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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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東京五輪開催をめぐるアレコレを見ていると、それぞれの立場にそれぞれの視点があるもんだなと感じる。

誰かが「とてもバカ」であることは、あまりない。
それぞれの立場で、視点が違うのだ。
ここで面倒なのは「声の大きさはそれぞれの視点に等しく分配されて"いない"」ことだ。
関係者全体を見渡した時に、とても声の大きな人が、特定の視点から喋っていることがある。
それがゆえに、特定の集団にとっての局所最適が、全体の方針に採用されてしまう。

とはいえ、それ自体は、ある意味では、仕方が無い。
全体を完璧に見渡して、調和の取れた最適解を導き出すのは、事実上不可能と言っていいほど困難だ。

問題は、声の大きな人がコロコロ変わる、あるいは同じぐらい大きな人が複数いる場合だ。
この場合、それぞれの局所最適に向けた綱引きがはじまる。
それぞれの局所最適には辿り着けず、妥協を探りはじめる。
結果として「全体の調和」とは違った「局所最適同士の調和」に向かっていく。

「局所最適同士の調和」というのは、とても歪なものだ。
最終産物だけを見ると「どうしてこうなった」は、わからないだろう。

天然環境であれば、放っておけば一定の秩序に従って全体が振る舞う。
そこに「全体の調和」がある。
それを探ることが、ボクの研究である深海の科学である。

しかし、人間社会は、なかなかそういうことにはならない。
それは「局所最適同士の調和」だからだ。
そんな人間社会を理解しようとするのは、深海の科学よりも困難で、だからこそ、面白い。
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自分でラボを運営したことはない。
所属した大学院のラボも2つしかない。
しかしそれなりの研究キャリアになってきて、少しの良い例とたくさんの悪い例を見てきた。
なんとなく「これは必要」「これはやっちゃダメ」というのが感じられる。
良い例というのは、多くの(マトモな)研究者が飛び立っていることに加えて、途中で辞めていく人が少ないこと、ぐらいで定義できるかもしれない。

まず一番重要なことは『会話の頻度』。
これは間違いない。
鶏と卵みたいだけども、何気ない会話を教員からでも学生からでも出来る関係が大事。
たぶん、最初は教員が喋りまくって、学生の障壁を取り除くのだと思う。
「お茶の時間」みたいな設定があると良いかもしれない。
ラボ選びの段階で、お喋り教員のところにお喋り学生が集まるのかもしれないけど。
会話が多いことには、とてもたくさんのメリットがある。
お互いに知りたいことをすぐに聞けるというのは、不安や不満の解消に必須だ。
お互いにお願いしたいことをスッと言えるというのは、円滑な進捗に必須だ。
これは教員と学生に限らず、学生と学生の関係でも見逃せない。
そしてそういう会話の往復の中で、もっとも重要な部分が共有されていく。
言い回しであったり、避けるべき話題であったり、哲学であったり。
友達としての会話ではなく、同門としての会話が出来るようになる。

次に大事なことは『読み書きの体系的な訓練(指導)』。
読んで書くことは、研究者に限らず、多様な職業で必須な技術だ。
母語での読み書きは「できる」と思っていても、そこには質の問題がある。
日常生活を何不自由なく過ごせたとしても、職業的な文を書けるかどうかとは別問題だ。
そしてそれは、そういう文を読み、ソレが日常の言葉とは別物であると知ることからはじまる。
読み書きは個人の内面から表出するものだから、個々人で習得するしかない。
一般論はこの通りであり、大筋で言えば「読め、そして書け」と指導するほかない。
しかし、それでは指導していないのと変わらないだろう。
「読むこと」ではなく「読み方」を指導する。
そして「読めている」かを判定し、「なぜ読めていないか」を指導する。
「書くこと」ではなく「書き方」を指導する。
そして「書けている」かを判定し、「なぜ書けていないか」を指導する。
個人の内面の表出である文章を、尊厳を傷つけすぎないように指導することは、難しい。
ここのところを属人的にしないため、体系的な指導が必要となる。
日常的な会話が出来る関係性も、これを支える重要な基盤である。
(だから会話の頻度の方が大事だと考えるのだ)

第三には『結果を求めすぎない』だろう。
実験指導が充実しているラボは多い。
素晴らしい結果を出し、素晴らしい学会発表をしている学生が多数いるラボがいくつかある。
一見すると、素晴らしい教育が行われているように思える。
しかし、それが卒業生の成長に繋がっているとは思えないケースが多い。
それはたぶん、ラボ生活の大半が実験に費やされることが要因だろう。
会話や読み書きの熟達よりも、実験技術の精緻さや素早さの鍛錬を重視するラボは多い。
良い結果が早く出ることは、競争的学術界を思うと、一面で正しいかもしれない。
たしかに奨学金の免除や学振の採否など、早期に業績があることが望ましい結果に結びつく部分はある。
しかしそれは、はたして大学院教育が目指す学生の成長において、それほど重要なのだろうか。
経済的不安が致命的であることは認識しても、それを解消することを第一義におくのは違うだろう。

「会話の頻度」「読み書きの体系的指導」「結果を求めすぎない」は同時に実現するだろうか。
そんなに難しくなさそうではある。
いつかくる日までに、この辺りを整理して身につけておきたい。
とてもとても近い分野の論文の査読をしている。
MIT閥とCaltech閥がドンパチやっている(主にCaltech軍が攻撃的)ところ。
ボクはCaltech閥の議論がいつも納得いかなくて、査読でも不満な点をメチャクチャ書く。
しかし英語が拙いことが99%、先方のはぐらかし戦術が1%ぐらいで、全然対応されない。

今回はセカンドラウンドが回ってきて、MIT閥からのコメントも読めた。
言い回しはジェントルだけど、結構なビーンボールも投げ込んでいる。
ちなみにボクが納得いかないと思う点と同じ箇所を強く突いている。

このネタについては、2大派閥(+1)で査読しあっている。
なので、議論がハイコンテクスト。
狭い分野ではあるけども、ここが世界の最先端だ、というのがビンビン感じられる。
緊張感がとてもある。

で。

ボクは自分の周囲に、このネタについて、この水準で議論できる相手がいない。
一方、MITにもCaltechにも、教授とポスドクと院生と、複数人はいる模様。
これが「レベルの高いラボ」になれるかどうかの分水嶺なんじゃないかな。

ボクは、年1回程度、査読を通じて議論をするだけで、あとは自分でウンウン唸っている。
彼らは、週1回ぐらいは、ラボメンと議論できる。
無いものねだりではあるんだけど、やっぱり無いものは欲しい。

ほしい。
来年度の学会開催をどうするかという会議。
オンラインとオンサイトで、それぞれメリットデメリットがある、というのは当然のことで。
そんなことは当たり前すぎて、今さら語ることでもない。
しかし運営にかかる労力コストは、あまり大きくは語られない。
さらに、運営方針が途中で変わることで生じる労力コストとか、
ギリギリまで判断を延ばすことで、その間に『ヤキモキする精神的コスト』とか、
そういう部分が見落とされているんじゃないかと。

COVIDの推移なんて誰にもわからない。
とはいえ緊急事態宣言の3月上旬までの延長がほぼ決まっている以上、5月までは低めで推移するだろう。
そんな5月に9月のことを判断するというのは、かなり難易度の高い判断になる。


今日から乗船する船は、装備的には何でも出来る。
装備的には何でも出来るのだが、運航開始からの5年間で、それぞれの装備の使用実績があがっていない。
それはまぁ当然で、たくさん装備があるから、それぞれにかけられる時間が足りない。
使用実績は、現場作業員の『練度』に大きく関わってくる。
しんかいやかいこうのように、製作から自前であれば「ネジの1本まで」理解できているから、
練度の向上は、運用を開始すれば比較的早いことが期待できる。

しかし洋物輸入品では、そうはいかない。
使用頻度の低い機能に初期不良があっても、それは温存されてしまう。
仕様書が英語だということもあるし、現場作業員の理解が及びにくい。
『練度』は、トラブル頻度のみならず、毎日の作業のちょっとした部分に要する時間にも効いてくる。

現場の人間が悪いのではない。
練度が上げられないような多種多様の装備品を同時に用意して渡すという、判断の問題だ。
「何でも出来る装備を渡した。出来ないのは現場の問題」と思っているなら、大間違い。
全部やらなきゃいけない状況が、どれだけの負担になるか。
現場の責任者は、見るからに疲弊している。
顔の見えない位置にいる人には、現場の疲弊は、わからないだろうけどね。
集中講義から戻った翌週月曜、一息つこうというところで、1日に4件もプレゼン案件が舞い込む。
「チャンスのドアにはドアノブがない。誘いは断らないこと」と学生に檄を飛ばした手前、引き受けるしかないでしょう。

これを機に、スライドのフォーマットを修正し、色バリアフリーと全体の見やすさ向上に取り組む。
マイナーチェンジだけども。

鉱床養殖の話はもうすっかり離れているので概論だけ。一瞬でできた。
親会社(カイチカ)向けの話は新作。結構時間かかりそう。
異分野融合のヤツは、日本人セミナーのヤツをイジればすぐに出来そう。
某大の定期セミナーは、ネタに困るので、どうしたもんか。

来年度は航海が続くので、この2-3月は執筆にあてる予定だったのだが、そんなうまくいくわけない。
自分のことではなく(いや自分のことでもあるが)一般論として。

一方に「論文が書けない」本人。
もう一方に「なぜ書けないのか」と思う指導者。
こういう不幸な状態は本当に良くない(妙に実感のこもった口調)。

「書けない」本人はもちろん「自分がなぜ書けないか」はわからない。
わかっていれば、書けるはずだからね。

だから指導者の側が「どこで書けなくなっているのか」を理解して、
その状況に合わせた指導をしていかねばならん。

1.出したデータをまとめられない
2.まとめたデータを図示できない
3.図から考察ができない
4.文章構成ができない
5.英語で書けない

さぁどこだ。
学会発表までしているネタならば、4にハードルがありそう。
口頭での報告だけを聞いているネタならば、1の可能性もある。
最初から英文で書けというと、つい5のせいにして逃げがちだが、はたして。

わが愛する母校、北海道大学で大学院の集中講義をしてきた。
2006年の修士卒業後、北大には幾度となく訪問していたのだが、今回は特別に"くる"ものがあった。
大学院の集中講義というのは、大学全体から見ればほんのわずかな出来事ではあるのだけども、それでも自分にとっては滅多にない教育機会なので、それだけでも身の引き締まる思いのだが、それに輪を掛けて、自分が(講義には出ていないのだけども)学んだ場所で自分が教える側に回るというのは、やはり何かこう、グッとくるのだ。
正直、ちょっとウルッときちゃったよね、構内に足を踏み入れた時に。

おセンチになりながら、卒論修論の3年間を過ごした理学部6号館の8階に行ったら、卒論生部屋も院生部屋(6-8-08)も変わらず存在していた。
博士課程から東大ORIに移って中野でも3年間を過ごしているのだけど、体感としては6号館暮らしの方が3倍ぐらい長い。
今の職場なんて11年間いるけども、ORIでの3年間よりも体感は短い。
こうして人は()、懐古老人になっていくのだな。

当時の指導教員は、30代後半で、今のボクがまさに同じ年齢層だということも、なんだかグッときた。
修士の最後の方はもう本当に人間関係が破綻していたのだけども、今の自分が卒論修論博論の学生15人ぐらいを同時に指導して、その中にボクみたいなヤツが混じっていると思うと、そらまぁツラく当たるのも理解はできる。
そういう態度を肯定するつもりはないけど、私的な過去として振り返った場合に、アレはアレでシャーなかったかもねとは思える。
ちなみに今では普通に会話をする仲である。

講義に招いてくれたのは、研究もお人柄も敬愛しているチカライシさん。
お誘いのメイルの段階から「教員会議で熱い要望が」「とても楽しみにしている」と言ってくれたのだが、お世辞も上手いなぁ程度に思いあまり重く受け止めていなかった。
その教員会議には、直接の先輩であるカメヤマさんや、ボクが学生の時から教員でいたスギモトさんやヤマモトさんやユタカさんがいるはずで、そこら辺のメンバーからしたらボクなんて「アイツか・・・」という具合だろう。
そういう人柄への評価という意味だけでなく、研究内容も同位体・海洋・メタン・生態系物質循環などそれぞれ重なっていて、外部から呼ぶにしては変わりばえのない講義内容になってしまうんじゃないかと(声をかけられておきながら)懸念して、どうしたもんかと懸念していた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

講義の構成は、アレコレと思案して、3つの方針を立てた。
・「論文を読む」という行為と講義とを一連のものとして接続する
・「研究史の連なり」を通じて高校で勉強した理科と研究を繋げる
・「研究の相互関係」を把握することで、地球科学をより楽しむ

「論文を読む」は、白木賢太郎さんの輪読からヒントを得た。
https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000090334797/
論文を読んで「ふむふむ」と思うことと、講義を聴いて「ふむふむ」と思うこととが、彼らの中で接続されることを期待した。
どうしても「英語の論文」というハードルを感じてしまいがちなので、そのハードルを下げてやることが狙い。
勉強と研究の接続、ということなのかもしれない。
実際には、彼らの指導教員を含むコース教員の論文を、目の前でボクが「ふむふむ」と適当に読んでみせて、それをマクラにして講義に入っていくという構成にした。
現地で聴講生の様子を見て、テキストを読んでもらう部分は取り下げることにした。
テキストを読まされて、うまく読めずにイヤな思い出として残ってしまっては本末転倒なので。

「研究史の連なり」は、『風雲児たち』やアシモフの化学や生物の歴史を参考にした。
今の状況というのが、過去から連綿と紡がれてきた研究の結果として存在するものであることを感じてもらうことが狙い。
同位体・生物・(深海)資源という対象が、どのように研究され、発見され、発展してきたのか。
その先に、いま目の前で読んだ論文の価値があるのだよ、ということを示したかった。
この狙いについては、成功したかどうかはわからないけど、自分としては言いたいことを言って、気分が良くなったので、まあそれで良いのだ。

「研究の相互関係」は、アイデア着想とか、申請書を書くヒントを得る方法論が狙い。
これはポスドクレベルの人が多かったら具体的に申請書を書く課題としてやりたかったけど、あまり人数がいなかったので課題は省略した。
講義の構成として読んだ論文をマクラにするのだけど、その論文で議論している主眼とは違う部分で論文を評価して、「こういう風な視点で面白いなとボクは思う」と触れてから講義をはじめる。
その後は、上記の通り歴史的な経緯で話を進めていき、最後に冒頭で読んだ論文と接続される。
そんな(かなり迂遠な)構成にしてみたので、それなりに研究経験を積んでいる人であれば、「あの分野とその分野が、そういう課題設定で繋がっていくのか」という具合で受け止められたのではないかと思う。
このやり方は、これまでちょっと長めのセミナーなどでも採用したのだけども、アレコレと展開するせいで聞いている側が混乱している様子だったので、とてもゆっくりと話を進めることにして、集中講義全体で3つの大テーマに絞り込み、1テーマで3-5時間ぐらい話すつもりで準備した。

3つの方針を横の糸、3つのテーマを縦の糸、そんな講義にしてみた。
0. 学問のすすめ~大学院生編~
1. Chikaraishi+ 2009を読む:安定同位体指標の本質的欠陥とその打破(とその欠点)
2. Sugimoto&Wada 1995を読む:宇宙生物学は気体地球化学
3. Nishioka+ 2013を読む:深海底利用で世界を救うかもしれない学

上手くいった実感はないし、まだまだ改善の余地があるし、正直かなり凹んでいる。
帰宅して2日経った今でも「あそこはアカンかった、ここはアレだった」と悶々としている。
聴講生からフィードバックをもらう仕組みを用意しなかったので評価はわからないけども、彼らの専門とは違う上に結構面倒な内容だったにも関わらず、ほとんど寝られることもなかったので、講義全体として合格点とは言わずとも、及第点には到達できていた、かもしれない。
新しい安定同位体比指標の紹介について、学生以上に聴講していた教員にウケていたようで、そこは嬉しい誤算であった。

言い古されたことだけども『教える側も教えることを通じて学ぶのだ』というのは、本当にその通りだな、と。
資料の準備段階で色々と学んだし、講義しながら気付くこともあったし、聴講生の質問に答えているうちに自分の中で何かがスパークすることもあった。
これからも「誘いは断らない」ので、集中講義の話がきたら何はさておき引き受けようと、決意を新たにした次第。


とにかく、楽しかった。
北海道旅行記は、また今度。
自分の今のところの見解の備忘と整理のためのメモ。


日本学術会議第25期は、今のところ13の委員会・分科会に入った。
自分から希望したモノもあるし、指名を受けてのモノもある。
ボクは所属機関で教務がなく時間があるから、出来る限り引き受けている。
乃木坂に出て行く場合も、東京支社が使えるので、無駄もあまりない。
ここには書かないけど、自分の中では重みの差をつけて取り組む。

人材育成関係。
大学院卒業後の非専門職への進路と評価の調査。
「博士を取っても稼げない」が院進を思いとどまらせるなら、
「博士まで行っても普通の就職は潰えない」という状況が確保できれば良いんだ、という考え。
実際、企業としても新卒にこだわるメリットは減ってきている(はず)。
産学官と多方面に説明する機会が多くなるので作図が必要。

ジェンダーダイバーシティ関係。
女性の少ない職場でハラスメントが起こりがちな傾向を確認し重く受け止め、アフォーマティブアクションは中途半端だと逆効果になりかねないので一気呵成に進めるべきという視点と、
子育て世代にとってワークライフバランスの実現にはワーク総量の削減が絶対不可欠で、その実現可能性をコロナ禍が示しているじゃないかという視点と。

社会貢献関係。
学者が、研究者としてのみ振る舞い、知識人として貢献していないことを問題視。
「学術界から見た時に、社会が何をすべきかを、学術界から提案する」のではなく、
「社会の側から見た時に、学術界が何をすべきかを考え、学術界からまず動く」。

学術会議改革関係。
日学−政治:任命拒否問題で説明を求める態度を堅持しながら、丁寧に物事を進める執行部を支持。
日学内部 :元・前会長から以前の接触状況を聞き取り、会員・連携会員に周知すべしと要求。
日学-研究者:日学の位置づけ、選考過程、CSTIやMEXTとの関係、これまでの働きの説明。
日学-社会 :活動の発信。特に「初等中等教育」と「防災など生活環境」の提言を前面に。

//
●若手アカデミー
・学術界の業界体質改善分科会(世話人)
・学術の未来を担う人材育成分科会(世話人)
・GYA総会国内組織分科会
//
●地球惑星科学委員会
・地球惑星科学人材育成分科会
・地球惑星科学社会貢献分科会
・地球・人間圏分科会
・SCOR分科会(幹事)
//
・第三部・理工学ジェンダー・ダイバーシティ分科会
・科学者委員会 男女共同参画分科会 アンケート小分科会
・科学者委員会 学協会連携分科会
・広報委員会 「学術の動向」編集分科会
今の時点では何も決まっていません。組織からも上司からもリーダー職への就任打診は一切ありません。これは立候補宣言です。遠くない将来にリーダーになるぞという意思表示です。

なにか大きなキッカケがあったわけではなく、ずっと考えてきたというか、うっすらと思い続けてきたというか、大筋の方向性は自分としては明瞭なんだけど詳細はボンヤリしたまま放置していたことなんだけど、最近になって色んなことが自分の中でハマってきたので、その発露として『宣言する』ということに決めたわけです。

この『リーダー宣言』は、自分の今後とか所属グループの現状とかいくつかの要素が絡み合っていて、自分の中でもまだ完全には整理が出来ていないので、ゆっくり出来る今の時間を使って整理をつけようと思って書き始めているものです。だから未完です。

うちは会社組織で、上役が誰かを指名して管理職たるリーダー職を決める仕組みなんです。そのせいか、リーダーになるのは年功序列(所属年数)みたいな雰囲気を感じなくもないし、やっぱり上役にとって都合の良い部下たる中間管理職が選ばれがちみたいな風潮もないわけではない。上役がどこかから連れてきて落下傘的にやってくる場合もあるけど。これまでヒラ社員として見てきて、リーダーになる過程の正当性とか、リーダーたる人物の正統性とか、そこが明確になっていてほしいなと思っていたので、そこを明確にする方法を考えて「先に自ら立候補」という結論に至ったのです。

リーダーになるということは、部下になる人が出来るということ。リーダー本人以外は、たとえば4月1日にいきなり発表されて部下になってしまうんですよ。そうなるとやっぱり、どこか気持ち悪さが残ってしまう。もちろんほとんどの会社組織でこうなんだろうけど、でもやっぱり気持ち悪い。先に「リーダーになるぞ」と宣言している人がいれば、これをしばらく眺めて「まぁアレなら良いかな」とか「アレの下はキツい」とか、そうやって吟味する過程を経れば、お互いの気持ち悪さが軽減できるんじゃないかな。

自分の覚悟の問題でもあります。大学教員だと、自分が公募に応募するという形で、つまりは立候補するじゃないですか。そこには結構な覚悟が必要なのに、それに準じるナニカは経ないで、ある時に上役(直上の上司とは限らない)から指名されてリーダーになってしまうと、自分の中でもおさまりが悪いだろうな、と思ってしまったのです。やっぱり「言われたからやる」んじゃなくて、「やると決めたからやる」という腹の括り方をしたい。

「リーダーになる」というのは、「リーダーになりたい」とは違うのです。うまく説明できないけども、全然違う。自分が「なりたい」という願望を持っているのでもなく、周囲に際して「なりたい」から認めてくださいというお願いでもない。自分自身に対する「お前がならねばならぬ」というプレッシャーと、周囲から「彼がなるべきだ」と思われねばならぬというプレッシャーの、両方を引き受けたい気持ちなのです。覚悟を決めたぞという内外への宣言というか、宛先のない独り言ではあるのだけども、聞かれてもかまわないし、なんなら聞いてもらいたいというお気持ちの表明ですね。

最近になって立て続けに「リーダーにならないのか/なるつもりはないのか」と身近な同僚から言われたことも大きな要因ですね。真意はわからないので、色気を出すんじゃないぞという警告なのかもしれないけど、ボクは基本的に他人の言葉については裏を読まずにまっすぐ受け取ることにしているので、リーダーになってもある程度は納得してもらえるのかなと思う契機になりました。ボクが首席の航海に参加した人が、働きぶりにポジティブな評価をくれるので、これもリーダー的な働きを務めることへの自信に繋がっています。

どうして周囲の人がリーダーについて言及しがちかというと、今のグループが巨大すぎるという共通認識があり「グループを分割すべきだろう」と思っている人が少なくないという背景があるのでしょう。グループが巨大になっている原因は明確で、上司があまりにも人間的魅力に溢れ、また研究面で多様な関心と知識を持っているために、色んなところから人が集まってくるせいです。しかしこれをひっくり返した理由で、つまりあまりに強大な上司のせいで、グループを分割しようとして適当にその辺の人をリーダーに立てたグループを作っても、構成員のほとんどが残留を希望してしまい現実的に分割が進まないこともグループが巨大なままでいる原因でしょう。とはいえ近い将来には、会社全体での組織改編に伴うグループ分割、あるいは上司のアレに伴う直轄グループ解散が起こることもあるだろうから、セカンドベスト的なリーダーの選択肢を探っているというのが、実状なんじゃないかと思っています。

うちは今、7年間の中期計画の2年度目ですが、たとえば1年ちょっと後の4年度目からリーダーをやって、次の7年間も続けると、11年になる。自分の年齢でいえば、40代が丸々ここにハマることになるわけです。20-30代は自分の研究を進めてきたけど、40代はグループとしての仕事を進めて、50代からは何かまた別のことを進めるという、身勝手な人生計画もあります。これは完全なる絵に描いた餅だけども、漠然とそんなことも考えています。

深海を誰よりも(比喩)理解している人物として、深海環境をいかに人間活動と繋げて(あるいは切り離して)社会を運営していくのかという課題に挑戦したいという気持ちも大きな要因です。この視点で色んな活動を進めるには、どうしても自分一人では限界があって、グループで進めなければ社会にインパクトがある大きなことは成し遂げられない、という考えもあります。この部分で同じような思いを持っている人で集まる時に、それを自分がまとめることで、想定以上のところまで連れて行きたいわけです。

全然うまく書けていないけど、とりあえずここまで。
11月5日 SMS「ちょっと電話していいですか?」
11月13日 メイル「進展がありました。zoomか電話で」
11月19日 Zoom班会議1
11月23日 Zoom班会議2
11月25日 現地ライン確認、製作課題持ち帰り
12月1日 物品搬入、セッティング(欠席)
12月6日 本体帰還
12月8日 相模原作業
12月9日 H分析
12月11日 C分析
プロフィール
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kawagucci
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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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