自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
年末年始の帰省のお供にしたのが、
「社会的共通資本」(宇沢弘文)
なんと内田樹の年始のエントリーもコレに基づくものであった
なんたる偶然
まだ初めの半分も読めていないし、
後半には本丸である「大学論」もあるけど、
現時点でのボクの考えをまとめておいて、
比較するのも一興かと思う
もちろんいつも通り、
グダグダでございます
宇沢は本著の中で、
社会的共通資本について、
「自然環境(大気・水・森林・河川・湖沼・海洋・土壌など)、
社会的インフラ(道路・交通機関・上下水道・電気・ガスなど)
制度資本(教育・医療・金融・司法・行政など)」
と定義している
また宇沢は本著の中で、
社会的共通資本の扱われ方について、
「市場的基準によって支配されてはならないし、また、
官僚的基準によって支配されてはならない」
「職業的専門家によって、
専門的知見にもとづき、
職業的規範にしたがって管理・維持されねばならない」
と述べ、さらに、
「社会的共通資本の管理をゆだねられた機構は、
あくまでも独立で、
自立的な立場に立って、
専門的知見に基づき、
職業的規律に従って行動し、
市民に対して直接的に管理責任を負うべき」
としている。
また、これらの言及の背景には、
社会的共通資本が、
「社会にとってきわめて「大切な」ものである」
ということがある。
この論に従えば、
いわゆる基礎科学を含む科学技術もまた、
社会的共通資本にカウントされるものであろう
また、
科学技術が職業的専門家たる研究者によって、
社会構成員の委託たる税金を用いて推進されているのは、
科学技術が社会的共通資本であるからとも言える
ボクはこの論から、
現在の科学技術をとりまく話題の中でも、
2つのことを考えた
1つはポスドク問題について
科学技術が社会的共通資本であるならば、
それは「職業的専門家」によって管理されるべきであり、
これを逆に読むと、
将来的に研究者となることを望む者は、
自らの能力・実力(専門的知見)が、
社会的共通資本である科学技術の「職業的専門家」として管理を委ねられるに足る、
という矜持を抱くことができるか、
ということを自問する必要があるだろう
現在のポスドク問題の、
もっぱら職業としての研究者にスポットをあてた、
自己責任論やセーフティーネット論には、
こういう部分が抜け落ちているのではないだろうか
もう1つはサイエンスコミュニケーション・アウトリーチについて
科学技術の管理を委託された研究者は、
「あくまでも独立で、自立的な立場に立って、
専門的知見に基づき、職業的規律に従って行動」するため、
その如何を社会構成員に対して説明する責任を負わない
というか、
科学技術研究は専門家に委託された社会的共通資本であるので、
一般社会構成員はその内容について判断する能力を持たない
だから、
「市民に対して直接的に管理責任を負うべき」というのは、
「市民は研究内容を理解する権利がある」という意味ではないだろう
むしろ、
「科学技術に対する管理責任を担いきれない」と研究者が判断した時は、
すみやかにその旨を自ら申告することこそが、
「自立的な立場に立って(中略)管理責任を負う」ということではないだろうか
つまり、
研究成果については、
社会的共通資本制度の前提として、
「職業的専門家が行動する限り研究成果が出ること」が「すでに決まっている」
むしろ、
もし成果が出ないのであれば、
その問題は、
職業的専門家(研究者)の専門的知見(実力)にあるのではなく、
職業的専門家が「自立的な立場に立って(中略)管理責任を負っていない」こと、
言い換えるならば、
「管理責任を全うできないことを隠蔽」し、
「構成員からの委託を受け続けていること」にあるのだろう
要するに、
研究者は、
常に社会の信託・委託を受けるに足るか否かを自問し、
その専門的知見がそれに足らないと認識したら、
すみやかに職業的専門家であることを辞せねばならない、
ということになる
で、
つまり、
あくまで社会的共通資本論に基づけば、
「タクスペイヤーである国民に対するアウトリーチ」なぞ、
そもそも必要ないのであろう
まとめると、
研究者は職業的専門家であるから不断の自己批判が必要ということになる
あるいは、
研究がある程度のコミュニティサイズで運営されることを考えると、
自己批判は相互批判としたほうがより効能が強いことも考えられ、
また、
研究内容のみならず、
いや、
むしろ研究者個人についてこそ、
専門的知見・職業的規範に対する厳しい直接的な相互批判が必要ということだろう
業界発展を望むばかりに、
この視点が欠落することは、
社会に対する科学業界の責任として、
あってはならないのではないだろう
と、思ったが、
これはあくまで社会的共通資本論のみに基づく話であり、
他の側面も含めて複合的な解釈をすると、
この限りではないのだろうなぁ
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「社会的共通資本」(宇沢弘文)
なんと内田樹の年始のエントリーもコレに基づくものであった
なんたる偶然
まだ初めの半分も読めていないし、
後半には本丸である「大学論」もあるけど、
現時点でのボクの考えをまとめておいて、
比較するのも一興かと思う
もちろんいつも通り、
グダグダでございます
宇沢は本著の中で、
社会的共通資本について、
「自然環境(大気・水・森林・河川・湖沼・海洋・土壌など)、
社会的インフラ(道路・交通機関・上下水道・電気・ガスなど)
制度資本(教育・医療・金融・司法・行政など)」
と定義している
また宇沢は本著の中で、
社会的共通資本の扱われ方について、
「市場的基準によって支配されてはならないし、また、
官僚的基準によって支配されてはならない」
「職業的専門家によって、
専門的知見にもとづき、
職業的規範にしたがって管理・維持されねばならない」
と述べ、さらに、
「社会的共通資本の管理をゆだねられた機構は、
あくまでも独立で、
自立的な立場に立って、
専門的知見に基づき、
職業的規律に従って行動し、
市民に対して直接的に管理責任を負うべき」
としている。
また、これらの言及の背景には、
社会的共通資本が、
「社会にとってきわめて「大切な」ものである」
ということがある。
この論に従えば、
いわゆる基礎科学を含む科学技術もまた、
社会的共通資本にカウントされるものであろう
また、
科学技術が職業的専門家たる研究者によって、
社会構成員の委託たる税金を用いて推進されているのは、
科学技術が社会的共通資本であるからとも言える
ボクはこの論から、
現在の科学技術をとりまく話題の中でも、
2つのことを考えた
1つはポスドク問題について
科学技術が社会的共通資本であるならば、
それは「職業的専門家」によって管理されるべきであり、
これを逆に読むと、
将来的に研究者となることを望む者は、
自らの能力・実力(専門的知見)が、
社会的共通資本である科学技術の「職業的専門家」として管理を委ねられるに足る、
という矜持を抱くことができるか、
ということを自問する必要があるだろう
現在のポスドク問題の、
もっぱら職業としての研究者にスポットをあてた、
自己責任論やセーフティーネット論には、
こういう部分が抜け落ちているのではないだろうか
もう1つはサイエンスコミュニケーション・アウトリーチについて
科学技術の管理を委託された研究者は、
「あくまでも独立で、自立的な立場に立って、
専門的知見に基づき、職業的規律に従って行動」するため、
その如何を社会構成員に対して説明する責任を負わない
というか、
科学技術研究は専門家に委託された社会的共通資本であるので、
一般社会構成員はその内容について判断する能力を持たない
だから、
「市民に対して直接的に管理責任を負うべき」というのは、
「市民は研究内容を理解する権利がある」という意味ではないだろう
むしろ、
「科学技術に対する管理責任を担いきれない」と研究者が判断した時は、
すみやかにその旨を自ら申告することこそが、
「自立的な立場に立って(中略)管理責任を負う」ということではないだろうか
つまり、
研究成果については、
社会的共通資本制度の前提として、
「職業的専門家が行動する限り研究成果が出ること」が「すでに決まっている」
むしろ、
もし成果が出ないのであれば、
その問題は、
職業的専門家(研究者)の専門的知見(実力)にあるのではなく、
職業的専門家が「自立的な立場に立って(中略)管理責任を負っていない」こと、
言い換えるならば、
「管理責任を全うできないことを隠蔽」し、
「構成員からの委託を受け続けていること」にあるのだろう
要するに、
研究者は、
常に社会の信託・委託を受けるに足るか否かを自問し、
その専門的知見がそれに足らないと認識したら、
すみやかに職業的専門家であることを辞せねばならない、
ということになる
で、
つまり、
あくまで社会的共通資本論に基づけば、
「タクスペイヤーである国民に対するアウトリーチ」なぞ、
そもそも必要ないのであろう
まとめると、
研究者は職業的専門家であるから不断の自己批判が必要ということになる
あるいは、
研究がある程度のコミュニティサイズで運営されることを考えると、
自己批判は相互批判としたほうがより効能が強いことも考えられ、
また、
研究内容のみならず、
いや、
むしろ研究者個人についてこそ、
専門的知見・職業的規範に対する厳しい直接的な相互批判が必要ということだろう
業界発展を望むばかりに、
この視点が欠落することは、
社会に対する科学業界の責任として、
あってはならないのではないだろう
と、思ったが、
これはあくまで社会的共通資本論のみに基づく話であり、
他の側面も含めて複合的な解釈をすると、
この限りではないのだろうなぁ
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