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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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ボクの中でずっとモヤモヤしている部分の小さくない領域には,科学研究の功罪というか,将来的な成否というか,そんなものがある。それがあって,職業研究者をしていながらも,いまいち科学研究に「のれない」でいる。

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科学研究に終わりはない。おそらく。少なくとも今ボクが身を置いているような「生命の起源」なんてテーマについては「絶対に」解けないと言ってもいい。「絶対に」という言い方が科学的でないなら「おそらく300年後の時点ではまだ解けていないだろう」とした方がかもしれない。まぁとにかくそんな感じだ。だからこそやりがいがあるんだろうし,だからこそ多くの人を惹きつけているんだろうし,だからこそ少なくない資源が投入されているんだろう。

でも,たぶん,その部分に「のれない」理由がある。といっても「解けない問題を解こうとするなんてバカだ」と言いたいわけではない。むしろ「解けないからこそ取り組みたい」「その過程が楽しい」「正直言って結果がどうこうなんて興味が無い」「役に立つかどうかなんて知らん」ということ自体には,一般的な人が示す以上の同意を抱いている。そうでありながら,それでもなお,「のれない」のはなぜなんだろうか。

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科学や技術というのは基本的に右肩上がりだ。近現代の科学には(出版とか査読とか引用とかの)次世代に伝承する作業も含まれているから,基本的には,一度獲得された科学の成果は,適切に次の世代へと継承されていくことになっている。だから成果の量的には常に右肩上がりだし,基本的には質的にも右肩上がりであるはずだ。たとえば,日本ではしばしば話題になる「伝統芸能の職人技術の伝承断絶問題」なんかは,出版物で継承しないこと(あるいは紙に残せない有形無形の術が無限にあること)に問題の根がある。つまり,紙で残せないから,人的なつながりの断絶が起こると,そこまでの蓄積の大半が失われてしまうのだ。これは逆もまたしかりで,つまり紙に残しておけば,時空間的に途絶えたとしても,継承される可能性があるということで,科学はその部分をとかく大事に扱っている。

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とにかく,科学研究をすればするほど「生命の起源」に漸近していくけども,一方で絶対に「生命の起源」には到達できない,という状況設定がある。そんな中で,科学は右肩上がりなんだけれども,地球の状況,特に資源は,そういう訳にはいかない。資源というのも色々あるけれど,ここではエネルギー資源と,元素資源と,労力資源の3つについて考えることにする。いや,資源そのものについては,また別の機会に書こう。

「生命の起源」を解き明かすために,あの手この手を講じて,様々な研究をしている。たとえば液体ヘリウムを使った極低温実験がそのキモであるとする。でもヘリウムが枯渇する近未来には,貴重なヘリウムは医療用のみに使途が限定されてしまい,もはやヘリウムを用いた「生命の起源」研究は出来なくなるかもしれない。そんな時に一部の研究者は「いや,それでも生命の起源研究は大事だから,医療用に限定せずにヘリウム使用枠を研究用に開放しろ」と言うかもしれない。たぶん言うだろう。そういうことを想像すると,ボクはそういう意見には「のれない」と思うわけだ。

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今回は資源の話は省略したし,ヘリウムとかいうヘンテコな例で説明したけど,つまりはそういうことだ。これには2つの意味がある。一般にわかりやすい方の意味としては,エネルギー資源でも,元素資源でも,労力資源でも,何でもかまわないけど,資源の枯渇が人類にとって今よりもすごく大きな,喫緊の問題になる将来がやってくる。その時に「解けない謎を解こうとするオレ達のエクスタシーのために資源をよこせ」というような傲慢な気持ちにはなれないなぁ,ということ。

もう1つの意味は,こちらの方がより重大だと思っているんだけども,科学の成果自体は積み上げ式で右肩上がりに増加しているんだけど,それを支える資源的な基盤が崩壊したら,積み上げてきた科学成果を次世代では利用できなくなるということだ。つまり,「極低温実験であれば解ける」という取り組み方に依存した結果,「極低温は作れません」という状況に陥ってしまうと,その研究はそれ以上進めることができなくなる。そういう未来は,そう遠くない時期にやってくる。どの分野に,どういう形で降りかかるかはわからない。でも,そんなことを考えると,特に今の「特殊な機器を開発して目新しいデータを出して科学を大きく前に進める」という風潮にはまったく「のれない」のである。「このまま進めば300年後に到達できる」けど「100年後には資源が枯渇して進み続けることができなくなる」ならそれは「300年後に到達できる」とは言わないのだ。

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じゃあ,だからといって,すべてを諦めたような態度になって,科学研究自体をすべて放棄してしまうというのも,あまり良い態度ではない。アインシュタインの言うように「人生とは自転車のようなものだ。倒れないようにするには走り続けねばならない」ということでもあって,人生に限らず「世界」もまた,良くあり続けるためには,走り続けることが大事なのだ。もちろん無闇に走り回れば良いわけではなくて,オシムの言うように「走れ!考えろ!適切な時に適切な位置に走れ!」ということだ。

今なんとなく「こういう研究の進め方が良いんじゃないかな」と思っているのは,より古典的なやり方を重視することだ。つまり,既存の文献知識をもとに,その内容を熟知した者が集まって,対話を重ねて,確かなこと,おそらく確かなこと,もっともらしい仮説,解明すべき課題なんかを,丁寧に整理していくこと。

もちろんこれは今の科学研究でも当然「やっていることになってる」んだけども,かなり軽視されていると思う。今の研究はどちらかと言えば「3歩進んで2歩下がる」的に「四方八方に走り回りながら少しずつ前に進んでいる」感じだけども,これから(今でも)大事なのは「2歩下がって3歩進む」的に「大事な脇道を見逃しているんじゃないかなぁちょっと戻って確認してみようよ」的な方式で進めることなんじゃないかと。

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この話題になると「評価がー任期がー短期的な成果じゃー」ということになるのかもしれない。でもそんなことは,研究業界外の人にとっては,まったく関係がない話だ。「研究業界の中で運営方法(評価制度)を変えれば良いだけでしょ」ということだ。

自分の内側ではこんなことを考えているんだけども,自分が身を置いているのが「資源大量投下型研究の大本営」のような研究所なので,そこから給料をもらって生きているというのが何とも恥ずかしい限りだ。自分の精神の健康のためにも今すぐ飛び出したい。一方で,子供達にご飯を食べさせなければならない。もちろんそんなのは言い訳で「今すぐ飛び出して,かつ,子供達にご飯を食べさせる」ことだって出来るはずだ。そうしないのは,自分の怠慢だ。そして自分の怠慢の対価として,「こうじゃないよなー」と思っているスタイルで研究を進めているわけだ。

「怠惰と潔癖の相克」ということですね。
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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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