自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
大阪産業大学が行っていた,
私立補助金を受け取るための操作が暴露されました。
========以下ー産経ニュースより========
国の「私立大学等経常費補助金」に関し、当時は入学者数が定員の1・37倍以上になった学部には支給しない規定があった。
告発によると、大産大経営学部の21年度の定員は465人で、補助金受給には入学者数を637人以下に抑える必要があったが、20年12月までに、推薦入試などで600人近くの入学が決定。一般入試の募集定員は78人としており、入学者総数が637人を上回る見通しとなっていた。
このため、大学側は当時の付属高教頭に対し、入学意思がなく成績優秀な生徒に経営学部を受験させるよう依頼。元教頭の指示を受けた担任教諭2人が3年生9人に受験を依頼し、一般入試を日程別に延べ数十回受験。合格した生徒に1回あたり5千円が渡された。
依頼を受けた合格者で実際に入学した生徒はなく、大学側は入学者数を意図的に抑制して基準を満たした結果、21年度の補助金約10億円を受け取ったという。
引用元記事
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130317/crm13031719350002-n1.htm
==========ここまで=============
要約すると,
・大学側は補助金がもらえるギリギリの数まで入学者数を確保したい
・推薦などの入学者数が伸びすぎて一般入試全員を合格させると補助金がもらえなくなる
・一般入試での合格枠を消費しつつ入学数を抑制するため付属校の生徒に依頼
・依頼された生徒は受験し,合格し,入学しないことで,報酬をゲット
・大学は補助金がもらえる数まで入学者数を減らせて,補助金をゲット
ということで,
何が問題かというと,
・大学が入試の合格者数を決定する基準として「補助金の規定ありき」で動いた
・その結果,入学を希望していたかもしれない一般受験者が落ちた
の二点でしょうか。
【大学の儲け主義のために,受験生が犠牲になり,税金がもっていかれた】
という図式です。
「より良い社会のためにより良く教育された人を増やしたいね」というのが,
社会が大学を持っている意義だろうし,
その意義を感じるから,私立大学といえども,国から補助金が出るわけで,
それなのに,
肝心要の大学が自身の儲けに目がくらんで行動しているという,
なんとも悲しいお話なのです。
メモがわりとして
私立補助金を受け取るための操作が暴露されました。
========以下ー産経ニュースより========
国の「私立大学等経常費補助金」に関し、当時は入学者数が定員の1・37倍以上になった学部には支給しない規定があった。
告発によると、大産大経営学部の21年度の定員は465人で、補助金受給には入学者数を637人以下に抑える必要があったが、20年12月までに、推薦入試などで600人近くの入学が決定。一般入試の募集定員は78人としており、入学者総数が637人を上回る見通しとなっていた。
このため、大学側は当時の付属高教頭に対し、入学意思がなく成績優秀な生徒に経営学部を受験させるよう依頼。元教頭の指示を受けた担任教諭2人が3年生9人に受験を依頼し、一般入試を日程別に延べ数十回受験。合格した生徒に1回あたり5千円が渡された。
依頼を受けた合格者で実際に入学した生徒はなく、大学側は入学者数を意図的に抑制して基準を満たした結果、21年度の補助金約10億円を受け取ったという。
引用元記事
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130317/crm13031719350002-n1.htm
==========ここまで=============
要約すると,
・大学側は補助金がもらえるギリギリの数まで入学者数を確保したい
・推薦などの入学者数が伸びすぎて一般入試全員を合格させると補助金がもらえなくなる
・一般入試での合格枠を消費しつつ入学数を抑制するため付属校の生徒に依頼
・依頼された生徒は受験し,合格し,入学しないことで,報酬をゲット
・大学は補助金がもらえる数まで入学者数を減らせて,補助金をゲット
ということで,
何が問題かというと,
・大学が入試の合格者数を決定する基準として「補助金の規定ありき」で動いた
・その結果,入学を希望していたかもしれない一般受験者が落ちた
の二点でしょうか。
【大学の儲け主義のために,受験生が犠牲になり,税金がもっていかれた】
という図式です。
「より良い社会のためにより良く教育された人を増やしたいね」というのが,
社会が大学を持っている意義だろうし,
その意義を感じるから,私立大学といえども,国から補助金が出るわけで,
それなのに,
肝心要の大学が自身の儲けに目がくらんで行動しているという,
なんとも悲しいお話なのです。
メモがわりとして
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大学の教育とか,そういう議論とは別物として,
経済社会における「大学生」ってものを考えてみる。
-------------------
まずは一般用語の整理から。
厚生労働省のウェブサイトに「厚生労働に用いる用語解説」がある。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/kaisetu/index-hw.html
この議論で重要なのは,
「生産年齢人口」って言葉で,
「生産年齢」である15~64歳の人口のこと。
この年齢層が労働力で,
これより若い年少層は,人権的観点から,
「労働に従事させないようにしましょう」と考えられています。
児童労働:http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/ipec/index.htm
65歳以上の老年については,
「最近の老人は元気だから」などという論もありますが,
とりあえず「労働力として期待できない」ということにしておきます。
日本の人口構造は,少子高齢に向かっていて,
総人口に対する生産年齢人口の比率は減少しています。
2050年の予想人口ピラミッドが総務省統計局のサイトにあります。
http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/kouhou/useful/u01_z23.htm
-------------------
で,ここからは便宜上,
18−21歳の年齢層の人々,つまり「普通の大学性の年齢層」を,
「若者」と呼ぶことにします。
若者は,生産年齢層で,労働力として期待されています。
その期待感は,人口構造の推移から,
今後より高まってくると思われます。
一方,大学進学率は上昇し続け,
ついに2009年には50%を超えるに至りました。
ちなみに高校進学率は30年ぐらい前から90%超えが続いています。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3927.html
若者は4世代(4年制大学)なので,
その50%となると,
生産年齢(15−64歳の40世代)の5%です。
つまり,現時点でこの国の労働力として期待できる人口のうち,
5%が「働かないで大学生をしている」計算になります。
-------------------
この「5%が働いていない」ことについて,
単純にお金のことだけに着目すると,
2つの視点があります。
1つは単純な話として「働け」という視点です。
総人口が減る,老年人口は増える,生産年齢人口は減る。
そんな社会で,生産年齢の若者を,のんびりさせておく余裕はない。
働いて,稼いで,税金を納めてもらわないことには,困る。
(さらに本音を言えば,大卒より高卒の方が安く雇える)
つまり「労働力としての若者」という視点です。
もう1つは「消費者としての若者」です。
「若者」が「大学生になる・大学生でいる」ことで,
多くのビジネスが動いています。
塾など教育受験産業はもちろんのこと,
学校自体も,そこに雇用があるわけで,一つのビジネス形態です。
また「若者の親世代」は,多くの場合もっとも稼ぐ年齢層なので,
この層から【若者と大学を介して】お金をはき出させることは,
社会として見過ごせない重要な機能です。
仮に「若者」が大学に行かず就職することを考えると,
この「若者の親」は迫り来る自身の老後に向けて貯蓄するでしょうから,
「貯蓄に回ってしまうお金を社会に流通させるため」と考えると,
「消費者としての若者」という触媒の社会的必要性を感じます。
ちなみに大学には多額の税金が投入されています。
国立大学(約1兆円)はもちろんのこと,
私立大学にも国から補助金が投入されています。(約3200億円)
http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/stat/090503d.html
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/shinkou/07021403/002.htm
これについては,
「生産年齢人口が働かないために税金を使っている」とも考えられます。
「税金の無駄遣いだ」と見るか,「経済を回している」と見るか,
見解がわかれるところでしょう。
---------------------
さて,近年の傾向として,
若者人口は減少していますが,
私立大学数は増加しています。
http://eri.netty.ne.jp/data/uni_04.htm
これは良い方向に考えれば,
「より多くの若者に高等教育を受けさせ,より良い社会を築こう」
という風に解釈できます。
一方で,
そんな高邁な思想が近年爆発的に普及して,
みなが雪崩を打って大学の経営に乗り出したのだろう,
と考えるのは,さすがに無理筋な気もします。
むしろ,ちょっと穿った見方になるけれども,
『「大学経営は儲かる」という考えがあったのではないか』
と考える方が妥当な気もします。
大学経営には,先にあげた通り私学助成という税金補助がありますし,
また少子化もあって「子の教育に出費を惜しまない親」も想定されますから,
「おいしいビジネス」と考えるのも,ありえない話では無いと思います。
ちなみに1991年に大学設置基準が緩和されたことが,
大学数の増加のきっかけになったとする論が大勢です。
http://benesse.jp/blog/20121009/p2.html
もちろん,
新たに大学をはじめた人が何を考えていたかはわかりません。
---------------------
大学の存在ってのが,こうして考えてきたように,
経済と密接に関わっていて,
しかもその接点が今後より注目を集めることが予想されるわけです。
(主として生産年齢人口減を要因として)
だからこそ,
経済と関係無い部分で,
「社会における高等教育の意義」という大上段に構えた時に,
単なるスローガンや組織論などではなく,
確たる信念と方向性に加え,方法論までをあわせて示す必要があるのでしょう。
それが「グローバル人材の育成」みたいな,
経済側の論理に寄った教育観では,
もう大学に未来はないなぁ,という感じがします。
Tweet
経済社会における「大学生」ってものを考えてみる。
-------------------
まずは一般用語の整理から。
厚生労働省のウェブサイトに「厚生労働に用いる用語解説」がある。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/kaisetu/index-hw.html
この議論で重要なのは,
「生産年齢人口」って言葉で,
「生産年齢」である15~64歳の人口のこと。
この年齢層が労働力で,
これより若い年少層は,人権的観点から,
「労働に従事させないようにしましょう」と考えられています。
児童労働:http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/ipec/index.htm
65歳以上の老年については,
「最近の老人は元気だから」などという論もありますが,
とりあえず「労働力として期待できない」ということにしておきます。
日本の人口構造は,少子高齢に向かっていて,
総人口に対する生産年齢人口の比率は減少しています。
2050年の予想人口ピラミッドが総務省統計局のサイトにあります。
http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/kouhou/useful/u01_z23.htm
-------------------
で,ここからは便宜上,
18−21歳の年齢層の人々,つまり「普通の大学性の年齢層」を,
「若者」と呼ぶことにします。
若者は,生産年齢層で,労働力として期待されています。
その期待感は,人口構造の推移から,
今後より高まってくると思われます。
一方,大学進学率は上昇し続け,
ついに2009年には50%を超えるに至りました。
ちなみに高校進学率は30年ぐらい前から90%超えが続いています。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3927.html
若者は4世代(4年制大学)なので,
その50%となると,
生産年齢(15−64歳の40世代)の5%です。
つまり,現時点でこの国の労働力として期待できる人口のうち,
5%が「働かないで大学生をしている」計算になります。
-------------------
この「5%が働いていない」ことについて,
単純にお金のことだけに着目すると,
2つの視点があります。
1つは単純な話として「働け」という視点です。
総人口が減る,老年人口は増える,生産年齢人口は減る。
そんな社会で,生産年齢の若者を,のんびりさせておく余裕はない。
働いて,稼いで,税金を納めてもらわないことには,困る。
(さらに本音を言えば,大卒より高卒の方が安く雇える)
つまり「労働力としての若者」という視点です。
もう1つは「消費者としての若者」です。
「若者」が「大学生になる・大学生でいる」ことで,
多くのビジネスが動いています。
塾など教育受験産業はもちろんのこと,
学校自体も,そこに雇用があるわけで,一つのビジネス形態です。
また「若者の親世代」は,多くの場合もっとも稼ぐ年齢層なので,
この層から【若者と大学を介して】お金をはき出させることは,
社会として見過ごせない重要な機能です。
仮に「若者」が大学に行かず就職することを考えると,
この「若者の親」は迫り来る自身の老後に向けて貯蓄するでしょうから,
「貯蓄に回ってしまうお金を社会に流通させるため」と考えると,
「消費者としての若者」という触媒の社会的必要性を感じます。
ちなみに大学には多額の税金が投入されています。
国立大学(約1兆円)はもちろんのこと,
私立大学にも国から補助金が投入されています。(約3200億円)
http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/stat/090503d.html
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/shinkou/07021403/002.htm
これについては,
「生産年齢人口が働かないために税金を使っている」とも考えられます。
「税金の無駄遣いだ」と見るか,「経済を回している」と見るか,
見解がわかれるところでしょう。
---------------------
さて,近年の傾向として,
若者人口は減少していますが,
私立大学数は増加しています。
http://eri.netty.ne.jp/data/uni_04.htm
これは良い方向に考えれば,
「より多くの若者に高等教育を受けさせ,より良い社会を築こう」
という風に解釈できます。
一方で,
そんな高邁な思想が近年爆発的に普及して,
みなが雪崩を打って大学の経営に乗り出したのだろう,
と考えるのは,さすがに無理筋な気もします。
むしろ,ちょっと穿った見方になるけれども,
『「大学経営は儲かる」という考えがあったのではないか』
と考える方が妥当な気もします。
大学経営には,先にあげた通り私学助成という税金補助がありますし,
また少子化もあって「子の教育に出費を惜しまない親」も想定されますから,
「おいしいビジネス」と考えるのも,ありえない話では無いと思います。
ちなみに1991年に大学設置基準が緩和されたことが,
大学数の増加のきっかけになったとする論が大勢です。
http://benesse.jp/blog/20121009/p2.html
もちろん,
新たに大学をはじめた人が何を考えていたかはわかりません。
---------------------
大学の存在ってのが,こうして考えてきたように,
経済と密接に関わっていて,
しかもその接点が今後より注目を集めることが予想されるわけです。
(主として生産年齢人口減を要因として)
だからこそ,
経済と関係無い部分で,
「社会における高等教育の意義」という大上段に構えた時に,
単なるスローガンや組織論などではなく,
確たる信念と方向性に加え,方法論までをあわせて示す必要があるのでしょう。
それが「グローバル人材の育成」みたいな,
経済側の論理に寄った教育観では,
もう大学に未来はないなぁ,という感じがします。
「良い大学・悪い大学」なんて話をする時に,
多くの場合,その良し悪しの判断基準が,
「入試」と「就職」にしかない。
大事なのは,
どの門に入って行ったか,
どの門から出てきたか。
その中で何が行われているか,
あるいは,
その中に入った人がどのように変化して出てきたか,
そんなことは,関係ないのかもしれない。
それはつまり,
仮に大学が門だけのハリボテでも,
中には何もない「びんぼっちゃまの家」のようなものであっても,
そんなことは「どうでもいい」ということだ。
だって大事なのは門なんだもの。
学生(とその親)は,どの門を出入りしたかを世間に見せたくて,
社会(特に企業)は,どの門から出てきたかしか見てなくて,
大学は,良い門に見られるために装飾して,
だから誰も「その門,ハリボテじゃん」なんてことは言わなくて,
三者三様の利益のために「門」というフィクションを皆で必死に守っている。
どうしてそうなるかって言うと,
すでに大学を出ている大人自身が,
「大学で学んだ」という実感を持っていないからだろう。
「大学時代のこと」を思い出すと,
「授業」や「教授との対話」なんかよりも,
サークルやバイトなんかでの経験の方が,
よほど今の人生に影響を与えているという実感があるから,
心の中で「大学での教育なんて意味あんの?」って思っているからじゃないか。
そうなってくると,
じゃあ「門」以外の何で大学を見分ければ良いのか,
って考えちゃって,
「あぁ「門」として以外,大学には機能なんてないね」
という結論に至ってしまうわけだ。
じゃあ実際のところ,
門の内側で,大学ごとに差があるのか,ってことに注目してみると,
掲げている教育理念・スローガンや,
学部学科の構成や,
授業カリキュラムや,
特色ある取り組みや,
そういう枠組みの部分は確かに違う。
でも,
大学教員の教育に対する考え方とか,授業のスタイルって,
そういうものからは独立していて,
各教員の裁量によるところが大きい(というか,ほぼ全権)。
さらに大学教員の採用システム上,
「今年度は東大でしたが,来年度から京大に行きます」
みたいなことはザラにある。
だから,
去年は「東大教授」で今年は「京大教授」だけど,
「中身は同じ人で授業の内容も同じ」ってことにもなる。
もちろん,教員人事において,
「うちの大学の理念にふさわしい教員を採用」という選抜基準もあるのだろう。
でも,少なくとも私自身は「寡聞にして存じません」です。
基本的に研究能力(最近は特に論文業績と外部資金獲得能力)が問われ,
教育観や教育技術の巧拙などは,二の次のようです。
となってくると,
スローガンやカリキュラムなんてものは,
結局は「絵に描いた餅」みたいなもので,
「門」と同様に「ハリボテ」の一部でしかないわけだ。
最近は「グローバル人材」のため「英語教育」とか言って,
「英語ネイティブ教員を増員」とか言われたりする。
もちろん,その大学がそういう理念で運営をするのには反対しないし,
理念のために教員構成を大幅にかえることについては,
「まさにそうあるべきだ」と思う。
思うけども,同時に,
「じゃあ今いる教員は何なの?今までの教育はなんだったの?」
ということも感じざるをえない。
それはつまり,
「大学と大学教員ってのは,分断されたものなの?」
って問いと同じ意味なのかもしれない。
研究にしか興味が無い大学教員のことを,
「象牙の塔の住人」と揶揄することがあるけども,
「大学組織」は「ハリボテ門」を維持するのに必死で,
「大学教員」は「象牙の塔」に引きこもっているんだから,
学生の居場所なんて大学には存在しないわけで,
学生は何も学べない大学なんか飛び出して,仲間と街で遊びますわな。
Tweet
多くの場合,その良し悪しの判断基準が,
「入試」と「就職」にしかない。
大事なのは,
どの門に入って行ったか,
どの門から出てきたか。
その中で何が行われているか,
あるいは,
その中に入った人がどのように変化して出てきたか,
そんなことは,関係ないのかもしれない。
それはつまり,
仮に大学が門だけのハリボテでも,
中には何もない「びんぼっちゃまの家」のようなものであっても,
そんなことは「どうでもいい」ということだ。
だって大事なのは門なんだもの。
学生(とその親)は,どの門を出入りしたかを世間に見せたくて,
社会(特に企業)は,どの門から出てきたかしか見てなくて,
大学は,良い門に見られるために装飾して,
だから誰も「その門,ハリボテじゃん」なんてことは言わなくて,
三者三様の利益のために「門」というフィクションを皆で必死に守っている。
どうしてそうなるかって言うと,
すでに大学を出ている大人自身が,
「大学で学んだ」という実感を持っていないからだろう。
「大学時代のこと」を思い出すと,
「授業」や「教授との対話」なんかよりも,
サークルやバイトなんかでの経験の方が,
よほど今の人生に影響を与えているという実感があるから,
心の中で「大学での教育なんて意味あんの?」って思っているからじゃないか。
そうなってくると,
じゃあ「門」以外の何で大学を見分ければ良いのか,
って考えちゃって,
「あぁ「門」として以外,大学には機能なんてないね」
という結論に至ってしまうわけだ。
じゃあ実際のところ,
門の内側で,大学ごとに差があるのか,ってことに注目してみると,
掲げている教育理念・スローガンや,
学部学科の構成や,
授業カリキュラムや,
特色ある取り組みや,
そういう枠組みの部分は確かに違う。
でも,
大学教員の教育に対する考え方とか,授業のスタイルって,
そういうものからは独立していて,
各教員の裁量によるところが大きい(というか,ほぼ全権)。
さらに大学教員の採用システム上,
「今年度は東大でしたが,来年度から京大に行きます」
みたいなことはザラにある。
だから,
去年は「東大教授」で今年は「京大教授」だけど,
「中身は同じ人で授業の内容も同じ」ってことにもなる。
もちろん,教員人事において,
「うちの大学の理念にふさわしい教員を採用」という選抜基準もあるのだろう。
でも,少なくとも私自身は「寡聞にして存じません」です。
基本的に研究能力(最近は特に論文業績と外部資金獲得能力)が問われ,
教育観や教育技術の巧拙などは,二の次のようです。
となってくると,
スローガンやカリキュラムなんてものは,
結局は「絵に描いた餅」みたいなもので,
「門」と同様に「ハリボテ」の一部でしかないわけだ。
最近は「グローバル人材」のため「英語教育」とか言って,
「英語ネイティブ教員を増員」とか言われたりする。
もちろん,その大学がそういう理念で運営をするのには反対しないし,
理念のために教員構成を大幅にかえることについては,
「まさにそうあるべきだ」と思う。
思うけども,同時に,
「じゃあ今いる教員は何なの?今までの教育はなんだったの?」
ということも感じざるをえない。
それはつまり,
「大学と大学教員ってのは,分断されたものなの?」
って問いと同じ意味なのかもしれない。
研究にしか興味が無い大学教員のことを,
「象牙の塔の住人」と揶揄することがあるけども,
「大学組織」は「ハリボテ門」を維持するのに必死で,
「大学教員」は「象牙の塔」に引きこもっているんだから,
学生の居場所なんて大学には存在しないわけで,
学生は何も学べない大学なんか飛び出して,仲間と街で遊びますわな。
学部の授業,つまりは「研究者にならない学生」に対して,「大学教員」はどういうメンタリティで向かい合うのか。また,そんな学生に向けて,何を伝え,何が伝われば,端的にはどういう人間になってくれれば,それが大学教育なのか,ということを確立できているか(教育哲学)。さらにはそれを実現するための方法論は確立できているか(教育技術)。仮に確たる哲学と技術があるとして,それは組織としての大学が標榜する大学教育との間に齟齬はないか,あるいは大学のカリキュラムなど諸制度とのかみ合わせはあるのか(大学と大学教員)。
現状,組織としての大学が「知の統合」とかそういうような「大学教育スローガン」のようなものをかかげ,また「秋入学」のような「大学制度改革」をおしすすめようとしているが,そこに「大学教員」の姿はあるのか。またそうした大学組織の意向と,大学教員の意向に齟齬はないのか。組織としての大学といえども,執行部は大半が大学教員(あるいは大学教員あがり)なわけで,なぜ組織に入ると,ヒラの教員との間に齟齬がうまれるのか。「大学と大学教員の対立」において,「学生と教員の関係性」という視点はあるのか。
大学時代の思いで,大学時代に学んだこと,と問われた時に,大学での授業内容を回答する人がどれだけいるのか。「大学での授業時間強化」が「大学の教育力」なのか。そう考えているのは,誰か。しかし一方で,じゃあ「授業ではない大学教育」というものが存在するのか。
というような問題(?)を感じるわけですが,そしてこれはたぶん,多くの大学教員や大学執行部や学生やと,要するに大学に関わる人々の間で共有されているように思うわけですが,じゃあ,なんでいつまでも解決しないのよ。
なんで解決し無いかっていうと,それは大学教員がワガママだからじゃないかしら。
===========
大学教員は研究者だ。研究によって評価されるべきだ。研究には「学問の自由」がある。だからオレのことに口出しするな。とはいえ大学教員だから授業はする。するけども,先端の科学に触れることが何よりの教育効果だろう。そこから何を学びとるかは学生次第だ。給料が下がる?任期付?科学技術立国と言っておいてなんてヒドイ待遇だ。
===========
みたいな意見をよく耳にするわけで。これがどれぐらい代表的な意見なのかはわかんないけども,理系で,旧帝大系で,って感じだと,半分以上はこんな感じじゃないかと。
こういう意見が,すごくワガママだと思うわけです。ワガママって言葉が悪ければ,自分に甘い,でも良いですけど。
まず理学部的なというか,「すぐには役に立たない」と社会に判断される系,定義が難しいけども,たとえば「この成果のみでもって企業が動くわけでは無い」ような成果を主とするような学問分野の研究だと,その「評価」ってのは特に難しい。分断された先端にある一個の論文にはそれぞれにそこでの価値があるだろうから,相対的にも絶対的にも評価は難しい。さらには論文業績だけが研究評価なのかというと,厳密にはここも難しい。ということで,「研究で評価しろ」という言い分は,結局のところ大半の人が納得できる評価というものには繋がらない。
「学問の自由」というのは,社会情勢に左右されない独立した存在としての学問(たぶんどこかに誰かが言った文がある)についてのものであって,「自由」が保障されているのはそのコンテンツじゃなくて,「学問する」という行為自体なんじゃないかな。そしてそれは「自分からは学問の自由以外は要求しない」ということとセットだと思う(たぶん)。だから「学問の自由」が認められるためには「学問の自由」の価値が広く認知されることが前提にあると思う。
大学教員だから授業をする必要があるというのは,(まぁ授業じゃ無くても良いけど学生指導ね),社会制度的には報酬をえるための仕事としての位置付けだろう。でも一方で,社会制度を抜きにしても,「大学の中の人」の思いとして,「大学」に在籍した学生がより社会的に成熟した個人として世に出て行くことを望むわけで(それが大学の第一の存在意義だろうし),授業は「学生が何かを学ぶ」場であるけども,教員は「学生が何かを学ぶ」ことに対して,その「何か」が何であるか,あるいは「学ぶ」ことがより促進されるように,一定の責任をもって取り組むべきではないだろうか。
研究者は,「資源の無いこの国では科学技術でいくしかない!」という社会的な雰囲気に持っていこうとしている勢力に乗っかっている一方で,「科学技術立国とかいうなら待遇を!」と主張しているように思えて,それって,1回迂回させてるだけで,ようは「オレを含む研究者を厚遇しろ」という労働組合的な活動でしかない気がする。というか,国の,税金を流し込むように動いているという点で,営利企業の労働組合活動よりもタチが悪いんじゃ無いか。
頭のなかのモヤモヤをクリアにするために,とりあえず大学教員を悪とする視点でガバーっと書いてみたけど,全然クリアにならん。。。
Tweet
現状,組織としての大学が「知の統合」とかそういうような「大学教育スローガン」のようなものをかかげ,また「秋入学」のような「大学制度改革」をおしすすめようとしているが,そこに「大学教員」の姿はあるのか。またそうした大学組織の意向と,大学教員の意向に齟齬はないのか。組織としての大学といえども,執行部は大半が大学教員(あるいは大学教員あがり)なわけで,なぜ組織に入ると,ヒラの教員との間に齟齬がうまれるのか。「大学と大学教員の対立」において,「学生と教員の関係性」という視点はあるのか。
大学時代の思いで,大学時代に学んだこと,と問われた時に,大学での授業内容を回答する人がどれだけいるのか。「大学での授業時間強化」が「大学の教育力」なのか。そう考えているのは,誰か。しかし一方で,じゃあ「授業ではない大学教育」というものが存在するのか。
というような問題(?)を感じるわけですが,そしてこれはたぶん,多くの大学教員や大学執行部や学生やと,要するに大学に関わる人々の間で共有されているように思うわけですが,じゃあ,なんでいつまでも解決しないのよ。
なんで解決し無いかっていうと,それは大学教員がワガママだからじゃないかしら。
===========
大学教員は研究者だ。研究によって評価されるべきだ。研究には「学問の自由」がある。だからオレのことに口出しするな。とはいえ大学教員だから授業はする。するけども,先端の科学に触れることが何よりの教育効果だろう。そこから何を学びとるかは学生次第だ。給料が下がる?任期付?科学技術立国と言っておいてなんてヒドイ待遇だ。
===========
みたいな意見をよく耳にするわけで。これがどれぐらい代表的な意見なのかはわかんないけども,理系で,旧帝大系で,って感じだと,半分以上はこんな感じじゃないかと。
こういう意見が,すごくワガママだと思うわけです。ワガママって言葉が悪ければ,自分に甘い,でも良いですけど。
まず理学部的なというか,「すぐには役に立たない」と社会に判断される系,定義が難しいけども,たとえば「この成果のみでもって企業が動くわけでは無い」ような成果を主とするような学問分野の研究だと,その「評価」ってのは特に難しい。分断された先端にある一個の論文にはそれぞれにそこでの価値があるだろうから,相対的にも絶対的にも評価は難しい。さらには論文業績だけが研究評価なのかというと,厳密にはここも難しい。ということで,「研究で評価しろ」という言い分は,結局のところ大半の人が納得できる評価というものには繋がらない。
「学問の自由」というのは,社会情勢に左右されない独立した存在としての学問(たぶんどこかに誰かが言った文がある)についてのものであって,「自由」が保障されているのはそのコンテンツじゃなくて,「学問する」という行為自体なんじゃないかな。そしてそれは「自分からは学問の自由以外は要求しない」ということとセットだと思う(たぶん)。だから「学問の自由」が認められるためには「学問の自由」の価値が広く認知されることが前提にあると思う。
大学教員だから授業をする必要があるというのは,(まぁ授業じゃ無くても良いけど学生指導ね),社会制度的には報酬をえるための仕事としての位置付けだろう。でも一方で,社会制度を抜きにしても,「大学の中の人」の思いとして,「大学」に在籍した学生がより社会的に成熟した個人として世に出て行くことを望むわけで(それが大学の第一の存在意義だろうし),授業は「学生が何かを学ぶ」場であるけども,教員は「学生が何かを学ぶ」ことに対して,その「何か」が何であるか,あるいは「学ぶ」ことがより促進されるように,一定の責任をもって取り組むべきではないだろうか。
研究者は,「資源の無いこの国では科学技術でいくしかない!」という社会的な雰囲気に持っていこうとしている勢力に乗っかっている一方で,「科学技術立国とかいうなら待遇を!」と主張しているように思えて,それって,1回迂回させてるだけで,ようは「オレを含む研究者を厚遇しろ」という労働組合的な活動でしかない気がする。というか,国の,税金を流し込むように動いているという点で,営利企業の労働組合活動よりもタチが悪いんじゃ無いか。
頭のなかのモヤモヤをクリアにするために,とりあえず大学教員を悪とする視点でガバーっと書いてみたけど,全然クリアにならん。。。
一番言いたいことは,
「研究者が自らの保身のために大学教員職を利用し,大学の存在を貶めている」
ってことなんだな,って気がしてきた。
ようするにその「不潔さ」がイヤで,
自分がその「不潔」な世界に迎合して職をえることが我慢できないんだな。
色んな理由は見つけてきているけども,
「自分が研究活動をしたい」
ってのが,まずなにより先にあって,
それに付随して,
「学生と一緒にやりたい」
「後継者を」
「教育が」
があるんじゃなかろうか。
そういう人が大半なんじゃなかろうか。
「それなら研究者になれば良いじゃないか」ということなんだけど,
現在の社会運用上,
「研究者職」の大きな受け皿が「大学教員職」だから,
大学教員になっているわけで,
たとえば「研究」を本務とするような「研究所」が多数あれば,
そこが研究者の受け皿になっていれば,
研究者でいたい人は大学教員になんかならないんじゃないか。
その次に考えていきたいのは,
動機はともかくとして,
大学教員になった以上は,
「大学」とか「大学教育」ってものを必ず考えるべきだってこと。
考えるべきなんだけど,
その作業において,研究作業では当然で必須として行っているような,
「過去の知見」を調べた上で「自分の考えを確立」する,
って作業がまったく行われてなくって,
単なる経験的私見だけで「大学」とか「大学教育」を考えてる。
だから,
かなり「研究者の都合」に偏った「大学観」「大学教育観」「大学教員観」を,
臆面もなく主張できるんだろうなぁ,と。
その「不潔さ」に,気付くことすら出来ないんだなぁ,と。
たとえば,
「何が教育学者だ」
「おれは子供の教育もしてるし,学生の指導もしている」
「あいつらの言っていることは机上の空論だ。現場を見ていない」
みたいなことを言えてしまうのも,
そういう偏狭さゆえなのだろう。
「自然科学」は「客観的」で,「社会科学」は「主観」から逃れえない,
という前提があるのかな。
以前,社会的共通資本としての研究者ってまとめかたをしたけど,
「研究者」ってだけでも,その役割をまっとうせず,権利を主張しているわけで,
これに「教員」って要素も加えたら,本当にヒドイ有様だと思う。
「給料あげろ」とか「採用枠増やせ」とか,
なんて「自分に甘い」職業的規範なんだろうか。
まとまってないから,ただのグチになってしまった
Tweet
「研究者が自らの保身のために大学教員職を利用し,大学の存在を貶めている」
ってことなんだな,って気がしてきた。
ようするにその「不潔さ」がイヤで,
自分がその「不潔」な世界に迎合して職をえることが我慢できないんだな。
色んな理由は見つけてきているけども,
「自分が研究活動をしたい」
ってのが,まずなにより先にあって,
それに付随して,
「学生と一緒にやりたい」
「後継者を」
「教育が」
があるんじゃなかろうか。
そういう人が大半なんじゃなかろうか。
「それなら研究者になれば良いじゃないか」ということなんだけど,
現在の社会運用上,
「研究者職」の大きな受け皿が「大学教員職」だから,
大学教員になっているわけで,
たとえば「研究」を本務とするような「研究所」が多数あれば,
そこが研究者の受け皿になっていれば,
研究者でいたい人は大学教員になんかならないんじゃないか。
その次に考えていきたいのは,
動機はともかくとして,
大学教員になった以上は,
「大学」とか「大学教育」ってものを必ず考えるべきだってこと。
考えるべきなんだけど,
その作業において,研究作業では当然で必須として行っているような,
「過去の知見」を調べた上で「自分の考えを確立」する,
って作業がまったく行われてなくって,
単なる経験的私見だけで「大学」とか「大学教育」を考えてる。
だから,
かなり「研究者の都合」に偏った「大学観」「大学教育観」「大学教員観」を,
臆面もなく主張できるんだろうなぁ,と。
その「不潔さ」に,気付くことすら出来ないんだなぁ,と。
たとえば,
「何が教育学者だ」
「おれは子供の教育もしてるし,学生の指導もしている」
「あいつらの言っていることは机上の空論だ。現場を見ていない」
みたいなことを言えてしまうのも,
そういう偏狭さゆえなのだろう。
「自然科学」は「客観的」で,「社会科学」は「主観」から逃れえない,
という前提があるのかな。
以前,社会的共通資本としての研究者ってまとめかたをしたけど,
「研究者」ってだけでも,その役割をまっとうせず,権利を主張しているわけで,
これに「教員」って要素も加えたら,本当にヒドイ有様だと思う。
「給料あげろ」とか「採用枠増やせ」とか,
なんて「自分に甘い」職業的規範なんだろうか。
まとまってないから,ただのグチになってしまった
「大学の教育力」金子
「大学とは何か」吉見
「落下傘学長奮闘記」黒木
「アメリカの大学・ニッポンの大学」苅谷
(「学校って何だろう」苅谷)
もうずっと「大学」ってものについて考えがまとまらなくて,
航海の間に関連書籍を読んでみた。
大学本というと「入試本」とか「就活本」が多いのだけれど,
上記はいずれも「大学」自体にフォーカスしたものだった。
大枠でザックリまとめるなら,重要な点は2つ
(1)「フンボルト理念」の確立と普及
「フンボルト理念」については,それ自体が解釈のわかれるところかもしれないが,
とりあえず一番大雑把に言えば「大学教育は研究を通じて達成される」ということ。
これは大学教員が研究者であるという,現在の一般的な状況の原型であるわけだけど,
一方で,この理念においては,学生もまた研究者である(とボクには読めた)。
米国でうまれた大学院制度との比較もあるけれども,
現在の日本の状況は,大学教員の大半のアイデンティティが研究者であるという点で,
フンボルト的と言えるのではないだろうか。
(2)近年の爆発的な大学大衆化
経済的な発展と資本主義の浸透によって,
大学進学が広く一般的になってきた。
(技術的専門職よりも,いわゆるサラリーマン的職種が増えたし)。
今では進学率50%を超えるが,少子化とあわさればもっと高い数字になるだろう。
これらの2点は,うまく融合できない。
それは研究それ自体は,経済活動への寄与を指向するものではない。
にも関わらず,
労働年齢にある若者の大半が数年にわたって研究に従事する(大学に在籍)というのは,
「大学の存在」を可能にする「社会」を維持する力を,
「大学の存在」自体が滅していると考えることができる(かもしれない)。
国民が広く教育を受け,その知性や理性を磨き,人間・世界理解を深めることは,
それ自体は極めて社会的に有効で望ましいことであるし,
それこそが,大学に期待されていることの本質であろう。
そう考えた時に,
フンボルト理念に基づく大学教育ってのがはたして有効なのだろうか。
特に科学技術が高度に専門化・細分化されている現代では,
研究に従事することで獲得できる知識というのは,
ある特定の範囲でのみ有効な知識でしかない。
これに対してよく行われる反論は,
【研究をする中で磨かれる「考え方」こそが大学教育の本丸】という主張である。
しかしこの主張は,あえて辛辣に言えば,
大学教員側が「大学教育」から目を背け「研究」に逃げこむ言い訳であり,
「考え方」を教えるメソッドを持ち合わせていないことを端的に表しているのではないか。
大学教員にとっては,自らが研究を進めたいという中で,
高校卒業生に「考え方」を教育する術をもたず,
高校卒業生はいきなり研究をさせられるほど知識も考え方も持ち合わせておらず,
程度の低い知識の伝達の場にすぎない授業に従事せねばならない。
産業界,あるいは大きく社会一般にとっては,
労働年齢にある若者が一定期間,社会に寄与しないことは損失である。
高校生にとっては,
はげしい大学受験という負担があるが,
大学にいるのは上記のような大学教員による大学教育で,
大学在学中から上記の社会からにらまれている。
ということで,
話を今日のお題に持っていくと,
誰も幸せになれない「大学」の現状を作っているのは,
「大学教育」が未発達であるせいではないだろうか。
もう一度,大雑把に整理すると,
「先端研究」と「大衆化」という正反対のベクトルが,
【大学教員】と【産業界・社会】のうちにあって,
【大学生】や【大学という場】が乖離させられる状況にある。
正反対のベクトルが敵対するのに加え,
間にいて乖離させられるモノもある。
三者の誰もが不幸になる。
これが現在の日本の大学の現状である。
ちなみにアメリカの大学の状況はと言うと,
アメリカの大学に行ったこと無いからわからないけども,
学部教育の大きい部分を,大学院生TAが担っているらしい。
そして,
大学生が,大学教員では無く,TAからしか学べないこと,
院生TAが,本来やりたい研究では無くカネ稼ぎのTAに時間をとられすぎること,
の2つが,アメリカでの大学問題となっているらしい。
【2つ以上の問題を同時に解決できることを,アイデアという】
ってのは任天堂の社長だったかな。
とにかく,そういうアイデアを考える必要がある。
ボクの現在の考えは,
現状の【大学教員】の部分を【教員】と【研究者】に割ること。
古い人には「それは教養部時代に戻るだけじゃ無いか」と言われるだろうけども,
今のところ,三者問題を同時に解決するには,それしかないし,
教養部とは少し仕組みを変えていけば,うまくハマル気もする。
ある意味では,大学院重点化の本質なのかもしれないが,
大学院教員と大学教員を明確に分離してしまえば良い,という考え方である。
つまり,
「現在の大学教員」は「大学院教員」となって,研究に従事する。
「新設の大学教員」は「大学教員」となって,学部教育に従事する。
「新大学教員」は高校教員と研究者の間ぐらいの位置付けになるかもしれない。
博士号を持つなど何か専門性を有する人が,
一定の教育メソッドなどを学んだ上で「新大学教員」になる仕組み。
大学生は,教育メソッドを有する教員から学べる
大学院教員は,研究に従事する時間が増える
大学は,大学の理念に基づく教育メソッドを普及させ特色を出せる,
産業界・社会は,大学でより成熟した大人が増えればより良くなる,など,
悪いことはないと思う。
とはいえ,
現状の教員に加えて,新教員を設置できるほど,人件費もないので,
現在の大学教員から,半々ぐらいで振り分ける必要が出てくるだろう。
「任期付の研究者たる大学院教員」と「任期無の教育者たる大学教員」にわけるのは,
大変に困難な作業だろうけども,
いずれ避けては通れない道なんだし・・・。
(じかんぎれ)
まぁとにかく一番言いたい部分は,
今の大学の問題点は,システム云々以前の問題として,
「大学教育」ってソフトの部分が,
三者問題で三者ともが目を背けるピットフォールになっているってことです。
Tweet
「大学とは何か」吉見
「落下傘学長奮闘記」黒木
「アメリカの大学・ニッポンの大学」苅谷
(「学校って何だろう」苅谷)
もうずっと「大学」ってものについて考えがまとまらなくて,
航海の間に関連書籍を読んでみた。
大学本というと「入試本」とか「就活本」が多いのだけれど,
上記はいずれも「大学」自体にフォーカスしたものだった。
大枠でザックリまとめるなら,重要な点は2つ
(1)「フンボルト理念」の確立と普及
「フンボルト理念」については,それ自体が解釈のわかれるところかもしれないが,
とりあえず一番大雑把に言えば「大学教育は研究を通じて達成される」ということ。
これは大学教員が研究者であるという,現在の一般的な状況の原型であるわけだけど,
一方で,この理念においては,学生もまた研究者である(とボクには読めた)。
米国でうまれた大学院制度との比較もあるけれども,
現在の日本の状況は,大学教員の大半のアイデンティティが研究者であるという点で,
フンボルト的と言えるのではないだろうか。
(2)近年の爆発的な大学大衆化
経済的な発展と資本主義の浸透によって,
大学進学が広く一般的になってきた。
(技術的専門職よりも,いわゆるサラリーマン的職種が増えたし)。
今では進学率50%を超えるが,少子化とあわさればもっと高い数字になるだろう。
これらの2点は,うまく融合できない。
それは研究それ自体は,経済活動への寄与を指向するものではない。
にも関わらず,
労働年齢にある若者の大半が数年にわたって研究に従事する(大学に在籍)というのは,
「大学の存在」を可能にする「社会」を維持する力を,
「大学の存在」自体が滅していると考えることができる(かもしれない)。
国民が広く教育を受け,その知性や理性を磨き,人間・世界理解を深めることは,
それ自体は極めて社会的に有効で望ましいことであるし,
それこそが,大学に期待されていることの本質であろう。
そう考えた時に,
フンボルト理念に基づく大学教育ってのがはたして有効なのだろうか。
特に科学技術が高度に専門化・細分化されている現代では,
研究に従事することで獲得できる知識というのは,
ある特定の範囲でのみ有効な知識でしかない。
これに対してよく行われる反論は,
【研究をする中で磨かれる「考え方」こそが大学教育の本丸】という主張である。
しかしこの主張は,あえて辛辣に言えば,
大学教員側が「大学教育」から目を背け「研究」に逃げこむ言い訳であり,
「考え方」を教えるメソッドを持ち合わせていないことを端的に表しているのではないか。
大学教員にとっては,自らが研究を進めたいという中で,
高校卒業生に「考え方」を教育する術をもたず,
高校卒業生はいきなり研究をさせられるほど知識も考え方も持ち合わせておらず,
程度の低い知識の伝達の場にすぎない授業に従事せねばならない。
産業界,あるいは大きく社会一般にとっては,
労働年齢にある若者が一定期間,社会に寄与しないことは損失である。
高校生にとっては,
はげしい大学受験という負担があるが,
大学にいるのは上記のような大学教員による大学教育で,
大学在学中から上記の社会からにらまれている。
ということで,
話を今日のお題に持っていくと,
誰も幸せになれない「大学」の現状を作っているのは,
「大学教育」が未発達であるせいではないだろうか。
もう一度,大雑把に整理すると,
「先端研究」と「大衆化」という正反対のベクトルが,
【大学教員】と【産業界・社会】のうちにあって,
【大学生】や【大学という場】が乖離させられる状況にある。
正反対のベクトルが敵対するのに加え,
間にいて乖離させられるモノもある。
三者の誰もが不幸になる。
これが現在の日本の大学の現状である。
ちなみにアメリカの大学の状況はと言うと,
アメリカの大学に行ったこと無いからわからないけども,
学部教育の大きい部分を,大学院生TAが担っているらしい。
そして,
大学生が,大学教員では無く,TAからしか学べないこと,
院生TAが,本来やりたい研究では無くカネ稼ぎのTAに時間をとられすぎること,
の2つが,アメリカでの大学問題となっているらしい。
【2つ以上の問題を同時に解決できることを,アイデアという】
ってのは任天堂の社長だったかな。
とにかく,そういうアイデアを考える必要がある。
ボクの現在の考えは,
現状の【大学教員】の部分を【教員】と【研究者】に割ること。
古い人には「それは教養部時代に戻るだけじゃ無いか」と言われるだろうけども,
今のところ,三者問題を同時に解決するには,それしかないし,
教養部とは少し仕組みを変えていけば,うまくハマル気もする。
ある意味では,大学院重点化の本質なのかもしれないが,
大学院教員と大学教員を明確に分離してしまえば良い,という考え方である。
つまり,
「現在の大学教員」は「大学院教員」となって,研究に従事する。
「新設の大学教員」は「大学教員」となって,学部教育に従事する。
「新大学教員」は高校教員と研究者の間ぐらいの位置付けになるかもしれない。
博士号を持つなど何か専門性を有する人が,
一定の教育メソッドなどを学んだ上で「新大学教員」になる仕組み。
大学生は,教育メソッドを有する教員から学べる
大学院教員は,研究に従事する時間が増える
大学は,大学の理念に基づく教育メソッドを普及させ特色を出せる,
産業界・社会は,大学でより成熟した大人が増えればより良くなる,など,
悪いことはないと思う。
とはいえ,
現状の教員に加えて,新教員を設置できるほど,人件費もないので,
現在の大学教員から,半々ぐらいで振り分ける必要が出てくるだろう。
「任期付の研究者たる大学院教員」と「任期無の教育者たる大学教員」にわけるのは,
大変に困難な作業だろうけども,
いずれ避けては通れない道なんだし・・・。
(じかんぎれ)
まぁとにかく一番言いたい部分は,
今の大学の問題点は,システム云々以前の問題として,
「大学教育」ってソフトの部分が,
三者問題で三者ともが目を背けるピットフォールになっているってことです。
昨日のはあまり言いたいことが言えてなかった。
権力構造でもなんでも,
ある主張とか論説には論理構造があって,
それを否定するのに,
その相似形の論理構造でいくと,
結局,相似的に同じ場所で失敗してしまう。
すごく難しいんだけど,
何かを否定的に見るとか,
何かを否定したいと思って論理を構築する時に,
極めて大事なことで,
かつ,
気を許すとすぐに巻き込まれてしまう。
権力構造はわかりやすくて,
教師ー生徒の関係が,
行政ー学校の関係と相似形で,
権力を用いた強制という部分が,
まさに相似形。
体罰がダメだと言った論理と,
行政が入試停止を命じる論理は,
相似形なのだ。
だから,
今,自分が嫌悪感を抱いている当の事象について,
どういう構造の論理で構築されているかを理解して,
次にそれに対する自分の考えというのが,
それと相似形に陥っていないかを自己点検して,
その上で自分の考えを伝えきらねばならない。
でも,
現在の科学ってのは,
延々と繰り返される相似な論文の積み重ねで進んでいて,
それが何とも,非常に,不愉快なわけです。
必ずどこかで論理と判断(あるいは感覚)のミゾをジャンプせねばならないのに,
論文のフォーマットという相似形にからめとられて,
それが出来ない構造になっている。
まぁ,だから,
招待総説とか,教科書とかで,
シレっと自説を展開するのが面白いのだろうけども。
それは次善の策という気もして。
Tweet
権力構造でもなんでも,
ある主張とか論説には論理構造があって,
それを否定するのに,
その相似形の論理構造でいくと,
結局,相似的に同じ場所で失敗してしまう。
すごく難しいんだけど,
何かを否定的に見るとか,
何かを否定したいと思って論理を構築する時に,
極めて大事なことで,
かつ,
気を許すとすぐに巻き込まれてしまう。
権力構造はわかりやすくて,
教師ー生徒の関係が,
行政ー学校の関係と相似形で,
権力を用いた強制という部分が,
まさに相似形。
体罰がダメだと言った論理と,
行政が入試停止を命じる論理は,
相似形なのだ。
だから,
今,自分が嫌悪感を抱いている当の事象について,
どういう構造の論理で構築されているかを理解して,
次にそれに対する自分の考えというのが,
それと相似形に陥っていないかを自己点検して,
その上で自分の考えを伝えきらねばならない。
でも,
現在の科学ってのは,
延々と繰り返される相似な論文の積み重ねで進んでいて,
それが何とも,非常に,不愉快なわけです。
必ずどこかで論理と判断(あるいは感覚)のミゾをジャンプせねばならないのに,
論文のフォーマットという相似形にからめとられて,
それが出来ない構造になっている。
まぁ,だから,
招待総説とか,教科書とかで,
シレっと自説を展開するのが面白いのだろうけども。
それは次善の策という気もして。
体罰については言いたいことが多いのだが,
一方でこれに関して書くのは大変に気が重いので,
なかなか筆が進まなかったわけです。
でも「はよ書け」という要望があったので,
これから仕事をせねばならない朝ではなく,
もう寝るだけの夜に書くことにしました。
まず体罰というと,
体罰は暴力か,みたいな話になりますが,
体罰は例外なく暴力です。
相手の望まない身体への攻撃は,
そこに攻撃的な意図がなかったとしても,
そこには愛情しかなかったとしても,暴力です。
(暴力じゃないケースなんてSMプレイとか競技格闘技ぐらいです)
ここが論点になるってのが信じられないし,
これは暴力論とか体罰論とか以前の,
基本的人権の話なので,これ以上のことはありません。
ボクが体罰でイカンと思うのは,
「権力を持つ側が一方的に強制する」
っていう図式にあるわけです。
権力構造ってのは,理想的には,
その権力が及ぶ範囲について互いに了解したコミュニティ内のみで成立するもので,
生まれながらにして権力構造の中にある,ってことは,
基本的にはありえないわけです。
とはいえ,
親がそういう社会構造の中にいる以上,
どうしても生まれてきた瞬間から子供はその構造に取り込まれてしまうわけで,
だからこそ,
子供がその枠に絡め取られてしまわないために,
「大人」は「子供に教育を受けさせる義務」を負うわけですよね。
話が大きくなった風だけど,
そんなことはなくて,
本当にここが出発点だと思う。
「部活に入るってことは権力構造を了解したということだろ」
という意見があるかもしれないけど,
それが必ず正しいとは限らない。
その部活動に関する指導を受けること,
その代わりに一定の自由が奪われること,
というのは,確かにその通りだと思うし,
それについては教員と生徒の間でも(無言の)了解があると思う。
でも,
その条件の中に「暴力」が含まれているかどうかでいうと,
それは,よほど特殊な事情で言明されていない限り,含まれていない。
社会的にも,肉体的にも強い立場にいるものが,
特別な言及が無いままに暴力をふるう権限を有しているなんてことは,
ありえない。
ましてや部活動は,街の競技クラブとは違って,
学校教育の一環として行われているという建前がある以上は,
あくまで教育活動なわけで,
教育を担う人が暴力に頼るってのがありえないし,
教員が暴力をふるうことが問題というか,
そういう人が教員になれてしまうことが問題で,
教員でありつづけていられることも問題だと思う。
「そんな教員が存在し続けている環境が問題」だから,
「そんな学校は問題」という論理は,
まったくもって,その通りだと思う。
そこには同意する。
でも,
だからといって,
監督責任のある立場として,
行政が入試の停止だなんだということを命じることには,
同意できない。
同意できない理由は,
まさにここまでの体罰の話で述べてきた通りで,
「権力を持つものが互いの了解の範囲を逸脱して権力を行使する」
という部分にある。
行政が学校運営に対して責任と権限を持つから,
学校運営に介入して入試停止を命じるというのは,
この範囲のロジックでは問題無く成立するかもしれない。
でも,
学校には運営する側以外にも,
その学校に在籍している人々,つまりは生徒(になりたい人も含む)がいるわけで,
行政が彼らの権利を侵害することが出来るのかというと,
仮に法的には問題がないのだとしても,
非常に慎重に考えられなければならない問題になってくる。
間に学校運営をする立場が挟まれているとはいえ,
「行政が直接的に生徒の権利を侵害しかねない行為」をしようとする時に,
つまりは権力を有する側が行動しようとして,
それに対する反論があがった時に,
権力側の都合が押し通されてしまうというのは,
まさに権利の侵害ではないのだろうか。
今回のケースに特化すると,
行政が学校の教員群に対して罰を与えようとしている。
しかし,それと同時に生徒に罰が及ぶわけで,
その時に,
無罪の人も含めて両方とも罰するのか,
有罪の人も含めて両方とも罰さないのか,
どちらの立場を取ることが望ましい姿なのか,
そこが今回の考えるべき点なのではないか。
少なくとも,
体罰を実施した教員本人は有罪である。
それを黙認した同僚教員も有罪とする方が妥当であろう。
でも,
生徒は,絶対に無罪だろう。
甘んじて暴力を受け入れていたから,それは体罰を容認している,
なんてロジックは,ありえない。
部分的な勧善懲悪のために,
誰かが傷つかねばならないなんてことは,あってはならない。
================================
権力を持つ側というのは,
権力というものが持つある種の暴力性についてよく把握し,
意図しない行為でも権力の暴力性により誰かを傷つけてしまうことに,
極めて慎重な自己査定を行わなければならない。
また,自己査定のみでは限界があるからこそ,
自ら外部監査を受け,その進言を受け入れるなど,
より慎重な権力運用に努めなければならない。
特に強大な権力を有するものは,
拳を振り下ろすことはもとより,
拳を振り上げただけで恐怖を与えること,
それはつまり発言のみでも十分に暴力的であることを自覚する必要がある。
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一方でこれに関して書くのは大変に気が重いので,
なかなか筆が進まなかったわけです。
でも「はよ書け」という要望があったので,
これから仕事をせねばならない朝ではなく,
もう寝るだけの夜に書くことにしました。
まず体罰というと,
体罰は暴力か,みたいな話になりますが,
体罰は例外なく暴力です。
相手の望まない身体への攻撃は,
そこに攻撃的な意図がなかったとしても,
そこには愛情しかなかったとしても,暴力です。
(暴力じゃないケースなんてSMプレイとか競技格闘技ぐらいです)
ここが論点になるってのが信じられないし,
これは暴力論とか体罰論とか以前の,
基本的人権の話なので,これ以上のことはありません。
ボクが体罰でイカンと思うのは,
「権力を持つ側が一方的に強制する」
っていう図式にあるわけです。
権力構造ってのは,理想的には,
その権力が及ぶ範囲について互いに了解したコミュニティ内のみで成立するもので,
生まれながらにして権力構造の中にある,ってことは,
基本的にはありえないわけです。
とはいえ,
親がそういう社会構造の中にいる以上,
どうしても生まれてきた瞬間から子供はその構造に取り込まれてしまうわけで,
だからこそ,
子供がその枠に絡め取られてしまわないために,
「大人」は「子供に教育を受けさせる義務」を負うわけですよね。
話が大きくなった風だけど,
そんなことはなくて,
本当にここが出発点だと思う。
「部活に入るってことは権力構造を了解したということだろ」
という意見があるかもしれないけど,
それが必ず正しいとは限らない。
その部活動に関する指導を受けること,
その代わりに一定の自由が奪われること,
というのは,確かにその通りだと思うし,
それについては教員と生徒の間でも(無言の)了解があると思う。
でも,
その条件の中に「暴力」が含まれているかどうかでいうと,
それは,よほど特殊な事情で言明されていない限り,含まれていない。
社会的にも,肉体的にも強い立場にいるものが,
特別な言及が無いままに暴力をふるう権限を有しているなんてことは,
ありえない。
ましてや部活動は,街の競技クラブとは違って,
学校教育の一環として行われているという建前がある以上は,
あくまで教育活動なわけで,
教育を担う人が暴力に頼るってのがありえないし,
教員が暴力をふるうことが問題というか,
そういう人が教員になれてしまうことが問題で,
教員でありつづけていられることも問題だと思う。
「そんな教員が存在し続けている環境が問題」だから,
「そんな学校は問題」という論理は,
まったくもって,その通りだと思う。
そこには同意する。
でも,
だからといって,
監督責任のある立場として,
行政が入試の停止だなんだということを命じることには,
同意できない。
同意できない理由は,
まさにここまでの体罰の話で述べてきた通りで,
「権力を持つものが互いの了解の範囲を逸脱して権力を行使する」
という部分にある。
行政が学校運営に対して責任と権限を持つから,
学校運営に介入して入試停止を命じるというのは,
この範囲のロジックでは問題無く成立するかもしれない。
でも,
学校には運営する側以外にも,
その学校に在籍している人々,つまりは生徒(になりたい人も含む)がいるわけで,
行政が彼らの権利を侵害することが出来るのかというと,
仮に法的には問題がないのだとしても,
非常に慎重に考えられなければならない問題になってくる。
間に学校運営をする立場が挟まれているとはいえ,
「行政が直接的に生徒の権利を侵害しかねない行為」をしようとする時に,
つまりは権力を有する側が行動しようとして,
それに対する反論があがった時に,
権力側の都合が押し通されてしまうというのは,
まさに権利の侵害ではないのだろうか。
今回のケースに特化すると,
行政が学校の教員群に対して罰を与えようとしている。
しかし,それと同時に生徒に罰が及ぶわけで,
その時に,
無罪の人も含めて両方とも罰するのか,
有罪の人も含めて両方とも罰さないのか,
どちらの立場を取ることが望ましい姿なのか,
そこが今回の考えるべき点なのではないか。
少なくとも,
体罰を実施した教員本人は有罪である。
それを黙認した同僚教員も有罪とする方が妥当であろう。
でも,
生徒は,絶対に無罪だろう。
甘んじて暴力を受け入れていたから,それは体罰を容認している,
なんてロジックは,ありえない。
部分的な勧善懲悪のために,
誰かが傷つかねばならないなんてことは,あってはならない。
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権力を持つ側というのは,
権力というものが持つある種の暴力性についてよく把握し,
意図しない行為でも権力の暴力性により誰かを傷つけてしまうことに,
極めて慎重な自己査定を行わなければならない。
また,自己査定のみでは限界があるからこそ,
自ら外部監査を受け,その進言を受け入れるなど,
より慎重な権力運用に努めなければならない。
特に強大な権力を有するものは,
拳を振り下ろすことはもとより,
拳を振り上げただけで恐怖を与えること,
それはつまり発言のみでも十分に暴力的であることを自覚する必要がある。
うちの大将と話をしていて,
「生命探査」に代表される「アストロバイオロジー」,あるいは,
「生命とは何か」
について考えていたことがクリアになってきたので記録しておく。
まずは2012年7月時点で書いた奨励賞講演の要旨を転載。
====
「生命」(life)とは活動であって「生物」(living thing)とは生命を担う物質である。このため,ある生物が生命を失ったその瞬間(というものがあるとすると),その生物は生物でなくなるが,かつて生物であった物質群はその物質群のままである。また生命は活動であるから,時間的に異なる二点の比較によって初めて検出される。このため,地球の始原生命あるいは地球外生命を考える時,つまり痕跡物質のみから生命の有無を議論せねばならない時,かつて生物であっただろう物質(複雑な有機物群)を探索することはあまり有効ではない。
====
こんなことを漠然と考えているのだけれども,
中でも重要だと思っているのが,
【生命は活動であるから,時間的に異なる二点の比較によって初めて検出される】
という部分。
この文章を書いた時点で念頭にあったのが,
「隕石に有機物が!すわ宇宙生物!」
みたいな現状の否定というか,
「生命ってそういうことじゃないだろ」
っていうアンチテーゼだったので,
かなり偏った書き方になってしまっている。
そしてそれが自縄自縛として作用していて,
自分に身近な科学分野の考え方が置き去りだった。
上記の文を読んで感じることは,
「物質というのは,本質的に時間の情報を持たない」
という安易な仮定を置いてしまっていること。
化学分析では,物質から時間の情報を取り出すことはできない。
放射性同位体による年代測定は時間の情報じゃないか,
と言われるかもしれないが,
あれは「ある時間」の情報ではあるが,
「時間的に異なる二点」の情報ではないので,
ここでの議論とは意味合いが違う。
でも,だからといって,
本当に物質には時間の情報がないのか,といえば,
そんなことは,まったくない。
たとえば海底堆積物は,
鉛直方向の空間分布が,
そのまま時間軸となって記録されているわけで,
化学分析のミクロな視点(物質)ではなく,
地質学的なマクロな視点(物質群)で見た場合,
「物質(群)は確かに時間の情報を有している」
のである。
例に出したので海洋堆積物を用いて話を進めると,
海底堆積物を単純に海洋からふりそそぐ物質の堆積物として,
つまり鉛直軸を時間軸の記録として見るのが,
古典的な海底堆積学だったのだろう。
あるいは地球化学的な視点で,
つまり海洋と物質を授受する1つのリザーバーとして,
海底堆積物を構成する物質と間隙水組成が調べられていた。
その後,
生命地球科学的な研究が進展してきたことで,
堆積物は活動的な生命活動の場として見られるようになり,
膨大な体積を有する極限環境生命圏として考えられ,
その場における生命活動自体に強い関心が持たれるようになっている。
たとえば採取した堆積物をラベルして,
代謝活性試験などを行っているわけである。
でも,
あるいは一定の生命地球科学的な海底堆積学が進捗したからこそ,
本質的な部分を見落としていたのかもしれない。
それは,ごくごく単純で,
堆積物は鉛直方向には,やはり時間の情報だということ。
海底堆積物の中で起こっていることを議論する時,
直感的な理解を助けるため,実際に合わせて,
縦軸に深さを,横軸に物質濃度をとって記載している。
しかしこれを反時計回りに90度まわしてやれば,
つまり,
横軸を深さ,縦軸を物質濃度にしてやれば,
ある物質の時間的な変化に読み替えられ,
それは堆積物をマクロな視点で一個の生物と捉えた時の,
その生物体内で起こる代謝を見ていることと等しくなる。
もちろん堆積物中では,生命活動以外にも,
物理的なモノの移動や,非生物化学反応も起こる。
しかし「物の運動」や「化学反応」は,
運動が位置と時間の関数で,
反応が元素と時間の関数で,
それらは厳密な法則に支配されていて,
理論と実際が無矛盾で説明が可能である。
だから,
理論的に予想される部分からの逸脱は,生物活動の仕業と見なせる。
もっと踏み込んで言えば,
物理運動・化学反応の法則性からの逸脱こそが「生命」なのだ。
海底堆積物の柱状試料の一部を切り取って,
生物に特異なDNAのような有機物を見つけたり,
ラベル培養で活性を取ったりしなくても,
柱状試料の化学組成の鉛直分布それ自体が「生命」の証拠なのだ。
この考え方は地球科学的な部分を取り除いても成り立つ。
まず生物がいて,
それが促進する化学反応群が生命活動で,
だから生命活動を把握することで生物の存在を把握しよう,
ということではない。
そうではなくて,
物理や化学ではどうにも説明できない化学反応(群)があれば,
それこそが生命活動であって,
仮にそれを担う物質群が存在しているならば,
それを(あるいは便宜的に)生物と呼ぼうではないか,
という考え方である。
この考え方は海底堆積物でも宇宙でも同じ事で,
つまり大事なことは,
「ある場における連続的な地質記録と物質分布の把握」
である。
研究者が議論しているもので言えば,
シーケンスとかプロファイルと呼ばれるものがインポータントなのである。
異なる時間の情報を1つの物質群の中に有するモノがあり,
そこに不自然な何かが見出されれば,
そしてそれが外的な要因が作用したものでなければ,
それこそがその場に起こった生命活動の履歴であるのだから,
まさに「生命探査」の目的を達したことになるのである。
こういうような考え方は,
もしかすると皆は当然のこととして持っているのかもしれない。
この話をすると,
「そんなん当然でしょ」
「XXがYYに書いてるじゃない」
みたいに言われるかもしれない。
それについては,本当に不勉強で申し訳ない,としか言えないです。
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「生命探査」に代表される「アストロバイオロジー」,あるいは,
「生命とは何か」
について考えていたことがクリアになってきたので記録しておく。
まずは2012年7月時点で書いた奨励賞講演の要旨を転載。
====
「生命」(life)とは活動であって「生物」(living thing)とは生命を担う物質である。このため,ある生物が生命を失ったその瞬間(というものがあるとすると),その生物は生物でなくなるが,かつて生物であった物質群はその物質群のままである。また生命は活動であるから,時間的に異なる二点の比較によって初めて検出される。このため,地球の始原生命あるいは地球外生命を考える時,つまり痕跡物質のみから生命の有無を議論せねばならない時,かつて生物であっただろう物質(複雑な有機物群)を探索することはあまり有効ではない。
====
こんなことを漠然と考えているのだけれども,
中でも重要だと思っているのが,
【生命は活動であるから,時間的に異なる二点の比較によって初めて検出される】
という部分。
この文章を書いた時点で念頭にあったのが,
「隕石に有機物が!すわ宇宙生物!」
みたいな現状の否定というか,
「生命ってそういうことじゃないだろ」
っていうアンチテーゼだったので,
かなり偏った書き方になってしまっている。
そしてそれが自縄自縛として作用していて,
自分に身近な科学分野の考え方が置き去りだった。
上記の文を読んで感じることは,
「物質というのは,本質的に時間の情報を持たない」
という安易な仮定を置いてしまっていること。
化学分析では,物質から時間の情報を取り出すことはできない。
放射性同位体による年代測定は時間の情報じゃないか,
と言われるかもしれないが,
あれは「ある時間」の情報ではあるが,
「時間的に異なる二点」の情報ではないので,
ここでの議論とは意味合いが違う。
でも,だからといって,
本当に物質には時間の情報がないのか,といえば,
そんなことは,まったくない。
たとえば海底堆積物は,
鉛直方向の空間分布が,
そのまま時間軸となって記録されているわけで,
化学分析のミクロな視点(物質)ではなく,
地質学的なマクロな視点(物質群)で見た場合,
「物質(群)は確かに時間の情報を有している」
のである。
例に出したので海洋堆積物を用いて話を進めると,
海底堆積物を単純に海洋からふりそそぐ物質の堆積物として,
つまり鉛直軸を時間軸の記録として見るのが,
古典的な海底堆積学だったのだろう。
あるいは地球化学的な視点で,
つまり海洋と物質を授受する1つのリザーバーとして,
海底堆積物を構成する物質と間隙水組成が調べられていた。
その後,
生命地球科学的な研究が進展してきたことで,
堆積物は活動的な生命活動の場として見られるようになり,
膨大な体積を有する極限環境生命圏として考えられ,
その場における生命活動自体に強い関心が持たれるようになっている。
たとえば採取した堆積物をラベルして,
代謝活性試験などを行っているわけである。
でも,
あるいは一定の生命地球科学的な海底堆積学が進捗したからこそ,
本質的な部分を見落としていたのかもしれない。
それは,ごくごく単純で,
堆積物は鉛直方向には,やはり時間の情報だということ。
海底堆積物の中で起こっていることを議論する時,
直感的な理解を助けるため,実際に合わせて,
縦軸に深さを,横軸に物質濃度をとって記載している。
しかしこれを反時計回りに90度まわしてやれば,
つまり,
横軸を深さ,縦軸を物質濃度にしてやれば,
ある物質の時間的な変化に読み替えられ,
それは堆積物をマクロな視点で一個の生物と捉えた時の,
その生物体内で起こる代謝を見ていることと等しくなる。
もちろん堆積物中では,生命活動以外にも,
物理的なモノの移動や,非生物化学反応も起こる。
しかし「物の運動」や「化学反応」は,
運動が位置と時間の関数で,
反応が元素と時間の関数で,
それらは厳密な法則に支配されていて,
理論と実際が無矛盾で説明が可能である。
だから,
理論的に予想される部分からの逸脱は,生物活動の仕業と見なせる。
もっと踏み込んで言えば,
物理運動・化学反応の法則性からの逸脱こそが「生命」なのだ。
海底堆積物の柱状試料の一部を切り取って,
生物に特異なDNAのような有機物を見つけたり,
ラベル培養で活性を取ったりしなくても,
柱状試料の化学組成の鉛直分布それ自体が「生命」の証拠なのだ。
この考え方は地球科学的な部分を取り除いても成り立つ。
まず生物がいて,
それが促進する化学反応群が生命活動で,
だから生命活動を把握することで生物の存在を把握しよう,
ということではない。
そうではなくて,
物理や化学ではどうにも説明できない化学反応(群)があれば,
それこそが生命活動であって,
仮にそれを担う物質群が存在しているならば,
それを(あるいは便宜的に)生物と呼ぼうではないか,
という考え方である。
この考え方は海底堆積物でも宇宙でも同じ事で,
つまり大事なことは,
「ある場における連続的な地質記録と物質分布の把握」
である。
研究者が議論しているもので言えば,
シーケンスとかプロファイルと呼ばれるものがインポータントなのである。
異なる時間の情報を1つの物質群の中に有するモノがあり,
そこに不自然な何かが見出されれば,
そしてそれが外的な要因が作用したものでなければ,
それこそがその場に起こった生命活動の履歴であるのだから,
まさに「生命探査」の目的を達したことになるのである。
こういうような考え方は,
もしかすると皆は当然のこととして持っているのかもしれない。
この話をすると,
「そんなん当然でしょ」
「XXがYYに書いてるじゃない」
みたいに言われるかもしれない。
それについては,本当に不勉強で申し訳ない,としか言えないです。