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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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研究者がある研究を行ったとする。その研究者は、着眼点や発想力が凄いので、研究構想の段階で既に他を凌駕している。そしてシンプルな検証でその正しさをほぼ確かであることを示す。おぉぉ、エレガント、後は皆に任せた。

これでいいと思うのは「チョビっと優秀なヤツの自己満足」にすぎない。実は、ほぼ確からしいことを「確かにする」最後のツメが一番困難で苦しい。その一番困難な完成への道のシナリオがないなら、そこでやめればいい。それは単なる能力不足。シナリオがあるのにやめるのは、単なる努力不足。

ある研究の完成(それは研究の美と言っていい)は、その研究を無から生み出した研究者の創造力の観念的責任である。特に、「近代数学」のように目の前にある明確な社会的価値に結びつかないような科学を対象としているなら、ある研究の完成途上での放棄は、研究の美しさへの冒涜だけでなく、その研究へのパトロンたる国家や組織、国民や組織構成員への責任放棄とも言える。そして、そんな事より何より、研究を一番美しく完成させることができる人間が完成させなければ、その研究に直接・間接に関わるすべての人の思いが矮小化されてしまいかねない。それは一言で言えば「利己的思考」。

もちろん研究なんてある意味「好奇心におかされたヒトの利己的行為」にすぎないわけだが、そこに社会資本が関わる以上、「利己」と「利他」の折り合いをつける必然性がある。そして「利他」を追求すると「最終目的を共有した他者」との研究の完結性を共有できるため、研究の美しさへの責任は軽減されるかもしれない。しかし、「利己的でかつ利他的」を追求するなら、やはり利己的な研究には、その生み親の研究者の100%の努力と完成の美しさに対する「他者の思い」が、当面唯一の利他性ではないだろうか。つまり、独創的で優秀な研究者なら100%の努力をつぎ込むことが自分の、周り人々の、そして国民や人類のためのシアワセにつながるではないかと。「自分のスタイルや価値観の反映」は極めて重要な事ではあるが、研究の完結性美しさは研究者の思惑とは離れた絶対的座標軸にあるものだと思うのです。



 
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