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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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「プロ」ってことについて考えるのは,
研究や教育を担っていく人間としてすごく重要だと思っていて,
それを考えること自体も研究や教育とともにライフワーク的になっている。

世の中には色んな形の「プロ」があると思う。
中でもボクの考えるその発端となる部分で言うと,
「モノvsカネ」とか「カネvsカネ」とか「衣食住サービスvsカネ」とか,
そういう産業活動の範疇にない仕事,
芸術とか教育とか娯楽とか,そういうものを提供する仕事のこと。

そういう活動に従事することが社会から認められ,
報酬のようなものとしてカネを受け取ること,
その意義(あるいは正当性)みたいなものを,
自分の中で確立できていないと,
「社会で必要とされて無くて吹けば飛ぶような存在なのではないのか」
とか,もっと言うと,
「この社会に生きている価値があるのか」
とか,
そういう風に考えてしまうから,
そういう意味で「プロ」ということについて,
考えてしまう。

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「プロの作家」として生きていくことに決めた友人がいて,
その経緯とか,現状とか,すごく共感できて,
いや,共感というか,
「自分ではなりたくてもなれなかった姿」と感じていて,
友人の一人として,とにかくすごく応援したいと思っている。

で,その友人を見ていて,
仕事の本丸である「文章」は「カネをもらうに値する」もので,
感心・感動させられることもしばしばなのだが,
それ以外の仕事を取り巻くもの,あるいはその振る舞いが,
どうしても「プロ」として許せなくて,
ついついツイッターで噴火してしまった。

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ボクはプロの研究者として「見られている」ことには敏感。
「見られている」の境界線をどこに置くかは自分次第。

「思ったより見られている」ということが多い。
だからボクは逆に考えて「すべて見られている」つもりでいる。

「見られていないと思ってやっていることを見られること」の恐怖。

「自分」を大事にすべき局面と「見られている自分」を大事にすべき局面がある。
似て非なるもの。

「見られる部分」はすべて客観的には「実」。
「見られない部分」は客観的には「虚」。
この「虚実の薄皮」に対する感度は「見られる立場」にある人間にとって生命線。

「虚実の薄皮」を巧みに利用するのが真のプロフェッショナル。

「未熟な自分」を売り物にするってのは「自分を消費」している。
アマチュアの稼ぎ方。
いずれ底をつく。
「創造物」であれば枯渇しない。
それがプロ。
性風俗も同じ。
自分で作り上げたわけではない「身体」を売るということは,それが消費されたらオシマイ。

表現と自己表現は違う
「表現」と「自己表現」は違う。もちろん入口に自己表現は必要なんだが、学生なんかは特に安易な自己表現こそがアートとかクリエイティブだと思い込んでいる輩が多すぎるからなぁ。自己表現からの脱却が、本当の意味でプロになるという事。

「いつでも確実に要求水準をクリアする」というプロ意識と「持てる力の全てを注ぎ込んで最高のものをつくる」という一種のアマ意識は 同居し得るもの

甲本ヒロトの「カッコ悪さ」だって演出かもしれない。
奥田民生の「脱力感」だって演出かもしれない。
あれが「自己表現」なのか「表現」なのかなんてわからない。
それがわからないのは「端的に自己表現とわかる姿」を見せないから。
だから「プロの表現者」は「自己表現」を晒すことに慎重になるべき。

「自己表現」を晒してしまうと「表現」に含まれる「ウソ」が露わになってしまう。

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「プロ」ってのはアウトプットの質で評価される。
ここで言うアウトプットってのは,
「作家にとっての本」とか,
「研究者にとっての論文」とか,
それだけの意味ではない。

それは,それぞれの「プロダクトに対する評価」であって,
もちろん「その人のプロとしての評価」を構成する大きな部分ではあるが,
評価されるのはそれだけではない。

たとえば「透明感」をウリにしているアイドルがいて,
プライベートでの喫煙写真が雑誌に掲載されたとする。
その写真は「プロとしてのプロダクト」ではないけども,
その姿は「プロとしてのアウトプット」である。

「お笑い怪獣=タイガーマスク論」として以前書いたけども,
「明石家さんま」はテレビや舞台に留まらず,
人目につくところ,
たとえば新幹線車内や飲み会,家庭での話題に至るまで,
「明石家さんま」としてアウトプットしている。

それはきっと,
他人に見られる「プロ」として,
「明石家さんまはプライベートでは物静か」ということが知れると,
どれだけ「プロの仕事」として陽気に振る舞っても,
「あぁ,これは仕事としてやっているのね」と思われてしまう,
そういうリスクを回避するためのものだと思う。
そこまで考えて,
人目につくところは,たとえ温泉に浸かっていても,
すべて「プロ」として振る舞うことに徹しているのだろう。

それはもの凄い,つらい,孤独な戦いだと想像する。
ビジネスで接する人と,生身で会話することはない。
「本当の自分」として一息つけるのは,自宅の中だけ。
でも,それが「プロ」として生きると決めた人の,
覚悟と矜持なんだろう。

マスクの中で涙を流しても,
タイガーマスクはヒーローで無ければならないのだ。

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そういう風に「プロ」というものを考えるときに,
「努力」とか「愛」とか「運」とか,
そういうものを持ち出して,
自分のアウトプットの質が低いことを正当化しようとするのは,
同情によって自らを価値付けしようとしている点で,卑怯だ。

当人にその意図がなくても,
「プロ」がそういった「プライベート」なものをちらつかせるのは,
それが「プロのアウトプット」として「見せるため」のものでなくとも,
見る側は「そういうもの」として受け取るわけで,
「いや,そういう意図で見せているわけではないんだ」と言っても,
それは通用しない。

「不格好」なことと「不格好に見せる」ことは違う。
「不格好に見せよう」と演出して,
「不格好に見せようとしている」と受け止められたら,
それはプロのアウトプットとして破綻している。
同時に,
「不格好になってしまっている」ことを自己肯定して,
「これは不格好にしているんだ」と言い張ることも,
「格好良く作れないだけでしょ」と見られてしまえば,
ただ単に「不格好なだけ」のものになってしまう。

この部分が,虚実の入り交じるところである。
見る側からすれば,見えるものはすべて「実」である。
「不格好」に見えることも,
「不格好に見せよう」としているように見えることも,
見る側がそう受け取ったら,
それが「実」なのである。

一方で,
見られている側である「プロ」が,
「本当に不格好」なのか,
「不格好な自分が好き」なのか,
「不格好の格好良さを演出している」のか,
その内面は見る側からはわからない「虚」である。

見る側からは見えない「虚」をさらけ出して,
「これが「実」なんですよ」とやることは,
プロとしての「底」を見せることになる。
「底」を見せるということは,
自分の「私」がそのまま見られるということ。
つまり「心身」を売り物として差し出すこと。

それは性風俗と似ている。
その人に見いだされた価値は,
神から授けられたモノであり,
自ら創造したモノではない。
だから消費され,劣化し,飽きられても,
自分ではそれに抗えない。
ただ「プロとしての死」を迎えるだけ。

プロとして生きるなら,
「虚」の部分だけは守らねばならない。
それが「見られるもの」であるプロとして生きる上で,
大事なことなんじゃないかと,
そう思ってボクは生きている。

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予想通りグダグダになった。
この話をしっかりまとめられれば,
もう少し気楽に生きられる気がする。
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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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