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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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卒論(修論・博論)の季節で、
ツイッターやブログで多くの話題・言及を目にした

その中でも、
今年一番目にした(というか心に引っかかった)のは、
「卒論は単著だから・・・」的な言及

その後に続く言葉や、
その中身のうちで、
もっとも極論なのが、
卒論の指導なんてしない
というもの
ここから主義主張の方向や強さは異なるものの、
「卒業研究指導はするが卒論本体には赤を入れない」
「卒論には赤を入れるが卒論発表の指導はしない」
などがあるようだった

またその後ろには、
「出来次第、私の判断でダメなら学位はあげない」
「出来次第、周りの教員がダメというなら学位はあげない」
「どんな出来でも卒業はさせる」
というような事後対応への温度差もある

もちろんその背景には、
就活における新卒・学歴至上主義などがあり、
「企業への内定なんて知ったこっちゃない」
「内定のある子には学位あげないで恨まれたら面倒」
「こんな出来で大学院は無理」
「大学院に入って鍛えればいい」
といった部分もあるわけです 


という話題について、
近い将来、自分が大学教員になると思うと、
やはり自分の哲学は洗い出しておきたいと思ったわけです


「卒論は単著だから本人が責任を持つ」というのは、
もちろんその通りだと思う
だからといって、
「赤ペンやコメントで本人の意向を変えるのは単著にはそぐわない」
というのは違うと思う

むしろ、
いろんな人から赤ペンやコメントをもらうことは、
文献調査をするのと同じような作業だと思う
そして、
その中から求められていることを満たすものを取捨選択し、
その上で著者本人の主張を展開する能力こそが、
「単著としての卒論」には求められている

「単著だから」その内容の責任は本人にあるわけだが、
「だから手を加えない」というのは理屈が通らない
そう言うのであれば、
「甘んじて手を加えられる」ことも含めて本人の責任であって、
「手を加えられても拒否すること」も本人の責任である
そういう判断をできる人間であることが、
卒業研究をできているということであるし、
学位にふさわしいのではないか

教育熱心な大学教員である発声練習さんの、
もっとも注目を集めるエントリーでは、
「自分の主張の正しさを自分の言葉で言えない学生」に言及していて、
それこそが卒論研究で身につけるべきものであるようなことを記述している
ボクはこの主張に同意する

もし教員が「自分の施した修正を無視した学生は落第」とするのであれば、
コンテンツの科学的議論の意味ではきっと正しいのだろうし、
感情論での発言であれば、職を辞して東京湾にでも沈めばいい


ボクは(将来の)自分の学生に対して、
無機質な単位論・大学論・卒論論を展開する気はない
そこは人間同士なのだから、
体温の通ったメッセージを送りたいし、
届いてほしいと願う
だからきっと、
猛烈に赤ペン先生するだろうし、
発表練習でもコメントすると思う

それと同時に学生には、
修論の代わりに退学願」氏まではいかずとも、
そういう視点で大学というものを見てほしいし、
そういうことを伝えられる人間でありたいと思う


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