自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
学部の授業,つまりは「研究者にならない学生」に対して,「大学教員」はどういうメンタリティで向かい合うのか。また,そんな学生に向けて,何を伝え,何が伝われば,端的にはどういう人間になってくれれば,それが大学教育なのか,ということを確立できているか(教育哲学)。さらにはそれを実現するための方法論は確立できているか(教育技術)。仮に確たる哲学と技術があるとして,それは組織としての大学が標榜する大学教育との間に齟齬はないか,あるいは大学のカリキュラムなど諸制度とのかみ合わせはあるのか(大学と大学教員)。
現状,組織としての大学が「知の統合」とかそういうような「大学教育スローガン」のようなものをかかげ,また「秋入学」のような「大学制度改革」をおしすすめようとしているが,そこに「大学教員」の姿はあるのか。またそうした大学組織の意向と,大学教員の意向に齟齬はないのか。組織としての大学といえども,執行部は大半が大学教員(あるいは大学教員あがり)なわけで,なぜ組織に入ると,ヒラの教員との間に齟齬がうまれるのか。「大学と大学教員の対立」において,「学生と教員の関係性」という視点はあるのか。
大学時代の思いで,大学時代に学んだこと,と問われた時に,大学での授業内容を回答する人がどれだけいるのか。「大学での授業時間強化」が「大学の教育力」なのか。そう考えているのは,誰か。しかし一方で,じゃあ「授業ではない大学教育」というものが存在するのか。
というような問題(?)を感じるわけですが,そしてこれはたぶん,多くの大学教員や大学執行部や学生やと,要するに大学に関わる人々の間で共有されているように思うわけですが,じゃあ,なんでいつまでも解決しないのよ。
なんで解決し無いかっていうと,それは大学教員がワガママだからじゃないかしら。
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大学教員は研究者だ。研究によって評価されるべきだ。研究には「学問の自由」がある。だからオレのことに口出しするな。とはいえ大学教員だから授業はする。するけども,先端の科学に触れることが何よりの教育効果だろう。そこから何を学びとるかは学生次第だ。給料が下がる?任期付?科学技術立国と言っておいてなんてヒドイ待遇だ。
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みたいな意見をよく耳にするわけで。これがどれぐらい代表的な意見なのかはわかんないけども,理系で,旧帝大系で,って感じだと,半分以上はこんな感じじゃないかと。
こういう意見が,すごくワガママだと思うわけです。ワガママって言葉が悪ければ,自分に甘い,でも良いですけど。
まず理学部的なというか,「すぐには役に立たない」と社会に判断される系,定義が難しいけども,たとえば「この成果のみでもって企業が動くわけでは無い」ような成果を主とするような学問分野の研究だと,その「評価」ってのは特に難しい。分断された先端にある一個の論文にはそれぞれにそこでの価値があるだろうから,相対的にも絶対的にも評価は難しい。さらには論文業績だけが研究評価なのかというと,厳密にはここも難しい。ということで,「研究で評価しろ」という言い分は,結局のところ大半の人が納得できる評価というものには繋がらない。
「学問の自由」というのは,社会情勢に左右されない独立した存在としての学問(たぶんどこかに誰かが言った文がある)についてのものであって,「自由」が保障されているのはそのコンテンツじゃなくて,「学問する」という行為自体なんじゃないかな。そしてそれは「自分からは学問の自由以外は要求しない」ということとセットだと思う(たぶん)。だから「学問の自由」が認められるためには「学問の自由」の価値が広く認知されることが前提にあると思う。
大学教員だから授業をする必要があるというのは,(まぁ授業じゃ無くても良いけど学生指導ね),社会制度的には報酬をえるための仕事としての位置付けだろう。でも一方で,社会制度を抜きにしても,「大学の中の人」の思いとして,「大学」に在籍した学生がより社会的に成熟した個人として世に出て行くことを望むわけで(それが大学の第一の存在意義だろうし),授業は「学生が何かを学ぶ」場であるけども,教員は「学生が何かを学ぶ」ことに対して,その「何か」が何であるか,あるいは「学ぶ」ことがより促進されるように,一定の責任をもって取り組むべきではないだろうか。
研究者は,「資源の無いこの国では科学技術でいくしかない!」という社会的な雰囲気に持っていこうとしている勢力に乗っかっている一方で,「科学技術立国とかいうなら待遇を!」と主張しているように思えて,それって,1回迂回させてるだけで,ようは「オレを含む研究者を厚遇しろ」という労働組合的な活動でしかない気がする。というか,国の,税金を流し込むように動いているという点で,営利企業の労働組合活動よりもタチが悪いんじゃ無いか。
頭のなかのモヤモヤをクリアにするために,とりあえず大学教員を悪とする視点でガバーっと書いてみたけど,全然クリアにならん。。。
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現状,組織としての大学が「知の統合」とかそういうような「大学教育スローガン」のようなものをかかげ,また「秋入学」のような「大学制度改革」をおしすすめようとしているが,そこに「大学教員」の姿はあるのか。またそうした大学組織の意向と,大学教員の意向に齟齬はないのか。組織としての大学といえども,執行部は大半が大学教員(あるいは大学教員あがり)なわけで,なぜ組織に入ると,ヒラの教員との間に齟齬がうまれるのか。「大学と大学教員の対立」において,「学生と教員の関係性」という視点はあるのか。
大学時代の思いで,大学時代に学んだこと,と問われた時に,大学での授業内容を回答する人がどれだけいるのか。「大学での授業時間強化」が「大学の教育力」なのか。そう考えているのは,誰か。しかし一方で,じゃあ「授業ではない大学教育」というものが存在するのか。
というような問題(?)を感じるわけですが,そしてこれはたぶん,多くの大学教員や大学執行部や学生やと,要するに大学に関わる人々の間で共有されているように思うわけですが,じゃあ,なんでいつまでも解決しないのよ。
なんで解決し無いかっていうと,それは大学教員がワガママだからじゃないかしら。
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大学教員は研究者だ。研究によって評価されるべきだ。研究には「学問の自由」がある。だからオレのことに口出しするな。とはいえ大学教員だから授業はする。するけども,先端の科学に触れることが何よりの教育効果だろう。そこから何を学びとるかは学生次第だ。給料が下がる?任期付?科学技術立国と言っておいてなんてヒドイ待遇だ。
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みたいな意見をよく耳にするわけで。これがどれぐらい代表的な意見なのかはわかんないけども,理系で,旧帝大系で,って感じだと,半分以上はこんな感じじゃないかと。
こういう意見が,すごくワガママだと思うわけです。ワガママって言葉が悪ければ,自分に甘い,でも良いですけど。
まず理学部的なというか,「すぐには役に立たない」と社会に判断される系,定義が難しいけども,たとえば「この成果のみでもって企業が動くわけでは無い」ような成果を主とするような学問分野の研究だと,その「評価」ってのは特に難しい。分断された先端にある一個の論文にはそれぞれにそこでの価値があるだろうから,相対的にも絶対的にも評価は難しい。さらには論文業績だけが研究評価なのかというと,厳密にはここも難しい。ということで,「研究で評価しろ」という言い分は,結局のところ大半の人が納得できる評価というものには繋がらない。
「学問の自由」というのは,社会情勢に左右されない独立した存在としての学問(たぶんどこかに誰かが言った文がある)についてのものであって,「自由」が保障されているのはそのコンテンツじゃなくて,「学問する」という行為自体なんじゃないかな。そしてそれは「自分からは学問の自由以外は要求しない」ということとセットだと思う(たぶん)。だから「学問の自由」が認められるためには「学問の自由」の価値が広く認知されることが前提にあると思う。
大学教員だから授業をする必要があるというのは,(まぁ授業じゃ無くても良いけど学生指導ね),社会制度的には報酬をえるための仕事としての位置付けだろう。でも一方で,社会制度を抜きにしても,「大学の中の人」の思いとして,「大学」に在籍した学生がより社会的に成熟した個人として世に出て行くことを望むわけで(それが大学の第一の存在意義だろうし),授業は「学生が何かを学ぶ」場であるけども,教員は「学生が何かを学ぶ」ことに対して,その「何か」が何であるか,あるいは「学ぶ」ことがより促進されるように,一定の責任をもって取り組むべきではないだろうか。
研究者は,「資源の無いこの国では科学技術でいくしかない!」という社会的な雰囲気に持っていこうとしている勢力に乗っかっている一方で,「科学技術立国とかいうなら待遇を!」と主張しているように思えて,それって,1回迂回させてるだけで,ようは「オレを含む研究者を厚遇しろ」という労働組合的な活動でしかない気がする。というか,国の,税金を流し込むように動いているという点で,営利企業の労働組合活動よりもタチが悪いんじゃ無いか。
頭のなかのモヤモヤをクリアにするために,とりあえず大学教員を悪とする視点でガバーっと書いてみたけど,全然クリアにならん。。。
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