自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
体罰については言いたいことが多いのだが,
一方でこれに関して書くのは大変に気が重いので,
なかなか筆が進まなかったわけです。
でも「はよ書け」という要望があったので,
これから仕事をせねばならない朝ではなく,
もう寝るだけの夜に書くことにしました。
まず体罰というと,
体罰は暴力か,みたいな話になりますが,
体罰は例外なく暴力です。
相手の望まない身体への攻撃は,
そこに攻撃的な意図がなかったとしても,
そこには愛情しかなかったとしても,暴力です。
(暴力じゃないケースなんてSMプレイとか競技格闘技ぐらいです)
ここが論点になるってのが信じられないし,
これは暴力論とか体罰論とか以前の,
基本的人権の話なので,これ以上のことはありません。
ボクが体罰でイカンと思うのは,
「権力を持つ側が一方的に強制する」
っていう図式にあるわけです。
権力構造ってのは,理想的には,
その権力が及ぶ範囲について互いに了解したコミュニティ内のみで成立するもので,
生まれながらにして権力構造の中にある,ってことは,
基本的にはありえないわけです。
とはいえ,
親がそういう社会構造の中にいる以上,
どうしても生まれてきた瞬間から子供はその構造に取り込まれてしまうわけで,
だからこそ,
子供がその枠に絡め取られてしまわないために,
「大人」は「子供に教育を受けさせる義務」を負うわけですよね。
話が大きくなった風だけど,
そんなことはなくて,
本当にここが出発点だと思う。
「部活に入るってことは権力構造を了解したということだろ」
という意見があるかもしれないけど,
それが必ず正しいとは限らない。
その部活動に関する指導を受けること,
その代わりに一定の自由が奪われること,
というのは,確かにその通りだと思うし,
それについては教員と生徒の間でも(無言の)了解があると思う。
でも,
その条件の中に「暴力」が含まれているかどうかでいうと,
それは,よほど特殊な事情で言明されていない限り,含まれていない。
社会的にも,肉体的にも強い立場にいるものが,
特別な言及が無いままに暴力をふるう権限を有しているなんてことは,
ありえない。
ましてや部活動は,街の競技クラブとは違って,
学校教育の一環として行われているという建前がある以上は,
あくまで教育活動なわけで,
教育を担う人が暴力に頼るってのがありえないし,
教員が暴力をふるうことが問題というか,
そういう人が教員になれてしまうことが問題で,
教員でありつづけていられることも問題だと思う。
「そんな教員が存在し続けている環境が問題」だから,
「そんな学校は問題」という論理は,
まったくもって,その通りだと思う。
そこには同意する。
でも,
だからといって,
監督責任のある立場として,
行政が入試の停止だなんだということを命じることには,
同意できない。
同意できない理由は,
まさにここまでの体罰の話で述べてきた通りで,
「権力を持つものが互いの了解の範囲を逸脱して権力を行使する」
という部分にある。
行政が学校運営に対して責任と権限を持つから,
学校運営に介入して入試停止を命じるというのは,
この範囲のロジックでは問題無く成立するかもしれない。
でも,
学校には運営する側以外にも,
その学校に在籍している人々,つまりは生徒(になりたい人も含む)がいるわけで,
行政が彼らの権利を侵害することが出来るのかというと,
仮に法的には問題がないのだとしても,
非常に慎重に考えられなければならない問題になってくる。
間に学校運営をする立場が挟まれているとはいえ,
「行政が直接的に生徒の権利を侵害しかねない行為」をしようとする時に,
つまりは権力を有する側が行動しようとして,
それに対する反論があがった時に,
権力側の都合が押し通されてしまうというのは,
まさに権利の侵害ではないのだろうか。
今回のケースに特化すると,
行政が学校の教員群に対して罰を与えようとしている。
しかし,それと同時に生徒に罰が及ぶわけで,
その時に,
無罪の人も含めて両方とも罰するのか,
有罪の人も含めて両方とも罰さないのか,
どちらの立場を取ることが望ましい姿なのか,
そこが今回の考えるべき点なのではないか。
少なくとも,
体罰を実施した教員本人は有罪である。
それを黙認した同僚教員も有罪とする方が妥当であろう。
でも,
生徒は,絶対に無罪だろう。
甘んじて暴力を受け入れていたから,それは体罰を容認している,
なんてロジックは,ありえない。
部分的な勧善懲悪のために,
誰かが傷つかねばならないなんてことは,あってはならない。
================================
権力を持つ側というのは,
権力というものが持つある種の暴力性についてよく把握し,
意図しない行為でも権力の暴力性により誰かを傷つけてしまうことに,
極めて慎重な自己査定を行わなければならない。
また,自己査定のみでは限界があるからこそ,
自ら外部監査を受け,その進言を受け入れるなど,
より慎重な権力運用に努めなければならない。
特に強大な権力を有するものは,
拳を振り下ろすことはもとより,
拳を振り上げただけで恐怖を与えること,
それはつまり発言のみでも十分に暴力的であることを自覚する必要がある。
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一方でこれに関して書くのは大変に気が重いので,
なかなか筆が進まなかったわけです。
でも「はよ書け」という要望があったので,
これから仕事をせねばならない朝ではなく,
もう寝るだけの夜に書くことにしました。
まず体罰というと,
体罰は暴力か,みたいな話になりますが,
体罰は例外なく暴力です。
相手の望まない身体への攻撃は,
そこに攻撃的な意図がなかったとしても,
そこには愛情しかなかったとしても,暴力です。
(暴力じゃないケースなんてSMプレイとか競技格闘技ぐらいです)
ここが論点になるってのが信じられないし,
これは暴力論とか体罰論とか以前の,
基本的人権の話なので,これ以上のことはありません。
ボクが体罰でイカンと思うのは,
「権力を持つ側が一方的に強制する」
っていう図式にあるわけです。
権力構造ってのは,理想的には,
その権力が及ぶ範囲について互いに了解したコミュニティ内のみで成立するもので,
生まれながらにして権力構造の中にある,ってことは,
基本的にはありえないわけです。
とはいえ,
親がそういう社会構造の中にいる以上,
どうしても生まれてきた瞬間から子供はその構造に取り込まれてしまうわけで,
だからこそ,
子供がその枠に絡め取られてしまわないために,
「大人」は「子供に教育を受けさせる義務」を負うわけですよね。
話が大きくなった風だけど,
そんなことはなくて,
本当にここが出発点だと思う。
「部活に入るってことは権力構造を了解したということだろ」
という意見があるかもしれないけど,
それが必ず正しいとは限らない。
その部活動に関する指導を受けること,
その代わりに一定の自由が奪われること,
というのは,確かにその通りだと思うし,
それについては教員と生徒の間でも(無言の)了解があると思う。
でも,
その条件の中に「暴力」が含まれているかどうかでいうと,
それは,よほど特殊な事情で言明されていない限り,含まれていない。
社会的にも,肉体的にも強い立場にいるものが,
特別な言及が無いままに暴力をふるう権限を有しているなんてことは,
ありえない。
ましてや部活動は,街の競技クラブとは違って,
学校教育の一環として行われているという建前がある以上は,
あくまで教育活動なわけで,
教育を担う人が暴力に頼るってのがありえないし,
教員が暴力をふるうことが問題というか,
そういう人が教員になれてしまうことが問題で,
教員でありつづけていられることも問題だと思う。
「そんな教員が存在し続けている環境が問題」だから,
「そんな学校は問題」という論理は,
まったくもって,その通りだと思う。
そこには同意する。
でも,
だからといって,
監督責任のある立場として,
行政が入試の停止だなんだということを命じることには,
同意できない。
同意できない理由は,
まさにここまでの体罰の話で述べてきた通りで,
「権力を持つものが互いの了解の範囲を逸脱して権力を行使する」
という部分にある。
行政が学校運営に対して責任と権限を持つから,
学校運営に介入して入試停止を命じるというのは,
この範囲のロジックでは問題無く成立するかもしれない。
でも,
学校には運営する側以外にも,
その学校に在籍している人々,つまりは生徒(になりたい人も含む)がいるわけで,
行政が彼らの権利を侵害することが出来るのかというと,
仮に法的には問題がないのだとしても,
非常に慎重に考えられなければならない問題になってくる。
間に学校運営をする立場が挟まれているとはいえ,
「行政が直接的に生徒の権利を侵害しかねない行為」をしようとする時に,
つまりは権力を有する側が行動しようとして,
それに対する反論があがった時に,
権力側の都合が押し通されてしまうというのは,
まさに権利の侵害ではないのだろうか。
今回のケースに特化すると,
行政が学校の教員群に対して罰を与えようとしている。
しかし,それと同時に生徒に罰が及ぶわけで,
その時に,
無罪の人も含めて両方とも罰するのか,
有罪の人も含めて両方とも罰さないのか,
どちらの立場を取ることが望ましい姿なのか,
そこが今回の考えるべき点なのではないか。
少なくとも,
体罰を実施した教員本人は有罪である。
それを黙認した同僚教員も有罪とする方が妥当であろう。
でも,
生徒は,絶対に無罪だろう。
甘んじて暴力を受け入れていたから,それは体罰を容認している,
なんてロジックは,ありえない。
部分的な勧善懲悪のために,
誰かが傷つかねばならないなんてことは,あってはならない。
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権力を持つ側というのは,
権力というものが持つある種の暴力性についてよく把握し,
意図しない行為でも権力の暴力性により誰かを傷つけてしまうことに,
極めて慎重な自己査定を行わなければならない。
また,自己査定のみでは限界があるからこそ,
自ら外部監査を受け,その進言を受け入れるなど,
より慎重な権力運用に努めなければならない。
特に強大な権力を有するものは,
拳を振り下ろすことはもとより,
拳を振り上げただけで恐怖を与えること,
それはつまり発言のみでも十分に暴力的であることを自覚する必要がある。
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