自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
ちょっと間が空きましたが、
これぐらいのペースの方が色々と考えられていいですね
オーバーアチーブについて、
「共通・相対的」と「個人・絶対的」の二者に分類するのは、
納得がいくものでした
共感
で、
オーバーアチーブは行動の結果に関することだけど、
その行動を実施する際の目的意識・動機付けには、
「内発的動機付け」と「外発的動機付け」があると聞いたことがあります
それぞれの意味は読んで字のごとくで、
内発的動機付けってのは、
自分の内側から湧き出る感情に基づいた行動動機を、
外発的動機付けってのは、
誰かに動機付けられることを言うようです
(専門的な意味はわかんなくって、ボクの解釈です)
T氏が例として挙げた「腹筋100回」というのが面白いので、
これを例にして考えると、
「腹筋100回やる」ことは動機的には内発的でも外発的でもありえると思います
「昨日は99回できたから今日は100回だ」は内発的、
「100回できないと罰が待ってるから100回やらねば」は外発的、
って、そんな感じ
数字を媒介するからなんとなく「共通のオーバーアチーブ」な感じがするけども、
本質的な部分は、
「その数字を設定したのはなぜか」にあるのかと思います
前回は「ゲーム」と「スポーツ」と言ってしまいましたが、
そもそも「スポーツ」ってなんやねん、って部分がややこしいですね
「スポーツ」の「ゲーム」的な部分は「競技」と呼ばれるものだと思います
「競技」ってのは相手と競うものだから、
そのもの自体が外発的動機によって行われてる
たとえば野球ってのは、
すごく競技として発達してるんだけど、
でも、
その競技での勝利を追求していくと、
相手や環境ってのは自分ではどうしようもないから、
どうするかって言うと、
もうそれは自分でできる範囲のことをより良くするしかない
そうすると、
もはや相手の実力や環境、競技の特性、
つまり外発的な事象なんかは到達目標の支配要因ではなくなって、
自分の行うことは内発的な動機に支配されていて、
練習が目的というか、
自分の心身操作(自己研鑽)が目的になっていくんじゃないかな
「競技」を突き詰めると、かえって「競技性」からは遠ざかっていく
そんな感覚じゃなかったかな、と自分を振り返っても思うなぁ
自分の話をすると、
フォームを確認するために泳いでいるときにタイムを採られると、
「今はタイムを計る場面じゃないでしょ!?」
みたいな
わかりにくいね
もう少し一般化すると、
ちょっと焦点がずれるかもしれないけど、
「自分が自発的に何をするか」じゃなくて、
「自分が何が起こることを想定しているか」って感じ
「後の先」ってのはこういうことを言ってるのかもしれない
「後の先」ができるための準備ってのは、
「先の先」だよね
で、
「何が起こるか」を想定するっていったけど、
そこで「世の中、何でも起こりうる」って考えてしまうと、
もう自分が何を想定しているのかが無くなってしまうよね
マンガの「昴」で、
プリシラってプリマドンナが、
まぁすごいバレリーナなんだけど、
この人は、
ただ立ってるんだよね
それってまさに「先の先」だな、って思いましたとさ
(おススメのマンガなのでぜひ読んでください)
なんか話がグダグダになってしまったので、
ちょっとお題らしきものを提案します
WBCが盛り上がったわけなんだけど、
NPB(日本のプロ野球)はいまいち盛り上がらない
サッカーのW杯予選は盛り上がっても、
Jリーグはさほどでもない
五輪のレスリングは盛り上がるけど、
プロレスは全然ダメ(比較対象が悪いか)
朝青龍は何やっても盛り上がるけど、
白鵬は勝っても負けても盛り上がらない
これって、
スポーツの種類じゃなくて、
「競技性の追求」と「それ以外の何か」で決まってる気がする
なんかそれぞれ「野蛮」と「茶番」で説明できそうなんだけど、
どうだろうか
Tweet
これぐらいのペースの方が色々と考えられていいですね
オーバーアチーブについて、
「共通・相対的」と「個人・絶対的」の二者に分類するのは、
納得がいくものでした
共感
で、
オーバーアチーブは行動の結果に関することだけど、
その行動を実施する際の目的意識・動機付けには、
「内発的動機付け」と「外発的動機付け」があると聞いたことがあります
それぞれの意味は読んで字のごとくで、
内発的動機付けってのは、
自分の内側から湧き出る感情に基づいた行動動機を、
外発的動機付けってのは、
誰かに動機付けられることを言うようです
(専門的な意味はわかんなくって、ボクの解釈です)
T氏が例として挙げた「腹筋100回」というのが面白いので、
これを例にして考えると、
「腹筋100回やる」ことは動機的には内発的でも外発的でもありえると思います
「昨日は99回できたから今日は100回だ」は内発的、
「100回できないと罰が待ってるから100回やらねば」は外発的、
って、そんな感じ
数字を媒介するからなんとなく「共通のオーバーアチーブ」な感じがするけども、
本質的な部分は、
「その数字を設定したのはなぜか」にあるのかと思います
前回は「ゲーム」と「スポーツ」と言ってしまいましたが、
そもそも「スポーツ」ってなんやねん、って部分がややこしいですね
「スポーツ」の「ゲーム」的な部分は「競技」と呼ばれるものだと思います
「競技」ってのは相手と競うものだから、
そのもの自体が外発的動機によって行われてる
たとえば野球ってのは、
すごく競技として発達してるんだけど、
でも、
その競技での勝利を追求していくと、
相手や環境ってのは自分ではどうしようもないから、
どうするかって言うと、
もうそれは自分でできる範囲のことをより良くするしかない
そうすると、
もはや相手の実力や環境、競技の特性、
つまり外発的な事象なんかは到達目標の支配要因ではなくなって、
自分の行うことは内発的な動機に支配されていて、
練習が目的というか、
自分の心身操作(自己研鑽)が目的になっていくんじゃないかな
「競技」を突き詰めると、かえって「競技性」からは遠ざかっていく
そんな感覚じゃなかったかな、と自分を振り返っても思うなぁ
自分の話をすると、
フォームを確認するために泳いでいるときにタイムを採られると、
「今はタイムを計る場面じゃないでしょ!?」
みたいな
わかりにくいね
もう少し一般化すると、
ちょっと焦点がずれるかもしれないけど、
「自分が自発的に何をするか」じゃなくて、
「自分が何が起こることを想定しているか」って感じ
「後の先」ってのはこういうことを言ってるのかもしれない
「後の先」ができるための準備ってのは、
「先の先」だよね
で、
「何が起こるか」を想定するっていったけど、
そこで「世の中、何でも起こりうる」って考えてしまうと、
もう自分が何を想定しているのかが無くなってしまうよね
マンガの「昴」で、
プリシラってプリマドンナが、
まぁすごいバレリーナなんだけど、
この人は、
ただ立ってるんだよね
それってまさに「先の先」だな、って思いましたとさ
(おススメのマンガなのでぜひ読んでください)
なんか話がグダグダになってしまったので、
ちょっとお題らしきものを提案します
WBCが盛り上がったわけなんだけど、
NPB(日本のプロ野球)はいまいち盛り上がらない
サッカーのW杯予選は盛り上がっても、
Jリーグはさほどでもない
五輪のレスリングは盛り上がるけど、
プロレスは全然ダメ(比較対象が悪いか)
朝青龍は何やっても盛り上がるけど、
白鵬は勝っても負けても盛り上がらない
これって、
スポーツの種類じゃなくて、
「競技性の追求」と「それ以外の何か」で決まってる気がする
なんかそれぞれ「野蛮」と「茶番」で説明できそうなんだけど、
どうだろうか
赤坂の米国大使館でビザ申請
海洋研で先生のハンコとサンプルの回収
本郷で打ち合わせと生協解約と記念講演
御茶ノ水で祝賀パーティー
せっかく東京に行くんだからと予定を詰め込んだものの、
詰め込みすぎで時間に追われ、
取立て業務ができなかった
むむー
祝賀パーティーでは、
初対面だったり、
北海道時代の人たちとお話できた
やはり、
冠婚葬祭には、
こういう「つながり」的なものがある
主役の存在もさることながら、
主役を介してできるネットワークこそ、
冠婚葬祭の意義なのではないだろうか、なんてね
コバこってりGCAを発見
読みたいが、
自分の投稿が先だ
Tweet
海洋研で先生のハンコとサンプルの回収
本郷で打ち合わせと生協解約と記念講演
御茶ノ水で祝賀パーティー
せっかく東京に行くんだからと予定を詰め込んだものの、
詰め込みすぎで時間に追われ、
取立て業務ができなかった
むむー
祝賀パーティーでは、
初対面だったり、
北海道時代の人たちとお話できた
やはり、
冠婚葬祭には、
こういう「つながり」的なものがある
主役の存在もさることながら、
主役を介してできるネットワークこそ、
冠婚葬祭の意義なのではないだろうか、なんてね
コバこってりGCAを発見
読みたいが、
自分の投稿が先だ
【戯れ】カテゴリーについて、
早速、色々と反応をいただいています
ボチボチやっていきますので、
今後も見てやってください
土曜は午後から急な呼び出しを受けて花見
西郷山公園で
酒が飲めなかったので乗り切れず、
ムニャムニャしてしまったうえ、
早退してしまった
申し訳ない
日曜はヨメ孝行
朝は三崎の朝市にくりだし、
昼はおうちでテレビを見たり模様替えをしたり、
夜は鎌倉の桜を見た後、
葉山で焼肉でした
焼肉レストラン 友琉館
葉山牛を売りにしているから行ってみたら、
葉山牛は一部メニューで、
その他は「和牛」と書かれていた
もちろんそれらも十分においしかったが、
お値段を考えると妥当な範囲内で、
決して突出しているわけではなかった
2人で13000円であの味なら、
次は別の店を探すことになるなぁ
葉山牛ステーキと、
鎌倉生パスタが次のお休みのグルメ候補らしい
Tweet
早速、色々と反応をいただいています
ボチボチやっていきますので、
今後も見てやってください
土曜は午後から急な呼び出しを受けて花見
西郷山公園で
酒が飲めなかったので乗り切れず、
ムニャムニャしてしまったうえ、
早退してしまった
申し訳ない
日曜はヨメ孝行
朝は三崎の朝市にくりだし、
昼はおうちでテレビを見たり模様替えをしたり、
夜は鎌倉の桜を見た後、
葉山で焼肉でした
焼肉レストラン 友琉館
葉山牛を売りにしているから行ってみたら、
葉山牛は一部メニューで、
その他は「和牛」と書かれていた
もちろんそれらも十分においしかったが、
お値段を考えると妥当な範囲内で、
決して突出しているわけではなかった
2人で13000円であの味なら、
次は別の店を探すことになるなぁ
葉山牛ステーキと、
鎌倉生パスタが次のお休みのグルメ候補らしい
「幸せ」とは,ある「枠(現状であったり目標)」を超えたときに得られるもので,
「不自由」とは,その「枠」が外から決められている状態ということっすか
妙に納得しました.
このときに「枠」を見つけられなかったり,
うまく作れないとキツイいんだと思います.
僕らの世代っていうのは他者が与える「枠」が少ない分,
自分で「枠」を作ることが大事やね.
ただ,うまく「枠」を作れる人はガンガン伸びていくことができる.
そういう時代だったのではないやろうか.
でも,こういう時代ももう終わりつつある.
他者からの「枠」に囲まれまくって,それを壊すだけで精一杯,
でもオーバアチーブはたくさんできるから幸せは感じられる.
これが,本来の世の中なのではないかと思います.
「ゲーム」と「スポーツ」の話は面白いね.
これは「茶番」と「野蛮」にも通じる部分もあるのかな.
(茶番と野蛮は海洋研時代に二人がテーマにしていた話題)
K氏が言う「ゲーム」におけるオーバアチーブは,
誰にとっても「共通のオーバアチーブ」やね.
それに対してK氏が定める「スポーツ」におけるオーバアチーブは,
それを行う人がそれぞれに感じる「個人のオーバアチーブ」なのではないでしょうか.
これは個人で異なるし,
同じ人でも年齢やそのときの状況によって変わってくるので,
いつでも楽しめるね.
この「個人のオーバーアチーブ」には,
いくつかの種類があるのではないかと思います.
ひとつは,「毎日100回腹筋する」とか「東京マラソンで4時間を切る」
とかいった自分で目標を設定するもので,
これは「共通のオーバーアチーブ」に近いタイプ.
僕が面白いと思うのはK氏が書いていたような
「うまくバットが振れた」といったタイプのオーバアチーブです.
これは,とても感覚的なもので,
どううまくバットが振れたのかと言葉で表現するのは難しいし,
数値で表現するのを難しい(実際,複雑な解析をすればわかるのかもしれないけれど).
でも,確かに「うまくバットが振れた」と感じることはあります.
水泳でも「うまく泳げた!」というオーバアチーブを感じることがあると思います.
僕が野球でこの感じを意識するようになったのは大学に入ってからです.
この感覚が得られたときは,
本当に結果(共通のオーバーアチーブが達成されたかどうか)は気にならないことが何度かありました.
つまり,凡退したけど納得みたいな気分.
僕はこの文章を書きはじめたとき,
「共通のオーバアチーブ」に対して「絶対的オーバーアチーブ」という名前を,
そして「個人のオーバアチーブ」に対して「相対的オーバーアチーブ」という名前を
つけようかと考えていました.
でも,これは多分,逆やね.
自分の感覚の(肉体的な?)中で感じる「うまくバット振れた」的な
オーバアチーブこそが「絶対的オーバーアチーブ」なのではないやろうか.
そして,これが達成されると他人が定めた「共通のオーバアチーブ」は
全然気になんないくらいの快感が得られるのではないやろうか.
きっとこういう時って何かしら脳に快楽物質が分泌されているのだと思うけれど,
これって「共通のオーバーアチーブ」(理論的オーバーアチーブとも言えるかも)を達成したときと同じモノが出るのかね.
違ったら面白いんだけどねー.
Tweet
「不自由」とは,その「枠」が外から決められている状態ということっすか
妙に納得しました.
このときに「枠」を見つけられなかったり,
うまく作れないとキツイいんだと思います.
僕らの世代っていうのは他者が与える「枠」が少ない分,
自分で「枠」を作ることが大事やね.
ただ,うまく「枠」を作れる人はガンガン伸びていくことができる.
そういう時代だったのではないやろうか.
でも,こういう時代ももう終わりつつある.
他者からの「枠」に囲まれまくって,それを壊すだけで精一杯,
でもオーバアチーブはたくさんできるから幸せは感じられる.
これが,本来の世の中なのではないかと思います.
「ゲーム」と「スポーツ」の話は面白いね.
これは「茶番」と「野蛮」にも通じる部分もあるのかな.
(茶番と野蛮は海洋研時代に二人がテーマにしていた話題)
K氏が言う「ゲーム」におけるオーバアチーブは,
誰にとっても「共通のオーバアチーブ」やね.
それに対してK氏が定める「スポーツ」におけるオーバアチーブは,
それを行う人がそれぞれに感じる「個人のオーバアチーブ」なのではないでしょうか.
これは個人で異なるし,
同じ人でも年齢やそのときの状況によって変わってくるので,
いつでも楽しめるね.
この「個人のオーバーアチーブ」には,
いくつかの種類があるのではないかと思います.
ひとつは,「毎日100回腹筋する」とか「東京マラソンで4時間を切る」
とかいった自分で目標を設定するもので,
これは「共通のオーバーアチーブ」に近いタイプ.
僕が面白いと思うのはK氏が書いていたような
「うまくバットが振れた」といったタイプのオーバアチーブです.
これは,とても感覚的なもので,
どううまくバットが振れたのかと言葉で表現するのは難しいし,
数値で表現するのを難しい(実際,複雑な解析をすればわかるのかもしれないけれど).
でも,確かに「うまくバットが振れた」と感じることはあります.
水泳でも「うまく泳げた!」というオーバアチーブを感じることがあると思います.
僕が野球でこの感じを意識するようになったのは大学に入ってからです.
この感覚が得られたときは,
本当に結果(共通のオーバーアチーブが達成されたかどうか)は気にならないことが何度かありました.
つまり,凡退したけど納得みたいな気分.
僕はこの文章を書きはじめたとき,
「共通のオーバアチーブ」に対して「絶対的オーバーアチーブ」という名前を,
そして「個人のオーバアチーブ」に対して「相対的オーバーアチーブ」という名前を
つけようかと考えていました.
でも,これは多分,逆やね.
自分の感覚の(肉体的な?)中で感じる「うまくバット振れた」的な
オーバアチーブこそが「絶対的オーバーアチーブ」なのではないやろうか.
そして,これが達成されると他人が定めた「共通のオーバアチーブ」は
全然気になんないくらいの快感が得られるのではないやろうか.
きっとこういう時って何かしら脳に快楽物質が分泌されているのだと思うけれど,
これって「共通のオーバーアチーブ」(理論的オーバーアチーブとも言えるかも)を達成したときと同じモノが出るのかね.
違ったら面白いんだけどねー.
早速楽しいネタ振りをしてくれてありがとう
今回の返事の元ネタは、
内田樹のお友達の平川さんの著書、
「ビジネスに戦略なんていらない」という本に書いてあったことです
キーワードは「オーバーアチーブ(over-achieve)」です
さて、
今回のお題は、
「自由」と「幸せ」の関係についてだと思います
そこでまずはじめに、
これらについてあらためて考えてみました
ここでいう自由とは、
自己の現状を設定する自由度のことを指していると思います
大昔だと、農業や狩猟をサボるとご飯が食べられず死んでしまいましたし、
戦後の日本も、まぁ一次産業からサラリーマンへとシフトしましたが、
生きるために行動するという点で、
原始的な生活と同じだったでしょう
そのような環境に属する人に求められるのは、
そう、まさに他人から「求められること」が「自分のすべきこと」だったんですね
「求められること」によって自由が奪われていたのです
一方現代の日本では、
ただ単に生きていくだけに自分自身の自由が奪われることはありません
ニートですね
そんな「他人から何かをすることを求められない状況」では、
「自分の実施することは自分で決める」ことができます
いきなりわからなくなってきましたが、
ここは大体の感じで次にいきます
「幸せ」についてですが、
今日のお話では、
「オーバーアチーブした時に幸せを感じる」という風に定義させてください
オーバーアチーブというのは、
文字通りにオーバーにアチーブするのですが、
簡単に言えば現状打破でしょうし、
「すべきこと」よりもさらに一歩踏み越えて「何か余計なこと」をすること、
と言っていいかと思います
ここでようやく自由と幸せの関係についてです
まず「不自由な自分」であった昔のケースですが、
上に述べた通り、
「不自由な自分」に対しては「外からの要求」が押し寄せてきています
この時に重要なことは、
「不自由」ということは、
「自由が無い」わけではなく、
「自由が制約された状況」であるということです
いきなり具体例ですが、
たとえば自分が稲作農家だとします
そんな自分は野球選手になれないし、都会で遊ぶこともままなりません
そういう職業選択や時間利用の自由は制限されるでしょう
でも、稲作の範囲内であれば、自由です
たとえば、
効率的な水路を構築したり、田んぼに蛙を放ったり、
色々な工夫が可能です
そしてその工夫により、
多く収穫があったり、
あるいは作業自体にバリエーションができたり、と、
単に同じ方法で稲作をするよりも余計な何かが生まれます
これは、
不自由だからこそ、
外からの要求で狭い枠の中に閉じ込められているからこそ、
自分の力でその枠を飛び出す、
あるいは枠を再構築する、
つまりオーバーアチーブすることが容易で、
幸せを感じることができるのだと思います
では、「自由な自分」ではどうでしょうか
「自由な自分」の行動の源は、
「理想の自分の獲得」にあるでしょう
そして、
ここには大きな問題が潜んでいます
それは、
「理想の自分」というのは、
文字通り理想的な状態で、
その状態以上のものはありません
つまり、
「自由」に「理想の自分」を目標に行動する限りにおいては、
“絶対にオーバーアチーブすることができない”のです
悲しいですね
そしてさらに悲しいことに、
「理想の自分」には制限がなくて、
時には現実よりも理想が先に更新されていきます
つまりこの状況下では、
“オーバーアチーブはおろかアチーブすらできない”のです
あぁ嘆かわしい
昨今、それこそ新入社員さんなどが、
「自己実現」を高らかに謳っているのを見ると、
悲しくなります
そういうゴールを設定してしまうと、
過程でも結論でも、
幸せにはなれないんですね
タモリの言葉に、
「俺は全体像にまったく欠けている。
なんか、全体像を持つと不幸ですよね。
こうあるべきとか位置づけると不幸ですよ。」
というのがあって、
これには大いに賛成するわけであります
ここまでで回答は終わりなんだけど、
もう二つ言っておきたいことができました
「不自由がゆえに実現できないことがあって不幸せだった」
というのは、
現在から過去を見て、
あるいは過去にさかのぼって未来(現在のこと)を見て、
そう思っているだけであって、
それは不幸せではないと思うんです
「ある過程で幸せを得られなかったから不幸せ」ってことは無いんです
それを実施したかった過去の時間は別のことに費やされていたわけで、
そこで幸せを感じていたらそれで良いんですよ
「オーバーアチーブ感」は過程や手段を選びませんからね
過去にさかのぼって、
過去から未来の、つまり現状の自分を見て、不幸せだとか言うのは、
幸せかどうかとは本質的には無関係な、
単なる夢物語ですよ
もう一つは、
「ゲーム」と「スポーツ」におけるオーバーアチーブ感の違いについてです
「ゲーム」というのはテレビゲームや、
あるいはたとえば野球をゲームとしてとらえたらということですが、
ゲームというのはですね、
オーバーアチーブする機会を随所に埋め込んだシステムを指すと思うんです
目的が設定されていて、
手段が決められていて、
その中で上手に自分が行動することで、
相手に勝ったり良い結果を出すというオーバーアチーブを体験する、
そういう仕組みのものだと見なせる、ということです
ゲームでは容易にオーバーアチーブを体感できるのですが、
それはゲーム内に限定的なものなので、
たとえばテレビゲームには、こうすればクリア、というのが設定されているし
「ゲームとしての野球」のバッターにとっては、まぁホームランが限界でしょうから、
ゲームの範囲内には「もうオーバーアチーブできない」限界点が存在するんです
一方、スポーツでは、
また野球を例に取りますが、
ホームランを打つことにオーバーアチーブ感はあまり無くって、
たとえば、
「うまくバットを振れた」
というところにオーバーアチーブがあるんですね
このオーバーアチーブ感の特徴は、
無段階、そして無限にあると思います
ゲームのように目標や枠というものが具体的でない分、
にわかにはオーバーアチーブが実感しにくいものの、
無段階・無限にオーバーアチーブできるので、
永遠に楽しむことができますよね
Tweet
今回の返事の元ネタは、
内田樹のお友達の平川さんの著書、
「ビジネスに戦略なんていらない」という本に書いてあったことです
キーワードは「オーバーアチーブ(over-achieve)」です
さて、
今回のお題は、
「自由」と「幸せ」の関係についてだと思います
そこでまずはじめに、
これらについてあらためて考えてみました
ここでいう自由とは、
自己の現状を設定する自由度のことを指していると思います
大昔だと、農業や狩猟をサボるとご飯が食べられず死んでしまいましたし、
戦後の日本も、まぁ一次産業からサラリーマンへとシフトしましたが、
生きるために行動するという点で、
原始的な生活と同じだったでしょう
そのような環境に属する人に求められるのは、
そう、まさに他人から「求められること」が「自分のすべきこと」だったんですね
「求められること」によって自由が奪われていたのです
一方現代の日本では、
ただ単に生きていくだけに自分自身の自由が奪われることはありません
ニートですね
そんな「他人から何かをすることを求められない状況」では、
「自分の実施することは自分で決める」ことができます
いきなりわからなくなってきましたが、
ここは大体の感じで次にいきます
「幸せ」についてですが、
今日のお話では、
「オーバーアチーブした時に幸せを感じる」という風に定義させてください
オーバーアチーブというのは、
文字通りにオーバーにアチーブするのですが、
簡単に言えば現状打破でしょうし、
「すべきこと」よりもさらに一歩踏み越えて「何か余計なこと」をすること、
と言っていいかと思います
ここでようやく自由と幸せの関係についてです
まず「不自由な自分」であった昔のケースですが、
上に述べた通り、
「不自由な自分」に対しては「外からの要求」が押し寄せてきています
この時に重要なことは、
「不自由」ということは、
「自由が無い」わけではなく、
「自由が制約された状況」であるということです
いきなり具体例ですが、
たとえば自分が稲作農家だとします
そんな自分は野球選手になれないし、都会で遊ぶこともままなりません
そういう職業選択や時間利用の自由は制限されるでしょう
でも、稲作の範囲内であれば、自由です
たとえば、
効率的な水路を構築したり、田んぼに蛙を放ったり、
色々な工夫が可能です
そしてその工夫により、
多く収穫があったり、
あるいは作業自体にバリエーションができたり、と、
単に同じ方法で稲作をするよりも余計な何かが生まれます
これは、
不自由だからこそ、
外からの要求で狭い枠の中に閉じ込められているからこそ、
自分の力でその枠を飛び出す、
あるいは枠を再構築する、
つまりオーバーアチーブすることが容易で、
幸せを感じることができるのだと思います
では、「自由な自分」ではどうでしょうか
「自由な自分」の行動の源は、
「理想の自分の獲得」にあるでしょう
そして、
ここには大きな問題が潜んでいます
それは、
「理想の自分」というのは、
文字通り理想的な状態で、
その状態以上のものはありません
つまり、
「自由」に「理想の自分」を目標に行動する限りにおいては、
“絶対にオーバーアチーブすることができない”のです
悲しいですね
そしてさらに悲しいことに、
「理想の自分」には制限がなくて、
時には現実よりも理想が先に更新されていきます
つまりこの状況下では、
“オーバーアチーブはおろかアチーブすらできない”のです
あぁ嘆かわしい
昨今、それこそ新入社員さんなどが、
「自己実現」を高らかに謳っているのを見ると、
悲しくなります
そういうゴールを設定してしまうと、
過程でも結論でも、
幸せにはなれないんですね
タモリの言葉に、
「俺は全体像にまったく欠けている。
なんか、全体像を持つと不幸ですよね。
こうあるべきとか位置づけると不幸ですよ。」
というのがあって、
これには大いに賛成するわけであります
ここまでで回答は終わりなんだけど、
もう二つ言っておきたいことができました
「不自由がゆえに実現できないことがあって不幸せだった」
というのは、
現在から過去を見て、
あるいは過去にさかのぼって未来(現在のこと)を見て、
そう思っているだけであって、
それは不幸せではないと思うんです
「ある過程で幸せを得られなかったから不幸せ」ってことは無いんです
それを実施したかった過去の時間は別のことに費やされていたわけで、
そこで幸せを感じていたらそれで良いんですよ
「オーバーアチーブ感」は過程や手段を選びませんからね
過去にさかのぼって、
過去から未来の、つまり現状の自分を見て、不幸せだとか言うのは、
幸せかどうかとは本質的には無関係な、
単なる夢物語ですよ
もう一つは、
「ゲーム」と「スポーツ」におけるオーバーアチーブ感の違いについてです
「ゲーム」というのはテレビゲームや、
あるいはたとえば野球をゲームとしてとらえたらということですが、
ゲームというのはですね、
オーバーアチーブする機会を随所に埋め込んだシステムを指すと思うんです
目的が設定されていて、
手段が決められていて、
その中で上手に自分が行動することで、
相手に勝ったり良い結果を出すというオーバーアチーブを体験する、
そういう仕組みのものだと見なせる、ということです
ゲームでは容易にオーバーアチーブを体感できるのですが、
それはゲーム内に限定的なものなので、
たとえばテレビゲームには、こうすればクリア、というのが設定されているし
「ゲームとしての野球」のバッターにとっては、まぁホームランが限界でしょうから、
ゲームの範囲内には「もうオーバーアチーブできない」限界点が存在するんです
一方、スポーツでは、
また野球を例に取りますが、
ホームランを打つことにオーバーアチーブ感はあまり無くって、
たとえば、
「うまくバットを振れた」
というところにオーバーアチーブがあるんですね
このオーバーアチーブ感の特徴は、
無段階、そして無限にあると思います
ゲームのように目標や枠というものが具体的でない分、
にわかにはオーバーアチーブが実感しにくいものの、
無段階・無限にオーバーアチーブできるので、
永遠に楽しむことができますよね
現在ようやく「日本語が亡びるとき」を読んでいる(思った通り面白い!)ので,読み終わったら感想書きたいと思います.
最近は「人生,不自由な方が幸せなこともある」というのを考えております.
今の日本の20-40代くらいの人たちは,世界の歴史で見ても例外的に「自由」な世代だったのではないやろうか?
でも「自由」なおかげで,自分の人生を自分で背負わなくてはならなくなった.
「不自由」な場合は,その「不自由」を言い訳にできたと思うんですよ.
「俺は○○したかったけど,××というどうしようもない理由があったからからできなかった.(それがなければ○○できたかも)」みたいなことが言えたし,本気でそう思えたんじゃないかな.
でも,「自由」だと自分が頑張りさえすればできるわけだから,できなかったのは全て自分の責任と思ってしまうのではないやろうか?
「頑張れば夢は必ず叶う」って言葉は「夢が叶わなかったのは,お前が頑張らなかったから」っていう意味でもあるよね.
実際は頑張っても夢は叶わないし,頑張ることができるのは一部の人間だけだと思うのです.
そもそもみんなが頑張る必要はないと思うし.
というより「頑張る」ってめちゃ抽象的な言葉やね.
何を持って「頑張った」と言えるのか.
まあ,これはまた今度話しましょう.
とにかく,今の20-40代で夢が叶っていない人たちっていうのは,無意識にそういう「自分は頑張らなかった(だからダメダメだ)」という負い目を感じながら生きているのではないかな,と思うことが最近ありました.
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最近は「人生,不自由な方が幸せなこともある」というのを考えております.
今の日本の20-40代くらいの人たちは,世界の歴史で見ても例外的に「自由」な世代だったのではないやろうか?
でも「自由」なおかげで,自分の人生を自分で背負わなくてはならなくなった.
「不自由」な場合は,その「不自由」を言い訳にできたと思うんですよ.
「俺は○○したかったけど,××というどうしようもない理由があったからからできなかった.(それがなければ○○できたかも)」みたいなことが言えたし,本気でそう思えたんじゃないかな.
でも,「自由」だと自分が頑張りさえすればできるわけだから,できなかったのは全て自分の責任と思ってしまうのではないやろうか?
「頑張れば夢は必ず叶う」って言葉は「夢が叶わなかったのは,お前が頑張らなかったから」っていう意味でもあるよね.
実際は頑張っても夢は叶わないし,頑張ることができるのは一部の人間だけだと思うのです.
そもそもみんなが頑張る必要はないと思うし.
というより「頑張る」ってめちゃ抽象的な言葉やね.
何を持って「頑張った」と言えるのか.
まあ,これはまた今度話しましょう.
とにかく,今の20-40代で夢が叶っていない人たちっていうのは,無意識にそういう「自分は頑張らなかった(だからダメダメだ)」という負い目を感じながら生きているのではないかな,と思うことが最近ありました.
海洋研の雑談相手だったT氏と、
この4月から離れ離れになってしまい、
悲しく思っていたのですが、
異動のご挨拶メールから、
文章ベースで雑談がはじまって、
これもアリだと思い、
メールで文通することにしました
で、
いつも二人で楽しくやっていたのですが、
せっかくなのでココに往復書簡を連載することにしました
「若き研究者達の戯れ」タグに載せますので、
よろしくお願いします
なお当ブログではコメントは受け付けませんが、
読者の皆さまも興味深い話には直接メールをしていただき、
連載にどんどん参加してもらいたいと思います
T氏を簡単に紹介しますと、
ボクとは境遇が似ていまして、
・大学スポーツにのめりこんだ(野球。ボクは水泳)
・学振DCもらえた
・博士から研究室を変えた
・ポスドクでさらに変えた
・博士課程時に結婚
という感じです
そういえばガンバル同期のI君なども似た感じですよね
では、
お楽しみいただければ幸いです
Tweet
この4月から離れ離れになってしまい、
悲しく思っていたのですが、
異動のご挨拶メールから、
文章ベースで雑談がはじまって、
これもアリだと思い、
メールで文通することにしました
で、
いつも二人で楽しくやっていたのですが、
せっかくなのでココに往復書簡を連載することにしました
「若き研究者達の戯れ」タグに載せますので、
よろしくお願いします
なお当ブログではコメントは受け付けませんが、
読者の皆さまも興味深い話には直接メールをしていただき、
連載にどんどん参加してもらいたいと思います
T氏を簡単に紹介しますと、
ボクとは境遇が似ていまして、
・大学スポーツにのめりこんだ(野球。ボクは水泳)
・学振DCもらえた
・博士から研究室を変えた
・ポスドクでさらに変えた
・博士課程時に結婚
という感じです
そういえばガンバル同期のI君なども似た感じですよね
では、
お楽しみいただければ幸いです
お昼に中抜けして駅へ行きビザ申請の振込み
そして、
駅に行ったらもちろん、
なか卯
カツ丼+はいから
言うこと無し
戻って話を聞いて、
友人からのメールを読み、
その返事を考え、
楽しい気分になる
論文の文献リストも完成
Endnoteはやはりすごい
夜はイジさん実験室でお話
FIさん*済
ということとか
Tweet
そして、
駅に行ったらもちろん、
なか卯
カツ丼+はいから
言うこと無し
戻って話を聞いて、
友人からのメールを読み、
その返事を考え、
楽しい気分になる
論文の文献リストも完成
Endnoteはやはりすごい
夜はイジさん実験室でお話
FIさん*済
ということとか
噂の新人研修でした
平朝彦理事のありがたい講和にはじまり、
機構の成り立ち、概要、契約や労働体系の仕組み、船舶の紹介など、
多岐にわたる情報が満載で、
ボクのような小さな容量の脳みそはフリーズして、
口からは水漏れ、
鼻からは汁漏れ、
頭からは魂漏れの、
ひどいありさまでした
ワタナベカヤマヒロミさんと、
形式上では同期入社のようで、
ちょいちょい突っ込みいれながら研修されてます
面白かったのは、
「かいこう」があるのに、
なぜ「ABISMO」を作ったのか、
という話
「機器の必要性もさることながら、
製造技術の継承に重点が・・・」
こういう無形の資産、
技術とか経験とかを、
どのように評価するかが難しいところですね
白鳳丸と淡青丸の移管については、
「運用日数を増やすための移管だ」
という解説でした
あと、
機構と某組織の統合について、
国会・文部科学委員会で、
「看板は一緒にするけど組織据え置きでは、
名簿上の数減らしに過ぎず、
統合することはかえってよくない」
というような質問が某党から出され、
保留案件となっているという案内もあった
統合は今年度中には無い!?
(上記、詳細は違うかも)
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平朝彦理事のありがたい講和にはじまり、
機構の成り立ち、概要、契約や労働体系の仕組み、船舶の紹介など、
多岐にわたる情報が満載で、
ボクのような小さな容量の脳みそはフリーズして、
口からは水漏れ、
鼻からは汁漏れ、
頭からは魂漏れの、
ひどいありさまでした
ワタナベカヤマヒロミさんと、
形式上では同期入社のようで、
ちょいちょい突っ込みいれながら研修されてます
面白かったのは、
「かいこう」があるのに、
なぜ「ABISMO」を作ったのか、
という話
「機器の必要性もさることながら、
製造技術の継承に重点が・・・」
こういう無形の資産、
技術とか経験とかを、
どのように評価するかが難しいところですね
白鳳丸と淡青丸の移管については、
「運用日数を増やすための移管だ」
という解説でした
あと、
機構と某組織の統合について、
国会・文部科学委員会で、
「看板は一緒にするけど組織据え置きでは、
名簿上の数減らしに過ぎず、
統合することはかえってよくない」
というような質問が某党から出され、
保留案件となっているという案内もあった
統合は今年度中には無い!?
(上記、詳細は違うかも)