自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
エクセルでプロットを作って、
それをコピペでイラレにうつして、
そこでシコシコと調整作業
かなりメンドクサイ
以前はSigmaPlotなるものを使っていたが、
これはこれで、高いし、
使っている人が少ない
OSをまたぐとソフトを2つ買わねばならないので、
やはりMSオフィスとAdobeイラレというのは、
便利と言えば便利な組み合わせではある
しかし、メンドクサイ
なんか良い方法は無いかなぁ
それをコピペでイラレにうつして、
そこでシコシコと調整作業
かなりメンドクサイ
以前はSigmaPlotなるものを使っていたが、
これはこれで、高いし、
使っている人が少ない
OSをまたぐとソフトを2つ買わねばならないので、
やはりMSオフィスとAdobeイラレというのは、
便利と言えば便利な組み合わせではある
しかし、メンドクサイ
なんか良い方法は無いかなぁ
PR
研究のオリジナリティってのは、
どういう風に評価したら良いんだろうかね
そんなことを札幌で考えさせられました
たとえば、
「ポスドク」と「出身ラボの指導教員」の間で、
アイデアが重複した場合、
これのオリジナリティはどちらにあるんでしょうかね
特に卒論から一貫して指導を受けていたりすると、
「研究上の思考法」自体が指導教員によってたたき込まれていて、
結果的に、
同じ課題に目をつけ同じようなアプローチをして、
得られた結果を同じように解釈してしまったり、
そういうことは、大いにありえることなんだろうと思う
実験自体からポスドクで移ったラボではじめて、
装置や器具などはすべてポスドクのラボのものを使って、
その間、指導教員とは一切連絡をとっていなくて、
結果を出して考察して論文を書き上げる
元々のテーマ自体も自分で発想したつもりでいる
でもその発想の根幹は、
無自覚であっても、
きっと指導教員のモノであろう
だってその人からしか指導を受けたことが無いんだから
こういうケースでは、
はたしてこの論文は「パクリ」なのだろうか
あるいは「パクリだ」という告発を受けた場合、
どうやって反論ができるのだろうか
指導教員が、
「私は君が学生の頃、このアイデアを話したことがある。
ゆえに君のこの研究は私からのパクリである」
と言ってきた場合、
はっきりと反論できる材料など存在しない
こうした「指導教員の呪縛」を逃れるには、
もはやまったく異なる研究分野に移るしかない
でもそれでは研究の連続性も発展性も無くなってしまう
ポスドクになってから、出身ラボとまったく関係ない、
たとえば論文を書いても引用する範疇に指導教員がいないような研究を、
一からはじめるというのは、
はっきり言って無理がある
もしそのようなことを(意図せずとも)強要するのであれば、
それはまさにパワハラと呼ばれるものだろう
これとは別に、
学会発表で聞いたアイデアで、
その工夫を利用して論文を書くとする
これはパクリなのだろうか
こういうケースを想定する場合、
学会発表をどういう位置づけにするかが重要なわけだが、
誌上発表と同等の意味があるとすれば、
学会発表要旨であれ引用するべきだろう
学会発表に誌上発表ほどの意味がないのであれば、
引用することはできないかもしれない
では引用してもらえないにも関わらず、
なぜ学会発表をするのだろうか
それは自分の研究やアイデアを知ってもらいたいからではないか
そうして発表した内容について、
「あれはまだ論文にしてないのに、発表からアイデアをパクられた」
というのは、いかがなものか
だったら発表しなきゃ良いじゃないか
もし学会発表はクローズなものであり、
そこで見聞きしたモノはすべて忘れなければならないのであれば、
学会発表自体、何の意味もないことになる
ということで、
そうやって文句を言ってしまいそうな人は、
論文にできるメドのたっていない研究は学会発表すべきではない
あるいは発表するのであれば、
その内容についてどこかで論文になってしまっても文句は言わない
そういう態度であるべきではなかろうかと思う
自分が近い将来、指導教員になることを考えると、
やはり学生さんには学会発表なんかは経験させてやりたい
なので、
発表する以上はただちに論文化するよう頑張らせるし、
それが間に合わないで「パクられた」と感じることがあっても、
それは発表してしまったコチラに非が(非でもないけど)あるわけで、
それはそれで、仕方無いと思うしかない
そういうスタンスで学会発表をすればいいと思う
研究コミュニティってのは色んな部分が性善説で動いている
しかしその意味を間違えてはいけない
「パクらない」協定を結んだような性善説よりも、
「パクったんじゃなくて参考にした」と認めあえる性善説の方が、
学術の発展に寄与するだろう
研究行為はオナニーであっても良いけども、
研究成果をオナニー的な快楽に貶めてはいけない
「巨人の肩の上に立つ」である
Tweet
どういう風に評価したら良いんだろうかね
そんなことを札幌で考えさせられました
たとえば、
「ポスドク」と「出身ラボの指導教員」の間で、
アイデアが重複した場合、
これのオリジナリティはどちらにあるんでしょうかね
特に卒論から一貫して指導を受けていたりすると、
「研究上の思考法」自体が指導教員によってたたき込まれていて、
結果的に、
同じ課題に目をつけ同じようなアプローチをして、
得られた結果を同じように解釈してしまったり、
そういうことは、大いにありえることなんだろうと思う
実験自体からポスドクで移ったラボではじめて、
装置や器具などはすべてポスドクのラボのものを使って、
その間、指導教員とは一切連絡をとっていなくて、
結果を出して考察して論文を書き上げる
元々のテーマ自体も自分で発想したつもりでいる
でもその発想の根幹は、
無自覚であっても、
きっと指導教員のモノであろう
だってその人からしか指導を受けたことが無いんだから
こういうケースでは、
はたしてこの論文は「パクリ」なのだろうか
あるいは「パクリだ」という告発を受けた場合、
どうやって反論ができるのだろうか
指導教員が、
「私は君が学生の頃、このアイデアを話したことがある。
ゆえに君のこの研究は私からのパクリである」
と言ってきた場合、
はっきりと反論できる材料など存在しない
こうした「指導教員の呪縛」を逃れるには、
もはやまったく異なる研究分野に移るしかない
でもそれでは研究の連続性も発展性も無くなってしまう
ポスドクになってから、出身ラボとまったく関係ない、
たとえば論文を書いても引用する範疇に指導教員がいないような研究を、
一からはじめるというのは、
はっきり言って無理がある
もしそのようなことを(意図せずとも)強要するのであれば、
それはまさにパワハラと呼ばれるものだろう
これとは別に、
学会発表で聞いたアイデアで、
その工夫を利用して論文を書くとする
これはパクリなのだろうか
こういうケースを想定する場合、
学会発表をどういう位置づけにするかが重要なわけだが、
誌上発表と同等の意味があるとすれば、
学会発表要旨であれ引用するべきだろう
学会発表に誌上発表ほどの意味がないのであれば、
引用することはできないかもしれない
では引用してもらえないにも関わらず、
なぜ学会発表をするのだろうか
それは自分の研究やアイデアを知ってもらいたいからではないか
そうして発表した内容について、
「あれはまだ論文にしてないのに、発表からアイデアをパクられた」
というのは、いかがなものか
だったら発表しなきゃ良いじゃないか
もし学会発表はクローズなものであり、
そこで見聞きしたモノはすべて忘れなければならないのであれば、
学会発表自体、何の意味もないことになる
ということで、
そうやって文句を言ってしまいそうな人は、
論文にできるメドのたっていない研究は学会発表すべきではない
あるいは発表するのであれば、
その内容についてどこかで論文になってしまっても文句は言わない
そういう態度であるべきではなかろうかと思う
自分が近い将来、指導教員になることを考えると、
やはり学生さんには学会発表なんかは経験させてやりたい
なので、
発表する以上はただちに論文化するよう頑張らせるし、
それが間に合わないで「パクられた」と感じることがあっても、
それは発表してしまったコチラに非が(非でもないけど)あるわけで、
それはそれで、仕方無いと思うしかない
そういうスタンスで学会発表をすればいいと思う
研究コミュニティってのは色んな部分が性善説で動いている
しかしその意味を間違えてはいけない
「パクらない」協定を結んだような性善説よりも、
「パクったんじゃなくて参考にした」と認めあえる性善説の方が、
学術の発展に寄与するだろう
研究行為はオナニーであっても良いけども、
研究成果をオナニー的な快楽に貶めてはいけない
「巨人の肩の上に立つ」である
つぶやきさんで済ませてしまっていて、
すっかり母屋が留守宅になっていますが、
あくまでコチラが母屋です
特に言論活動はコチラでやっていきます
さてさて、
北海道大学主管の地球化学会に行ってきました
ホーム学会が古巣で実施されたため、
もう、それはそれは、大変でした
普段21時頃には布団に入る生活なのに、
初日から5夜連続で26時就寝
これだけでヘロヘロ
にも関わらず、
学生発表の審査などに駆り出され、
毎日マジメに朝一の講演から会場入りし、
昼間はポスター審査で戻らねばならぬため、
行きつけの定食屋などまで足を伸ばす余裕もなく、
もちろん会場の片隅で横になることも叶わず、
起きっぱなしでした
講演について、
学生審査のために異分野の講演会場に出入りし、
それで思ったことは、
イマイチ研究の大枠というか、
全体像、目指す先のようなものが矮小化されているのではないか、
ということでした
もちろん、12分という限られた時間では、
大目標から入ると個々の研究にたどり着くのは難しいかもしれませんが、
だとすれば、
せっかくのセッション制なのだから、
セッションコンビーナーによる趣旨説明のような時間を、
たとえば10分ぐらい確保しても良かったのではないかと思うわけです
ポスターの審査もあり、
「見やすさ、レイアウト」についてA~Dで判定するのですが、
残念ながらA評価に値するポスターはありませんでした
非常に残念
残念な原因として、配色がまずい、特に色の使いすぎがあり、
続いて詰め込み過ぎ、でしょうか
つまりは「過剰」なのですね
過ぎたるは及ばざるがごとしと言いますから、
そのあたりは来年度以降の課題でしょう
学会とはかんけいないけども、
札幌入りして行きつけの床屋に顔を出し、
行きつけのスープカリー屋で舌鼓を打ち、
古巣を探訪して話などしたところで、
携帯が充電できないという大問題が発生
急遽駅前のド○モショップに駆け込み、
アレコレ検討した結果、機種変更とあいなり、
出張初日から不慣れな新携帯となってしまいました
まぁしかし、
学部時代の旧友にも会い、
古巣の人々とも会い、
久々にアカハラ・パワハラを浴びせられ、
分野の知人らと語り合い、
大変刺激の多い一週間だったことは間違いない
毎年毎年これはしんどいけども、
5年に1度ぐらいは、
これぐらい「よく学び、よく遊べ」をやっても良いかと思いました
そうそう
ブーマナさんの奨励賞講演は、
意外と良かったですよ
Tweet
すっかり母屋が留守宅になっていますが、
あくまでコチラが母屋です
特に言論活動はコチラでやっていきます
さてさて、
北海道大学主管の地球化学会に行ってきました
ホーム学会が古巣で実施されたため、
もう、それはそれは、大変でした
普段21時頃には布団に入る生活なのに、
初日から5夜連続で26時就寝
これだけでヘロヘロ
にも関わらず、
学生発表の審査などに駆り出され、
毎日マジメに朝一の講演から会場入りし、
昼間はポスター審査で戻らねばならぬため、
行きつけの定食屋などまで足を伸ばす余裕もなく、
もちろん会場の片隅で横になることも叶わず、
起きっぱなしでした
講演について、
学生審査のために異分野の講演会場に出入りし、
それで思ったことは、
イマイチ研究の大枠というか、
全体像、目指す先のようなものが矮小化されているのではないか、
ということでした
もちろん、12分という限られた時間では、
大目標から入ると個々の研究にたどり着くのは難しいかもしれませんが、
だとすれば、
せっかくのセッション制なのだから、
セッションコンビーナーによる趣旨説明のような時間を、
たとえば10分ぐらい確保しても良かったのではないかと思うわけです
ポスターの審査もあり、
「見やすさ、レイアウト」についてA~Dで判定するのですが、
残念ながらA評価に値するポスターはありませんでした
非常に残念
残念な原因として、配色がまずい、特に色の使いすぎがあり、
続いて詰め込み過ぎ、でしょうか
つまりは「過剰」なのですね
過ぎたるは及ばざるがごとしと言いますから、
そのあたりは来年度以降の課題でしょう
学会とはかんけいないけども、
札幌入りして行きつけの床屋に顔を出し、
行きつけのスープカリー屋で舌鼓を打ち、
古巣を探訪して話などしたところで、
携帯が充電できないという大問題が発生
急遽駅前のド○モショップに駆け込み、
アレコレ検討した結果、機種変更とあいなり、
出張初日から不慣れな新携帯となってしまいました
まぁしかし、
学部時代の旧友にも会い、
古巣の人々とも会い、
久々にアカハラ・パワハラを浴びせられ、
分野の知人らと語り合い、
大変刺激の多い一週間だったことは間違いない
毎年毎年これはしんどいけども、
5年に1度ぐらいは、
これぐらい「よく学び、よく遊べ」をやっても良いかと思いました
そうそう
ブーマナさんの奨励賞講演は、
意外と良かったですよ
9月頭に自分の首席航海が終了し、
ここらでようやく一息と思っていたのだが、
そうは問屋がおろさず、
まだまだドタバタの日々は続きそう
まず10月に航海をいれてしまった
断っても良かったのだが、
思うところもあり参加することに
その直後に微生物生態学会での発表
こちらは初めての参戦
とはいっても、
学生時代の知人や現ラボの周辺民族もいるので、
完全なアウェーではあるまい
という10月上旬のイベントの前に、
所内のグラント申請がある
これは新ネタで勝負するつもりで、
それがゆえ、あまり練られていないので、時間を要するかも
まぁここで踏ん張っておけば、
その後の科研費申請にも応用できるという狙いもあるわけで、
もうちょっとリキいれてやらねば
ここらまでがドタバタかな
これが過ぎたら、
通常の年中行事モード
科研費の申請時期がやってきて、
11月末からは米国2週間で、
ICGGとAGU
メタンネタと地震ネタ
両方とも論文は投稿しているので、
まぁ気楽と言えば気楽か
で、
肝心の論文はというと、
地震ネタ:直滑降中
メタンネタ:査読塩漬け中
培養水素:手つかず
ナリタンセイ:最後の一手でグダグダ
やらねばならない実験はヤマほど
炭化水素系の分析立ち上げ
水素系の動作確認
新ネタ系のラボスペース確保
上記ができたら、
取り貯めたサンプル達の分析祭だ
10月から3月まで航海が無いのだから、
ここで色々と長い時間のかかる実験をやってしまいたい
諸々がうまくいくと、
国内留学で受入れる学生さんに良いデータを出してもらえるのだが、
うまくいかないと何もしないで帰ってもらうことになるかも
それはマズイので、
ダメでもどうにかなるようなネタも考えておかねば
そう思うと、
やはり常時学生が出入りする大学のラボは大変だなぁと思うわけで、
今のペースで仕事ができるのは、
やはり今の環境だからなのだな、と思うわけです
Tweet
ここらでようやく一息と思っていたのだが、
そうは問屋がおろさず、
まだまだドタバタの日々は続きそう
まず10月に航海をいれてしまった
断っても良かったのだが、
思うところもあり参加することに
その直後に微生物生態学会での発表
こちらは初めての参戦
とはいっても、
学生時代の知人や現ラボの周辺民族もいるので、
完全なアウェーではあるまい
という10月上旬のイベントの前に、
所内のグラント申請がある
これは新ネタで勝負するつもりで、
それがゆえ、あまり練られていないので、時間を要するかも
まぁここで踏ん張っておけば、
その後の科研費申請にも応用できるという狙いもあるわけで、
もうちょっとリキいれてやらねば
ここらまでがドタバタかな
これが過ぎたら、
通常の年中行事モード
科研費の申請時期がやってきて、
11月末からは米国2週間で、
ICGGとAGU
メタンネタと地震ネタ
両方とも論文は投稿しているので、
まぁ気楽と言えば気楽か
で、
肝心の論文はというと、
地震ネタ:直滑降中
メタンネタ:査読塩漬け中
培養水素:手つかず
ナリタンセイ:最後の一手でグダグダ
やらねばならない実験はヤマほど
炭化水素系の分析立ち上げ
水素系の動作確認
新ネタ系のラボスペース確保
上記ができたら、
取り貯めたサンプル達の分析祭だ
10月から3月まで航海が無いのだから、
ここで色々と長い時間のかかる実験をやってしまいたい
諸々がうまくいくと、
国内留学で受入れる学生さんに良いデータを出してもらえるのだが、
うまくいかないと何もしないで帰ってもらうことになるかも
それはマズイので、
ダメでもどうにかなるようなネタも考えておかねば
そう思うと、
やはり常時学生が出入りする大学のラボは大変だなぁと思うわけで、
今のペースで仕事ができるのは、
やはり今の環境だからなのだな、と思うわけです
疲れた
前半はイシバシ航海
鏡のような水面
潜航コンプリート
後半は自分首席航海
台風11号と12号の挟撃
潜航充足率は30%
前半は「学生」な学生さんたちに、
後半は「気の利かない」な社会人たちに、
体力と精神力を奪われてしまった
頼むから、
もうちょっとちゃんとしてくれ
時間を守る
やってることの意味を把握する
それだけのことじゃないか
航海中に、
10月の長崎航海と、
近い将来の遠洋航海の布石が・・・
なかなか自由な身にはなれないものです
Tweet
前半はイシバシ航海
鏡のような水面
潜航コンプリート
後半は自分首席航海
台風11号と12号の挟撃
潜航充足率は30%
前半は「学生」な学生さんたちに、
後半は「気の利かない」な社会人たちに、
体力と精神力を奪われてしまった
頼むから、
もうちょっとちゃんとしてくれ
時間を守る
やってることの意味を把握する
それだけのことじゃないか
航海中に、
10月の長崎航海と、
近い将来の遠洋航海の布石が・・・
なかなか自由な身にはなれないものです
前半は主に伊是名
後半は主に伊平屋
伊是名は、ちょっと自分の中で盛り上がってきているので、
ビシッと押さえておきたいところ
伊平屋は、ちょっとダレているというか、
もうなるようにしかならないので、
燃え上がるような気持ちはない
横須賀出航なので、
最初はゴロゴロするだけ
後半は首席なので、
ヤイヤイ言うだけ
最近、地震緊急調査が多かったけど、
今回はホームということで、
のんびりと、
いつものペースに持ち込んで仕事します
ぺいっ! (永田さん風に)
Tweet
後半は主に伊平屋
伊是名は、ちょっと自分の中で盛り上がってきているので、
ビシッと押さえておきたいところ
伊平屋は、ちょっとダレているというか、
もうなるようにしかならないので、
燃え上がるような気持ちはない
横須賀出航なので、
最初はゴロゴロするだけ
後半は首席なので、
ヤイヤイ言うだけ
最近、地震緊急調査が多かったけど、
今回はホームということで、
のんびりと、
いつものペースに持ち込んで仕事します
ぺいっ! (永田さん風に)
ボクがこの世に,この類いの才能を持って生まれた意味を考えると,ボクのやるべきことは,今やっているようなことではないと,ほぼ確信している。それでも動かないのは,ボクの怠慢だ。そう感じることが、最近多くなってきている。
それはどういうことかと言うと「科学者が科学の殻から飛び出して知識人となる」ということを,多くの科学者が自発的に実践せねばならない,ということ。今の科学者(研究者)に「知識人」と呼べるような人はほとんどいない。ものすごく我欲の強い,自己中心的な人ばかり。そうじゃないと研究者を続けられないという側面もあるが,はっきり言って,滅びるべき悪。
ボクの周りにいる「優秀な研究者」の中に「知識人」「賢者」と言えるような人はほとんどいない。「優秀な研究者」の多くは「科学的議論」には強くても「人間」「社会」というものに対する洞察や考察があまりにも浅はか。高学歴エリートコースを歩んできたという自覚が無いから,社会の一般人へのリーチが欠けているのも一因だと思う。政治や社会について語る時,それは筋は通ってはいるものの,本当の意味で「社会を良くしよう」というよりは,「自分が,自分の研究分野が発展するために」という出発点からの思考である場合が圧倒的に多い。
研究者は,研究者である前に社会人であることを認識すべきである。その上で,社会人でありながら一般人にはならないで、あくまで知識層である自覚も持ち続けなければならない。その匙加減は難しいが,漱石や諭吉を読むとそのアンバイが絶妙で,これが知識層のあるべき姿だ,というのを感じさせる。ボク自身が到達すべき地点を,今はそこに見据えている。
これは最近よく主張していることだけど,研究者というのは知識層で,そのことが認められているが故に,多額の税金と科学業界の自治が委ねられているのである。そこを無しにして,科学業界の発展のため,自分たちの利益のために振る舞うようなことは,あってはならない。「科学は広く世界人類に貢献するものである。国際競争は科学の進歩を促す。だから金をよこせ」は,一見すると筋が通っているように思えるが,科学の重要性を主張するのが科学者自身のみであるなら,そんな主張は通らない。たとえば相撲協会が「相撲は伝統文化で庶民娯楽だから協会へ投入する税金をもっと増やせ」なんて言ったら,消し飛ばされてしまうだろう。
蟻とキリギリスの話は,なにも「キリギリスは短絡的なアホだ」という意味だけではないと思う。物事のは常に両面があり,どちらを選択するか,選択させられるかは,無数の因子によって決まる。が,そういう時に,まず経済・カネの理論で考えるのは危険。それは経済は本質的に常に相対的なものだから。
絶対的な事象というものがある。イリイチが「ヴァナキュラー」と呼んだそれらは,「何かと交換することができない」もの。たとえば出産。たとえば健康。地震など天災,地球環境もこれに含まれるのかもしれない。これら代替不可能性を帯びたものと,代替によって定義される経済とを,同じ天秤に乗せて議論すべきではないし,することはできない。
経済に侵される前の世界では,それは当然のことだった。売春や同性愛,不貞行為がほとんどの宗教で強く禁じられているのは,これらの行為に差し出されるものが,代替不可能な,生身であるから。それは二度と戻ってこないものを差し出す,本質的な意味での消費行為であるから。
そして今,問題とされている人間活動による地球環境の変化や化石・地質資源の発掘・利用は,科学理論的には代替・再生可能であるかもしれないが,金銭的価値とは代替不可能なものである。それは過去の生命や地球活動の遺産であり,過去から今に至る時間を我々は再現することができないから。
原子力の利用はむしろこれの対極に位置し「本来的には存在し得ないもの」を作り出し,利用している。人間社会がヴァナキュラーを出発点にし,そこから軸足を動かすことができない以上,原子力は「勘定に入れることができないもの」であり,それを勘定に入れると,その歪みはヴァナキュラーに跳ね返る。
この「本来存在し得ないもの」を「存在させる」という意味においては,原子力は金融と同じである。ほとんどの宗教で「利息」は禁じられている。それは「存在し得ないもの存在させる」ことの暴走によって,ヴァナキュラーから始まり交換・代替によって保たれている世界の調和が崩壊させられるから。
と,いうようなことを考えてみたり。今の科学はあまりにも細分化し過ぎていて,今の科学の先端を行こうとすると,あまりに多くのことから目をそらさなければならない。そんな行為が,本当の意味で,人類の役に立つとは,到底思えないのです。
だから,ボクがすべきだと感じることは,高度に細分化された現在の科学業界で認められる研究をして,業界内で一定の発言力を身につけつつ,科学業界の内側から,上に述べたような,本質的な意味での「科学と社会のあり方」を提言していくこと。これは精神的にも能力的にも,大変な困難な道だと感じていますが,それでもボクは,そうあるべきことを目指すのを諦めてはならないとも思っています。
補足1 ヴァナキュラー的な考え方の実践のためのスポーツ
科学やってると「自分(の意見)の正しさを,論理的かつ科学的に正しい方法で主張する」ことに侵されていて,生身の人間という生物としての尊厳を感じ合ってないよね。それができる一つが,スポーツなんだよ。
サッカーでもバスケでも同じこと。「ここまでしか飛べない」「このスピードでしか走れない」っていう,生身の体の(しかも個々人によって差がある)絶対的な限界がある。それを互いに理解し合って,考慮すること。考慮した上で,自分の振る舞いを決めること。技術や個人戦術の拙いチームメイトであることを織り込み済みにして,上級者がチームをコントロールし,チームとしての最大値を目指すところが,生身世界に上手に理屈を導入した社会的な営みであるし,人間らしい部分。
補足2
ボクは決して先端科学を否定するモノではないし,今すぐ,そして永久にやめろと言っているわけじゃない。ただ,科学者同士での競争のために,研究のスピードを上げることに注力し過ぎているのが現状ではないか。もっとゆっくりやっても,明らかにすべきことは変わらない。過度な競争のために,人的・経済的・地球的な資源を最悪燃費で浪費する必要はない。新たな資源を発掘するような研究であっても,その実現可能性やそれにかかる様々な意味でのコストは常に勘定に入れねばならないし,そうした時に,競争原理で大量の資源を投入して急ぐ必要はどこにもない。研究者人口は,今の半分になっても良いと思っている。しかし,人類が科学をすべて放棄することは,それはそれで大変危険なことだとも思う。人間は”すでに”科学無しでは生きられないから。
Tweet
それはどういうことかと言うと「科学者が科学の殻から飛び出して知識人となる」ということを,多くの科学者が自発的に実践せねばならない,ということ。今の科学者(研究者)に「知識人」と呼べるような人はほとんどいない。ものすごく我欲の強い,自己中心的な人ばかり。そうじゃないと研究者を続けられないという側面もあるが,はっきり言って,滅びるべき悪。
ボクの周りにいる「優秀な研究者」の中に「知識人」「賢者」と言えるような人はほとんどいない。「優秀な研究者」の多くは「科学的議論」には強くても「人間」「社会」というものに対する洞察や考察があまりにも浅はか。高学歴エリートコースを歩んできたという自覚が無いから,社会の一般人へのリーチが欠けているのも一因だと思う。政治や社会について語る時,それは筋は通ってはいるものの,本当の意味で「社会を良くしよう」というよりは,「自分が,自分の研究分野が発展するために」という出発点からの思考である場合が圧倒的に多い。
研究者は,研究者である前に社会人であることを認識すべきである。その上で,社会人でありながら一般人にはならないで、あくまで知識層である自覚も持ち続けなければならない。その匙加減は難しいが,漱石や諭吉を読むとそのアンバイが絶妙で,これが知識層のあるべき姿だ,というのを感じさせる。ボク自身が到達すべき地点を,今はそこに見据えている。
これは最近よく主張していることだけど,研究者というのは知識層で,そのことが認められているが故に,多額の税金と科学業界の自治が委ねられているのである。そこを無しにして,科学業界の発展のため,自分たちの利益のために振る舞うようなことは,あってはならない。「科学は広く世界人類に貢献するものである。国際競争は科学の進歩を促す。だから金をよこせ」は,一見すると筋が通っているように思えるが,科学の重要性を主張するのが科学者自身のみであるなら,そんな主張は通らない。たとえば相撲協会が「相撲は伝統文化で庶民娯楽だから協会へ投入する税金をもっと増やせ」なんて言ったら,消し飛ばされてしまうだろう。
蟻とキリギリスの話は,なにも「キリギリスは短絡的なアホだ」という意味だけではないと思う。物事のは常に両面があり,どちらを選択するか,選択させられるかは,無数の因子によって決まる。が,そういう時に,まず経済・カネの理論で考えるのは危険。それは経済は本質的に常に相対的なものだから。
絶対的な事象というものがある。イリイチが「ヴァナキュラー」と呼んだそれらは,「何かと交換することができない」もの。たとえば出産。たとえば健康。地震など天災,地球環境もこれに含まれるのかもしれない。これら代替不可能性を帯びたものと,代替によって定義される経済とを,同じ天秤に乗せて議論すべきではないし,することはできない。
経済に侵される前の世界では,それは当然のことだった。売春や同性愛,不貞行為がほとんどの宗教で強く禁じられているのは,これらの行為に差し出されるものが,代替不可能な,生身であるから。それは二度と戻ってこないものを差し出す,本質的な意味での消費行為であるから。
そして今,問題とされている人間活動による地球環境の変化や化石・地質資源の発掘・利用は,科学理論的には代替・再生可能であるかもしれないが,金銭的価値とは代替不可能なものである。それは過去の生命や地球活動の遺産であり,過去から今に至る時間を我々は再現することができないから。
原子力の利用はむしろこれの対極に位置し「本来的には存在し得ないもの」を作り出し,利用している。人間社会がヴァナキュラーを出発点にし,そこから軸足を動かすことができない以上,原子力は「勘定に入れることができないもの」であり,それを勘定に入れると,その歪みはヴァナキュラーに跳ね返る。
この「本来存在し得ないもの」を「存在させる」という意味においては,原子力は金融と同じである。ほとんどの宗教で「利息」は禁じられている。それは「存在し得ないもの存在させる」ことの暴走によって,ヴァナキュラーから始まり交換・代替によって保たれている世界の調和が崩壊させられるから。
と,いうようなことを考えてみたり。今の科学はあまりにも細分化し過ぎていて,今の科学の先端を行こうとすると,あまりに多くのことから目をそらさなければならない。そんな行為が,本当の意味で,人類の役に立つとは,到底思えないのです。
だから,ボクがすべきだと感じることは,高度に細分化された現在の科学業界で認められる研究をして,業界内で一定の発言力を身につけつつ,科学業界の内側から,上に述べたような,本質的な意味での「科学と社会のあり方」を提言していくこと。これは精神的にも能力的にも,大変な困難な道だと感じていますが,それでもボクは,そうあるべきことを目指すのを諦めてはならないとも思っています。
補足1 ヴァナキュラー的な考え方の実践のためのスポーツ
科学やってると「自分(の意見)の正しさを,論理的かつ科学的に正しい方法で主張する」ことに侵されていて,生身の人間という生物としての尊厳を感じ合ってないよね。それができる一つが,スポーツなんだよ。
サッカーでもバスケでも同じこと。「ここまでしか飛べない」「このスピードでしか走れない」っていう,生身の体の(しかも個々人によって差がある)絶対的な限界がある。それを互いに理解し合って,考慮すること。考慮した上で,自分の振る舞いを決めること。技術や個人戦術の拙いチームメイトであることを織り込み済みにして,上級者がチームをコントロールし,チームとしての最大値を目指すところが,生身世界に上手に理屈を導入した社会的な営みであるし,人間らしい部分。
補足2
ボクは決して先端科学を否定するモノではないし,今すぐ,そして永久にやめろと言っているわけじゃない。ただ,科学者同士での競争のために,研究のスピードを上げることに注力し過ぎているのが現状ではないか。もっとゆっくりやっても,明らかにすべきことは変わらない。過度な競争のために,人的・経済的・地球的な資源を最悪燃費で浪費する必要はない。新たな資源を発掘するような研究であっても,その実現可能性やそれにかかる様々な意味でのコストは常に勘定に入れねばならないし,そうした時に,競争原理で大量の資源を投入して急ぐ必要はどこにもない。研究者人口は,今の半分になっても良いと思っている。しかし,人類が科学をすべて放棄することは,それはそれで大変危険なことだとも思う。人間は”すでに”科学無しでは生きられないから。
ついに受理されました
GRL
上々です
ボクはプロジェクトの後半になって参加して、
ぺろっと同位体分析をして、
少し論文に手を加えただけなので、
超ごっつぁんです
とはいえ、
著者3人の論文の2番目ですから、
ぱっと見の貢献度もそれなりでしょう
(実際は圧倒的に筆頭著者の貢献が大きいのですよ、もちろん)
地震の物理データと発生するH2量の比を実験で明らかにして、
マグニチュードからH2量を推定できるようにしたのがメインポイント
さらにちょろっと同位体データも載せていて、
無機的H2の中では圧倒的に重水素リッチなものができると指摘
ただこれについては、
ドライでの実験なので、ウェットの実験だと、
周囲の水の効果でまた変わったものができるかもしれない
いずれにせよ、
ある過程での分別係数を出しておくということは重要かと
この数字があるだけで、
次からの論文で議論が1パラ分ぐらい充実するのだ
今リジェクトされたばかりの論文と、
これから書き始める研究生の論文とで、
「地震水素三部作」となる予定
さてさて
まずは自分の論文です
科学がダメだったので、次は自然
自然がダメなら自然会話、そして自然地球、ダメなら地質
早い段階で、今年中に雪崩落ちがストップすることを祈るのみ
Tweet
GRL
上々です
ボクはプロジェクトの後半になって参加して、
ぺろっと同位体分析をして、
少し論文に手を加えただけなので、
超ごっつぁんです
とはいえ、
著者3人の論文の2番目ですから、
ぱっと見の貢献度もそれなりでしょう
(実際は圧倒的に筆頭著者の貢献が大きいのですよ、もちろん)
地震の物理データと発生するH2量の比を実験で明らかにして、
マグニチュードからH2量を推定できるようにしたのがメインポイント
さらにちょろっと同位体データも載せていて、
無機的H2の中では圧倒的に重水素リッチなものができると指摘
ただこれについては、
ドライでの実験なので、ウェットの実験だと、
周囲の水の効果でまた変わったものができるかもしれない
いずれにせよ、
ある過程での分別係数を出しておくということは重要かと
この数字があるだけで、
次からの論文で議論が1パラ分ぐらい充実するのだ
今リジェクトされたばかりの論文と、
これから書き始める研究生の論文とで、
「地震水素三部作」となる予定
さてさて
まずは自分の論文です
科学がダメだったので、次は自然
自然がダメなら自然会話、そして自然地球、ダメなら地質
早い段階で、今年中に雪崩落ちがストップすることを祈るのみ
予定とかやるべきこととか、
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本当に自己管理ができない
定型通りの書類を書くのは疲れるし、
ウェブ入力とかだといい加減になってしまう
秘書がほしい
秘書の給料をボクの給料から出してでも、
秘書がほしい
自動装置のスイッチ押すだけ程度の実験もしてくれれば、
本当に助かるのに
しかしまずは、自分でちゃんと論文書くことだな
高岡蒼甫が韓国に肩入れした番組を多く流すフジテレビに反感を示した騒動
会社は高岡を解雇、フジテレビはスルー
まず何はともあれ、
高岡は業界人で、事務所に所属していて、
事務所の取引先であるフジテレビに無礼を働いたわけだから、
所属事務所としては行動を問題視し解雇するのは当然
自分が確固たる思想を持っていて、
相手の思想がそれと大きく食い違っていても、
会社の看板の下で商売している以上は、
自分の思想は横に置いて振る舞わねばならないのは、
ビジネスの常識です
商売相手の思想がどうにも気にくわないのであれば、
商売からおりて、会社の看板をおろしてから(会社を辞めてから)、
相手を批判すればいいのだ
次に、フジテレビが韓国に肩入れするのは、
ネトウヨさん達が大喜びしているような思想ゆえというよりも、
もっと単純に営業的な意味合いが強い様子
たとえばKARAはフジテレビ系列の音楽会社が著作権を有するらしい
安く買えて高く売れる韓国(人)を利用して金儲けをしているということでしょう
そういう意味で、むしろネトウヨさん的にはフジGJ!なのではないのかとも思う
ただここで重要な点が一つ
高岡はフジテレビが「韓国」を推していることについて、
右翼的な発想で怒っているわけではない
彼は「この国難の時に海外のモノを売り込むこと」について、
異議を申し立てているのであって、
その異議自体は考慮に値するモノである
ようするに、
高岡にとっては「韓国」でも「米国」でも一緒なのだから、
そういう意味では、今回は「8」と名指ししているが、
たとえばメジャーリーグ放送に熱心な国営放送なども、
本来的には槍玉にあがってもおかしくないのである
フジテレビやNHK含めテレビ局が抱える問題は、
(日本に敵意を持っていると考える人もいる)「韓国」を推す思想的な問題でなく、
この国難の時に、
公共の電波利用の認可を得ているメディアとして、
自分たちの営利目的で特定の国・企業に肩入れしている場合か、
今この国で起こっていることの深層を考え、伝えるメディアとしての任を果たしているのか、
という、
倫理的な問題だろう
そして高岡が指摘したのもまた、この点なのではないか
この点でボクは高岡に同意するものだし、
テレビ局にこういう意味での倫理観がまったく欠如していることは明らかだと思う
無料放送のテレビが持つ強い影響力を考慮した時、
対等な立場で意見できるチェック機構があっても良いと思う
一番理想的なのは、
テレビ局同士が相互に(前向きに)批判しあえることなのだが、
その「タブー」に踏み込むのは大変だろう
これは予想であり希望でもあるのだけれど、
経営に行き詰まり広告の取れなくなったテレビ局が、
一気に翻って、広告主の影響を考慮しないメディアになることは、ありえる
スタジオも簡素に制作費を抑え(ジャパネット体制)、
一年中、朝ナマをしているような、
そんなテレビ局が誕生するのではないか、誕生すれば良いな、と
もちろん、
政治経済ネタだけでなく、
音楽やスポーツや芝居や科学や、何でも論じれば良いし、
使用料の発生しない映像などはバンバン利用すれば良し、
有料放送会社と提携するのも手かも知れない
持ち込みのパワポ画像を流しても良い
広告主の意向を気にしなければ、結構なんだってアリなんだ
互いを牽制して雁字搦めにしているBPOだって、この際ムシだ
とにかく、論客だって研究者だって芸術家だって、
「金を払ってでも自分(意見・作品)を公共の電波に乗せたい」ってのはゴマンといるのだから、
そういう意欲的な連中を吸い上げて、拡げることを手伝うような、
そういうメディアがあって良いし、というか、
本来的にはそれがメディアの役割なのではなかろうか
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会社は高岡を解雇、フジテレビはスルー
まず何はともあれ、
高岡は業界人で、事務所に所属していて、
事務所の取引先であるフジテレビに無礼を働いたわけだから、
所属事務所としては行動を問題視し解雇するのは当然
自分が確固たる思想を持っていて、
相手の思想がそれと大きく食い違っていても、
会社の看板の下で商売している以上は、
自分の思想は横に置いて振る舞わねばならないのは、
ビジネスの常識です
商売相手の思想がどうにも気にくわないのであれば、
商売からおりて、会社の看板をおろしてから(会社を辞めてから)、
相手を批判すればいいのだ
次に、フジテレビが韓国に肩入れするのは、
ネトウヨさん達が大喜びしているような思想ゆえというよりも、
もっと単純に営業的な意味合いが強い様子
たとえばKARAはフジテレビ系列の音楽会社が著作権を有するらしい
安く買えて高く売れる韓国(人)を利用して金儲けをしているということでしょう
そういう意味で、むしろネトウヨさん的にはフジGJ!なのではないのかとも思う
ただここで重要な点が一つ
高岡はフジテレビが「韓国」を推していることについて、
右翼的な発想で怒っているわけではない
彼は「この国難の時に海外のモノを売り込むこと」について、
異議を申し立てているのであって、
その異議自体は考慮に値するモノである
ようするに、
高岡にとっては「韓国」でも「米国」でも一緒なのだから、
そういう意味では、今回は「8」と名指ししているが、
たとえばメジャーリーグ放送に熱心な国営放送なども、
本来的には槍玉にあがってもおかしくないのである
フジテレビやNHK含めテレビ局が抱える問題は、
(日本に敵意を持っていると考える人もいる)「韓国」を推す思想的な問題でなく、
この国難の時に、
公共の電波利用の認可を得ているメディアとして、
自分たちの営利目的で特定の国・企業に肩入れしている場合か、
今この国で起こっていることの深層を考え、伝えるメディアとしての任を果たしているのか、
という、
倫理的な問題だろう
そして高岡が指摘したのもまた、この点なのではないか
この点でボクは高岡に同意するものだし、
テレビ局にこういう意味での倫理観がまったく欠如していることは明らかだと思う
無料放送のテレビが持つ強い影響力を考慮した時、
対等な立場で意見できるチェック機構があっても良いと思う
一番理想的なのは、
テレビ局同士が相互に(前向きに)批判しあえることなのだが、
その「タブー」に踏み込むのは大変だろう
これは予想であり希望でもあるのだけれど、
経営に行き詰まり広告の取れなくなったテレビ局が、
一気に翻って、広告主の影響を考慮しないメディアになることは、ありえる
スタジオも簡素に制作費を抑え(ジャパネット体制)、
一年中、朝ナマをしているような、
そんなテレビ局が誕生するのではないか、誕生すれば良いな、と
もちろん、
政治経済ネタだけでなく、
音楽やスポーツや芝居や科学や、何でも論じれば良いし、
使用料の発生しない映像などはバンバン利用すれば良し、
有料放送会社と提携するのも手かも知れない
持ち込みのパワポ画像を流しても良い
広告主の意向を気にしなければ、結構なんだってアリなんだ
互いを牽制して雁字搦めにしているBPOだって、この際ムシだ
とにかく、論客だって研究者だって芸術家だって、
「金を払ってでも自分(意見・作品)を公共の電波に乗せたい」ってのはゴマンといるのだから、
そういう意欲的な連中を吸い上げて、拡げることを手伝うような、
そういうメディアがあって良いし、というか、
本来的にはそれがメディアの役割なのではなかろうか