自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
受験生は「偽計業務妨害罪」にて逮捕されました
今回の「事件」は、
大学の、日本社会の、負の側面を洗い出しているように思うわけで、
ここで立ち止まってちゃんと本質を考察することこそが、
われわれの心の内の病巣を明らかにすることにつながるのではないか、
そう思うわけです
茂木博士が出したコメントに同意するものであるし、
小田嶋氏の論説は重要な視点を指摘している
さてまずは「偽計業務妨害罪」が成立するのか、という部分
これは専門家の見解がある
要するに、
「試験時間中に」「不特定多数に」問題を流出させたことが問題のよう
ちなみに「替え玉受験」は「有印私文書偽造」などで立件しているとのこと
たとえばカンニングの方法として、
メールで外部の人間とやりとりして回答を得ていた場合は、
イヤホンマイクで通話していた場合は、
はたして何罪なのか
これらの場合は「不特定多数」には流出していない
また「試験時間中」に流出したことが問題と言うが、
これの問題はどこか
実際に会場にいる他の受験生が、
ネットに情報が流出したことを知りえ、またその情報にアクセスしうるのか、
という部分で疑問が残る
考慮すべき対象が「不特定多数」なのか「他の受験生」なのか、
その部分も重要かも知れない
他の受験生が知りえない以上、
ネットにオンタイムでアクセスできる「不特定多数」に流出していても、
試験会場にいる受験生にはアクセスできないわけで、
本件に関わる「特定の集団」には流出していないわけで、
それは実質的には流出していないということではないのか
「試験時間中」と「不特定多数」の整合というか、
そういう部分が腑に落ちない
まぁそれはそれで、
きっと、それらしい罪名を適用することはできるだろう
逆に言うと、
大体どんな行為だって、
立件しようと思えばできるのだ
村上春樹の「卵と壁」ではないが、
システムとはそれほどに「強い」ものなのだ
それをどうやって利用するかの問題なのだ
「存在することは罪にはならない」(トムさん@ワンピース)のだから
「入試の根幹を揺るがした」というが、
根幹とは何かね?
携帯一つで揺るがされるようなものが、
「入試の根幹」なのですかね?
入試の根幹とは、つまるところ、
「大学が学生を受入れること」なのではないか
では、
「どういう学生を受入れたいか」だが、
「あなたの大学にお世話になりたい」という「受験生の求愛」は、
もちろん不可欠だろう
「お前の大学なんか行きたくない」という若者を受入れる理由はない
ではすべての「受験生の求愛」を受入れればいいではないか
なぜ「選抜試験」をするのか
その哲学として、
「一定の学力がある人間以外は受入れない」という「品質保証が目的」なのか、
あるいは、
「大学のスペースの問題ですべてを受入れられない」ので「人数を間引くことが目的」なのか
ここは重要で、
これこそが「入試の根幹」ではなかろうか
大学が教育の場であるなら、
受験生の「品質保証」を検討するのは、
理念的には整合がとれない
どんな学生も入ってから教育すれば良いのだから
もし学力が足らずに大学教育についていけないのであれば、
それは学生の問題であって大学の問題ではない
仮にすべての受験生が100点満点の試験で1点ないしは0点であった場合、
1点のものを学生として受入れるのか
そのような低学力の学生はいらないとして全員不合格にするのか
そもそも1点と0点に、統計的な意味でなく実質的な意味で、
学力の有意差はあるのか
そう考えるとやはり、
「希望者全員を受入れたいのはやまやまだけど人数の問題があるので選抜」
という方が、
教育の場としての大学の態度としてはしっくりくる
そのための選抜試験なのだとしたら、
はっきり言ってジャンケンでもクジビキでも良いのだ
実際に「お受験」ではクジビキも実施されていると聞く
入試をそういうものだととらえると、
「所詮、その程度のこと」なのだ
そうだとしたら、
「大学にとって入試は重大な事項の一つ」という旗幟に疑念も出てくる
「入試は若者の人生を大きく左右する」とか言うが、
所詮は選抜することが目的なのだから、
受験生が監督者に気づかれないところでカンニングしていても、
「あらら、やられましたな」という程度のものではないか
他の受験生から「公平な試験のために厳重な監督を」と言われても、
そんなのは「あなたが満点を取れば無条件で合格ですよ」とすれば良いわけで、
あまり考慮すべきものでは無いと思う
しかし大学を研究の場ととらえると、
「研究をするに足る実力を有するか」という点は重要で、
それこそ多額の税金を利用して研究をすることも含め、
しっかりと実力を精査する必要があろう
またこの場合、
合格者ゼロもありえるし、
不勉強な学生に「君はもうダメだね、やめたまえ」ということも、
あるいはアリかもしれない
もちろん「教育の場であり、研究の場である」と言うのだろうけども、
現状の大学(大学院を除く)を見るに、
主として教育の場であるように思う
大学が教育の場であれば、
そこに属する教員は教育者であり、
いかな行為を働いたものであっても、
あるいはその大学に所属していないものであっても、
教育を施していくべき立場であろう
報道については、
もはや語ることさえ、という感じ
こぞって報道し、
テレビニュースではトップ扱い、新聞では1面トップ記事
しかも捜査当局からの垂れ流し情報の横流しか、
「街の声」と言う名の「一方的悪意」の表明
「報じること自体が悪かもしれない」という逡巡はかけらもなく、
被疑者の映像を撮らんと押し寄せ照明を浴びせる
どこか一社でも「報じない自由」を考えなかったのか
たとえば読売新聞は社説で
「入試不正解明し対策に生かせ」と題して、
「他の受験生の努力を踏みにじる行為」
「公正であるべき大学入試制度を根幹から揺るがしかねない」
などとしている
この論説の背景には、
受験を他の受験生との競争ととらえる意識が見えるし、
ここでも「入試制度を根幹から」の文言もある
国内最大販売数を誇る新聞社の社説を書く人間というのは、
国内最上級の知識層であるべきだろう
それがこの程度の文章しか書けない
その事実の方が、
カンニング自体よりも重大な「事件」だと思う
「総中流」というが、
大学人やメディア人というのは、
本来、エリートでないのか
普通の国民には理解できないことを理解できる人間であり、
それを解きほぐして中流層に伝えることができる人間である
そういうものだろう
「弱者の味方」「弱者の目線」「弱者の立場」を考え伝えることは重要だが、
だからといって、
知識層自身は弱者ではない
エリート意識を持つことは悪ではない
血脈によってエリートが保証されない現代だからこそ、
知識層は強いエリート意識を持つべきではなかろうか
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今回の「事件」は、
大学の、日本社会の、負の側面を洗い出しているように思うわけで、
ここで立ち止まってちゃんと本質を考察することこそが、
われわれの心の内の病巣を明らかにすることにつながるのではないか、
そう思うわけです
茂木博士が出したコメントに同意するものであるし、
小田嶋氏の論説は重要な視点を指摘している
さてまずは「偽計業務妨害罪」が成立するのか、という部分
これは専門家の見解がある
要するに、
「試験時間中に」「不特定多数に」問題を流出させたことが問題のよう
ちなみに「替え玉受験」は「有印私文書偽造」などで立件しているとのこと
たとえばカンニングの方法として、
メールで外部の人間とやりとりして回答を得ていた場合は、
イヤホンマイクで通話していた場合は、
はたして何罪なのか
これらの場合は「不特定多数」には流出していない
また「試験時間中」に流出したことが問題と言うが、
これの問題はどこか
実際に会場にいる他の受験生が、
ネットに情報が流出したことを知りえ、またその情報にアクセスしうるのか、
という部分で疑問が残る
考慮すべき対象が「不特定多数」なのか「他の受験生」なのか、
その部分も重要かも知れない
他の受験生が知りえない以上、
ネットにオンタイムでアクセスできる「不特定多数」に流出していても、
試験会場にいる受験生にはアクセスできないわけで、
本件に関わる「特定の集団」には流出していないわけで、
それは実質的には流出していないということではないのか
「試験時間中」と「不特定多数」の整合というか、
そういう部分が腑に落ちない
まぁそれはそれで、
きっと、それらしい罪名を適用することはできるだろう
逆に言うと、
大体どんな行為だって、
立件しようと思えばできるのだ
村上春樹の「卵と壁」ではないが、
システムとはそれほどに「強い」ものなのだ
それをどうやって利用するかの問題なのだ
「存在することは罪にはならない」(トムさん@ワンピース)のだから
「入試の根幹を揺るがした」というが、
根幹とは何かね?
携帯一つで揺るがされるようなものが、
「入試の根幹」なのですかね?
入試の根幹とは、つまるところ、
「大学が学生を受入れること」なのではないか
では、
「どういう学生を受入れたいか」だが、
「あなたの大学にお世話になりたい」という「受験生の求愛」は、
もちろん不可欠だろう
「お前の大学なんか行きたくない」という若者を受入れる理由はない
ではすべての「受験生の求愛」を受入れればいいではないか
なぜ「選抜試験」をするのか
その哲学として、
「一定の学力がある人間以外は受入れない」という「品質保証が目的」なのか、
あるいは、
「大学のスペースの問題ですべてを受入れられない」ので「人数を間引くことが目的」なのか
ここは重要で、
これこそが「入試の根幹」ではなかろうか
大学が教育の場であるなら、
受験生の「品質保証」を検討するのは、
理念的には整合がとれない
どんな学生も入ってから教育すれば良いのだから
もし学力が足らずに大学教育についていけないのであれば、
それは学生の問題であって大学の問題ではない
仮にすべての受験生が100点満点の試験で1点ないしは0点であった場合、
1点のものを学生として受入れるのか
そのような低学力の学生はいらないとして全員不合格にするのか
そもそも1点と0点に、統計的な意味でなく実質的な意味で、
学力の有意差はあるのか
そう考えるとやはり、
「希望者全員を受入れたいのはやまやまだけど人数の問題があるので選抜」
という方が、
教育の場としての大学の態度としてはしっくりくる
そのための選抜試験なのだとしたら、
はっきり言ってジャンケンでもクジビキでも良いのだ
実際に「お受験」ではクジビキも実施されていると聞く
入試をそういうものだととらえると、
「所詮、その程度のこと」なのだ
そうだとしたら、
「大学にとって入試は重大な事項の一つ」という旗幟に疑念も出てくる
「入試は若者の人生を大きく左右する」とか言うが、
所詮は選抜することが目的なのだから、
受験生が監督者に気づかれないところでカンニングしていても、
「あらら、やられましたな」という程度のものではないか
他の受験生から「公平な試験のために厳重な監督を」と言われても、
そんなのは「あなたが満点を取れば無条件で合格ですよ」とすれば良いわけで、
あまり考慮すべきものでは無いと思う
しかし大学を研究の場ととらえると、
「研究をするに足る実力を有するか」という点は重要で、
それこそ多額の税金を利用して研究をすることも含め、
しっかりと実力を精査する必要があろう
またこの場合、
合格者ゼロもありえるし、
不勉強な学生に「君はもうダメだね、やめたまえ」ということも、
あるいはアリかもしれない
もちろん「教育の場であり、研究の場である」と言うのだろうけども、
現状の大学(大学院を除く)を見るに、
主として教育の場であるように思う
大学が教育の場であれば、
そこに属する教員は教育者であり、
いかな行為を働いたものであっても、
あるいはその大学に所属していないものであっても、
教育を施していくべき立場であろう
報道については、
もはや語ることさえ、という感じ
こぞって報道し、
テレビニュースではトップ扱い、新聞では1面トップ記事
しかも捜査当局からの垂れ流し情報の横流しか、
「街の声」と言う名の「一方的悪意」の表明
「報じること自体が悪かもしれない」という逡巡はかけらもなく、
被疑者の映像を撮らんと押し寄せ照明を浴びせる
どこか一社でも「報じない自由」を考えなかったのか
たとえば読売新聞は社説で
「入試不正解明し対策に生かせ」と題して、
「他の受験生の努力を踏みにじる行為」
「公正であるべき大学入試制度を根幹から揺るがしかねない」
などとしている
この論説の背景には、
受験を他の受験生との競争ととらえる意識が見えるし、
ここでも「入試制度を根幹から」の文言もある
国内最大販売数を誇る新聞社の社説を書く人間というのは、
国内最上級の知識層であるべきだろう
それがこの程度の文章しか書けない
その事実の方が、
カンニング自体よりも重大な「事件」だと思う
「総中流」というが、
大学人やメディア人というのは、
本来、エリートでないのか
普通の国民には理解できないことを理解できる人間であり、
それを解きほぐして中流層に伝えることができる人間である
そういうものだろう
「弱者の味方」「弱者の目線」「弱者の立場」を考え伝えることは重要だが、
だからといって、
知識層自身は弱者ではない
エリート意識を持つことは悪ではない
血脈によってエリートが保証されない現代だからこそ、
知識層は強いエリート意識を持つべきではなかろうか
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