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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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自分でラボを運営したことはない。
所属した大学院のラボも2つしかない。
しかしそれなりの研究キャリアになってきて、少しの良い例とたくさんの悪い例を見てきた。
なんとなく「これは必要」「これはやっちゃダメ」というのが感じられる。
良い例というのは、多くの(マトモな)研究者が飛び立っていることに加えて、途中で辞めていく人が少ないこと、ぐらいで定義できるかもしれない。

まず一番重要なことは『会話の頻度』。
これは間違いない。
鶏と卵みたいだけども、何気ない会話を教員からでも学生からでも出来る関係が大事。
たぶん、最初は教員が喋りまくって、学生の障壁を取り除くのだと思う。
「お茶の時間」みたいな設定があると良いかもしれない。
ラボ選びの段階で、お喋り教員のところにお喋り学生が集まるのかもしれないけど。
会話が多いことには、とてもたくさんのメリットがある。
お互いに知りたいことをすぐに聞けるというのは、不安や不満の解消に必須だ。
お互いにお願いしたいことをスッと言えるというのは、円滑な進捗に必須だ。
これは教員と学生に限らず、学生と学生の関係でも見逃せない。
そしてそういう会話の往復の中で、もっとも重要な部分が共有されていく。
言い回しであったり、避けるべき話題であったり、哲学であったり。
友達としての会話ではなく、同門としての会話が出来るようになる。

次に大事なことは『読み書きの体系的な訓練(指導)』。
読んで書くことは、研究者に限らず、多様な職業で必須な技術だ。
母語での読み書きは「できる」と思っていても、そこには質の問題がある。
日常生活を何不自由なく過ごせたとしても、職業的な文を書けるかどうかとは別問題だ。
そしてそれは、そういう文を読み、ソレが日常の言葉とは別物であると知ることからはじまる。
読み書きは個人の内面から表出するものだから、個々人で習得するしかない。
一般論はこの通りであり、大筋で言えば「読め、そして書け」と指導するほかない。
しかし、それでは指導していないのと変わらないだろう。
「読むこと」ではなく「読み方」を指導する。
そして「読めている」かを判定し、「なぜ読めていないか」を指導する。
「書くこと」ではなく「書き方」を指導する。
そして「書けている」かを判定し、「なぜ書けていないか」を指導する。
個人の内面の表出である文章を、尊厳を傷つけすぎないように指導することは、難しい。
ここのところを属人的にしないため、体系的な指導が必要となる。
日常的な会話が出来る関係性も、これを支える重要な基盤である。
(だから会話の頻度の方が大事だと考えるのだ)

第三には『結果を求めすぎない』だろう。
実験指導が充実しているラボは多い。
素晴らしい結果を出し、素晴らしい学会発表をしている学生が多数いるラボがいくつかある。
一見すると、素晴らしい教育が行われているように思える。
しかし、それが卒業生の成長に繋がっているとは思えないケースが多い。
それはたぶん、ラボ生活の大半が実験に費やされることが要因だろう。
会話や読み書きの熟達よりも、実験技術の精緻さや素早さの鍛錬を重視するラボは多い。
良い結果が早く出ることは、競争的学術界を思うと、一面で正しいかもしれない。
たしかに奨学金の免除や学振の採否など、早期に業績があることが望ましい結果に結びつく部分はある。
しかしそれは、はたして大学院教育が目指す学生の成長において、それほど重要なのだろうか。
経済的不安が致命的であることは認識しても、それを解消することを第一義におくのは違うだろう。

「会話の頻度」「読み書きの体系的指導」「結果を求めすぎない」は同時に実現するだろうか。
そんなに難しくなさそうではある。
いつかくる日までに、この辺りを整理して身につけておきたい。
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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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