自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
これで昔話シリーズはおしまいにします
海洋研でやったこととかはこのブログですでに触れているので、
もうちょっと漠然としたこと、もしくはすごく細かいことについて、
雑多に書こう
一部は名誉毀損的になるかもしれないけど、そこは勘弁
まず、
海洋研に移って一番大きかったことは、
「論文にして初めて研究が一段落するということを明確に意識する」ということだった
博士に進むまでは、
なんというか、
「反学歴主義の職人思考」のような、
「論文よりもオンリーワンのスキルの方が価値がある」というか、
まぁそんな感じの考え方をしていたような気がする
で、
それが大いなる誤認識だということに気づいたわけです
もちろん論文の数が絶対的に意味があるというわけではなくって、
そうではなくって、
やや危険な言い方ではあるけども、
論文としてアウトプットしていない仕事というのは、
それが例えいくら素晴らしかったとしても、
科学業界では承認されていない仕事であって、
存在しないことになるのだ
税金を使ってやっているのだからとか、
そういうことではなくって、
「論文を書かない研究者はネズミを獲らないネコ」じゃないけども、
「論文を書くゆえにわれ研究者なり」というか、
研究者にとって「論文を書く」とはそういうものであって、
「観測に行く」「技術を身につける」「学会発表をする」では置換不可能なものなのだ
たとえそれが同様に快感で、
快楽だけが自身の目的だとしても、
セックスが、たとえそれ自体を目的とせずとも、
生命の連鎖を生み出しうるのに対して、
オナニーはどこまでいってもただのオナニーでしかない
そいうことなのかな
だから、
何がだからなのかわかんないけど、
たとえ自分的に納得できなかったとしても、
研究成果を論文にするということは重要なことなのだ
もちろん論文は著者の分身であり、
科学は神聖なものであるから、
100%のものしか論文にするべきではないという考え方もあるだろう
でも、
特に地球科学(化学)のような分野では、
不愉快なノイズもあるいは意味を持つわけで、
論文にして世に問う、という側面もあるような気もする
着地点が見えませんが、
ボクが現時点で思っていることは、
データや技術は秘するものではなく、
とにかく論文を通じて白日の下にさらさねばならない
そしてボクを含む研究者はその使命を遂行してはじめて研究者たりえるのだ
というようなことです
で、
そういう考え方とか、
実際に研究を進める上での、
態度とか姿勢とかいうものは、
オバタさんから教わった部分が非常に大きいように思う
もちろん直接的な助言(指導?)もあったけど、
むしろ雑談の中に含まれる概念的な話が特に印象に残っている
たとえばボクの専門であるところの、
ガス分析や熱水の内容について議論する相手がいないことは残念だったけども、
オバタさんと研究や研究者について様々な話をできたことは、
同じような研究をしている人と狭い専門内で喧々諤々するよりも余程ためになった
本当にオバタさんが研究室にいてくれて良かった
とはいえ、
専門を同じくする人が周囲にいないという環境は中々に困ったもので、
学術的にも精神的にも大変だった
ゼミ無し、かつ、ポスドク無し、
というのは非常に厳しい
自分がドツボに向かっていっている時に、
「ん?それちょっとおかしくない?」
と言ってもらえる機会があることがどれだけありがたいか
一方で、
そういう甘えられる環境でなかったからこそ、
自分でシビアに考えて研究をまとめるという作業を、
逃げることなくできたのかもしれない
ということで、
このこと自体は結果的に非常にプラスになったと思っている
故ゴッドの金言の一つであるところの、
「ゼミみたいなオママゴトをやっている暇があったら論文を書け」(大意、詳細不明)
という考え方に、
全面的ではないけども同意するところであります
色々な価値観に触れられたことも良かった
ついつい陥りがちな、
「身内の語法」ですべてを語ってしまう風潮は、
かなりヤバイ
またもや故ゴッドからの引用だけど、
「金で買えないモノ以外はすべて捨てろ」(こちらはたぶん正解)
というのには、
モノの価値観を考えさせられた
別にモノを捨てる必要はないのだけれども、
モノの本当の価値というのはそういうことなのだろう
特急料金というのは時間を買うためのものだけども、
研究物品の購入においてもそういう考え方はあてはまる
安く研究をすること自体は何の意味も無い
それがために時間を多く消費するのであれば、
むしろそれは、悪だ
もちろんパトロンから得た金を湯水のように使うことは控えるべきではあるが、
それでも迅速にデータを得て論文を書くための金をケチることは、
研究と金との関係を、
パトロンとの関係のためにネジれさせてしまっていることになるんじゃないだろうか
故ナカヤマ氏の「塩検瓶を早く温めるために風呂の湯を云々」という伝説の話も、
ただの笑い話ではないと思っている
なんというか、
ボクも末席に加わっている、
「分析化学によって地球化学を切り開く」研究者にとって、
決して忘れてはいけない部分だと思う
細かい話はイッシキさんのエッセイの「現場主義」の件を読んでいただくとして、
特に大気と熱水を行ったり来たりしていると見失いがちな、
手法と観測のサジ加減には常に気を払っていたい
(参考-- http://www.kochi-wu.ac.jp/~isshiki/isshiki/essay/20021005.html)
比較的同期に恵まれなかった北大時代に比べ(オッサンしかいなかったもんね)、
海洋研ではアトラクティブな同世代の奴らが多くて、
非常に楽しくすごすことができた
論文を書くことの重要性を常々口にするコウちゃんと、
鬼のように観測をこなすタダを見ていると、
自分のやるべきことがクリアになった
研究室に入った時にタゾエモンがいなかったらと思うとゾッとする
姉さんとのくだらない会話は精神的に病みかけている自分にとっては癒しだった
オシャフネさんやトーナイさんとは社会考察にシンパシーを感じることができて、
考えを整理したり構築したりと頭をスッキリさせることができた
ヨメとの出会いも同世代(同期入所、かな)の集まりでした
書くのに一時間以上かかっていると、
だんだんテンションが変わってくるので、
まとまりが一段となくなってくるねぇ
これで昔話を終わりにするのは、
なんだか全然書ききれてない気がするんだけど、
もう終わります
おしまーい
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海洋研でやったこととかはこのブログですでに触れているので、
もうちょっと漠然としたこと、もしくはすごく細かいことについて、
雑多に書こう
一部は名誉毀損的になるかもしれないけど、そこは勘弁
まず、
海洋研に移って一番大きかったことは、
「論文にして初めて研究が一段落するということを明確に意識する」ということだった
博士に進むまでは、
なんというか、
「反学歴主義の職人思考」のような、
「論文よりもオンリーワンのスキルの方が価値がある」というか、
まぁそんな感じの考え方をしていたような気がする
で、
それが大いなる誤認識だということに気づいたわけです
もちろん論文の数が絶対的に意味があるというわけではなくって、
そうではなくって、
やや危険な言い方ではあるけども、
論文としてアウトプットしていない仕事というのは、
それが例えいくら素晴らしかったとしても、
科学業界では承認されていない仕事であって、
存在しないことになるのだ
税金を使ってやっているのだからとか、
そういうことではなくって、
「論文を書かない研究者はネズミを獲らないネコ」じゃないけども、
「論文を書くゆえにわれ研究者なり」というか、
研究者にとって「論文を書く」とはそういうものであって、
「観測に行く」「技術を身につける」「学会発表をする」では置換不可能なものなのだ
たとえそれが同様に快感で、
快楽だけが自身の目的だとしても、
セックスが、たとえそれ自体を目的とせずとも、
生命の連鎖を生み出しうるのに対して、
オナニーはどこまでいってもただのオナニーでしかない
そいうことなのかな
だから、
何がだからなのかわかんないけど、
たとえ自分的に納得できなかったとしても、
研究成果を論文にするということは重要なことなのだ
もちろん論文は著者の分身であり、
科学は神聖なものであるから、
100%のものしか論文にするべきではないという考え方もあるだろう
でも、
特に地球科学(化学)のような分野では、
不愉快なノイズもあるいは意味を持つわけで、
論文にして世に問う、という側面もあるような気もする
着地点が見えませんが、
ボクが現時点で思っていることは、
データや技術は秘するものではなく、
とにかく論文を通じて白日の下にさらさねばならない
そしてボクを含む研究者はその使命を遂行してはじめて研究者たりえるのだ
というようなことです
で、
そういう考え方とか、
実際に研究を進める上での、
態度とか姿勢とかいうものは、
オバタさんから教わった部分が非常に大きいように思う
もちろん直接的な助言(指導?)もあったけど、
むしろ雑談の中に含まれる概念的な話が特に印象に残っている
たとえばボクの専門であるところの、
ガス分析や熱水の内容について議論する相手がいないことは残念だったけども、
オバタさんと研究や研究者について様々な話をできたことは、
同じような研究をしている人と狭い専門内で喧々諤々するよりも余程ためになった
本当にオバタさんが研究室にいてくれて良かった
とはいえ、
専門を同じくする人が周囲にいないという環境は中々に困ったもので、
学術的にも精神的にも大変だった
ゼミ無し、かつ、ポスドク無し、
というのは非常に厳しい
自分がドツボに向かっていっている時に、
「ん?それちょっとおかしくない?」
と言ってもらえる機会があることがどれだけありがたいか
一方で、
そういう甘えられる環境でなかったからこそ、
自分でシビアに考えて研究をまとめるという作業を、
逃げることなくできたのかもしれない
ということで、
このこと自体は結果的に非常にプラスになったと思っている
故ゴッドの金言の一つであるところの、
「ゼミみたいなオママゴトをやっている暇があったら論文を書け」(大意、詳細不明)
という考え方に、
全面的ではないけども同意するところであります
色々な価値観に触れられたことも良かった
ついつい陥りがちな、
「身内の語法」ですべてを語ってしまう風潮は、
かなりヤバイ
またもや故ゴッドからの引用だけど、
「金で買えないモノ以外はすべて捨てろ」(こちらはたぶん正解)
というのには、
モノの価値観を考えさせられた
別にモノを捨てる必要はないのだけれども、
モノの本当の価値というのはそういうことなのだろう
特急料金というのは時間を買うためのものだけども、
研究物品の購入においてもそういう考え方はあてはまる
安く研究をすること自体は何の意味も無い
それがために時間を多く消費するのであれば、
むしろそれは、悪だ
もちろんパトロンから得た金を湯水のように使うことは控えるべきではあるが、
それでも迅速にデータを得て論文を書くための金をケチることは、
研究と金との関係を、
パトロンとの関係のためにネジれさせてしまっていることになるんじゃないだろうか
故ナカヤマ氏の「塩検瓶を早く温めるために風呂の湯を云々」という伝説の話も、
ただの笑い話ではないと思っている
なんというか、
ボクも末席に加わっている、
「分析化学によって地球化学を切り開く」研究者にとって、
決して忘れてはいけない部分だと思う
細かい話はイッシキさんのエッセイの「現場主義」の件を読んでいただくとして、
特に大気と熱水を行ったり来たりしていると見失いがちな、
手法と観測のサジ加減には常に気を払っていたい
(参考-- http://www.kochi-wu.ac.jp/~isshiki/isshiki/essay/20021005.html)
比較的同期に恵まれなかった北大時代に比べ(オッサンしかいなかったもんね)、
海洋研ではアトラクティブな同世代の奴らが多くて、
非常に楽しくすごすことができた
論文を書くことの重要性を常々口にするコウちゃんと、
鬼のように観測をこなすタダを見ていると、
自分のやるべきことがクリアになった
研究室に入った時にタゾエモンがいなかったらと思うとゾッとする
姉さんとのくだらない会話は精神的に病みかけている自分にとっては癒しだった
オシャフネさんやトーナイさんとは社会考察にシンパシーを感じることができて、
考えを整理したり構築したりと頭をスッキリさせることができた
ヨメとの出会いも同世代(同期入所、かな)の集まりでした
書くのに一時間以上かかっていると、
だんだんテンションが変わってくるので、
まとまりが一段となくなってくるねぇ
これで昔話を終わりにするのは、
なんだか全然書ききれてない気がするんだけど、
もう終わります
おしまーい
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