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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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ボクがこの世に,この類いの才能を持って生まれた意味を考えると,ボクのやるべきことは,今やっているようなことではないと,ほぼ確信している。それでも動かないのは,ボクの怠慢だ。そう感じることが、最近多くなってきている。

それはどういうことかと言うと「科学者が科学の殻から飛び出して知識人となる」ということを,多くの科学者が自発的に実践せねばならない,ということ。今の科学者(研究者)に「知識人」と呼べるような人はほとんどいない。ものすごく我欲の強い,自己中心的な人ばかり。そうじゃないと研究者を続けられないという側面もあるが,はっきり言って,滅びるべき悪。

ボクの周りにいる「優秀な研究者」の中に「知識人」「賢者」と言えるような人はほとんどいない。「優秀な研究者」の多くは「科学的議論」には強くても「人間」「社会」というものに対する洞察や考察があまりにも浅はか。高学歴エリートコースを歩んできたという自覚が無いから,社会の一般人へのリーチが欠けているのも一因だと思う。政治や社会について語る時,それは筋は通ってはいるものの,本当の意味で「社会を良くしよう」というよりは,「自分が,自分の研究分野が発展するために」という出発点からの思考である場合が圧倒的に多い。

研究者は,研究者である前に社会人であることを認識すべきである。その上で,社会人でありながら一般人にはならないで、あくまで知識層である自覚も持ち続けなければならない。その匙加減は難しいが,漱石や諭吉を読むとそのアンバイが絶妙で,これが知識層のあるべき姿だ,というのを感じさせる。ボク自身が到達すべき地点を,今はそこに見据えている。

これは最近よく主張していることだけど,研究者というのは知識層で,そのことが認められているが故に,多額の税金と科学業界の自治が委ねられているのである。そこを無しにして,科学業界の発展のため,自分たちの利益のために振る舞うようなことは,あってはならない。「科学は広く世界人類に貢献するものである。国際競争は科学の進歩を促す。だから金をよこせ」は,一見すると筋が通っているように思えるが,科学の重要性を主張するのが科学者自身のみであるなら,そんな主張は通らない。たとえば相撲協会が「相撲は伝統文化で庶民娯楽だから協会へ投入する税金をもっと増やせ」なんて言ったら,消し飛ばされてしまうだろう。


蟻とキリギリスの話は,なにも「キリギリスは短絡的なアホだ」という意味だけではないと思う。物事のは常に両面があり,どちらを選択するか,選択させられるかは,無数の因子によって決まる。が,そういう時に,まず経済・カネの理論で考えるのは危険。それは経済は本質的に常に相対的なものだから。

絶対的な事象というものがある。イリイチが「ヴァナキュラー」と呼んだそれらは,「何かと交換することができない」もの。たとえば出産。たとえば健康。地震など天災,地球環境もこれに含まれるのかもしれない。これら代替不可能性を帯びたものと,代替によって定義される経済とを,同じ天秤に乗せて議論すべきではないし,することはできない。

経済に侵される前の世界では,それは当然のことだった。売春や同性愛,不貞行為がほとんどの宗教で強く禁じられているのは,これらの行為に差し出されるものが,代替不可能な,生身であるから。それは二度と戻ってこないものを差し出す,本質的な意味での消費行為であるから。

そして今,問題とされている人間活動による地球環境の変化や化石・地質資源の発掘・利用は,科学理論的には代替・再生可能であるかもしれないが,金銭的価値とは代替不可能なものである。それは過去の生命や地球活動の遺産であり,過去から今に至る時間を我々は再現することができないから。

原子力の利用はむしろこれの対極に位置し「本来的には存在し得ないもの」を作り出し,利用している。人間社会がヴァナキュラーを出発点にし,そこから軸足を動かすことができない以上,原子力は「勘定に入れることができないもの」であり,それを勘定に入れると,その歪みはヴァナキュラーに跳ね返る。 

この
「本来存在し得ないもの」を「存在させる」という意味においては,原子力は金融と同じである。ほとんどの宗教で「利息」は禁じられている。それは「存在し得ないもの存在させる」ことの暴走によって,ヴァナキュラーから始まり交換・代替によって保たれている世界の調和が崩壊させられるから。


と,いうようなことを考えてみたり。今の科学はあまりにも細分化し過ぎていて,今の科学の先端を行こうとすると,あまりに多くのことから目をそらさなければならない。そんな行為が,本当の意味で,人類の役に立つとは,到底思えないのです。

だから,ボクがすべきだと感じることは,高度に細分化された現在の科学業界で認められる研究をして,業界内で一定の発言力を身につけつつ,科学業界の内側から,上に述べたような,本質的な意味での「科学と社会のあり方」を提言していくこと。これは精神的にも能力的にも,大変な困難な道だと感じていますが,それでもボクは,そうあるべきことを目指すのを諦めてはならないとも思っています。


補足1 ヴァナキュラー的な考え方の実践のためのスポーツ

科学やってると「自分(の意見)の正しさを,論理的かつ科学的に正しい方法で主張する」ことに侵されていて,生身の人間という生物としての尊厳を感じ合ってないよね。それができる一つが,スポーツなんだよ。

サッカーでもバスケでも同じこと。「ここまでしか飛べない」「このスピードでしか走れない」っていう,生身の体の(しかも個々人によって差がある)絶対的な限界がある。それを互いに理解し合って,考慮すること。考慮した上で,自分の振る舞いを決めること。技術や個人戦術の拙いチームメイトであることを織り込み済みにして,上級者がチームをコントロールし,チームとしての最大値を目指すところが,生身世界に上手に理屈を導入した社会的な営みであるし,人間らしい部分。


補足2
ボクは決して先端科学を否定するモノではないし,今すぐ,そして永久にやめろと言っているわけじゃない。ただ,科学者同士での競争のために,研究のスピードを上げることに注力し過ぎているのが現状ではないか。もっとゆっくりやっても,明らかにすべきことは変わらない。過度な競争のために,人的・経済的・地球的な資源を最悪燃費で浪費する必要はない。新たな資源を発掘するような研究であっても,その実現可能性やそれにかかる様々な意味でのコストは常に勘定に入れねばならないし,そうした時に,競争原理で大量の資源を投入して急ぐ必要はどこにもない。研究者人口は,今の半分になっても良いと思っている。しかし,人類が科学をすべて放棄することは,それはそれで大変危険なことだとも思う。人間は”すでに”科学無しでは生きられないから。

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