自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
仕事が仕事である以上,
重要なのは成果であって,
その過程ではない。
もちろん,
その人の人生において「自分で成し遂げた」という達成感を得ることは,
仰々しく言うならば,生きている意味ですらあるだろう。
それでも,
他人から見れば仕事は仕事なので,
投下された労力やそこからくる達成感は問題ではなく,
やはり成果の質が重要なのだ。
それは従業員が出資者に対しての責任を果たすという意味での仕事でもあって,
我々のような税金で仕事をしている人間にとっては,
納税者に対しての責任を果たすということだろう。
黒川清さんは,
「Accountability:アカウンタビリティ」を「説明責任」とするのは誤訳であると指摘している。
税金を使って仕事をしている我々が納税者に対して担っている責任(Accountability)は,
「説明責任」ではなく「与えられた責務を実行する責任」ことである。
給料をもらっている時間に,
自己満足のために,
時間を浪費して低劣な成果を作り上げることは,
Accountabilityの観点から見て,どうなのだろうか。
そういう自問自答。
Tweet
重要なのは成果であって,
その過程ではない。
もちろん,
その人の人生において「自分で成し遂げた」という達成感を得ることは,
仰々しく言うならば,生きている意味ですらあるだろう。
それでも,
他人から見れば仕事は仕事なので,
投下された労力やそこからくる達成感は問題ではなく,
やはり成果の質が重要なのだ。
それは従業員が出資者に対しての責任を果たすという意味での仕事でもあって,
我々のような税金で仕事をしている人間にとっては,
納税者に対しての責任を果たすということだろう。
黒川清さんは,
「Accountability:アカウンタビリティ」を「説明責任」とするのは誤訳であると指摘している。
税金を使って仕事をしている我々が納税者に対して担っている責任(Accountability)は,
「説明責任」ではなく「与えられた責務を実行する責任」ことである。
給料をもらっている時間に,
自己満足のために,
時間を浪費して低劣な成果を作り上げることは,
Accountabilityの観点から見て,どうなのだろうか。
そういう自問自答。
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ある職業で口に糊しているということは,
「その職務を遂行する上で必要な能力を有している」と,
周囲から信任を受けていると言えるんじゃないだろうか。
その周囲からの視線から責任感と矜恃を抱いて職務を遂行することは,
いわゆる「いきがいとしての仕事」といえるかもしれない。
でもやっぱり「口に糊」の部分を考えると,
「いきがい」は当人のものであって,
それがあってもなくても,
「職務遂行」はなされなくてはならない。
職をえるにあたって,
事前審査において「能力を有する」と判断されたとしても,
実際に職務にあたって,
「その能力に欠ける」ということが判明したら,
それは「職を失する」という結論に至っても致し方ない。
他人の判断はこの際どうでもいい。
本人に「能力に欠ける」という自覚があるなら,
「職務を遂行する」という名目で給金をえるという事実について,
端的に言えばそれが「詐欺」であるという自覚も有するべきである。
そしておのれが詐欺師であるという事実を引き受けた上で,
また「職務を遂行出来ない」という自覚を持った上で,
それでもその仕事にあたることに「いきがい」を「感じる」ことは,
何人たりともそれを否定する権利を有さない。
しかし,その「いきがい」を「奪う」権利はある。
なぜなら,その職務が与えられているのは,
「職務を遂行できる」という一時の判断によってなされたものであって,
「職務を遂行出来ない」という判断が下された場合においては,
その職務に就かしめる事由が消失したことを意味するからである。
職業人の責任というのは,
「職務を遂行する」ということにあるわけだから,
「職務を遂行できない」と自覚しながらその職にあり続けるのであれば,
「おのれは責任も放棄し,詐欺によって給金をえて,その立場にあるべき人の機会を奪っている」という,
とうてい許されがたい態度にあるということから,目を背けるべきではないだろう。
そしてもし,
当人の自覚において「職務を遂行している」と感じていながら,
それが周囲から見て「職務を遂行できていない」ということであれば,
その自覚を促すか,
あるいは職を解くか,
いずれかの対応をとらなければならないだろう。
それは他の職業人の矜恃を損ない,他の人の機会を不当に奪い,
ひいては世を乱していることに他ならないのだから。
Tweet
「その職務を遂行する上で必要な能力を有している」と,
周囲から信任を受けていると言えるんじゃないだろうか。
その周囲からの視線から責任感と矜恃を抱いて職務を遂行することは,
いわゆる「いきがいとしての仕事」といえるかもしれない。
でもやっぱり「口に糊」の部分を考えると,
「いきがい」は当人のものであって,
それがあってもなくても,
「職務遂行」はなされなくてはならない。
職をえるにあたって,
事前審査において「能力を有する」と判断されたとしても,
実際に職務にあたって,
「その能力に欠ける」ということが判明したら,
それは「職を失する」という結論に至っても致し方ない。
他人の判断はこの際どうでもいい。
本人に「能力に欠ける」という自覚があるなら,
「職務を遂行する」という名目で給金をえるという事実について,
端的に言えばそれが「詐欺」であるという自覚も有するべきである。
そしておのれが詐欺師であるという事実を引き受けた上で,
また「職務を遂行出来ない」という自覚を持った上で,
それでもその仕事にあたることに「いきがい」を「感じる」ことは,
何人たりともそれを否定する権利を有さない。
しかし,その「いきがい」を「奪う」権利はある。
なぜなら,その職務が与えられているのは,
「職務を遂行できる」という一時の判断によってなされたものであって,
「職務を遂行出来ない」という判断が下された場合においては,
その職務に就かしめる事由が消失したことを意味するからである。
職業人の責任というのは,
「職務を遂行する」ということにあるわけだから,
「職務を遂行できない」と自覚しながらその職にあり続けるのであれば,
「おのれは責任も放棄し,詐欺によって給金をえて,その立場にあるべき人の機会を奪っている」という,
とうてい許されがたい態度にあるということから,目を背けるべきではないだろう。
そしてもし,
当人の自覚において「職務を遂行している」と感じていながら,
それが周囲から見て「職務を遂行できていない」ということであれば,
その自覚を促すか,
あるいは職を解くか,
いずれかの対応をとらなければならないだろう。
それは他の職業人の矜恃を損ない,他の人の機会を不当に奪い,
ひいては世を乱していることに他ならないのだから。
モラトリアムを,
「人間の成長の中で社会的責任を猶予される期間。学生生活はよくモラトリアム期間と言われる」
ということにすると,
じゃあその期間にはいったい何をどうすればいいのだろうか。
つまり,
なぜ社会的責任を猶予されているのか。
どうして猶予期間が必要なのか。
それはたぶん,
親が子に対して責任を持つ「子供」の期間から,
自らが責任を持たねばならない「大人」の期間に移行するのに,
心身(生活能力を含む)を適合していくためなんだろう。
親と子の関係は,ある意味で「主従」であるわけで,
つまり,
「従」から「主」への切り替えの促進が,
モラトリアム期間に,
つまりは大学(教養)教育に求められているものなんじゃないか。
偏見を承知で言えば,
高卒でそのまま就職するということは,
「親」から「雇用主」へと「主」が変わるだけで,
「従」であるという自分自身には変化がないのかもしれない。
もちろん,昨今はオンザジョブトレーニング(OJT)などと言われるが,
仕事を通じて人格が独立していくという考え方もあろう。
とはいえ,まず職に就いた時点では,「従」なのだろう。
これは単に高卒・大卒という話では無く,
「ブルーカラー」が「従」でなければならない性質であるのに対し,
「ホワイトカラー」が「主」であることが認められている,
という具合に解釈しても良いかもしれない。
そうやって考えていくと,
同世代の半数以上が大学に進学するってのは,
半数以上がホワイトカラー予備人員になるってことかもしれないけど,
社会構造的に,そんなにホワイトカラーっていらないだろうから,
「大卒だけどブルーカラー」って層がかなり分厚くなってきて,
そうなると,
大学がモラトリアム期間を過ごす場で,
学生を「従」から「主」に変える場で,
ってのは,
だんだん無理になってくるのかもしれない。
つまり,
大学で従から主へとアイデンティティを変化させたけど,
社会に用意されている仕事はブルーカラーしかない,みたいな。
これはあんまり良い筋の展開じゃない。
やめやめ。
Tweet
「人間の成長の中で社会的責任を猶予される期間。学生生活はよくモラトリアム期間と言われる」
ということにすると,
じゃあその期間にはいったい何をどうすればいいのだろうか。
つまり,
なぜ社会的責任を猶予されているのか。
どうして猶予期間が必要なのか。
それはたぶん,
親が子に対して責任を持つ「子供」の期間から,
自らが責任を持たねばならない「大人」の期間に移行するのに,
心身(生活能力を含む)を適合していくためなんだろう。
親と子の関係は,ある意味で「主従」であるわけで,
つまり,
「従」から「主」への切り替えの促進が,
モラトリアム期間に,
つまりは大学(教養)教育に求められているものなんじゃないか。
偏見を承知で言えば,
高卒でそのまま就職するということは,
「親」から「雇用主」へと「主」が変わるだけで,
「従」であるという自分自身には変化がないのかもしれない。
もちろん,昨今はオンザジョブトレーニング(OJT)などと言われるが,
仕事を通じて人格が独立していくという考え方もあろう。
とはいえ,まず職に就いた時点では,「従」なのだろう。
これは単に高卒・大卒という話では無く,
「ブルーカラー」が「従」でなければならない性質であるのに対し,
「ホワイトカラー」が「主」であることが認められている,
という具合に解釈しても良いかもしれない。
そうやって考えていくと,
同世代の半数以上が大学に進学するってのは,
半数以上がホワイトカラー予備人員になるってことかもしれないけど,
社会構造的に,そんなにホワイトカラーっていらないだろうから,
「大卒だけどブルーカラー」って層がかなり分厚くなってきて,
そうなると,
大学がモラトリアム期間を過ごす場で,
学生を「従」から「主」に変える場で,
ってのは,
だんだん無理になってくるのかもしれない。
つまり,
大学で従から主へとアイデンティティを変化させたけど,
社会に用意されている仕事はブルーカラーしかない,みたいな。
これはあんまり良い筋の展開じゃない。
やめやめ。
まずは,いつものKさん「身内の崩壊」から。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
指摘されない、というとき、完璧だから指摘されなかった、なんてことはほぼあり得ない、指摘するに至らないレベルであったであろう、という、当たり前のことを、思うのである。「身内」は、その壁を、線引を下げて指摘してもらえる唯一の場だ。大事にしないと、まさに裸の王様が、いとも簡単に出来上がる。
しかし、「身内」が今や成り立たなくなってきているのである。そこが大問題だ。点で接するのではなく、面で、べったりと接している、あのうざったい、逃げられない、そんな暑苦しい空気がなかなか出来ないのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
つづいて,なかのせんせの「なかのとおるのつぶやき」から。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
えらそうな物言いになるかもしれないけれど、いくら我慢して努力しても、阪大の医学部医学科に入学するレベルに達しない子がいることは間違いない。これも、怠け者学生を許さないもう一つの理由だ。我慢と掛け算して入学できるくらいの素質を持って生まれている、ということは、世間に対し、ある程度のノブレス・オブリージュを負っているのだから、しっかり勉強せえ、っちゅうことである。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
そして,オダジマ氏の「ア・ピース・オブ・警句」から(だいぶ長く引用)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
彼は、アタマの良い人間が一番偉くて、人間には生まれつきの出来不出来があって、オレは最高にアタマが良くて、目標は一度決めたら絶対に撤退すべきじゃなくて、オレなら必ずできるはずだみたいな、そういう考え方を抱いたまま、50歳になり、そのまま老人になって行くわけだ。
本人は良い気分なのかもしれないが、周囲にとっては相当にめんどうくさい存在であることだろう。
個人的に何人か行き来したことのある猛烈に優秀な人達の中には、どことなく不毛な感じを与える人々が混じっている。(中略)
どういうことなのかというと、そういう優秀な人々のうちのかなりの部分の人々は、ものすごく切れ味の良いナイフで、大量の古新聞を切り刻むみたいな世にもくだらない業務に従事しているのだ。また、別の組の人たちは、せっかくの素晴らしいナイフをコンクリートの柱を削るみたいなひどい仕事に振り向けなければならず、そのことに疲弊していた。
しかし彼らは、断固として撤退しない。
ナイフが刃こぼれしようが折れようが一直線に進む。
なんという才能の浪費だろうか。(中略)
ともあれ、せっかくあんなにアタマが良いのに、どうしてこんな重箱の隅っこにマッチ棒のお城を作るみたいなことに熱中しているのだろうか、と、私は、極めて優秀な官僚やマーケティング関係の人間を見る度に、そう思わずにおれないのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
先日の「賢い子供と大人とは違う」って話と,これらの話は,同じ意味なんだと思う。
明確に書くのは難しいんだけれども,
本質的な人間の性質のような部分について「自分の現状の正しさ」をまったく疑っていない,
そういう感じ。
誰かに指摘されたら「その点では自分に誤りがある」と受け止める一方で,
いや,点でしか指摘されないがために,
指摘されていない「その他の大部分」について肯定感を感じているのだろう。
なんと都合の良い思考回路だろうか。
ブサイクと言われなければイケメンで,
ヘタクソと言われなければオジョウズで,
オソマツと言われなければゴリッパで,
そういうことなのだろうか。
自分を冷静に見つめられない人のことを世間では「アホ」というのじゃないのか。
そう思って生きてきたボクがアホなのか。
まがりなりにも阪大(などのいわゆる難関大学)に入れるだけの能力があるのなら,
「選ばれてあることの恍惚と不安の二つ我に在り」ぐらいの感慨を抱かないのか。
Tweet
ーーーーーーーーーーーーーーーー
指摘されない、というとき、完璧だから指摘されなかった、なんてことはほぼあり得ない、指摘するに至らないレベルであったであろう、という、当たり前のことを、思うのである。「身内」は、その壁を、線引を下げて指摘してもらえる唯一の場だ。大事にしないと、まさに裸の王様が、いとも簡単に出来上がる。
しかし、「身内」が今や成り立たなくなってきているのである。そこが大問題だ。点で接するのではなく、面で、べったりと接している、あのうざったい、逃げられない、そんな暑苦しい空気がなかなか出来ないのだ。
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つづいて,なかのせんせの「なかのとおるのつぶやき」から。
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えらそうな物言いになるかもしれないけれど、いくら我慢して努力しても、阪大の医学部医学科に入学するレベルに達しない子がいることは間違いない。これも、怠け者学生を許さないもう一つの理由だ。我慢と掛け算して入学できるくらいの素質を持って生まれている、ということは、世間に対し、ある程度のノブレス・オブリージュを負っているのだから、しっかり勉強せえ、っちゅうことである。
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そして,オダジマ氏の「ア・ピース・オブ・警句」から(だいぶ長く引用)
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彼は、アタマの良い人間が一番偉くて、人間には生まれつきの出来不出来があって、オレは最高にアタマが良くて、目標は一度決めたら絶対に撤退すべきじゃなくて、オレなら必ずできるはずだみたいな、そういう考え方を抱いたまま、50歳になり、そのまま老人になって行くわけだ。
本人は良い気分なのかもしれないが、周囲にとっては相当にめんどうくさい存在であることだろう。
個人的に何人か行き来したことのある猛烈に優秀な人達の中には、どことなく不毛な感じを与える人々が混じっている。(中略)
どういうことなのかというと、そういう優秀な人々のうちのかなりの部分の人々は、ものすごく切れ味の良いナイフで、大量の古新聞を切り刻むみたいな世にもくだらない業務に従事しているのだ。また、別の組の人たちは、せっかくの素晴らしいナイフをコンクリートの柱を削るみたいなひどい仕事に振り向けなければならず、そのことに疲弊していた。
しかし彼らは、断固として撤退しない。
ナイフが刃こぼれしようが折れようが一直線に進む。
なんという才能の浪費だろうか。(中略)
ともあれ、せっかくあんなにアタマが良いのに、どうしてこんな重箱の隅っこにマッチ棒のお城を作るみたいなことに熱中しているのだろうか、と、私は、極めて優秀な官僚やマーケティング関係の人間を見る度に、そう思わずにおれないのである。
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先日の「賢い子供と大人とは違う」って話と,これらの話は,同じ意味なんだと思う。
明確に書くのは難しいんだけれども,
本質的な人間の性質のような部分について「自分の現状の正しさ」をまったく疑っていない,
そういう感じ。
誰かに指摘されたら「その点では自分に誤りがある」と受け止める一方で,
いや,点でしか指摘されないがために,
指摘されていない「その他の大部分」について肯定感を感じているのだろう。
なんと都合の良い思考回路だろうか。
ブサイクと言われなければイケメンで,
ヘタクソと言われなければオジョウズで,
オソマツと言われなければゴリッパで,
そういうことなのだろうか。
自分を冷静に見つめられない人のことを世間では「アホ」というのじゃないのか。
そう思って生きてきたボクがアホなのか。
まがりなりにも阪大(などのいわゆる難関大学)に入れるだけの能力があるのなら,
「選ばれてあることの恍惚と不安の二つ我に在り」ぐらいの感慨を抱かないのか。
ながらく「もう若手会には出ない」と言っているのだが,
出身研究室の後輩から直接招待メイルを受け取ったので,
またまた出席した。
講演を含め,こちらから話したことは,大体いつもの話で,
・動機ー実施ー解釈の砂時計型の把握
・物理ー化学ー生物ー地学の包含構造と「地球化学」の位置付け
・「2050年の研究」を社会情勢も含めて考える必要性
・高校の監督と選手でなく,プロの監督と選手の関係である
・チャンスは向こうからしかこないので,誘いに乗ることが大事
・その研究にはどういう意味があるの?その研究じゃなければならない理由は?
・大学院の研究室は逃げ場がないけど,イヤになったら逃げなさい
・「賢い子供」は早く抜けて,バカでもいいから「大人」になりなさい
というようなこと。
今回参加して特に感じたのは,一番下の話題。
「意識の高い学生」の到達点が「賢い子供」になっていること。
たとえば幹事については,ボクは招待講演者だったのだけど,
「足代」とか「御礼の品」とか「シングルルーム」を準備するとか,
そういうところまで気が回っていて(お金は受け取れないですよ),
それはそれで関心するところではある。
とはいえ,
「幹事ってのはコレとコレとコレをして・・・」という,
どこかにありそうなマニュアルのようなものにならって働いているような,
そういう類の気配りであった。
ボクなりに解釈すると,
・相手と自分を完全なる「別物」として位置付けて,
・接点を限りなく少なくして,
・その接点の部分だけに最大限の注意を払う,
という接し方に思えて,
感覚としては,
コンビニでバイトをしていた時の接客に近い。
その他の参加者についても,
会期の24時間中,誰も雑談すら話しかけてこなかった。
もちろんボクのキャラクターの問題もあるのだろうけど,
「この機会に新しいモノに触れよう」
という能動的な感じではなくて,
「何か新しいモノを提供してくれるだろう」
みたいな受動的な感じだろうか。
スケジュールが定刻ではじまらないし,はじめようともしない,そのことに誰も憤らない。
とにかく一事が万事,そんな具合だった。
ごく一部の接点のみに注意して,仮面を用意して触れ合うだけなら,
わざわざ人が集まる会を開催する必要はないじゃないか。
「なんのために自主的に集まるのか」を考えたら,
それはウェブ上の架空の集会や,格式ばった集会ではなくて,
同じ何かを求める人達が生身が近接する距離に存在することで,
その空気感を肌感覚のようなもので吸収するためじゃないのか。
会の最後で講演賞の投票があって,
その時にもう1人の招待講演者が,
講演賞じゃないけど表彰をしたいと言い出した。
理由は「この学生だけは笑顔で挨拶をしてくれたから」。
この痛烈な皮肉が,
彼らに響いていることを願うばかりである。
Tweet
出身研究室の後輩から直接招待メイルを受け取ったので,
またまた出席した。
講演を含め,こちらから話したことは,大体いつもの話で,
・動機ー実施ー解釈の砂時計型の把握
・物理ー化学ー生物ー地学の包含構造と「地球化学」の位置付け
・「2050年の研究」を社会情勢も含めて考える必要性
・高校の監督と選手でなく,プロの監督と選手の関係である
・チャンスは向こうからしかこないので,誘いに乗ることが大事
・その研究にはどういう意味があるの?その研究じゃなければならない理由は?
・大学院の研究室は逃げ場がないけど,イヤになったら逃げなさい
・「賢い子供」は早く抜けて,バカでもいいから「大人」になりなさい
というようなこと。
今回参加して特に感じたのは,一番下の話題。
「意識の高い学生」の到達点が「賢い子供」になっていること。
たとえば幹事については,ボクは招待講演者だったのだけど,
「足代」とか「御礼の品」とか「シングルルーム」を準備するとか,
そういうところまで気が回っていて(お金は受け取れないですよ),
それはそれで関心するところではある。
とはいえ,
「幹事ってのはコレとコレとコレをして・・・」という,
どこかにありそうなマニュアルのようなものにならって働いているような,
そういう類の気配りであった。
ボクなりに解釈すると,
・相手と自分を完全なる「別物」として位置付けて,
・接点を限りなく少なくして,
・その接点の部分だけに最大限の注意を払う,
という接し方に思えて,
感覚としては,
コンビニでバイトをしていた時の接客に近い。
その他の参加者についても,
会期の24時間中,誰も雑談すら話しかけてこなかった。
もちろんボクのキャラクターの問題もあるのだろうけど,
「この機会に新しいモノに触れよう」
という能動的な感じではなくて,
「何か新しいモノを提供してくれるだろう」
みたいな受動的な感じだろうか。
スケジュールが定刻ではじまらないし,はじめようともしない,そのことに誰も憤らない。
とにかく一事が万事,そんな具合だった。
ごく一部の接点のみに注意して,仮面を用意して触れ合うだけなら,
わざわざ人が集まる会を開催する必要はないじゃないか。
「なんのために自主的に集まるのか」を考えたら,
それはウェブ上の架空の集会や,格式ばった集会ではなくて,
同じ何かを求める人達が生身が近接する距離に存在することで,
その空気感を肌感覚のようなもので吸収するためじゃないのか。
会の最後で講演賞の投票があって,
その時にもう1人の招待講演者が,
講演賞じゃないけど表彰をしたいと言い出した。
理由は「この学生だけは笑顔で挨拶をしてくれたから」。
この痛烈な皮肉が,
彼らに響いていることを願うばかりである。
「東京の交通網は世界一」って言うけど,
中吊り広告は週刊誌のポルノまみれだよね。
「おもてなし」って言うけど,
コンビニにはポルノ本が陳列されているよね。
「薬物クリーン」って言うけど,
育成の現場では暴力が横行してるよね。
「スポーツで子供に未来を」って言うけど,
公園では騒ぐな,球遊びするな,だよね。
「東京はフクシマとは無関係で安全」って言うけど,
今後状況が悪化したらどうなるかわからないよね。
「五輪で復興」って言うけど,
五輪開催が復興に資する理屈がないよね。
ボク自身はスポーツも五輪も好きで,素晴らしいことだと思っているし,
そういったモノを享受している側として,
「他ならぬ日本でやるべし」という考えよりも,
むしろもっと後ろ向きで,
「他国がしんどいなら日本が経済的負担をしてでも五輪を開催すべき」という思いがある。
まぁとにかく,
考えなきゃならないことはいっぱいあるけども,
良い大会になるように,何か出来ることをやっていこうとは思う次第です。
Tweet
中吊り広告は週刊誌のポルノまみれだよね。
「おもてなし」って言うけど,
コンビニにはポルノ本が陳列されているよね。
「薬物クリーン」って言うけど,
育成の現場では暴力が横行してるよね。
「スポーツで子供に未来を」って言うけど,
公園では騒ぐな,球遊びするな,だよね。
「東京はフクシマとは無関係で安全」って言うけど,
今後状況が悪化したらどうなるかわからないよね。
「五輪で復興」って言うけど,
五輪開催が復興に資する理屈がないよね。
ボク自身はスポーツも五輪も好きで,素晴らしいことだと思っているし,
そういったモノを享受している側として,
「他ならぬ日本でやるべし」という考えよりも,
むしろもっと後ろ向きで,
「他国がしんどいなら日本が経済的負担をしてでも五輪を開催すべき」という思いがある。
まぁとにかく,
考えなきゃならないことはいっぱいあるけども,
良い大会になるように,何か出来ることをやっていこうとは思う次第です。
■あのな、プロレスを「八百長だ!」と言う奴はプロレス見なきゃいいんだよ。
「八百長でも面白ければいい。」そういう割り切り方をできる奴じゃなきゃプロレスは楽しめない。
セメント見たけりゃ総合へどうぞ、ってさ。馬鹿な客は、頭の中で楽しむべき部分を変に明確に
しようとするんだ。「勝ち負け決まってんだろ?」とかな。決まってたらどうなの?って逆に聞きた
いな(笑)それをはっきりさせてどうしたいの?って逆に聞きたい、俺は。プロレスにむいてない
レスラーってたくさんいるけど、プロレスにむいてない客もたくさんいるんだよ。そういう奴らは
映画とか小説を見てればいいと思うんだけどな。
■だって張り手とかチョップの打ち合いするんだから、プロレスは(笑)セメントならよけるだろ(笑)
その時点である意味、アホでも分かるのになぁ。それなのに「プロレスって八百長なんですか?」
なんて言う奴は馬鹿だよな。自分で判断しなさいって(笑)あのな、プロレスの楽しみは想像と予測だよ。
想像力が無いやつがプロレス見たって何も面白くないんだ。客が頭に浮かべてる想像とか予測を、
遥かに越えた展開や試合なんかを提供するのが俺達の仕事。
from http://diovsjojo.exblog.jp/4082262/
Tweet
「八百長でも面白ければいい。」そういう割り切り方をできる奴じゃなきゃプロレスは楽しめない。
セメント見たけりゃ総合へどうぞ、ってさ。馬鹿な客は、頭の中で楽しむべき部分を変に明確に
しようとするんだ。「勝ち負け決まってんだろ?」とかな。決まってたらどうなの?って逆に聞きた
いな(笑)それをはっきりさせてどうしたいの?って逆に聞きたい、俺は。プロレスにむいてない
レスラーってたくさんいるけど、プロレスにむいてない客もたくさんいるんだよ。そういう奴らは
映画とか小説を見てればいいと思うんだけどな。
■だって張り手とかチョップの打ち合いするんだから、プロレスは(笑)セメントならよけるだろ(笑)
その時点である意味、アホでも分かるのになぁ。それなのに「プロレスって八百長なんですか?」
なんて言う奴は馬鹿だよな。自分で判断しなさいって(笑)あのな、プロレスの楽しみは想像と予測だよ。
想像力が無いやつがプロレス見たって何も面白くないんだ。客が頭に浮かべてる想像とか予測を、
遥かに越えた展開や試合なんかを提供するのが俺達の仕事。
from http://diovsjojo.exblog.jp/4082262/
なんだか体調不良が続いている気がしたので,
カレンダーなど見ながら振り返ってみた。
まず2012年初頭からダイエットをして体重が激減した。(90->70)
12月AGUか1月デンマークかは忘れたけど,
はじめて飛行機で貧血になった。
12月ぐらいから首痛で通院をはじめた。
(今となっては,おそらくこの時期に枕をかえたせいだと思われる)
2月のインド洋航海は健康に過ごした。
3月は別居−>単身だったがなんともなかった(?)。
4月のはじめに首痛がひどくなり別の病院へ。牽引など。
4月下旬の航海は激しい頭痛(と熱と咳?)でふらふら。
下船したらまったく問題無くなった。
5月は問題無くすごした(たぶん)。
6月はNYが寒くて,プエルトリコ行きで飛行機貧血。
航海中は特に問題無く。
7月にもどってすぐ疲労をおして休日サッカーをやって,
しっかり熱が出て一日寝込む。
7月末から実家に帰省して子供と遊びダンゴを売り,
寝付きが悪く,戻る頃には熱と咳が出始め。
現地最終日ぐらいから手先足先に湿疹が出て,手足口病が疑われ,
微熱と激しい咳が2週間続く。
内科と皮膚科で薬をもらって,およそ治ってきたものの,
肺とノドがゴロゴロする状況は続いている(8/18現在)
Tweet
カレンダーなど見ながら振り返ってみた。
まず2012年初頭からダイエットをして体重が激減した。(90->70)
12月AGUか1月デンマークかは忘れたけど,
はじめて飛行機で貧血になった。
12月ぐらいから首痛で通院をはじめた。
(今となっては,おそらくこの時期に枕をかえたせいだと思われる)
2月のインド洋航海は健康に過ごした。
3月は別居−>単身だったがなんともなかった(?)。
4月のはじめに首痛がひどくなり別の病院へ。牽引など。
4月下旬の航海は激しい頭痛(と熱と咳?)でふらふら。
下船したらまったく問題無くなった。
5月は問題無くすごした(たぶん)。
6月はNYが寒くて,プエルトリコ行きで飛行機貧血。
航海中は特に問題無く。
7月にもどってすぐ疲労をおして休日サッカーをやって,
しっかり熱が出て一日寝込む。
7月末から実家に帰省して子供と遊びダンゴを売り,
寝付きが悪く,戻る頃には熱と咳が出始め。
現地最終日ぐらいから手先足先に湿疹が出て,手足口病が疑われ,
微熱と激しい咳が2週間続く。
内科と皮膚科で薬をもらって,およそ治ってきたものの,
肺とノドがゴロゴロする状況は続いている(8/18現在)
他人の気持ちなんて,わかりっこない。
自分が知らないところで他人が何をしているかも,わかりっこない。
だから,他人のことなんて,理解しようがない。
ある人が自分にとって味方なのか敵なのかは,
まったくもってわからない。
自分が疑う気持ちを抱いていれば,
どんな他人も敵に見えるし,
その逆も真である。
また相手から見た自分は他人であって,
だから相手が自分を味方とみなすか敵とみなすかは,
完全に相手の心持ちによることで,
自分が何をした,何をされた,ということでわかることではない。
つまり味方や敵やというのは気の持ちようなので,
猜疑心が敵を作り,博愛が味方を作る。
「信じる」「隣人を愛する」ということは,
人間関係における「天下無敵」の秘訣なのだ。
上岡龍太郎の横山ノックへの弔辞の中で,
「そして,いつでも,どんな時でも,必ず,僕の味方をしてくれたノックさん」
という一節がある。
こういう人と出会い,関係を持てることは,
これ以上のない幸せだと思う。
ボク自身が本当にほしいものは,
上岡にとってのノックさんだけど,
だからこそ,そのためにボクが出来ることは,
誰かにとってのノックさんになることだと思う。
これはボクの行動基準の大きな位置を占めている。
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自分が知らないところで他人が何をしているかも,わかりっこない。
だから,他人のことなんて,理解しようがない。
ある人が自分にとって味方なのか敵なのかは,
まったくもってわからない。
自分が疑う気持ちを抱いていれば,
どんな他人も敵に見えるし,
その逆も真である。
また相手から見た自分は他人であって,
だから相手が自分を味方とみなすか敵とみなすかは,
完全に相手の心持ちによることで,
自分が何をした,何をされた,ということでわかることではない。
つまり味方や敵やというのは気の持ちようなので,
猜疑心が敵を作り,博愛が味方を作る。
「信じる」「隣人を愛する」ということは,
人間関係における「天下無敵」の秘訣なのだ。
上岡龍太郎の横山ノックへの弔辞の中で,
「そして,いつでも,どんな時でも,必ず,僕の味方をしてくれたノックさん」
という一節がある。
こういう人と出会い,関係を持てることは,
これ以上のない幸せだと思う。
ボク自身が本当にほしいものは,
上岡にとってのノックさんだけど,
だからこそ,そのためにボクが出来ることは,
誰かにとってのノックさんになることだと思う。
これはボクの行動基準の大きな位置を占めている。
ずっとずっと悩んでいるわけですが,
「よりよい社会のためには科学技術の開発が」
ってのは違うと思う。
やっぱり科学研究のモチベーションの根底は,
単に「好奇心」の発露であって,
いわば人間の持つ「欲望」そのものなんじゃないか,と。
それは「食欲」や「性欲」なんかと同じで,
ヒトが生きていく上で抱かずにはいられないものであって,
その「好奇心」が「未知のもの」に向いた時に,
それが「研究」になって,
それが積み重なって「科学研究」になってきた,
と考えるのが自然なんじゃないかな。
そう考えていくと,
「先端科学研究をやっている」ということは,
何も外に向かって胸を張って言うようなことではなくて,
むしろ食事や性行為のように,
イエの内側で,当事者のみによって行われる,
ある種の「秘め事」であるべきなのではないか。
科学者が「科学は社会に不可欠だ」と社会に向けて言うのは,
あるヒトが「性行為は社会に不可欠だ」と言うのと同じで,
その事実自体は真理として正しいのだけれども,
それと同時に,
「そんなことを公に言うなよ」
というものである気がする。
吉本隆明が原発について下のように語っている。
「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完襞な防御装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です」
この話は科学と人類社会の交点を明確に論じていると思う。
「科学が発達を遂げてしまった」ことが問題なのである。
人類が原始的に持つ好奇心にまかせておいたら,
(自動的に)科学が発達を「遂げてしまった」と考える。
しかし「もう到達した場所」から後戻りは出来ない。
それは人類の積み重ねてきた歴史を否定することだからだ。
その歴史は,われわれ今を生きる人間が「人類の原罪」として引き受けるしかない。
だからこそ,
知恵を集め,防御装置をつくるのもまた,人類のすべきことである。
しかし一方で,
(科学が)さらに発達すること,少なくともその速度にブレーキをかけることは,
人類を否定することにはならない。
人類の好奇心にまかせておいたら,
科学技術がもたらす厄災が人類に降りかかるのだ。
それを原子力のみならず多くの環境問題から学び取って,
「さらなる科学の発達で解決する」のではなく,
「(今ある)知恵を集め」て対応していけばいい。
科学の発展と経済成長は同じ方向を向いているので,
現代社会は「科学の暴走」に歯止めがかからない。
科学研究などは人類の持つ欲望でしかない。
その副産物は,
人類社会に革命を起こすが,
同時に厄災ももたらす。
「好奇心」を「社会的な罪」とはしない。
むしろ人類を代表して,
「好奇心」という「人類の原罪」を背負う科学者は一定数必要だろう。
しかし社会はそれにブレーキをかけねばならない。
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「よりよい社会のためには科学技術の開発が」
ってのは違うと思う。
やっぱり科学研究のモチベーションの根底は,
単に「好奇心」の発露であって,
いわば人間の持つ「欲望」そのものなんじゃないか,と。
それは「食欲」や「性欲」なんかと同じで,
ヒトが生きていく上で抱かずにはいられないものであって,
その「好奇心」が「未知のもの」に向いた時に,
それが「研究」になって,
それが積み重なって「科学研究」になってきた,
と考えるのが自然なんじゃないかな。
そう考えていくと,
「先端科学研究をやっている」ということは,
何も外に向かって胸を張って言うようなことではなくて,
むしろ食事や性行為のように,
イエの内側で,当事者のみによって行われる,
ある種の「秘め事」であるべきなのではないか。
科学者が「科学は社会に不可欠だ」と社会に向けて言うのは,
あるヒトが「性行為は社会に不可欠だ」と言うのと同じで,
その事実自体は真理として正しいのだけれども,
それと同時に,
「そんなことを公に言うなよ」
というものである気がする。
吉本隆明が原発について下のように語っている。
「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完襞な防御装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です」
この話は科学と人類社会の交点を明確に論じていると思う。
「科学が発達を遂げてしまった」ことが問題なのである。
人類が原始的に持つ好奇心にまかせておいたら,
(自動的に)科学が発達を「遂げてしまった」と考える。
しかし「もう到達した場所」から後戻りは出来ない。
それは人類の積み重ねてきた歴史を否定することだからだ。
その歴史は,われわれ今を生きる人間が「人類の原罪」として引き受けるしかない。
だからこそ,
知恵を集め,防御装置をつくるのもまた,人類のすべきことである。
しかし一方で,
(科学が)さらに発達すること,少なくともその速度にブレーキをかけることは,
人類を否定することにはならない。
人類の好奇心にまかせておいたら,
科学技術がもたらす厄災が人類に降りかかるのだ。
それを原子力のみならず多くの環境問題から学び取って,
「さらなる科学の発達で解決する」のではなく,
「(今ある)知恵を集め」て対応していけばいい。
科学の発展と経済成長は同じ方向を向いているので,
現代社会は「科学の暴走」に歯止めがかからない。
科学研究などは人類の持つ欲望でしかない。
その副産物は,
人類社会に革命を起こすが,
同時に厄災ももたらす。
「好奇心」を「社会的な罪」とはしない。
むしろ人類を代表して,
「好奇心」という「人類の原罪」を背負う科学者は一定数必要だろう。
しかし社会はそれにブレーキをかけねばならない。