的な「父兄の死」や「子の生誕」は大きいだろうが,
ヒトが社会生活を営むイキモノである以上,
社会的なキッカケで「父兄なるものとの和解」を達成することは可能だろう。
要するに,
「父兄からの直接的な他者承認」ではなく,
「自らの中にある父兄なる幻想の自己承認」こそが,
トラウマ的に求めているものなのだろう,ということだ。
PR
理科離れに明確な根拠はないらしい。
「国際数学・理科教育調査」によって、
日本の生徒は成績が良いにもかかわらず、
理科が面白いと思う生徒が極めて少ないことが明らかになり,
これを「理科離れ」として報じたのがはじまりか,と言われている。
その後,工学部進学が半減したことも,理科離れの存在の論拠とされている。
ちなみに「国際数学・理科教育調査2007」の概要を見ると,
設問は「理科(算数・数学)の勉強は楽しいか」となっていて,
単に「理科という学校科目の勉強が面白くない」ということであり,
「面白くない」のは「理科」なのか「勉強」なのか判別が難しい。
詳細を転載すると,
中学二年生の「理科の勉強が楽しいか」に対する4段階回答では,
「強くそう思う」が18%(国際平均は46%)であるが,
「そう思う」を合わせると58%と過半数となる。
一方で,
読売オンラインで「理科離れ」で検索すると,
「理科離れが進む中」「理科離れが懸念」
「理科離れを背景に」「理科離れを食い止める」
などの文言が踊るが,
これらの前段には理科離れが存在する旨の記載はない。
また,たとえば,
「理科離れを引き起こす原因に関する研究」のおいては,
「教師と生徒」という視点で「理科科目」を取り上げて,
「理科離れ」の原因を明らかにしようと取り組んでいるが,
その根拠は前掲の「国際数学・理科教育調査」である。
重要なことだが,
この「国際数学・理科教育調査」は,
数学と理科のみに関する調査で,
国語や社会や英語や体育などの科目については,
同時に調査されていない。
つまり,
「国際数学・理科教育調査」で,
「(他国に比べて)成績は良いけど,
(他国に比べて)理科をすごく面白いと思っている割合が少ない」
という結果が出た。
それを解釈するのに「理科離れ」という概念を提案した報道があった。
この用語を他の案件での報道でも安易に使い流布し,
結果的に「理科離れ」が既成事実化してしまった。
というのが「理科離れ」の経緯だろう。
要するに,
報道による「理科離れ」の再生産でしかないのだ。
「理科離れなんてないさ,理科離れなんてウソさ」なのだ。
では「理科離れのようなもの」が,
まったく実態がないものなのかというと,
そういうわけでもないだろう。
たとえ「理科離れ」の根拠が薄弱だとはいえ,
「理科離れ」には皆が感覚的に納得しているわけだから,
社会現象として「理科離れのようなもの」は存在していると考える方が妥当だ。
これについては,
「理科離れに関するいくつかの問題:武竿久雄(PostDoc生物系)」による,
『「理科離れ=学習意欲の総合的低下」である。
あえて"理科離れ"という言葉を使わない方がよいと感じている。』
という指摘が一番しっくりくる。
「理科離れ」=「学習意欲の総合的低下」だとすると,
それを招いているのは何か。
ボクは経済至上主義だと思う。
テレビをつければ「金持ち特集」か「安いモ ノ特集」。
若い時からこういった言説に触れて育つと,
「いかに稼ぎ,いかに安く買うか」が,
人生の目標に思えてしまう子供が育ってしまうのではないか。
そうなると,
人々がよく使う言い回しである,
「それやって意味あるんですか?」
という考え方が,
物事の最も根源的な判断基準になってしまう。
言い換えよう。
スポーツをした時の爽快感,
難題を突破した時の達成感,
誰かと協力した時の一体感,
これら内面的な喜びには金銭価値がない。
体が疲労するスポーツよりも,
何かを知ることができるネットサーフィン。
人の心の機微を知る映画・ドラマよりも,
何かを知ることができる雑学・情報番組。
金銭という絶対的な数字や,
入手した情報の多寡といったものに囚われると,
定量不可能なものに対する判断力・思考力・想像力が低下する。
将来を考えても数字ばかりが頭に浮かび,
知らない事実が隠れていることにおびえ,
内面的な喜びの体験が薄く,
それがために将来の喜びを想像することもできない。
それでは将来に不安を感じてしまうのだろう。
だから「理科離れ」「学習意欲の低下」を解決するには,
「学習」の内面的な快楽を知る体験機会を増やすことが重要だろう。
でもそれは,学校教育だけでは限界がある。
というか,それこそ,
親に課せられている「教育を受けさせる義務」の本質ではないのか,と。
「教育を受けさせる義務」の本質は,
「子供の将来を,労働のために搾取しないため」なはず。
もし子供の将来の稼ぎを目的に教育を受けさせるのだとしたら,
あるいは子供に「学習の目的は金稼ぎだよ」という観念を植え付けているなら,
それは迂回はしてい るものの,
子供の将来を労働によって搾取していることに変わりない。
「理科離れ」は子供に顕在化しているが,
根は親にあるのだ。
1960-1980ぐらいに産まれた世代,
つまりは日本の誇りが経済にあった時代の人々には,
明るい将来が経済と結びつくのかもしれない。
しかし彼らの子供は経済成長が止まった世代。
親自身が育った環境の価値観と,
世相の変遷による親が大人になってからの価値観との不整合が,
そのまま子供の精神に歪みをもたらしているのではないだろうか。
子供の将来を労働に搾取させず教育ことを考えると,
何もない荒野に子供を放ちながら,
子供に気付かれないように安全柵を設置して,
子供自身が自発的(と感じるよう)に,
「世界と自分」「自分とは何か」「世界の仕組み」について,
考えざるをえない機会を与える,
というようなやり方が,ある種の理想型と思われる。
最後に。
だから科学者が,
「理科離れって言われてるけど,理科は楽しいよ」
って言うのは金輪際やめにしたい。
その枕はいらない。
アウトリーチとかサイエンスコミュニケーションも,
「理科離れ対策」としてはほとんど意味をなさない。
ただ,
大人が楽しそうにしている様子を見せれば,
子供は自分も体験したいと思うはず。
それだけで良いのだ。
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「国際数学・理科教育調査」によって、
日本の生徒は成績が良いにもかかわらず、
理科が面白いと思う生徒が極めて少ないことが明らかになり,
これを「理科離れ」として報じたのがはじまりか,と言われている。
その後,工学部進学が半減したことも,理科離れの存在の論拠とされている。
ちなみに「国際数学・理科教育調査2007」の概要を見ると,
設問は「理科(算数・数学)の勉強は楽しいか」となっていて,
単に「理科という学校科目の勉強が面白くない」ということであり,
「面白くない」のは「理科」なのか「勉強」なのか判別が難しい。
詳細を転載すると,
中学二年生の「理科の勉強が楽しいか」に対する4段階回答では,
「強くそう思う」が18%(国際平均は46%)であるが,
「そう思う」を合わせると58%と過半数となる。
一方で,
読売オンラインで「理科離れ」で検索すると,
「理科離れが進む中」「理科離れが懸念」
「理科離れを背景に」「理科離れを食い止める」
などの文言が踊るが,
これらの前段には理科離れが存在する旨の記載はない。
また,たとえば,
「理科離れを引き起こす原因に関する研究」のおいては,
「教師と生徒」という視点で「理科科目」を取り上げて,
「理科離れ」の原因を明らかにしようと取り組んでいるが,
その根拠は前掲の「国際数学・理科教育調査」である。
重要なことだが,
この「国際数学・理科教育調査」は,
数学と理科のみに関する調査で,
国語や社会や英語や体育などの科目については,
同時に調査されていない。
つまり,
「国際数学・理科教育調査」で,
「(他国に比べて)成績は良いけど,
(他国に比べて)理科をすごく面白いと思っている割合が少ない」
という結果が出た。
それを解釈するのに「理科離れ」という概念を提案した報道があった。
この用語を他の案件での報道でも安易に使い流布し,
結果的に「理科離れ」が既成事実化してしまった。
というのが「理科離れ」の経緯だろう。
要するに,
報道による「理科離れ」の再生産でしかないのだ。
「理科離れなんてないさ,理科離れなんてウソさ」なのだ。
では「理科離れのようなもの」が,
まったく実態がないものなのかというと,
そういうわけでもないだろう。
たとえ「理科離れ」の根拠が薄弱だとはいえ,
「理科離れ」には皆が感覚的に納得しているわけだから,
社会現象として「理科離れのようなもの」は存在していると考える方が妥当だ。
これについては,
「理科離れに関するいくつかの問題:武竿久雄(PostDoc生物系)」による,
『「理科離れ=学習意欲の総合的低下」である。
あえて"理科離れ"という言葉を使わない方がよいと感じている。』
という指摘が一番しっくりくる。
「理科離れ」=「学習意欲の総合的低下」だとすると,
それを招いているのは何か。
ボクは経済至上主義だと思う。
テレビをつければ「金持ち特集」か「安いモ ノ特集」。
若い時からこういった言説に触れて育つと,
「いかに稼ぎ,いかに安く買うか」が,
人生の目標に思えてしまう子供が育ってしまうのではないか。
そうなると,
人々がよく使う言い回しである,
「それやって意味あるんですか?」
という考え方が,
物事の最も根源的な判断基準になってしまう。
言い換えよう。
スポーツをした時の爽快感,
難題を突破した時の達成感,
誰かと協力した時の一体感,
これら内面的な喜びには金銭価値がない。
体が疲労するスポーツよりも,
何かを知ることができるネットサーフィン。
人の心の機微を知る映画・ドラマよりも,
何かを知ることができる雑学・情報番組。
金銭という絶対的な数字や,
入手した情報の多寡といったものに囚われると,
定量不可能なものに対する判断力・思考力・想像力が低下する。
将来を考えても数字ばかりが頭に浮かび,
知らない事実が隠れていることにおびえ,
内面的な喜びの体験が薄く,
それがために将来の喜びを想像することもできない。
それでは将来に不安を感じてしまうのだろう。
だから「理科離れ」「学習意欲の低下」を解決するには,
「学習」の内面的な快楽を知る体験機会を増やすことが重要だろう。
でもそれは,学校教育だけでは限界がある。
というか,それこそ,
親に課せられている「教育を受けさせる義務」の本質ではないのか,と。
「教育を受けさせる義務」の本質は,
「子供の将来を,労働のために搾取しないため」なはず。
もし子供の将来の稼ぎを目的に教育を受けさせるのだとしたら,
あるいは子供に「学習の目的は金稼ぎだよ」という観念を植え付けているなら,
それは迂回はしてい るものの,
子供の将来を労働によって搾取していることに変わりない。
「理科離れ」は子供に顕在化しているが,
根は親にあるのだ。
1960-1980ぐらいに産まれた世代,
つまりは日本の誇りが経済にあった時代の人々には,
明るい将来が経済と結びつくのかもしれない。
しかし彼らの子供は経済成長が止まった世代。
親自身が育った環境の価値観と,
世相の変遷による親が大人になってからの価値観との不整合が,
そのまま子供の精神に歪みをもたらしているのではないだろうか。
子供の将来を労働に搾取させず教育ことを考えると,
何もない荒野に子供を放ちながら,
子供に気付かれないように安全柵を設置して,
子供自身が自発的(と感じるよう)に,
「世界と自分」「自分とは何か」「世界の仕組み」について,
考えざるをえない機会を与える,
というようなやり方が,ある種の理想型と思われる。
最後に。
だから科学者が,
「理科離れって言われてるけど,理科は楽しいよ」
って言うのは金輪際やめにしたい。
その枕はいらない。
アウトリーチとかサイエンスコミュニケーションも,
「理科離れ対策」としてはほとんど意味をなさない。
ただ,
大人が楽しそうにしている様子を見せれば,
子供は自分も体験したいと思うはず。
それだけで良いのだ。
今日のお話はタイトルのまんまですが,
教育とか経済とか政治とか研究とか,
まぁ結構なんでもそうですけども,
成長とか進歩とかを考える時に,
特に教育者や為政者などの,いわゆる「与える側」側が,
必ず持っておくべき視点だと思うのです。
これは持ちネタでいつも話していることなんだけども,
ボクが幼少の頃,実家にはデジタル時計がなかった。
それは,
「デジタル時計だと数字を見るだけで時刻がわかる。
アナログ時計なら毎回頭で考えなきゃ時刻がわからない。」
という考えに基づくもので,
こうして算数的な思考機会を与え,
単に時刻を調べるという行為がそのまま勉強機会になっていた。
もう1つ,新聞について。
これは以前,詳述している。
安易な紙媒体不要論が子供を殺し国を滅ぼす
要するに,
「家に新聞があって親が毎日読んでいるという状況が,
子供に対して「新聞を読む」という行為を喚起し,
それが実質的には文字に触れる機会となっている」
という話。
卒論の赤ペンをしていても同じこと。
50ページにわたる文章をすべて読んで逐一修正しても,
なぜ修正されているかがわからなければ同じ誤りを繰り返す。
だから書き方のルールや,
あるいは書く際の注意事項のようなものを伝える方が,
逐一直していくよりも本人の上達につながる。
(本当は逐一直した中からエッセンスを吸い出す能力に期待するのだが)
経済用語の乗数効果とか言うのもそういうことだと思う。
税金から1兆円支出するのに,
単に1兆円を消費者に渡すと,それは単に1兆円の価値しかないし,
あるいはタンスに埋没するなら1兆円以下の価値しかない。
一方で,港町の加工場整備のために1兆円を使ったなら,
漁業が盛んになり,
海外から水産品シェアを奪い返し,
あるいは水産品自体の需要が増し,
さらなる設備投資など他の業種にも波及し,
もとの1兆円を超える効果をもたらす。
同じ「道路を作る」というコンテンツにしても,
それが「道路建設のための道路」なのか,
はたまた「産業活性化の仕組みとしての道路」なのか,
そういう枠組みをちゃんと考えているか否かは,
結果に大きな違いが生じてくる。
消費税増税の話も,
電子書籍教科書の話も,
それらのコンテンツとしての優位性みたいな論争が多いが,
本当はそれらは枠組みとして語られるものであって,
枠組みとしての優位性を語りあうべきだと思うのだ。
そうなってくると重要なのは,
「与える側」「決定権を持つ側」が,
問題点と解決の糸口を把握し,
それに見合った適切な枠組みを提案し,
受け入れてもらう(受け入れさせる)ということ。
(余談だが政治家の資質ってのはここにあると思う)
この「コンテンツではなく枠組みを与える」場合,
その意図を「受け取る側」が把握している必要はない。
結果的に良い方向に誘導されるような枠組みになっていれば,
別に施工時点でその意図が理解されていなくても問題ないし,
むしろわかられていないことが重要な場合もある。
たとえば「消費税増税」や「子供への叱責(体罰含む)」のように,
「コンテンツとしては(直接的には)負の影響を持つが,
枠組みとして正の影響を持つ(と考えている)」
という性質のモノを導入する際,
コンテンツベースで考えては話が前に進まない。
(だってコンテンツとしては負の影響だもの)
それが「横暴」なのか「英断」なのかは,
事前には人望によって,
事後には結果によって,
受け取る側に判断されるモノなわけです。
だからこそ与える側は,
自分の行為について自ら厳しく査定して,
その正当性を確信した上で実施せねばならない。
話が発散してきた。
もう一度。
大事なことは,
「(与える側としては小さなコストで)
受け取る側に最大の利益を生み出すような,
仕組みを見出して実施すること。」
です。
最後に,
ここまで枠組み論を展開してきたけども,
コンテンツを突き詰めることも大事。
むしろそっち方にこそ世界を変える力がある。
日本語の言い回しだと,
コンテンツを作るのが「アーティスト/クリエーター」で,
枠組みを作るのが「プロデューサー/ディレクター」か。
研究者ってのは本質的に前者だと思う。
ボクはそこを諦めてしまっていて,
研究業界で研究者側にいる後者の立場を突き詰めようと思っている。
Tweet
教育とか経済とか政治とか研究とか,
まぁ結構なんでもそうですけども,
成長とか進歩とかを考える時に,
特に教育者や為政者などの,いわゆる「与える側」側が,
必ず持っておくべき視点だと思うのです。
これは持ちネタでいつも話していることなんだけども,
ボクが幼少の頃,実家にはデジタル時計がなかった。
それは,
「デジタル時計だと数字を見るだけで時刻がわかる。
アナログ時計なら毎回頭で考えなきゃ時刻がわからない。」
という考えに基づくもので,
こうして算数的な思考機会を与え,
単に時刻を調べるという行為がそのまま勉強機会になっていた。
もう1つ,新聞について。
これは以前,詳述している。
安易な紙媒体不要論が子供を殺し国を滅ぼす
要するに,
「家に新聞があって親が毎日読んでいるという状況が,
子供に対して「新聞を読む」という行為を喚起し,
それが実質的には文字に触れる機会となっている」
という話。
卒論の赤ペンをしていても同じこと。
50ページにわたる文章をすべて読んで逐一修正しても,
なぜ修正されているかがわからなければ同じ誤りを繰り返す。
だから書き方のルールや,
あるいは書く際の注意事項のようなものを伝える方が,
逐一直していくよりも本人の上達につながる。
(本当は逐一直した中からエッセンスを吸い出す能力に期待するのだが)
経済用語の乗数効果とか言うのもそういうことだと思う。
税金から1兆円支出するのに,
単に1兆円を消費者に渡すと,それは単に1兆円の価値しかないし,
あるいはタンスに埋没するなら1兆円以下の価値しかない。
一方で,港町の加工場整備のために1兆円を使ったなら,
漁業が盛んになり,
海外から水産品シェアを奪い返し,
あるいは水産品自体の需要が増し,
さらなる設備投資など他の業種にも波及し,
もとの1兆円を超える効果をもたらす。
同じ「道路を作る」というコンテンツにしても,
それが「道路建設のための道路」なのか,
はたまた「産業活性化の仕組みとしての道路」なのか,
そういう枠組みをちゃんと考えているか否かは,
結果に大きな違いが生じてくる。
消費税増税の話も,
電子書籍教科書の話も,
それらのコンテンツとしての優位性みたいな論争が多いが,
本当はそれらは枠組みとして語られるものであって,
枠組みとしての優位性を語りあうべきだと思うのだ。
そうなってくると重要なのは,
「与える側」「決定権を持つ側」が,
問題点と解決の糸口を把握し,
それに見合った適切な枠組みを提案し,
受け入れてもらう(受け入れさせる)ということ。
(余談だが政治家の資質ってのはここにあると思う)
この「コンテンツではなく枠組みを与える」場合,
その意図を「受け取る側」が把握している必要はない。
結果的に良い方向に誘導されるような枠組みになっていれば,
別に施工時点でその意図が理解されていなくても問題ないし,
むしろわかられていないことが重要な場合もある。
たとえば「消費税増税」や「子供への叱責(体罰含む)」のように,
「コンテンツとしては(直接的には)負の影響を持つが,
枠組みとして正の影響を持つ(と考えている)」
という性質のモノを導入する際,
コンテンツベースで考えては話が前に進まない。
(だってコンテンツとしては負の影響だもの)
それが「横暴」なのか「英断」なのかは,
事前には人望によって,
事後には結果によって,
受け取る側に判断されるモノなわけです。
だからこそ与える側は,
自分の行為について自ら厳しく査定して,
その正当性を確信した上で実施せねばならない。
話が発散してきた。
もう一度。
大事なことは,
「(与える側としては小さなコストで)
受け取る側に最大の利益を生み出すような,
仕組みを見出して実施すること。」
です。
最後に,
ここまで枠組み論を展開してきたけども,
コンテンツを突き詰めることも大事。
むしろそっち方にこそ世界を変える力がある。
日本語の言い回しだと,
コンテンツを作るのが「アーティスト/クリエーター」で,
枠組みを作るのが「プロデューサー/ディレクター」か。
研究者ってのは本質的に前者だと思う。
ボクはそこを諦めてしまっていて,
研究業界で研究者側にいる後者の立場を突き詰めようと思っている。
いまさらながら,
福澤諭吉「学問のすすめ」を読んでいます。
これまでの人生で一度も読んだことがないってのが不思議ですが,
まぁボクが読書をはじめたのは25歳からなので,仕方ない。
しかしすごい。
本当にすごい。
諭吉すごい。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
という超有名なフレーズではじまる初編ですが,
これについては,
「でも身分とか貧富とかは生まれつきやろ,,,」
みたいな思いを抱いていました。
しかしそんな程度の陳腐な反論は,
福澤諭吉大先生にはもちろんお見通しで,
それに対する回答もすぐ後で述べています。
初編では次のようなことも語られています。(意訳)
「人はうまれつき自由なものだけども,
程度を知らないとただのワガママ放蕩に陥ってしまう。
重要なことは,
天の道理に基づき,人の情に従い,他人の妨げをせず,
自分一人の自由を達成することだ」
悪い例もあげています。
「自分の金で夜な夜な遊ぶのは自由だ。
だけれども,
そうした暮らしを皆が真似しだすと世の風俗が乱れ,
結果的にマジメに暮らしたい他人の邪魔をすることになる」
さらに興味深いのが次の指摘。
「学の無い人間の一番ダメなところは,恥を知らないこと。
自分に学が無いから貧窮に陥っているのに,
それを棚にあげて富める人を怨み,
自分の都合の良いときは法に頼り,
自分の利益のためには法を平気で破る。」
これで終わらず次に続くのがこれ。
「こうした愚民には道理が通じない。
理屈抜きで厳しくしなければ愚民を正すことはできない。
「愚民の上に苛き政府あり」というけども,
それは政府が厳しいから愚民になるのではなく,
愚民の態度が悪いから,自分たちの行いの悪さで,
政府を厳しくさせてるんだよね。」
諭吉先生,今の日本を見て語っているようです。
その通りです。
今の日本はあなたの危惧した通りの状況です。
諭吉先生は本書を通じて,
「勉強して偉い学者さんになりなさい」と言っているわけではないのです。
そうではない。
============
人間一人一人が社会を構築する一員なのだから,
畜生のように本能のままに言動するのではなく,
勉学することで世の道理,人の情を知って,
一人一人が良い暮らしをしようじゃないか。
さらに一人一人が学問をして道理と情を身につければ,
それが公序良俗に通じ,皆が幸せに暮らしていけるよね。
============
そういうことを言っているのです。
すばらしい,すばらしいよ,諭吉さん。
Tweet
福澤諭吉「学問のすすめ」を読んでいます。
これまでの人生で一度も読んだことがないってのが不思議ですが,
まぁボクが読書をはじめたのは25歳からなので,仕方ない。
しかしすごい。
本当にすごい。
諭吉すごい。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
という超有名なフレーズではじまる初編ですが,
これについては,
「でも身分とか貧富とかは生まれつきやろ,,,」
みたいな思いを抱いていました。
しかしそんな程度の陳腐な反論は,
福澤諭吉大先生にはもちろんお見通しで,
それに対する回答もすぐ後で述べています。
初編では次のようなことも語られています。(意訳)
「人はうまれつき自由なものだけども,
程度を知らないとただのワガママ放蕩に陥ってしまう。
重要なことは,
天の道理に基づき,人の情に従い,他人の妨げをせず,
自分一人の自由を達成することだ」
悪い例もあげています。
「自分の金で夜な夜な遊ぶのは自由だ。
だけれども,
そうした暮らしを皆が真似しだすと世の風俗が乱れ,
結果的にマジメに暮らしたい他人の邪魔をすることになる」
さらに興味深いのが次の指摘。
「学の無い人間の一番ダメなところは,恥を知らないこと。
自分に学が無いから貧窮に陥っているのに,
それを棚にあげて富める人を怨み,
自分の都合の良いときは法に頼り,
自分の利益のためには法を平気で破る。」
これで終わらず次に続くのがこれ。
「こうした愚民には道理が通じない。
理屈抜きで厳しくしなければ愚民を正すことはできない。
「愚民の上に苛き政府あり」というけども,
それは政府が厳しいから愚民になるのではなく,
愚民の態度が悪いから,自分たちの行いの悪さで,
政府を厳しくさせてるんだよね。」
諭吉先生,今の日本を見て語っているようです。
その通りです。
今の日本はあなたの危惧した通りの状況です。
諭吉先生は本書を通じて,
「勉強して偉い学者さんになりなさい」と言っているわけではないのです。
そうではない。
============
人間一人一人が社会を構築する一員なのだから,
畜生のように本能のままに言動するのではなく,
勉学することで世の道理,人の情を知って,
一人一人が良い暮らしをしようじゃないか。
さらに一人一人が学問をして道理と情を身につければ,
それが公序良俗に通じ,皆が幸せに暮らしていけるよね。
============
そういうことを言っているのです。
すばらしい,すばらしいよ,諭吉さん。
東大が新入生の秋入学を検討している件について。
元ネタは「入学時期の在り方に関する懇談会」の「中間まとめ」らしい。
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen02/pdf/20120120interim.report.pdf
ネットに散乱してる言い分は大体この中で検討されている。
文句を言う前にまず読みましょう。
で,
すごく大雑把にまとめると,
・入学時期変更検討のモチベーションは国際化
・国際的主流の秋入学に合わせることで国際流動性の向上に期待
・国際化の目的は「グローバル人材」育成
・付加価値としてギャップターム
・学生を変容させるための国際経験/ギャップターム活動
・東大の制度改革から社会制度改革への波及を期待
という感じ。
感想としては,
「うちの子はすくすくと育って何の問題もないんだけど,
なんとなく温室育ちでひ弱な感じがするし,
近所の評判もガリ勉君よりガキ大将の方が高かったりもするし,
厳しくして成長を促そうと思うんだけど,
具体的にどうしたらいいかわからないし,
グレたりショック死したりしても困るから,
とりあえず近所の教育ママにならって,
うちの子も親戚の家に預けてみることにしよう」
という印象。
「東大総長肝いりの親バカ計画」と呼ぶのがふさわしいか。
基本的な話だけども,
システムってのは大部分の方向性を自動的に決めてしまうもので,
少数派の行動はシステム外でフォローしていくってのが,
システム運用の「在り方」なのです。
東大には学生以外にも教員や事務員がいるわけで,
そこまで含めて考えた時に,
「学生の国際経験」だけなら少数派の行動であって,
システムはそのままに,システム外のフォローで対応すべき。
反対に,
教員や事務員も含めて大学すべてを国際化したいのなら,
入学制度だけじゃなくて全学を国際標準システムに合わせないと,
目的を達成することはできない。
ってことで,
「グローバル人材の育成」が目的のシステム変更は,
効果を期待する対象が少数であることでもって,
コストが大きいだけのムダ打ち,アホの所行,と断じてしまえる。
国際化を目的とした意味ではまったくナンセンス。
一方で,
「ギャップターム」だとか,
「高校ー大学のシームレスな接続は本当に効率的か」だとか,
「大学と企業の関係性に一石」だとかは,
たぶん後付けの話題なんだろうけども,
こちらの方が日本社会全体にとっては重要な話題。
話が学内にとどまらず社会全体の変革に波及することを考えると,
東大が秋入学に変更すると相当数の大学が追随してくるだろうし,
そうなると東大のシステムはモデルケースとして利用されるわけで,
システムの対象が社会の多数派にまでおよぶ可能性がある。
(それを期待しているわけだし)
だから議論の出発点を「ギャップターム」に設定して議論するのであれば,
秋入学制は大いに検討に値する。
以下,「中間まとめ」の私的メモ
秋入学検討の動機
○東大としての課題
学生の留学の受け入れ・送り出しの双方…学期のズレは余分な時間・コストを強いる。
(東大学生には意思があるが)留学によって留年する懸念が阻害要因。(アンケート)
○教育システムとしての課題
(高校ー大学の)シームレスな接続か,ギャップイヤーか。根本的な問題の再検討が必要。
(受験勉強という外的動機付けから,大学での能動的な学びへの変換のため)
○人材育成の課題
「グローバル人材」の育成,学生の「内向き志向」の是正の必要性。
(元々東大は「市民的エリート」育成を憲章でうたっている)
グローバル人材の基盤は「語学・コミュニケーション力」
学生アンケートでも上記の力が低いという自己評価。
「学生の流動性の高さは教育の室や国際競争力を示す重要な意味」
(唐突な記載。根拠は?)
同一学年の20%(EU基準)10%(G人材育成推進会議の政策目標)を1年以上の海外留学。
メリット
最大:国際標準と整合し,学生教員の国際流動性が高まる。
学期のズレが解消されればIT授業も広く展開可能になる。
長期休暇の有効利用による教員の活力増進(?)。
企業の採用活動との関わりを社会全体で考え直す契機に。
デメリット
ギャップ時期の家計負担・機会費用・公的試験(医師・法曹・公務員など)との整合
(学内事情として)進学振り分けと入試が同時期に集中
春秋二期採用(複線化)は人的・物的コストが困難。
大学院については多様性があり従来通り複線でも問題ない。
受験時期を他大学とずらすと仮面浪人増加という社会的に負の影響。
入試は現行のままに入学前ギャップタームを。
○基本的スタンス
単に入学時期を変えるだけでない抜本的改革を実施し,
この東大の抜本的変革が社会に波及することを目指す。
一方,大学教育の国際化は,それ自体が最終目標ではない。
自らが少数者となる立場に身を置くことの教育効果。
(同質性の高い学生集団・生活環境からの脱却)
高校ー大学間の接続がシームレスであることが効率的で望ましいという立場に対して,
多様な経験のための寄り道を許容する態度での新たな制度設計。
(前向きな)休学の位置づけも再検討。
飛び級卒業制度も検討。
「全員に国際的な学習体験を」のイメージ
SIE1:単位取得を伴う海外留学(全体の10〜15%)
SIE2:語学留学などその他の海外体験(全体の20〜35%,上記と合わせ50%)
SIE3:英語授業・留学生交流などの学内国際体験(全学)
到達目標例として,卒業者過半がTOEFLスコアで留学可能水準に到達
単に語学力にとどまらず,コミュニケーション力向上の総合推進
ギャップタームの使い方に大学が関与すべきかは要検討。
基本的には信頼するが支援/指導も考えなければ。
ギャップターム中の活動をいかにひょうかするか。
研究経験/社会活動/補習的勉強などを想定
産学官連携の非営利団体を通じてインターンの場を設定
Tweet
元ネタは「入学時期の在り方に関する懇談会」の「中間まとめ」らしい。
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen02/pdf/20120120interim.report.pdf
ネットに散乱してる言い分は大体この中で検討されている。
文句を言う前にまず読みましょう。
で,
すごく大雑把にまとめると,
・入学時期変更検討のモチベーションは国際化
・国際的主流の秋入学に合わせることで国際流動性の向上に期待
・国際化の目的は「グローバル人材」育成
・付加価値としてギャップターム
・学生を変容させるための国際経験/ギャップターム活動
・東大の制度改革から社会制度改革への波及を期待
という感じ。
感想としては,
「うちの子はすくすくと育って何の問題もないんだけど,
なんとなく温室育ちでひ弱な感じがするし,
近所の評判もガリ勉君よりガキ大将の方が高かったりもするし,
厳しくして成長を促そうと思うんだけど,
具体的にどうしたらいいかわからないし,
グレたりショック死したりしても困るから,
とりあえず近所の教育ママにならって,
うちの子も親戚の家に預けてみることにしよう」
という印象。
「東大総長肝いりの親バカ計画」と呼ぶのがふさわしいか。
基本的な話だけども,
システムってのは大部分の方向性を自動的に決めてしまうもので,
少数派の行動はシステム外でフォローしていくってのが,
システム運用の「在り方」なのです。
東大には学生以外にも教員や事務員がいるわけで,
そこまで含めて考えた時に,
「学生の国際経験」だけなら少数派の行動であって,
システムはそのままに,システム外のフォローで対応すべき。
反対に,
教員や事務員も含めて大学すべてを国際化したいのなら,
入学制度だけじゃなくて全学を国際標準システムに合わせないと,
目的を達成することはできない。
ってことで,
「グローバル人材の育成」が目的のシステム変更は,
効果を期待する対象が少数であることでもって,
コストが大きいだけのムダ打ち,アホの所行,と断じてしまえる。
国際化を目的とした意味ではまったくナンセンス。
一方で,
「ギャップターム」だとか,
「高校ー大学のシームレスな接続は本当に効率的か」だとか,
「大学と企業の関係性に一石」だとかは,
たぶん後付けの話題なんだろうけども,
こちらの方が日本社会全体にとっては重要な話題。
話が学内にとどまらず社会全体の変革に波及することを考えると,
東大が秋入学に変更すると相当数の大学が追随してくるだろうし,
そうなると東大のシステムはモデルケースとして利用されるわけで,
システムの対象が社会の多数派にまでおよぶ可能性がある。
(それを期待しているわけだし)
だから議論の出発点を「ギャップターム」に設定して議論するのであれば,
秋入学制は大いに検討に値する。
以下,「中間まとめ」の私的メモ
秋入学検討の動機
○東大としての課題
学生の留学の受け入れ・送り出しの双方…学期のズレは余分な時間・コストを強いる。
(東大学生には意思があるが)留学によって留年する懸念が阻害要因。(アンケート)
○教育システムとしての課題
(高校ー大学の)シームレスな接続か,ギャップイヤーか。根本的な問題の再検討が必要。
(受験勉強という外的動機付けから,大学での能動的な学びへの変換のため)
○人材育成の課題
「グローバル人材」の育成,学生の「内向き志向」の是正の必要性。
(元々東大は「市民的エリート」育成を憲章でうたっている)
グローバル人材の基盤は「語学・コミュニケーション力」
学生アンケートでも上記の力が低いという自己評価。
「学生の流動性の高さは教育の室や国際競争力を示す重要な意味」
(唐突な記載。根拠は?)
同一学年の20%(EU基準)10%(G人材育成推進会議の政策目標)を1年以上の海外留学。
メリット
最大:国際標準と整合し,学生教員の国際流動性が高まる。
学期のズレが解消されればIT授業も広く展開可能になる。
長期休暇の有効利用による教員の活力増進(?)。
企業の採用活動との関わりを社会全体で考え直す契機に。
デメリット
ギャップ時期の家計負担・機会費用・公的試験(医師・法曹・公務員など)との整合
(学内事情として)進学振り分けと入試が同時期に集中
春秋二期採用(複線化)は人的・物的コストが困難。
大学院については多様性があり従来通り複線でも問題ない。
受験時期を他大学とずらすと仮面浪人増加という社会的に負の影響。
入試は現行のままに入学前ギャップタームを。
○基本的スタンス
単に入学時期を変えるだけでない抜本的改革を実施し,
この東大の抜本的変革が社会に波及することを目指す。
一方,大学教育の国際化は,それ自体が最終目標ではない。
自らが少数者となる立場に身を置くことの教育効果。
(同質性の高い学生集団・生活環境からの脱却)
高校ー大学間の接続がシームレスであることが効率的で望ましいという立場に対して,
多様な経験のための寄り道を許容する態度での新たな制度設計。
(前向きな)休学の位置づけも再検討。
飛び級卒業制度も検討。
「全員に国際的な学習体験を」のイメージ
SIE1:単位取得を伴う海外留学(全体の10〜15%)
SIE2:語学留学などその他の海外体験(全体の20〜35%,上記と合わせ50%)
SIE3:英語授業・留学生交流などの学内国際体験(全学)
到達目標例として,卒業者過半がTOEFLスコアで留学可能水準に到達
単に語学力にとどまらず,コミュニケーション力向上の総合推進
ギャップタームの使い方に大学が関与すべきかは要検討。
基本的には信頼するが支援/指導も考えなければ。
ギャップターム中の活動をいかにひょうかするか。
研究経験/社会活動/補習的勉強などを想定
産学官連携の非営利団体を通じてインターンの場を設定
よくよく考えたけども,
問題点というような問題はないような気がする。
気になっている点は,
財務状況がよくない
->会員増で会費収入増を目指そう
->パンフや粗品などの制作で支出増
という流れで,
収支があうのか検証がまったく行われていないこと。
他学会との関係性としてブース出展などもしているが,
取り組み自体を否定するものではないが,
これまた検証が行われていないことが気になる。
あとは年会のマンネリ化。
旧来の研究分野ごとをやめて,
研究者が勝手に企画するセッション制をはじめて,
それはそれで好評ではある。
一方で,
内容が重複するようなセッションがあること,
セッション間が断絶しており従来より交流が減った(?)ことが,
気になっている。
大規模研究費グループの集会のようなセッションがあるが,
これを学会の傘の下でやる意義と利点は議論に値するのではないか。
また,
すでにグループを形成している集団でセッションを組むと,
偶発的な拡がりが期待できないという側面もあろう。
各セッションが興味深い非学会員を招待しているが,
プログラムで名前を見ただけでは,
そのセッション以外の参加者にはなかなか引っかかってこない。
というようなことを考えると,
評議員会などが主導してコンビーナーを決めて,
非学会員の招待で地球化学の新たな方向性を探るようなセッションをたてることも,
考えて良いと思う。
個人的には,
学生賞などの懸賞よりも,
他の方策で次世代の人材を盛り上げた方が良いと思う。
じゃあどんな策があるんだと言われると,ないんだけど。
ショートコースと若手会の統合もそろそろ検討せねば。
それぞれに良さがあるんだけど,
付随する問題もあったりして,
(特に学会前後に学生がフラフラすることへの教員の理解)
連合で学会主催のセッションをする際には,
できるだけ学生会員の発表を奨励し,
「非学会員にたいして学生会員を売り込む」姿勢を示し,
学生の知名度向上->ポスト獲得を後押しするのも一計だろう。
これは何度も何度も言ってるけど,
学生会員の学会誌への投稿においては,
格別の待遇を約束すること,
それを現在のような「なぁなぁ」のアングラ方針ではなく,
明確な方針とすることは学会誌を盛り上げていく上で重要だろう。
ということで,
お金を分離して考えても,特に年会を上手に使うことで,
学会組織が会員に対してメリットをもたらす余地はあるように思う。
なんか浅いエントリーになってしまった。
Tweet
問題点というような問題はないような気がする。
気になっている点は,
財務状況がよくない
->会員増で会費収入増を目指そう
->パンフや粗品などの制作で支出増
という流れで,
収支があうのか検証がまったく行われていないこと。
他学会との関係性としてブース出展などもしているが,
取り組み自体を否定するものではないが,
これまた検証が行われていないことが気になる。
あとは年会のマンネリ化。
旧来の研究分野ごとをやめて,
研究者が勝手に企画するセッション制をはじめて,
それはそれで好評ではある。
一方で,
内容が重複するようなセッションがあること,
セッション間が断絶しており従来より交流が減った(?)ことが,
気になっている。
大規模研究費グループの集会のようなセッションがあるが,
これを学会の傘の下でやる意義と利点は議論に値するのではないか。
また,
すでにグループを形成している集団でセッションを組むと,
偶発的な拡がりが期待できないという側面もあろう。
各セッションが興味深い非学会員を招待しているが,
プログラムで名前を見ただけでは,
そのセッション以外の参加者にはなかなか引っかかってこない。
というようなことを考えると,
評議員会などが主導してコンビーナーを決めて,
非学会員の招待で地球化学の新たな方向性を探るようなセッションをたてることも,
考えて良いと思う。
個人的には,
学生賞などの懸賞よりも,
他の方策で次世代の人材を盛り上げた方が良いと思う。
じゃあどんな策があるんだと言われると,ないんだけど。
ショートコースと若手会の統合もそろそろ検討せねば。
それぞれに良さがあるんだけど,
付随する問題もあったりして,
(特に学会前後に学生がフラフラすることへの教員の理解)
連合で学会主催のセッションをする際には,
できるだけ学生会員の発表を奨励し,
「非学会員にたいして学生会員を売り込む」姿勢を示し,
学生の知名度向上->ポスト獲得を後押しするのも一計だろう。
これは何度も何度も言ってるけど,
学生会員の学会誌への投稿においては,
格別の待遇を約束すること,
それを現在のような「なぁなぁ」のアングラ方針ではなく,
明確な方針とすることは学会誌を盛り上げていく上で重要だろう。
ということで,
お金を分離して考えても,特に年会を上手に使うことで,
学会組織が会員に対してメリットをもたらす余地はあるように思う。
なんか浅いエントリーになってしまった。
主戦場としている学会から,
「10年後の学会のあり方を考え必要な提言を」という任務が与えられたので,
あらためて学会についての考えをまとめてみようと思う。
以下,学会とは「組織としての学会」を意味し,
学術集会とは区別する。
学会は,大学等の研究機関とは異なり,
研究者個人が任意に集まり機能している集団であり,
あくまで特定の研究分野の同好会である。
学会の役割として考えられることを列挙してみる。
1.学術集会の開催(以下,集会)
2.学会誌の編集(以下,雑誌)
3.学会賞等の授与(以下,学会賞)
4.政府行政等あるいは民間との連絡機関(以下,窓口)
5.学生を含む次世代研究者の支援(以下,若手支援)
6.非研究者層への広報啓蒙(以下,広報)
他にも役割があるかもしれないが,
先の2年間の評議員任務で話題にあがったのは以上の項目。
この他に隠れた機能としては,
「学会長経験者」を産出するというのもあるかもしれない。
(社会的に偉くなるには必要?わからんけども)
これらの役割を担うため,
会員は年会費を払い,
一部の者が学会役員・委員業務を負担し,
(役員・委員は約30名。総会員数は約1000名)
学会を運営している。
ここで早速まとめてしまうと,
良い学会のあり方とは,
「会費あるいは委員業務の負担」に対して,
「学会が担う役割から得られる有形無形のもの」が,
「個別の会員が納得できる学会」という状況なのだと思う。
もっとも大きな「納得できない」部分は,
会費がどのように使われているか,だと思う。
現状どのように会費が使われているかは,
ここでは議論せず,
(ちょっと書いて良いのか躊躇する部分もあるので)
先にあげた学会の役割にかかる費用について考えることにする。
集会の開催には一定規模の費用がかかる。
しかし実際のところ,
集会開催にあたっては会費とは別に参加費を徴収しており,
参加費のみで十分に集会が可能な状況にある。
当学会は会員外でも発表できるので,
会員に対する参加費の割引(2000円? 年会費は10000円)があるとはいえ,
学会本体の会計から分離しても集会の運営は可能だろう。
雑誌の運営には多大な経費がかかっている。
しかしここで重要なことは,
「学会が雑誌を持つことの意義」である。
少なくとも,雑誌を運営することで,
その売り上げで学会として収益を得ることは,
学会が雑誌を運営する目的には該当しないだろう。
かつては(特に和文誌は),
会員間の連絡・情報共有を担っていたかもしれないが,
現在はMLがその役割を代行している状況にあると言える。
一方,日本語での総説は卒論修論生にとっては手頃な教科書となり,
教育・育成・啓蒙の点で一定の役割を果たしていると言える。
(これが学会にとって不可欠であるかは,ここでは議論しない)
現状,学会が雑誌を運営する最も大きなメリットは,
学会として編集に影響力を持てる欧文誌を保有する点だろう。
(たとえば研究の競合による海外誌での不当な扱いを避ける)
これを逆に言うと,
雑誌の印刷・販売などは業者に一任し,
学会は編集のみに責任を持つという体制で,
学会としては十分にメリットを享受できるということであり,
会費を雑誌運営に費やす必要はない,ということでもある。
あまり議論にあがらないが,
編集権を上手に利用して雑誌の活動度を上げるなど,
「出版社に利益をもたらす魅力的な雑誌編集」の責任が,
編集権を持つ学会にあることは明記しておくべきだろう。
学会賞(功労賞や奨励賞を含む)には,
メダル作成などで一定の会費が使用されている。
しかし賞に重要なのは「受賞」という事実であって,
必ずしもメダルが必要なわけではない。
(賞状ならたかがしれている)
(果たして受賞実績が重要なのか,も議論がわかれるか)
窓口業務には会費負担は無いが,
役員・委員が相応の時間を費やさねばならないという意味で,
負担は大きい。
しかしこれについては,
窓口実績(政府系の委員活動など?)が個人の業績になることを踏まえると,
業務負担する研究者個人的にはトントンなのかもしれないし,
学会としてはノーリスクノーリターンなのかもしれない。
その昔は科研費の審査員や細目を決定するのに,
学会が一定の役割を果たしたとかしていないとか。
あるいは特定の支持母体(パトロン)がある学会の場合は,
寄付金などの受け皿としての窓口業務があり,
これは広く学会員全体の利益となっているのだろうとも想像する。
一方,今後この窓口業務が,
中小学会から大規模連合に一元されることが考えられる。
となったとき,
そもそも中小学会には,窓口業務は求められないかもしれない。
若手支援は具体的な策が乏しい。
海外旅費援助などがあるものの応募状況は芳しくない。
(10万円の助成に応募が皆無ということもあった)
実際のところ,学生の間は指導教員の支援などもあり,
旅費などを学会としてサポートする必要がないのかもしれない。
学位取得後の若手が望む支援として考えられるのは,
雇用(身分)の保障,就職口の斡旋であろうが,
これは学会よりも個人規模で情報が行き交うことが多く,
学会としてMLでの公募情報案内をする以上のサポートは難しい。
若手会・ショートコースの開催は,
学部生・院生に対して一定の役割を果たしているかもしれないが,
その効果を追跡し評価することは難しい。
開催の人的・経済的負担との比較となるとなおさらである。
一般層への広報としては,
Q&Aをウェブサイトに情報を載せたり,
中等教育への講師派遣事業などを展開しているものの,
その数は多くなく,効果も不明瞭である。
またそもそもこういった事業を学会が主体的に実施する必要性を見いだすことは難しい。
受講者の側に立った時,
派遣元の看板はあまり関係なくなるのでは無いか。
学校同士,つまりは大学を通じて活動する方が効率的かもしれない。
やれば良いことは間違いないが,
時間的経済的な制約がある中でやらねばならないかは議論が必要である。
ということで,
本当にゼロベースで考えた時,
・年一回の独立採算の集会開催
・学会組織を背景に持たない雑誌編集組織
・諸連絡・情報共有ML
が機能として存在するミニマムな集団で必要最低限は満たされ,
かつその場合,
年会費はまったく必要なくなる。
でもそれは「本当のゼロベース」で考えた場合なので,
次回は現状改善にスポットをあてて考えてみる,予定。
ちょっと早いけど総括してしまう。
研究は進んだとは言いがたい。
地震によって出現した仕事を,なんとか消費したような状態。
以前から企画していたものや,新たに企画したようなものは,
結局が手つかずでほったらかし状態。
特に分析関係はまずい。
結局のところ,今は何も分析できないんじゃないか?
震災以降マスが動くことだけは確認したが,
それ以外のテストが何もできていない。
航海の試料もたまりにたまっている。
地震があったことで,
はからずも2011年のテーマであった「研究者の公共性」が問われた。
頭で整理する前に現実が襲ってきたこともあって,
感情をうまくコントロールできなかった。
具体的に書いてしまえば,
地震汁研究のような役に立たない研究を,
放射能マッピングをやるべき時期に実施することが,
自分の中でまったく消化できなかった。
汁研究を正当化する自分への言い訳は用意できたけども,
相対的に見たときに,これで本当に良いのかという点は,
今でも消化しきれてはいない。
自分の力では船舶運航計画を動かすことができない,という言い訳は,
本当に言い訳に過ぎず,
外の世界に対する申し訳なさ,研究者のエゴのエグ味を恥じることとあいまって,
このような研究世界に身を置いていること自体を悩んだりした。
すっかり社会が落ち着いてきた今になってしまい,
その部分を忘れることで研究と向き合うことはできるが,
それはそれで,まったく何の解決もできていない。
2012年以降も地震研究を続けるわけだが,
確たるものを確立しておく必要がある。
昨年末にムスメがうまれ,
物理的にも精神的にも生活が変わるかと思ったが,
地震疎開とその後の調査出張過多があってほぼ別居(単身赴任)であったので,
あまり変わらなかった。
ムスメが言葉を理解しない動物だったときはイマイチ愛情も持てなかったが,
最近になって言葉を理解し,歩き始めたことで,
なんとなくではあるけども,愛情が芽生えてきたような気がする。
2人目が生まれてくる頃にはまた新たな変化があるかもしれない。
子供に対してはこんな感じで今のところ判断がつかないけど,
ヨメに対してはこれまでとは違って,
結構明確に感謝の気持ちを抱くようになったし,
それをうまく表現できるようになってきた。
結婚を決めてから4年ほどが経過したが,
ようやく心を開けるようになった,ということなのかもしれない。
こういうのも「子は鎹」というのかな。
来年の抱負は来年。
Tweet
研究は進んだとは言いがたい。
地震によって出現した仕事を,なんとか消費したような状態。
以前から企画していたものや,新たに企画したようなものは,
結局が手つかずでほったらかし状態。
特に分析関係はまずい。
結局のところ,今は何も分析できないんじゃないか?
震災以降マスが動くことだけは確認したが,
それ以外のテストが何もできていない。
航海の試料もたまりにたまっている。
地震があったことで,
はからずも2011年のテーマであった「研究者の公共性」が問われた。
頭で整理する前に現実が襲ってきたこともあって,
感情をうまくコントロールできなかった。
具体的に書いてしまえば,
地震汁研究のような役に立たない研究を,
放射能マッピングをやるべき時期に実施することが,
自分の中でまったく消化できなかった。
汁研究を正当化する自分への言い訳は用意できたけども,
相対的に見たときに,これで本当に良いのかという点は,
今でも消化しきれてはいない。
自分の力では船舶運航計画を動かすことができない,という言い訳は,
本当に言い訳に過ぎず,
外の世界に対する申し訳なさ,研究者のエゴのエグ味を恥じることとあいまって,
このような研究世界に身を置いていること自体を悩んだりした。
すっかり社会が落ち着いてきた今になってしまい,
その部分を忘れることで研究と向き合うことはできるが,
それはそれで,まったく何の解決もできていない。
2012年以降も地震研究を続けるわけだが,
確たるものを確立しておく必要がある。
昨年末にムスメがうまれ,
物理的にも精神的にも生活が変わるかと思ったが,
地震疎開とその後の調査出張過多があってほぼ別居(単身赴任)であったので,
あまり変わらなかった。
ムスメが言葉を理解しない動物だったときはイマイチ愛情も持てなかったが,
最近になって言葉を理解し,歩き始めたことで,
なんとなくではあるけども,愛情が芽生えてきたような気がする。
2人目が生まれてくる頃にはまた新たな変化があるかもしれない。
子供に対してはこんな感じで今のところ判断がつかないけど,
ヨメに対してはこれまでとは違って,
結構明確に感謝の気持ちを抱くようになったし,
それをうまく表現できるようになってきた。
結婚を決めてから4年ほどが経過したが,
ようやく心を開けるようになった,ということなのかもしれない。
こういうのも「子は鎹」というのかな。
来年の抱負は来年。
月曜朝にイジさんホテル下にいたら,
黒塗りピカピカのリンカーンが迎えにきた。
一路ロスガトス。
新作インターフェースの共同開発の相談をして,
社長の案内で社内ツアー。
N2OのSPは濃度が濃ければもういけるとのこと。
水の17Oも。
対象波長を大幅にずらしたことでO2もいけるらしい。
タイ料理を食べに行ってサンフランシスコに戻る。
夜はイジ先輩の先輩のコイデさんとステーキディナー。
おいしかった。(もちろん高かったけども)
火曜朝,ホテルからシャトルで空港。
ボストンに30分も早く着き,
1本早めのピーターパンでファルマス。
バスでWifiができて便利。
到着も迎えが来ていないので地図に従い徒歩で向かう。
入れ違いだったみたいだが,無事シミズ邸。
翌朝からWHOIでJeffと再会。
バッテリーでランチなどとりつつ,
これまでとこれからの相談。
IRMSは直らない様子なので,サンプルはすべて引き上げ。
これでやることがまた増えた。
夜はシミズ邸でロブスター。
WHOI2日目はNOSAMSの見学。
普通にOpenSplitを通じてキャピラリがAMSに入っていってる。
すげー。
でも,なんか用途あんのかね?
昼はシミズ一家とボストン郊外のアウトレット。
そこから通勤電車で市内に入り,シルバーラインで空港。
ヒルトンに投宿。
翌朝,ボストン空港で,
KAWAHARA氏と間違い発券されるトラブル。
おかげさまで成田で荷物受け取れず。
今回の三週間渡米は,
最初の2件の発表と,
最後の開発・WHOIでの相談は実り多かったが,
ICGG-AGUについては,ちょっと時間をもてあました。
学会というもの自体に興味を失ってしまっているな,と実感。
来年は学会参加自重気味でいこう。
Tweet
黒塗りピカピカのリンカーンが迎えにきた。
一路ロスガトス。
新作インターフェースの共同開発の相談をして,
社長の案内で社内ツアー。
N2OのSPは濃度が濃ければもういけるとのこと。
水の17Oも。
対象波長を大幅にずらしたことでO2もいけるらしい。
タイ料理を食べに行ってサンフランシスコに戻る。
夜はイジ先輩の先輩のコイデさんとステーキディナー。
おいしかった。(もちろん高かったけども)
火曜朝,ホテルからシャトルで空港。
ボストンに30分も早く着き,
1本早めのピーターパンでファルマス。
バスでWifiができて便利。
到着も迎えが来ていないので地図に従い徒歩で向かう。
入れ違いだったみたいだが,無事シミズ邸。
翌朝からWHOIでJeffと再会。
バッテリーでランチなどとりつつ,
これまでとこれからの相談。
IRMSは直らない様子なので,サンプルはすべて引き上げ。
これでやることがまた増えた。
夜はシミズ邸でロブスター。
WHOI2日目はNOSAMSの見学。
普通にOpenSplitを通じてキャピラリがAMSに入っていってる。
すげー。
でも,なんか用途あんのかね?
昼はシミズ一家とボストン郊外のアウトレット。
そこから通勤電車で市内に入り,シルバーラインで空港。
ヒルトンに投宿。
翌朝,ボストン空港で,
KAWAHARA氏と間違い発券されるトラブル。
おかげさまで成田で荷物受け取れず。
今回の三週間渡米は,
最初の2件の発表と,
最後の開発・WHOIでの相談は実り多かったが,
ICGG-AGUについては,ちょっと時間をもてあました。
学会というもの自体に興味を失ってしまっているな,と実感。
来年は学会参加自重気味でいこう。