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『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書) Kindle版
杉田俊介 (著) 』が面白い。
https://www.amazon.co.jp/dp/B01N6E5WYZ/

ここ最近ずっとモヤモヤして悩んでいることの根底にあるのは何かと考えている。
人生の大きな目標みたいなもの
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Date/20161216/

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ジェンダー・健康・就職・家庭などの意味で,非常に恵まれた状況にいる自分というのが,前提条件としてそびえ立っている。つまり社会的弱者とは認定されず,むしろ言外ながらに「恵まれた人」「うまくいっている人」という目で見られる状況にある。しかし自分の中には,もちろん他人と比べた時には些末なことかも知れないけど,少なくとも自分にとっては重大な問題が心の真ん中に大きな塊として鎮座している。体調面で言えば,巻爪とか,不整脈とか,肥満とか,風邪ひきやすいとか,姿勢が悪いとか,二日酔いがひどいとか,なんだかんだと。

それと同じぐらいにまとわりついてくるモノとして,男性であり,定年制職をえた研究者であり,家庭の主たる収入源である,ということがある。毎月のように風邪をひくといっても生理がこないことを考えればチョロいもんかもしれん(これはわからんけど)。飲み会の会話が不愉快なことはあっても「相手いないの?」「30すぎてどうこう」「この後どう?」とか直接セクハラかまされることもない(これは女性が男性をいじってもあまりセクハラと言われないという別の問題もあるけども)。任期切れに悩むこともないし,だから明日の我が身を憂う必要もない(研究業界の行方とか我が社の現状は憂うべき状況にあるけども)。たとえば夫婦仲が決定的に破綻したとして,自分には収入があるのだ(もちろん慰謝料や養育費は発生するだろう)。

======(以下一般論)======

しかし一方で,これをまったく逆さまに見ると,それはそれで違う景色が見える。つまり一般に社会的弱者とされている人々の状況を踏まえた上で,もう一度男性の側に立って考えると,そこには「強者だから良いでしょ」という風に「無視されている男性ならではの悩み・弱さ」が見つかるのでは無いか。

性差による社会的・肉体的障壁があるにも関わらず女性に男性並みの働きが求められる。でもこれを裏返すと,障壁が無い男性が女性と同等の仕事しかしないことは,それはそれで問題と言える。そんなことを言うと「そういうことを言っているから永久に女性と男性が対等にならないんじゃないか」と言われるかもしれないし,じゃあ「余力がある男性がペースを落とすことが社会的に(会社的に?)許されるか」というとそうでもない。男性にとっては「頑張れば,ずるい」「頑張らねば,しっかりせい」というダブルバインドである。これは家庭の役割を抜きにした,単に肉体的な話だけでも,まぁそういうことになる。

たとえば,子供が3人いて当面働く意志のない専業主婦の家庭がある(うちがモデルケース)。この状況にあって,男女の対等とはどのように達成されるのか。「父は外で稼ぎ,母は家を回す」という役割分担が,差別的で平等ではないというなら,どのようにして平等が実現されるのだろうか。この場合の差別性は潜在的な意志の実現可能性に依存すると思うけども。つまり「専業主婦でいたい」という妻を持つ夫は「負担を強いられる社会的弱者」に位置付けられることはないのだろうか。「そういう希望を持つ人を妻に選んだのはあなた」という言い分が成立するのならば,「家庭を顧みないで働いてばかりいる夫」を選んだ人が責め立てられるのは不条理だ。だからといって専業主婦を責め立てろというわけではない。そこはそういう風にはならない。単に「働く気がない妻」と「家事をしない夫」に対等性があるのかということ。

これは現状認識にとどまらず,将来的なポテンシャルの意味でも言える。仮に夫が現職を辞めて挑戦したい冒険的な将来計画を抱いたとして,一方には収入のない妻と3人の子供がいる。この悩みにかかる精神的負担は「持つものの特権であり負担とは言えない」のだろうか。つまり,夫には選択肢があるかわりに絶えず決断を強いられる負担もある(妻には選択肢がないが(その存在だけで)絶えず夫を「脅迫」している)。

逆の立場は一般に広く考えられている。つまり,(現状専業主婦である)妻には復職したいが子供がいるという悩みがある。この場合,妻の復職は妻の判断であり,夫はこれを妨げることは(社会正義的に)許されない。しかし夫の生活は妻の決断いかんで大きく変わる(変えられてしまう)。この状況で妻が自由に決断できる社会が奨励されているのであれば,先にあげた状況で,夫が自由に決断できる社会であるべきではないか。つまり専業主婦である妻を「捨てた」という言い分は成立しないのでは無いか,ということである。

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そんな脳内シミュレーションを繰り返すと「マジョリティあるいは優位にあるがゆえの悩みがある」という現実に加え「それを暴露することが社会正義(ポリティカルコレクトネス)的に許されないという悩み」というのもあるよね,というようなことが,『非モテの品格』では述べられている,のだと思う。

だから,職場でもなく,家庭でもない,第三の居場所というのを求めている心にあるのは,そういうことなのかもしれない。仕事の比較や社会的「かくあるべし」が責め立てられない,あるいはニュートラルでラディカルにそういう話題が言い合える居場所というのが,自分にとって理想的な「居心地の良い空間」なのだ。それの半分,より精神的な部分はインターネットが満たしてくれている。もう半分の,より身体的な部分が満たされるような居場所については,完璧を求めないなら「職場にいる気の置けない仲間達」がそれにあたる。仕事と完全に切り離されない点は残念だけど,非常に近い距離に居場所があるというのは悪くない。仕事から切り離されていて,しかも求める時に与えられるような近い距離にある居場所を見つける(あるいは作る)ことは,とても難しい。
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ボクの中でずっとモヤモヤしている部分の小さくない領域には,科学研究の功罪というか,将来的な成否というか,そんなものがある。それがあって,職業研究者をしていながらも,いまいち科学研究に「のれない」でいる。

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科学研究に終わりはない。おそらく。少なくとも今ボクが身を置いているような「生命の起源」なんてテーマについては「絶対に」解けないと言ってもいい。「絶対に」という言い方が科学的でないなら「おそらく300年後の時点ではまだ解けていないだろう」とした方がかもしれない。まぁとにかくそんな感じだ。だからこそやりがいがあるんだろうし,だからこそ多くの人を惹きつけているんだろうし,だからこそ少なくない資源が投入されているんだろう。

でも,たぶん,その部分に「のれない」理由がある。といっても「解けない問題を解こうとするなんてバカだ」と言いたいわけではない。むしろ「解けないからこそ取り組みたい」「その過程が楽しい」「正直言って結果がどうこうなんて興味が無い」「役に立つかどうかなんて知らん」ということ自体には,一般的な人が示す以上の同意を抱いている。そうでありながら,それでもなお,「のれない」のはなぜなんだろうか。

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科学や技術というのは基本的に右肩上がりだ。近現代の科学には(出版とか査読とか引用とかの)次世代に伝承する作業も含まれているから,基本的には,一度獲得された科学の成果は,適切に次の世代へと継承されていくことになっている。だから成果の量的には常に右肩上がりだし,基本的には質的にも右肩上がりであるはずだ。たとえば,日本ではしばしば話題になる「伝統芸能の職人技術の伝承断絶問題」なんかは,出版物で継承しないこと(あるいは紙に残せない有形無形の術が無限にあること)に問題の根がある。つまり,紙で残せないから,人的なつながりの断絶が起こると,そこまでの蓄積の大半が失われてしまうのだ。これは逆もまたしかりで,つまり紙に残しておけば,時空間的に途絶えたとしても,継承される可能性があるということで,科学はその部分をとかく大事に扱っている。

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とにかく,科学研究をすればするほど「生命の起源」に漸近していくけども,一方で絶対に「生命の起源」には到達できない,という状況設定がある。そんな中で,科学は右肩上がりなんだけれども,地球の状況,特に資源は,そういう訳にはいかない。資源というのも色々あるけれど,ここではエネルギー資源と,元素資源と,労力資源の3つについて考えることにする。いや,資源そのものについては,また別の機会に書こう。

「生命の起源」を解き明かすために,あの手この手を講じて,様々な研究をしている。たとえば液体ヘリウムを使った極低温実験がそのキモであるとする。でもヘリウムが枯渇する近未来には,貴重なヘリウムは医療用のみに使途が限定されてしまい,もはやヘリウムを用いた「生命の起源」研究は出来なくなるかもしれない。そんな時に一部の研究者は「いや,それでも生命の起源研究は大事だから,医療用に限定せずにヘリウム使用枠を研究用に開放しろ」と言うかもしれない。たぶん言うだろう。そういうことを想像すると,ボクはそういう意見には「のれない」と思うわけだ。

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今回は資源の話は省略したし,ヘリウムとかいうヘンテコな例で説明したけど,つまりはそういうことだ。これには2つの意味がある。一般にわかりやすい方の意味としては,エネルギー資源でも,元素資源でも,労力資源でも,何でもかまわないけど,資源の枯渇が人類にとって今よりもすごく大きな,喫緊の問題になる将来がやってくる。その時に「解けない謎を解こうとするオレ達のエクスタシーのために資源をよこせ」というような傲慢な気持ちにはなれないなぁ,ということ。

もう1つの意味は,こちらの方がより重大だと思っているんだけども,科学の成果自体は積み上げ式で右肩上がりに増加しているんだけど,それを支える資源的な基盤が崩壊したら,積み上げてきた科学成果を次世代では利用できなくなるということだ。つまり,「極低温実験であれば解ける」という取り組み方に依存した結果,「極低温は作れません」という状況に陥ってしまうと,その研究はそれ以上進めることができなくなる。そういう未来は,そう遠くない時期にやってくる。どの分野に,どういう形で降りかかるかはわからない。でも,そんなことを考えると,特に今の「特殊な機器を開発して目新しいデータを出して科学を大きく前に進める」という風潮にはまったく「のれない」のである。「このまま進めば300年後に到達できる」けど「100年後には資源が枯渇して進み続けることができなくなる」ならそれは「300年後に到達できる」とは言わないのだ。

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じゃあ,だからといって,すべてを諦めたような態度になって,科学研究自体をすべて放棄してしまうというのも,あまり良い態度ではない。アインシュタインの言うように「人生とは自転車のようなものだ。倒れないようにするには走り続けねばならない」ということでもあって,人生に限らず「世界」もまた,良くあり続けるためには,走り続けることが大事なのだ。もちろん無闇に走り回れば良いわけではなくて,オシムの言うように「走れ!考えろ!適切な時に適切な位置に走れ!」ということだ。

今なんとなく「こういう研究の進め方が良いんじゃないかな」と思っているのは,より古典的なやり方を重視することだ。つまり,既存の文献知識をもとに,その内容を熟知した者が集まって,対話を重ねて,確かなこと,おそらく確かなこと,もっともらしい仮説,解明すべき課題なんかを,丁寧に整理していくこと。

もちろんこれは今の科学研究でも当然「やっていることになってる」んだけども,かなり軽視されていると思う。今の研究はどちらかと言えば「3歩進んで2歩下がる」的に「四方八方に走り回りながら少しずつ前に進んでいる」感じだけども,これから(今でも)大事なのは「2歩下がって3歩進む」的に「大事な脇道を見逃しているんじゃないかなぁちょっと戻って確認してみようよ」的な方式で進めることなんじゃないかと。

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この話題になると「評価がー任期がー短期的な成果じゃー」ということになるのかもしれない。でもそんなことは,研究業界外の人にとっては,まったく関係がない話だ。「研究業界の中で運営方法(評価制度)を変えれば良いだけでしょ」ということだ。

自分の内側ではこんなことを考えているんだけども,自分が身を置いているのが「資源大量投下型研究の大本営」のような研究所なので,そこから給料をもらって生きているというのが何とも恥ずかしい限りだ。自分の精神の健康のためにも今すぐ飛び出したい。一方で,子供達にご飯を食べさせなければならない。もちろんそんなのは言い訳で「今すぐ飛び出して,かつ,子供達にご飯を食べさせる」ことだって出来るはずだ。そうしないのは,自分の怠慢だ。そして自分の怠慢の対価として,「こうじゃないよなー」と思っているスタイルで研究を進めているわけだ。

「怠惰と潔癖の相克」ということですね。
「楽しく生きていたい」これに尽きる。

そのためにどういう状況が必要なのか。

「自分の周囲の人々が楽しく生きている中で自分も生きていく」のがきっと楽しいだろう。

そんで「自分の周囲」って何かねと聞かれれば,まぁつまり世界ですよ。ボクの場合は。ネットを開くだけで見える範囲でこんな状況で,きっとネットでは見えないところにはもっともっとアレな状況が広がっているのだと思っています。

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じゃあどうするか。垂直と水平の展開がありえる。自分が暮らしている「層」の中で(水平方向に)より強く思いを巡らせるということもありえる。研究業界だったり,収入の頃合いだったり,まぁそういう社会的地位みたいなもの。

でもあんまりそこには興味がない。どちらかというと,もっと垂直方向だと思う。というか,自分がいま身を置いている「層」は,極めて恵まれていて,この内側でさらに状況を良くしていくというのが,ボクにとってはそれほど重要に思えない。具体的に言えば,「研究者の給料が少ない」とか「自由な時間が少ない」とか「任期制がー」とか「アホとは一緒に仕事ができん」とか「ジャパニーズ・お役所仕事がー」とか何とかかんとか,そういう「問題」が水平方向の人々と共有されているわけ。

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でもボクの状況って,もうちょっと広い範囲から見たら,たとえば世界の人々を履歴書的というかカタログ的に見たら,本当に恵まれていると思う。日本という比較的平和な国に生まれ育って,一般的に見れば健康で,男性で,公教育を享受して,今の給料は平均以上にはあるし,労働条件は悪くないし,子供もいる。70億人スケールで見たら,上位1%レベルで恵まれている状況にあると思う。

そんな1%層にいる自分が,例外的に恵まれている1%層の自分が,その状況を享受してノウノウと生きて「あぁ楽しいなぁー」なんて言っていて良いのか。いや違うな。そんな自分の状況を認識してしまっている現状では,無邪気に「あぁ楽しいなぁー」という気分にはなれない,というのが今の心境なんだな。

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おこがましい?恩着せがましい?厚かましい?ピッタリくる表現はわかんないけども,そういう態度であることは理解している。理解しているんだけども,やっぱり自分がノウノウと暮らしているのは,オサマリが悪い。

結局は自分のオサマリの悪さを解消したくて,そのために「キミは不幸な人だね。ボクが助けてあげるよ。」とやって気持ちよくなりたいだけなんだな。なんてイヤなヤツなんだ。最低だな。

そもそも自分を「上位1%層にいる」とか言ってる時点で終わってる。マジで終わってる。きもい。

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でも,間違いなく最低でキモイんだけど,でもやっぱり,この世界には「それはアカンでしょ」ということが蔓延していて,それに気付いていて,それを解消できる立場にあって,それをどうにもしないでただ看過するだけってのは,それはそれで最低なことだと思う。

どう言って良いのかよくわかんないけど,たとえば女性の方が「損」していると思う。損をさせる社会があって,損させられている当人達が頑張らないとそれが解消できない状況にある。そんなのはおかしい。

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自由とか人権とか公教育とか,何でそんなものがあるのかって,その人間の「生」を他人が収奪しないために,昔の人が色々と考えて創作したからこそ,あるんだと思ってる。そういうモノを開発して普及させた人達自身は,別に収奪される側ではなかったんじゃないかな,とも思う。本当に収奪される側の人間だったら,こんなモノを創作するだけの知力も体力も,獲得することが困難だったはずだと思う。まぁこの辺りは勉強すればすぐにわかるか。

いずれにせよ,ボクはそうやって今ここに存在している自由とか人権とか公教育とか,そういうものをたっぷりと享受して,それなりに楽しく生きている。そしてボク自身は,自由とか人権とか公教育とか,そういうモノが機能している社会の方が,より多くの人が幸せになれて,そういう社会で生きている方が自分もより幸せになれると確信している。

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そんなわけで,動機は「自分が気持ちよくなりたい」という極めてキモイものなんだけども,自分がやろうとしていることについては「悪くないんじゃないかな」と思っている。

ということで,目標というか大きな方針としては,「人道・理念にもとる社会的な問題」だと思うことについて,たとえ自分がその問題における直接的な被害者でなかったとしても,改善するように何らかのアクションを起こしていこう。そんなことになる。

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それで実践上,何をどうするかということ。つまり「垂直方向にどこまで延ばしてアプローチするか」ってことと「アプローチの方法をどうするか」ってこと。

自分が今置かれている状況を最大限に利用するなら,やっぱり「大学教育を通じた何か」になる。つまり対象は「大学生」あるいは「大学界隈の人々」になる。アプローチの方法は,まずはごく単純に「大学教員としての業務」を通じたものがある。でもこれだけで良いのだろうか,という悩みが残る。「大学教員である」ということを利用して,もうちょっと先に延ばしたアプローチも可能なんじゃないか。それが何かは煮え切らないけども。

あとはやっぱり,ウェブを通じた取り組み。今はこうして駄文を連ねることぐらいしか出来ないけども,もしかしたらもうちょっと違う何かができるかもしれない。できないかもしれない。それは考えないと。

100人に1のダメージを与えるよりも,100人の中にいる1人に100のダメージを与えるような,イオラよりもメラゾーマというか,そういうモノを目指している。

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だんだんわからなくなってきたので,このへんで。
ある1年に大学へ入学する人数がだいたい60万
ある1年に修士に進学する人数がだいたい8万
ある1年に博士に進学する人数がだいたい2.5万弱
(大学教員は20万程度らしい)

4大卒で就職する比率は8割以上。
修士に進むのは15%未満。
博士を取得するのは5%未満。

やっぱり大学教育ってものをどうするか,あるいは大学というものの役割をどうするか,その部分に対して真っ正面から向き合っていかねばならんと思う。授業料無償化とか給付型奨学金とか,そういう議論ももちろん進めれば良いけども,でもやっぱり「そもそもどうして大学が必要なの?」って部分を社会で共有できていないことには,議論が立ち返る場所がないし,「どうしてそこに税金を」という話に戻ってしまうことは容易に想像ができる。

あとそこを突き詰めることで「大学教員は”研究者”である必要があるか」という議論にもつながる。これは色々な見方があるだろうけども。たとえば欧米式だと学部生の授業は,大学院生がTAとして受け持つ比率が小さくないらしい。日本でも非常勤講師だったり,あるいは企業人が教員として授業をすることもあるようだし。

とにかく議論が偏っているのが気になる。偏っているというのは,トップクラスの大学(東大以下帝大など)の人々が,彼らの世界観での「大学」を語り方針を決めがちな現状があるんだけども,でも実態として大学(大学生)のヴォリュームゾーンにおける実態としての大学(大学生)ってのは,そういうトップクラス大学の世界観とは似ても似つかぬものだと思う。

じゃあこの両者(トップクラスと非トップクラス)で,「社会における大学の役割」という大スローガンを別々に掲げるのはどうかというと,それはそれで大問題な気がする(たぶん制度的に)。だからそこは分別せずに,同一視して共有しつつも,各大学における教育強度みたいなもので分別するのが良いんじゃないかと考えるわけ。

トップクラス大学が目指しているのは,次世代の研究者・大学教員・官僚・医者・経営者など,社会を牽引するリーダー的な人材の育成なんだろう。たぶんこの部分は明確で,それほど見解の相違が生じることはない。

翻って,非トップ大学が目指しているのは,いったい何なのだろうか。「特色ある大学」や「地域貢献」というが,果たしてそれが意味するものは。特に大学での「教育」に焦点を当てた場合に,非トップ大学はどういう人材を育成することを目的にするのだろうか。あるいは世間は非トップ大学にどういう人材を育成することを望んでいるのだろうか。ここが不明瞭なんじゃないか。


自分自身が北大でしか大学生活を送っていないので,こういうことは想像するしかない。しかしまぁ,どうなんだろうか。せっかく時間があるので,整理していきたい。
論文とか申請書とかを書く能力に関する教育についてモヤモヤと考えていること。

正直ね,研究者になるような人々が英語で論文を書けようが書けまいが知ったこっちゃないんです。

大卒に求められている能力,つまり大学に求められている教育ってのについて,大学が掲げるスローガンよりは具体的に,TOEICの点数なんかよりは抽象的に,だいたいでもいいから適当に設定するとしたら,テクニカルライティングみたいなモノなんじゃないかなってことなんです。

テクニカルライティング(裏返すとクリティカルリーディング?)を,レポートなんかの文書を作る際にOJT的に習得していくんじゃなくて,単なる技術として教授するのが良いんじゃないかって。その上でOJT的な作業との往復を在学中にたくさん出来るのが理想じゃないかと。

一般的な学部レベルにこういう部分が浸透していれば,卒論以降の研究生活(研究室での指導)でもっと研究の中身に焦点をあてられると思う。教員も学生もwin-winでは。専門分野の内容に関する勉強はそこからでも間に合うっちゃ間に合うので,今の学部教育の専門教育を多少削ってでも。
ついったーに放流したモノの自己まとめ。

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極論、大学の教育効果に対する不信感(というかモラトリアム以上の意義が持てない感)が根源だと思ってる。
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windowmoon 実際のところ普通に授業に出て卒業した大半の人達でも『大学で学んで良かった』という実感を持っているのは少数派では?
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たぶん一番厚い層は「良い就職のために良い大学が望ましい」以上の意味を「大学」に見出していないパターン。(政治家・官僚を含む)多くの大卒者がこれに相当。この層にとっては「(自分の)大学時代は遊んで暮らして楽しかった。大学での勉強はその後役に立っていない」という実感で大学不要論。
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この層からすると,大学に授業料を払うのは「社会人生活でより大きな見返りを得るための修行」および「社会人になる前の最後の自由時間」ぐらいの位置付けであろう。この2つの目的意識を大学に見出していると「返済不要の奨学金をもらって大学に行く」というのはズルいと考えてしまうだろう。
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大学問題を議論する有識者は大抵が大学関係者で,まぁ自分たち研究業界の人間もその延長線上にいる。業界人はその後も大学に居続けているように「大学の教育には意義がある」という前提で仕事をしているし大学教育からたくさんの何かを学んだという実感も持っている。大学必要論者。
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社会の貧困問題も含めて大学教育に意義を見出しているこの層は「大学教育には意義があるから奨学金を充実すべし」と主張するのだけど,そう思っていない層から見ると,まさに自身が身を置く「大学」というものを絶対視した「既得権益者」の主張にしか見えない
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ということで奨学金ウンヌンも含めて「大学にいって教育を受けることで(本人以外にも影響する)社会的な意義」みたいなモノを整理して提唱することこそが,大学必要論者(大学関係者・研究業界人)には求められていると思うのです。まずそこを整理するべき。ボールはこっちにある状態。
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つぎ!申請書の書き方論!
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人事採用において資金獲得実績が問われる以上は「研究費獲得」は「論文業績」と同じく目的になりますね。
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「申請書を書くなど研究業界で評価されるための作業」はそこそこ優れていると思っている。 でもそれは単なる小手先のことで狭義の研究能力とは別物。で「小手先の技がないけど優れた研究者」ってのがいるのは見えている。
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申請書の良し悪しには多面的な要素があると思う。審査員になったことが無いから詳細はわからん。でも,よく通っている人やなぜか通らない人の申請書をそれぞれ複数見せてもらってわかったことは,すごく基本的な文の読みやすさのレベルで雲泥の差があるってこと。
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そういう「書き方の技術」であまりにも差がついていて,中身での競争に至っていないのが現状だと思う。科研費審査員は「50報/日」で読むとも聞く。その状況がクソだというのはさておき,そんな速読で読まれることを念頭におくと「パッと見」の可読性が可否をわけてしまっていると思われ。
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現状のルール・運用で,どうやって「研究は優れているのに申請書の書き方が悪くて評価が低い人」を救うか。今は「そういう人が研究を続けていく助けになりたい」という自分の願いを果たすべく,自分の持っている「申請書の小手先技術」をドンドン流布していくことにしてる。
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ということで「大学教育」と「申請書」という2つの話が1つの課題に集約される。
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「他人にとって読みやすい文章を書く技術」を純粋に「技術」として取り出して教授する機会が,今の日本の教育システムに組み込まれていない気がする。実験レポートやゼミ資料や卒論などで「OJT的に」は教えられるけど。でも「書く技術」って社会のどんな場面でも必要になる基礎的なモノだと思う。
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(今の教育制度では)大学で身につけることになっている技術(書く・読む・考える)について,学問とは独立した「技術」として教える体系を大学が構築すること。それが浸透すれば「社会に出て役立つことは学ばなかった」という考えの「大学不要論者」は減るんじゃないかな。まぁ数十年計画ですが。
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texox23 「研究が優れていて申請書も書ける人」がいることは承知。その次の層に「研究が優れているけど申請書が書けない人」と「研究はまぁまぁだけど申請書が書ける人」が相当数いて,現行制度だと後者が優勢になってしまうのは,学術の発展にとって良いことなのかなぁと考えている次第。
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<<あと自分は「申請書」を書くことが「スキル」という言葉で表せるような冷めたもんじゃないと思ってる。申請書では現実性に加えて、申請者の熱意や、研究の重要性も伝える必要がある。研究費を獲得するには、審査員を感動させてやるぞ!くらいの意…>>
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こういう意見は本当にその通りだと思う。そう思うんだけど,そのレベルに到達する前にある,言ってしまえば「もっと低いレベルでの書き方」の壁で跳ね返されている「論文を書かせると素晴らしい」研究者がそれなりに多い,って話です。
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『Ph.D.を取得しポスドクを何年かやったレベルの人で「申請書書き」の重要性を理解してない人』ってのに対して「自己責任」とするか「指導者の怠慢による犠牲者」とするか,って違いもあるのかもしれん。

●a章●
【大学における教育の語られ無さ,に対する違和感?】
a1: 「大学生活・大学生の4年間」として多くを語られるが,大学における教育について議論になることはない。
a2: 大学が「学校」である以上,第一義には「教育の場」であることが重要だろうに。
a3: 当の大学生は大学教育を語らない
a4: 大学の教員も大学(教育)を語らない

●e章●現状
【愛されない日本の大学生】
e1: 授業料/奨学金の異常
e2: バイト
e3: 単位を取らねばならぬ
e4: 大学にずっといる学生は「つまらない大学生?」と言われる
e5: 必要なのは頭数だけ?大学が設ける「定員」

●c章●現状
【大学教員とはナニモノか】
c1: 大学教員公募・教員のアイデンティティ
c2: 教員としての資格
c3: 教員(学校)が与える資格
c4: 大学教員の業務,研究・運営・教育。教育の中の一部としての学部教育
c5: 非常勤講師

●b章●現状
【「誰が」「何を」大学教育に望んでいるのか】
b1: 医学部や法学部などの明確に職業に直結しがちな部分は除いて議論するよ
b2: 高校生ーー何かを学びたい。
b3: 大学教員ー自身の研究に関する知識・研究経験
b4: 親ーーーー
b5: 企業ーーー
b6: 納税者ーー

●d章●現状
【大学は,どのように見られているか】
d1: 卒業者の自覚としての不在
d2: 高校生に大学のことはわからない
d3: 京大入試問題
d4: ユニクロ早期就活
d5: 偏差値受験
d6: 大学の受益者は誰か,教育の意味・意義を義務教育の意味から考える
d7: 高校までと大学の質的変換?

●f章●未来
【では大学教育に求められていることはなんだろうか】
f1: 「高校までに習うこと」と「卒論で求められること」のギャップから。大学全入時代。入試。
f2: 「unlearn」こそ必要。知識の質的変換。
f3: アカデミックスキルズ(答えの無い問題を考える技術)
f4: 科学的であることとは。オボカタの例。
f5: 論理と決断は違う(安全と安心を例に「正しく怖がる」論)
プロフィール
HN:
kawagucci
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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