自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
ついったーに放流したモノの自己まとめ。
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極論、大学の教育効果に対する不信感(というかモラトリアム以上の意義が持てない感)が根源だと思ってる。
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windowmoon 実際のところ普通に授業に出て卒業した大半の人達でも『大学で学んで良かった』という実感を持っているのは少数派では?
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たぶん一番厚い層は「良い就職のために良い大学が望ましい」以上の意味を「大学」に見出していないパターン。(政治家・官僚を含む)多くの大卒者がこれに相当。この層にとっては「(自分の)大学時代は遊んで暮らして楽しかった。大学での勉強はその後役に立っていない」という実感で大学不要論。
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この層からすると,大学に授業料を払うのは「社会人生活でより大きな見返りを得るための修行」および「社会人になる前の最後の自由時間」ぐらいの位置付けであろう。この2つの目的意識を大学に見出していると「返済不要の奨学金をもらって大学に行く」というのはズルいと考えてしまうだろう。
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大学問題を議論する有識者は大抵が大学関係者で,まぁ自分たち研究業界の人間もその延長線上にいる。業界人はその後も大学に居続けているように「大学の教育には意義がある」という前提で仕事をしているし大学教育からたくさんの何かを学んだという実感も持っている。大学必要論者。
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社会の貧困問題も含めて大学教育に意義を見出しているこの層は「大学教育には意義があるから奨学金を充実すべし」と主張するのだけど,そう思っていない層から見ると,まさに自身が身を置く「大学」というものを絶対視した「既得権益者」の主張にしか見えない
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ということで奨学金ウンヌンも含めて「大学にいって教育を受けることで(本人以外にも影響する)社会的な意義」みたいなモノを整理して提唱することこそが,大学必要論者(大学関係者・研究業界人)には求められていると思うのです。まずそこを整理するべき。ボールはこっちにある状態。
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つぎ!申請書の書き方論!
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人事採用において資金獲得実績が問われる以上は「研究費獲得」は「論文業績」と同じく目的になりますね。
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「申請書を書くなど研究業界で評価されるための作業」はそこそこ優れていると思っている。 でもそれは単なる小手先のことで狭義の研究能力とは別物。で「小手先の技がないけど優れた研究者」ってのがいるのは見えている。
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申請書の良し悪しには多面的な要素があると思う。審査員になったことが無いから詳細はわからん。でも,よく通っている人やなぜか通らない人の申請書をそれぞれ複数見せてもらってわかったことは,すごく基本的な文の読みやすさのレベルで雲泥の差があるってこと。
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そういう「書き方の技術」であまりにも差がついていて,中身での競争に至っていないのが現状だと思う。科研費審査員は「50報/日」で読むとも聞く。その状況がクソだというのはさておき,そんな速読で読まれることを念頭におくと「パッと見」の可読性が可否をわけてしまっていると思われ。
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現状のルール・運用で,どうやって「研究は優れているのに申請書の書き方が悪くて評価が低い人」を救うか。今は「そういう人が研究を続けていく助けになりたい」という自分の願いを果たすべく,自分の持っている「申請書の小手先技術」をドンドン流布していくことにしてる。
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ということで「大学教育」と「申請書」という2つの話が1つの課題に集約される。
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「他人にとって読みやすい文章を書く技術」を純粋に「技術」として取り出して教授する機会が,今の日本の教育システムに組み込まれていない気がする。実験レポートやゼミ資料や卒論などで「OJT的に」は教えられるけど。でも「書く技術」って社会のどんな場面でも必要になる基礎的なモノだと思う。
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(今の教育制度では)大学で身につけることになっている技術(書く・読む・考える)について,学問とは独立した「技術」として教える体系を大学が構築すること。それが浸透すれば「社会に出て役立つことは学ばなかった」という考えの「大学不要論者」は減るんじゃないかな。まぁ数十年計画ですが。
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texox23 「研究が優れていて申請書も書ける人」がいることは承知。その次の層に「研究が優れているけど申請書が書けない人」と「研究はまぁまぁだけど申請書が書ける人」が相当数いて,現行制度だと後者が優勢になってしまうのは,学術の発展にとって良いことなのかなぁと考えている次第。
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<<あと自分は「申請書」を書くことが「スキル」という言葉で表せるような冷めたもんじゃないと思ってる。申請書では現実性に加えて、申請者の熱意や、研究の重要性も伝える必要がある。研究費を獲得するには、審査員を感動させてやるぞ!くらいの意…>>
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こういう意見は本当にその通りだと思う。そう思うんだけど,そのレベルに到達する前にある,言ってしまえば「もっと低いレベルでの書き方」の壁で跳ね返されている「論文を書かせると素晴らしい」研究者がそれなりに多い,って話です。
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『Ph.D.を取得しポスドクを何年かやったレベルの人で「申請書書き」の重要性を理解してない人』ってのに対して「自己責任」とするか「指導者の怠慢による犠牲者」とするか,って違いもあるのかもしれん。
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極論、大学の教育効果に対する不信感(というかモラトリアム以上の意義が持てない感)が根源だと思ってる。
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windowmoon 実際のところ普通に授業に出て卒業した大半の人達でも『大学で学んで良かった』という実感を持っているのは少数派では?
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たぶん一番厚い層は「良い就職のために良い大学が望ましい」以上の意味を「大学」に見出していないパターン。(政治家・官僚を含む)多くの大卒者がこれに相当。この層にとっては「(自分の)大学時代は遊んで暮らして楽しかった。大学での勉強はその後役に立っていない」という実感で大学不要論。
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この層からすると,大学に授業料を払うのは「社会人生活でより大きな見返りを得るための修行」および「社会人になる前の最後の自由時間」ぐらいの位置付けであろう。この2つの目的意識を大学に見出していると「返済不要の奨学金をもらって大学に行く」というのはズルいと考えてしまうだろう。
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大学問題を議論する有識者は大抵が大学関係者で,まぁ自分たち研究業界の人間もその延長線上にいる。業界人はその後も大学に居続けているように「大学の教育には意義がある」という前提で仕事をしているし大学教育からたくさんの何かを学んだという実感も持っている。大学必要論者。
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社会の貧困問題も含めて大学教育に意義を見出しているこの層は「大学教育には意義があるから奨学金を充実すべし」と主張するのだけど,そう思っていない層から見ると,まさに自身が身を置く「大学」というものを絶対視した「既得権益者」の主張にしか見えない
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ということで奨学金ウンヌンも含めて「大学にいって教育を受けることで(本人以外にも影響する)社会的な意義」みたいなモノを整理して提唱することこそが,大学必要論者(大学関係者・研究業界人)には求められていると思うのです。まずそこを整理するべき。ボールはこっちにある状態。
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つぎ!申請書の書き方論!
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人事採用において資金獲得実績が問われる以上は「研究費獲得」は「論文業績」と同じく目的になりますね。
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「申請書を書くなど研究業界で評価されるための作業」はそこそこ優れていると思っている。 でもそれは単なる小手先のことで狭義の研究能力とは別物。で「小手先の技がないけど優れた研究者」ってのがいるのは見えている。
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申請書の良し悪しには多面的な要素があると思う。審査員になったことが無いから詳細はわからん。でも,よく通っている人やなぜか通らない人の申請書をそれぞれ複数見せてもらってわかったことは,すごく基本的な文の読みやすさのレベルで雲泥の差があるってこと。
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そういう「書き方の技術」であまりにも差がついていて,中身での競争に至っていないのが現状だと思う。科研費審査員は「50報/日」で読むとも聞く。その状況がクソだというのはさておき,そんな速読で読まれることを念頭におくと「パッと見」の可読性が可否をわけてしまっていると思われ。
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現状のルール・運用で,どうやって「研究は優れているのに申請書の書き方が悪くて評価が低い人」を救うか。今は「そういう人が研究を続けていく助けになりたい」という自分の願いを果たすべく,自分の持っている「申請書の小手先技術」をドンドン流布していくことにしてる。
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ということで「大学教育」と「申請書」という2つの話が1つの課題に集約される。
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「他人にとって読みやすい文章を書く技術」を純粋に「技術」として取り出して教授する機会が,今の日本の教育システムに組み込まれていない気がする。実験レポートやゼミ資料や卒論などで「OJT的に」は教えられるけど。でも「書く技術」って社会のどんな場面でも必要になる基礎的なモノだと思う。
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(今の教育制度では)大学で身につけることになっている技術(書く・読む・考える)について,学問とは独立した「技術」として教える体系を大学が構築すること。それが浸透すれば「社会に出て役立つことは学ばなかった」という考えの「大学不要論者」は減るんじゃないかな。まぁ数十年計画ですが。
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texox23 「研究が優れていて申請書も書ける人」がいることは承知。その次の層に「研究が優れているけど申請書が書けない人」と「研究はまぁまぁだけど申請書が書ける人」が相当数いて,現行制度だと後者が優勢になってしまうのは,学術の発展にとって良いことなのかなぁと考えている次第。
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<<あと自分は「申請書」を書くことが「スキル」という言葉で表せるような冷めたもんじゃないと思ってる。申請書では現実性に加えて、申請者の熱意や、研究の重要性も伝える必要がある。研究費を獲得するには、審査員を感動させてやるぞ!くらいの意…>>
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こういう意見は本当にその通りだと思う。そう思うんだけど,そのレベルに到達する前にある,言ってしまえば「もっと低いレベルでの書き方」の壁で跳ね返されている「論文を書かせると素晴らしい」研究者がそれなりに多い,って話です。
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『Ph.D.を取得しポスドクを何年かやったレベルの人で「申請書書き」の重要性を理解してない人』ってのに対して「自己責任」とするか「指導者の怠慢による犠牲者」とするか,って違いもあるのかもしれん。
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