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論文には「英語の文法」以上に,
「論文としての体裁的な文法」ってのがある。
「型」みたいなもの。
パラグラフの構成,パラグラフ内の文の構成。
どんな論文でも,
たいていは一定の型にはまった中で,
それぞれの主張を展開しているわけで,
たくさん読んでそれを骨身に染み渡らせておけば,
論文を書くこと自体はそこまで苦痛にならないはず。
はず,というのは,
自分がいまだその境地に到達できていないから。
わかっちゃいるんだけど,
書き出すとダメになってしまう。

論文を読む習慣をつけないとね。

このサイエンスの世界で,
今すべき研究テーマみたいなものは,
もう何も考えなくてもどうにかなるところまできているから。

読もうね。
研究を続けるのなら。
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将来を悩んだってはじまらないのだ。
今,目の前のことをやるしかないのだ。

そういう言葉ってのは,
ある意味で救いで,
あるいは逃げ道を用意してくれているわけで。

じゃあ他ならぬお前がすることは,
むこうから流れ着いたものを処理するだけなのかい,ってことで,
悩ましい。

悩ましい日々。
困った。
要領よく勉強してそれなりに良い大学に入り,
大学では授業もそこそこにサークル活動を謳歌し,
研究室に配属されてからは先生の言うことをよく聞き,
若手の会などにいそしみつつ,
「この仕事を終えたら」と言いつつドクターに進み,
学振DCをもらい周囲からも優秀と言われ,
無事学位を取得し特任助教などになり,
引き返せなくなり教員職にたくさんアプライして,
どこかの教員に採用される。


って考えて,
そんなやつが大学教員なのかと思う。

もちろん,あくまで悲観的に妄想した場合の一例。
教員という身分をえたものであれば,
教育というモノについては誰しもが,
「かくあるべし」
というような考えがあるのだろうと思う。
でもその「かくあるべし」が本当に理想的なモノなのか。
もちろん教育には絶対解などないのだけれども。


いま現在の実態として,
まず個人が自身の人生キャリアとして,
自身が「教員になる」ことが先立っていて,
あくまで「教育かくあるべし」はその後付けであったり,
あるいは方便でしかなかったり,
そういうことはないだろうか。
小中高の教員の場合は,
教育=教員なので,
その思いや技術の質は横に置いておいたとしても,
あくまで教員と教育は強く結びついているように思われる。


大学教員公募は,
その実態が一般の大学生にはまったく知られていないだろうけど,
基本的には教育能力・資金獲得能力などが審査されており,
教育方針や教育技術といった部分はほとんど問われない。
そうして選らばれた人が教員になり,大学教育を担う。
そんな教員に学ぶところが,大学なのである。

研究を大学の存在意義の第一義とするならば,
それでも問題はないのかもしれない。
でもやはり「教育大学」とか言い出すと,
この部分は大問題になってくる。
もう「最先端の研究を通じた教育」というのは詭弁ですらなくなる。


どうするの?

尖閣の問題と,
在沖縄米軍の問題と,
それぞれを考えてみる。

尖閣は,
中国としては,
周辺海域の資源が目的,
日本としては,
「日本の領土が奪われる」ことが問題。

在沖縄米軍は,
米軍としては,
中・朝・露に睨みの効く地理的要因と,
在外米軍維持による経済効果が目的。
日本としては,
事故事件など地元民の生活環境が悪いという問題と,
国内に米軍がいるという問題。

そう考えると,
「尖閣国有化」とか,
「国外,最低でも県外」とか,
なんか大事な部分を外しているように思うわけで。


諸々の問題を解決できる方策として,
禁じ手無しとして色々と考えて,
EU設立にならったりして,
かわぐちかいじの「太陽の黙示録」にも影響を受けたりして,
考えてみた。

【台沖亜連】構想

骨子としては,
・台湾と沖縄諸島を統合し独立国とする
・国連もしくはEUのアジア版(亜連)の本部を置く
というもの。
頭文字で【台沖亜連】たいちゅーあれん

三方一両損的に,
・中国は台湾の独立を承認
・日本は沖縄を失う
・米国は在沖米軍を失う
という側面も。

「沖縄に生活している人の心情を」とかいうのは,
ちょっと先送り。
あくまでシステム論というか,
本当の意味での机上の空論というか,
そういうもの。
現地の人の心情は,現地の人にしかわからないので,
「ヒドイ」とも「飲み込め」とも言えない。
だからそこは本論では考慮しない。

新しく出来る国(台沖)は,
・国の本体は現台湾がベース
・現沖縄本当に亜連本部などを設置
・周辺海域資源・IT・環太平洋物流拠点・観光などで経済活動。
・周辺海域での漁業は自国内消費に留め,黒潮/東シナ生態系の保護区に
・現米軍基地の譲渡を受け台沖自衛隊の拠点に,武装するも非戦(スイス式?)
などを想定し,軍事的/経済的/外向的な緩衝地帯となる。
亜連は,
・常任理事国に拒否権を与えず,日中が常任理事国入り
・常任理事国に拒否権を与えるが,日中は常任理事国に入らない
など,日中で影響力を等しくしておく。

中国は台湾と東シナ資源を失うも,
太平洋への航路から日本がいなくなるという利点が。

日本は在日米軍問題が(現地問題としてではなく国家間問題としてのみ)解決し,
対中尖閣問題も争点から消失。

米国は新たな経済マーケットとして利用すれば良い。
(台沖は一次産業が弱く,三次産業・輸入依存となるため)



まさに机上の空論だけど,
たとえば20年後の世界を想定すると,
こういうことを考える方がリアリスティックなんじゃないか,
と考えたりするわけです。
文科省から,
「研究トップ30大学のみに資源を投下し,
 これを研究大学とし,
 残りは教育大学とする」
みたいな方針がチラリと見え隠れしているとか。
(以下,理系に限る話かも)

「学問の多様性の維持」とか,
「基礎科学は広い裾野が必要」とか,
研究者側からはそういう声があがるだろうけど,
一方でそういうことを言い出すとキリがない。
なぜなら,
科学技術史上,そんな状況になったことがないから。
これまで科学技術は,
裾野の拡がりと頂点の高さを,同時に大きくしてきた。
いわゆる「ピラミッド型」の発展
だから,
裾野の狭い「タワー型」の発展が,
本当に可能かどうか,値踏みすることは難しい。
なので,やはり,そこを議論の軸にすることは出来ない。
(結論でないから)

議論すべきは,
「先端研究と隔離された高等教育」
というものが存在しうるか否か。

文科省の方針で言うところの,
「研究大学」は,現在の大学にエッジを効かせたようなもので,
想像することは難しくない。
しかし一方,
「教育大学」は,難しい。

「教育大学」が,
専門学校や高専のような,
(と言ってもボクは内状を知らないので語れないが)
職業的な出口が比較的明示されている中での技術習得が,
教育目的の大きな軸の一つとなっているようなモノであれば,
それはやはり専門学校や高専であって,
「大学」では無いだろう。

結局のところ,
いつも行き着くところは同じで,
「大学」での「高等教育」とは何なのか,
何を目的としているのか。
少なくとも,
「科学技術の専門的知識を身につける」ことでは無いはずだ。

もっともっと,
「大学における教育」の意味を,
真剣に考えていかねばならないし,
それを抜きにして,
大学の研究機能強化や,
研究体制の改善などと話していても,
何も結論は出せないのだ。

それには,多様な大学の実態についての見聞を広めることが大事で,
学生としても教員としても,
旧帝大など先端研究大学しか経験したことが無い人が,
アレコレと議論できるようなものではないのだろう。

たとえ話をすると,
たとえの歪みの部分に話題が集中して,
結局もともと伝えたかったことが伝わらないってことがままある。
ままあることはわかっているが,
今日もたとえ話をしよう。

ボクは食べることが好きだ。
しかも基本的に肉が好きだし,
味付けは濃いめが好きだし,
中華やイタリアンはもちろん好きだし,
ラーメンもスイーツも好きだし,
ビールも日本酒も大好物だ。

でも,
絶えず好きなものを食べていると,
胃や腸はずっと重たいだろうし,
健康診断的な意味でヤバイことになるだろうし,
家計だって続かない。

だから,
食事は一日三食にしているし,
コッテリガッツリの後はアッサリサッパリにしたりして,
なんとかバランスをとるようにしている。

でも,もし,
すごく効く胃腸薬が出来たなら,
食べ過ぎで苦しむこともなくなるし,
二日酔いに抜群に効く薬が出来れば,
飲み過ぎで苦しむこともなくなるし,
外科的な脂肪除去法が発達すれば,
デブることを気にせずに食べられるし,
血液の状態を一定に保つ薬が開発されれば,
塩分や油分を気にすることなく食べられる。
医学薬学が発展していけば,
たくさん食べて健康な生活がおくれる。
やったね。


というようなことが,
今現在,
世の中に流布しているお花畑思想であるところの,
「持続可能な」ということなんじゃないかと思う。

でもさ,
そもそも食べ過ぎなけりゃいいわけじゃない。
薬には頼らないけども,
健康を損ねない。
それぐらいの量・頻度で美味しいモノを食べるれれば,
まぁ幸せだと思いますよー,ってな具合で,
そういうのが,
本当の意味での「持続可能」なんじゃないのかしらね。

「コーラは健康を害する」ってなった時に,
「トクホコーラ」とか「ゼロコーラ」とかを飲むんじゃなくて,
基本的に「炭酸水」に置き換えつつ,
本当の本当に飲みたくなったら「コーラ」を飲むみたいな,
そういうことじゃないかしら。

「美味しいモノが食べたい」って欲求と,
「健康でありたい」って欲求を,
両方同時に最大限満たすために生身のポテンシャルを引き出すべく過剰な努力するのと,
両方同時に満たされる範囲を逸脱しない程度に抑えるべくガマンする努力と,
どっちを選択するかってことでしょう。

ちょっと別な話にすると,
プランA「プラス100とマイナス100を取り込めばプラマイゼロ」と,
プランB「プラス10とマイナス10を取り込めばプラマイゼロ」と,
同じように見える。
でもたとえば,
ピッタリ合わせることは難しくて誤差が10%ぐらいあるとしたら,
プランAの場合は,最大でプラマイ10の変動が起こりうる。
プランBの場合は,最大でプラマイ1の変動しか起こらない。
プラスが食べる量で,
マイナスが排泄する量だとしたら,
食べる量は自分で調節できるけど,
排泄量は内臓の具合なので完全には調節できない。
だとしたら,
プランBの方が安全策なんじゃなかろうか。

そういうようなことで,
新しいエネルギーを開発するとか,
省エネが云々とかをすることで,
「持続可能な**」を実現しようとする現在の風潮は,
「トクホコーラ」とか「ゼロコーラ」とかと同じで,
ヤバイんじゃないですかね,ということです。

常に欲求を満たす方向に,ではなく,
欲求を減らす方向に,という考えでいこうよ。

それは国民と政治家の関係もそうだし,
隣国との関係もそうです。

征服とか制御とか,そういうことじゃなくて,
降参とか隷従とか,そういうことでもなくて,
譲歩とか我慢とか,そういうことですよ。
「持続可能な」って言葉を使うなら。


仕事を辞めようと思っている。
遅くても5年以内ぐらいに。

理由は色々とあるけども,
その中でも大きなモノのひとつが,
2012年の時点で「すでに」科学技術はバブル状態にあり,
今の研究開発のペースを維持する,あるいは加速することが,
人類にとって良いことだとは,
とてもじゃないけど思えないということ。

このバブルの行き着く先は,
結局のところ資源枯渇の問題で,
資源の枯渇は,経済的な問題ではおさまらず,
必ず国家とか,生存とか,
そういう根源的な問題と向かい合ってしまうことは不可避だ。

しかもそれは,そんなに遠い未来の話ではない。
たとえばこのままボクが研究を続けるとしたら,
現役生活はあと30年。
その30年の間に,
必ずこの問題に直面することになるだろう。
(石油かヘリウムか金属か,あるいは他の何かかわからないけど)

そんな言い訳にまみれた世界で,
「それでも科学技術は必要なんだ」と叫んで,
研究に世の中の人的・物的リソースを注ぎ込むことに,
自分が荷担することを想像すると,
どうしても耐えられない心境になる。

ちょっと違う理由で,
教育の問題との向き合い方というのもある。
先に言ったように,
たぶん資源枯渇がトリガーになって,
かなり大胆に,人間生活の在り方みたいなモノが問われる日が,
それほど遠くない未来にやってくると思う。
実は今,原発の問題が話題に上がるけども,
なんとなく「問題先送り」でどうにか突破しようとしている感がある。
たしかに,まだ先送りしても当面はどうにかなるので,
そうしていくのだろう。
でも,
本当に本当に,そう遠くない未来に,
真剣に向き合わなければならない日がやってくる。
本当の意味で国が分裂するような議論が巻き起こる,
そんな選挙が行われるだろう。
というか,
政治は完全にマヒしてしまうと思う。
それは人の生死みたいなものがダイレクトに響く問題すぎて,
やばすぎて結論が出せないって意味で。

来るべき「その日」に向けて,
今から本気でこの国の知的レベル,というか考える力,
あるいは考えるという作業に耐えうる知的体力を養う,
あるいは「頭を鍛えようよ」みたいなことは,
はじめていかねばならないんじゃないか,
そんな思いが強くなってきている。


そんなことを考えるのに,
何より資源を浪費する作業をして口に糊していていいのか,
それは自分かわいさ故の傲慢なんじゃないか。
そういう自己批判の目に耐えられない自分がいるんじゃないか。
そんな状態です。


結構マジで,人生の大転換を考えようと思う。
田中パピコ文科相によって,
大学認可を巡る話題が大きく取り上げられている。
「大学が多すぎる」というパピコの意見は,
感覚的に非常に納得いくものであるが,
突然の不認可とか,そういう手続き上の問題は,
関係者にとっては大迷惑であったろうと思う。
もちろんここには,
理屈と現実の乖離があって,
たとえ大臣が招集した諮問委員会であっても,
大臣が判を押さなければ許可は下りないわけで,
そういう部分をシャンシャンにしないことを,
「大臣の権限だ」とするか,
「それはあくまで形式上の手続きだ」とするか,
意見のわかれるところであると思う。

で,
そんなことはどうでも良くって,
今回の件でも(京大の入試問題漏洩でも),
結局のところ,
本質的に問われていることは,
「大学ってのは何をするところなのか?」
という一点以外にない。


「大学とはどういう場所であるのか」
という議論をする時に,
いつも直面する困難が,
ボクも含めた研究者がこれを話題にすると,
「研究か教育か」みたいな部分にフォーカスが集まりすぎること。
これは大学の本質を考える上ではすごく重要なんだけど,
ついつい「エフォート」的な意味の話題に陥りやすいので,
今回はちょっと横に置いておこう。

もう1つは,
「サークル活動などを通じた云々」もやめておこう。
それは本質的には大学とは無関係だ。
たとえば専門学校でも,無職でも,就職していたって,
サークル活動などは出来てしまうわけだから。


ということで,
ここから先で考える「大学」ってのは,
とりあえず,
理系・文系を問わず,
(そういう分類からの脱却こそが大学ですべきことなんだろうしね)
4年間の大学生活ということにしよう。

その4年間の中で,
学生は何を学ぶことが出来るのか(出来ないのか),
「学ぶモノ」はどういう類のモノなのか,
教員は学生の「学び」にどのように関与するのか,
あるいは関与しないのか,はたまた関与できないのか。

少なくともボクの中では,
かなり明確な指針があるのだけれども,
これが明確とは言いながらも感覚的な部分が大きく,
うまく文章に表現できる自信がない。
ないけども,続けていこう。

まずはじめに,
教員が学生に影響を与えうるか。
ボクのこたえはYES,大きく与えうる。
しかしそれは,
もちろん学生側の興味・関心・体調などに大きく依存する。

逆に,
「学生は教員から影響を与えられうるか」
言い換えれば,
「学生は教員から何かを学ぶことが出来るか」。
ボクのこたえはYES,大きく学びうる。

ただし,ここで言う学ぶモノは,
知識以外の何かであるべきであろう。
つまり,
グーグルに問えば一定の回答が得られるような,
そういう授業・問答を大学で展開しても,
そこで学生が学んだ知識は,
「大学でなければ学ぶことが出来なかった」
という類のモノではない。
仮に知識のみを学んだというのであれば,
それは「大学では何も学べなかった」,
あるいは「大学では何も与えられなかった」,
というのと同意であろう。

もちろん,
「これは絶対に大学でしか学びえないモノである」
というようなモノは存在しないと思う。
どんなことでも,どんなことからでも,人は学ぶことができる。
だからそういう極論はここでは置いておこう。

つまり,
大学における教育というモノで,
学生も教員も,
両者がまず大前提として共有すべきことは,
「大学は,知識を与え,学ぶ場所ではない」
という一点である。

じゃあ,
大学で教員が学生に与える影響というのは,
あるいは学生が教員から学ぶモノというのは,
いったい何なんだろうか。

それをボクの言葉にして表現するのが,難しい。

手垢のついた言葉で大意を伝えるなら,
「価値観の転換」とか,
「考え方を身につける」とか,
「知識の蓄積ではなく利用」とか,
「受験的な点数主義からの脱却」とか,
「世の中の問題に正解はない」とか,
そういうことになるけども,
これだとボクが本当に言いたいことは抜け落ちている。

たとえば以前書いたことだけれども,
「論理的に考えること」と「自分の行動を決断すること」の間には,
絶対的な断絶がある。
断絶があることを十分に理解して,
それでもそれを飲み込んで,
「論理的に考えた上で決断する」とか,
そういうようなこと。
こういったことを,学生には学んでほしいと思う。

とはいえ,
頑張って考えて書いてもこんな感じで,
「教えようとする何か」を表現することは難しい。
さらに教えようとしたことがそのまま学生に伝わるというモノでもない。
もっと言えば,こういう「教えたいモノを教える」というモデル自体が,
根本的な間違いであるとも思っている。

教員と学生の間で,
「知識」のように「考え方」なんかを「モノ」みたいに伝達しようというのが,
間違っている。
そうじゃない。

教員が出来ることは,
大学に入ってくる学生の中に構築された堅牢な思考方法,
それは,
「どこかに回答があるからそれを見つける」
「どの回答が正しいかは回答の発信源の質が保証している」
というようなモデルを,
打ち砕くことだけなんじゃないか,と思っている。

つまり教員が出来るのは,
「創造」や「構築」といったことではなくて,
むしろ,
「解体」や「破壊」といったことなんじゃないか,
ということ。

教員が学生の中にある「何か」を,
解体・破壊するような「何か」を発信し,
学生はそれを受けて「何か」が解体・破壊される。
そこまでが大学の機能。
その先に,
学生の中に「何」が創造され構築されていくかは,
それは個々の学生の中で起こることであって,
教員の側がタッチ出来ることではない。

大学で起こる学生の内面的な変化,
あるいはそれを教員が触媒するとしたら,
それは,
「子供を大人にする」
ということだろう。
そして「子供」と「大人」の違いが何かと言えば,
これも手垢のついた言葉ではあるが,
「主体性」とか「責任」とか,
そういう類のものなのだろう。
これを端的に表現している言葉が,
福澤諭吉が成熟した社会にあるべき人物像として啓蒙した,
「独立自尊」
であると思うが,
(ボク自身はこの思想に深く共鳴しているが)
福澤嫌いなんかもいるだろうから,
別に独立自尊のみを金科玉条と掲げるわけではないこともここに記しておこう。


で,
こういうことこそが「大学」に求められる機能であると思うのだが,
それを実現するために落とし込む方法論の部分は,
まだ考察が足りていないし,
大学システムとしての範疇を超えて,
教員個々人の資質・思想に依存する部分でもあろうから,
これはまた別の機会に,ということにしよう。
そうしよう。


子供が二人になってからこっち,
やや落ち着きがない生活が続いてしまっている。

1つは時間的な制約。
基本的な生活サイクルとして,
6時朝食ー入浴ー出勤,17時夕食ー入浴ー就寝。
この間が仕事で,
就寝時刻と起床時刻を調整して,
少しだけ家でも仕事をするようにしている。
とはいえ,
もともとボクは家で勉強(仕事)をする習慣が皆無なので,
まったくはかどっていない。

もう1つは,ムスコのカラダ。
ムスメは今のところ大丈夫なのだが,
ムスコは恐れていたというか,予想していたというか,
やはりアレルギー体質のようだ。
定期的な通院に加えて,日常的にも諸々のケアが必要で,
たとえば朝晩の二回入浴なのもこのため。
ボクはボク自身がそうなので,
そういう体質にとって良いことと悪いことが染みついていて,
手の抜きどころとか,絶対に外してはならないケアとか,
そういう感覚があるのだけれども,
ヨメにとってはそうではないので,そのあたりが大変ではある。
(ムスコにとっても,夫婦関係にとっても)

というような家庭的な(?)事情に加えて,
論文原稿に対して「まるで成長していない・・・」というコメントがきたり,
科研費申請に向けて考えても考えがまとまりきらなかったりという,
研究者としての実力不足を痛感していて,
そんな感覚と,
「家庭に時間を持って行かれる」というような感覚と,
その辺を自分の中で咀嚼しきれずに悶々としてしまっている。

まるっとまとめたような言い方をしてしまえば,
人生をまったく楽しめていない。

ボクがこの世に何を残すかと考えた時に,
それは論文なのだろうか,という疑念もあったりして,
何とも言えない気分になるわけです。

そんなこんなを諸々と考えた時に,
核家族の限界のようなものが見えている気もして,
そういう話もしっかり考えていきたいな,と。

そんな折りに,
敬愛する友人のラボで行うセミナーに向け,
「名前の通り慎ましい性格というわけでは全くなく、
 どんな場でも自分の主義主張を臆せず主張する人物です。
 業界の大御所にも強い口調で堂々と物を言う様には、
 いつも聞いてる側がヒヤヒヤさせられますが、
 自然科学にせよ社会問題にせよ、
 原理原則に立ち返ることを疎かにせず、
 かつアイデアに富んだ意見を出すので、
 彼の周囲はいつも賑わっています。」
という人物紹介をしてくれました。

そうでも無いんだけどなぁ,と思う部分もありますが,
そういう人物であってほしい,とか,
こういう人物がいてほしい,とか,
そういった期待感みたいなモノのあらわれでもあるかと思うので,
逃げ腰になるのはガマンして,
こういう力強い生き方をしっかりしていけば良いのかな,と,
勇気をもらったのでありました。
プロフィール
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kawagucci
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非公開
自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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