自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
どんなにダメなヤツでも,言っていることが「ごもっとも」なことはあるし,
どんなにスゴイヤツでも,言っていることが「トンデモ」なこともある。
ダメとかスゴイを,「好き」「嫌い」に置き換えても良いかもしれない。
なにか議論をしようという時に,
メンバーを見て,端から「アイツはアレだから」みたいな色眼鏡でいると,
何も話が進まない。
議論をしていて,
認めていない人格から良い意見が出た時に,
意見には同意するんだけど,
認めていない人格から出た意見にそのまま同意するのはシャクだから,
あらを探して,難癖をつけたり,注釈をつけたり,
そうやって,
相手と自分の「人格の格付け」を変えないようにするってのは,
「良い意見」を確立しようとする場に,
「人格」を持ち込んで混乱させているだけなんだよね。
逆に,
全然まともな意見が出ない議論ってのは,
意見を人格と結びつけられることを恐れているせいなんだと思う。
たとえば,知識が足らずに見当違いな意見を言ったとして,
その意見は即座に否定されるだろうけど,
実際は意見が否定されること以上に,
それが「自分を否定された」ことにつながることを恐れてるんだろう。
実際,そうやって意見と人格を同一視する圧力が強いわけだし。
幼馴染みのスタイリストTATSUOが紹介してくれた,
「表現と自己表現は違う」
ってのも,
まさにこれに該当する話だと思う。
こういう話の類型で,
「科学的な考え方」って話題がある。
「科学的」ってのは,
ようするに「人格」を徹底的に排除して,
事実ベースで客観的な「意見」を抽出すること,と言っても良いかもしれない。
だから「科学的な考え方」を身につけることは重要だ,
みたいな話。
「科学研究」を通じて,
人格と意見の独立を身につけられるってのは,
ある意味でその通りだけど,ある意味でその限りではないとも思う。
それはつまり,
科学者ってのが,
自分の人格から発せられる欲求があって,
それに基づいて研究に取り組んでいるわけで,
ある一個の研究自体に完全に客観的に取り組んでいても,
そのテーマを選んだこと,
科学的なアプローチを選んだこと,
他ならぬ「あなた」が研究をしていること,などは,
どう考えても,主観的にならざるをえない。
だから,
科学研究に取り組んだら必ず人格と意見を独立させる考え方が身につくかって言うと,
ボクはそこにはむしろ懐疑的で,
今まさに直面している事象に対して客観的な解析が出来たとしても,
それは「科学的に見る」ってことを盲信しているという点で,
言い換えるなら,
「科学的でないこと」を言外に否定している点で,不十分だと思う。
なんか脱線してきた。
着地点にしたかったのは,
「人格と意見を独立させて会話できる」ことが社会生活において重要で,
科学研究というのは「人格と意見の独立」を標榜してはいるけども,
かといって,科学研究に従事することは,
「人格と意見を独立させて会話できるようになる」ために,必ずしも良い方法ではない。
むしろ他に,その能力を身につけるのに特化した方法があるならば,
その方法を採用すれば良いのだと思う。
それはたとえば「ロールプレイを含んだ議論」だと思う。
たとえば,
クラスの半分を原発賛成,半分を原発反対に,
個人の信条とは無関係に分割して,議論の準備をさせて,議論をする。
そういう自分自身の中で人格と意見を対立させるような体験を積み重ねることで,
身につけていけるんじゃないかな,と思うわけです。
たぶん,
教育メソッドとして名前がついていて,
注意点とかコツとか,
まとめられていると思う。
たとえばディベートの教育効果の話をすると,
大抵がアメリカの子供たちを例にだして,
「ディベートを授業に盛り込むべき」
「意見を表明することが大事だ」
みたいな論調だと思う。
でもアメリカのそれは,
「人格から発せられる意見の対決によるディベート」であって,
それはそれで,初等教育的な入り口ではあるけども,
あまり大人な社会性を醸成するものではない気がする。
「自分の意見を押し通す」では「人格と意見の独立」はなされていない。
そうじゃなくて,
「【ロールプレイ】によるディベート」が重要なのですよ。
で,
そういうことこそ,大学教育で,教養として,やるべきじゃないかしらね。
どんなにスゴイヤツでも,言っていることが「トンデモ」なこともある。
ダメとかスゴイを,「好き」「嫌い」に置き換えても良いかもしれない。
なにか議論をしようという時に,
メンバーを見て,端から「アイツはアレだから」みたいな色眼鏡でいると,
何も話が進まない。
議論をしていて,
認めていない人格から良い意見が出た時に,
意見には同意するんだけど,
認めていない人格から出た意見にそのまま同意するのはシャクだから,
あらを探して,難癖をつけたり,注釈をつけたり,
そうやって,
相手と自分の「人格の格付け」を変えないようにするってのは,
「良い意見」を確立しようとする場に,
「人格」を持ち込んで混乱させているだけなんだよね。
逆に,
全然まともな意見が出ない議論ってのは,
意見を人格と結びつけられることを恐れているせいなんだと思う。
たとえば,知識が足らずに見当違いな意見を言ったとして,
その意見は即座に否定されるだろうけど,
実際は意見が否定されること以上に,
それが「自分を否定された」ことにつながることを恐れてるんだろう。
実際,そうやって意見と人格を同一視する圧力が強いわけだし。
幼馴染みのスタイリストTATSUOが紹介してくれた,
「表現と自己表現は違う」
ってのも,
まさにこれに該当する話だと思う。
こういう話の類型で,
「科学的な考え方」って話題がある。
「科学的」ってのは,
ようするに「人格」を徹底的に排除して,
事実ベースで客観的な「意見」を抽出すること,と言っても良いかもしれない。
だから「科学的な考え方」を身につけることは重要だ,
みたいな話。
「科学研究」を通じて,
人格と意見の独立を身につけられるってのは,
ある意味でその通りだけど,ある意味でその限りではないとも思う。
それはつまり,
科学者ってのが,
自分の人格から発せられる欲求があって,
それに基づいて研究に取り組んでいるわけで,
ある一個の研究自体に完全に客観的に取り組んでいても,
そのテーマを選んだこと,
科学的なアプローチを選んだこと,
他ならぬ「あなた」が研究をしていること,などは,
どう考えても,主観的にならざるをえない。
だから,
科学研究に取り組んだら必ず人格と意見を独立させる考え方が身につくかって言うと,
ボクはそこにはむしろ懐疑的で,
今まさに直面している事象に対して客観的な解析が出来たとしても,
それは「科学的に見る」ってことを盲信しているという点で,
言い換えるなら,
「科学的でないこと」を言外に否定している点で,不十分だと思う。
なんか脱線してきた。
着地点にしたかったのは,
「人格と意見を独立させて会話できる」ことが社会生活において重要で,
科学研究というのは「人格と意見の独立」を標榜してはいるけども,
かといって,科学研究に従事することは,
「人格と意見を独立させて会話できるようになる」ために,必ずしも良い方法ではない。
むしろ他に,その能力を身につけるのに特化した方法があるならば,
その方法を採用すれば良いのだと思う。
それはたとえば「ロールプレイを含んだ議論」だと思う。
たとえば,
クラスの半分を原発賛成,半分を原発反対に,
個人の信条とは無関係に分割して,議論の準備をさせて,議論をする。
そういう自分自身の中で人格と意見を対立させるような体験を積み重ねることで,
身につけていけるんじゃないかな,と思うわけです。
たぶん,
教育メソッドとして名前がついていて,
注意点とかコツとか,
まとめられていると思う。
たとえばディベートの教育効果の話をすると,
大抵がアメリカの子供たちを例にだして,
「ディベートを授業に盛り込むべき」
「意見を表明することが大事だ」
みたいな論調だと思う。
でもアメリカのそれは,
「人格から発せられる意見の対決によるディベート」であって,
それはそれで,初等教育的な入り口ではあるけども,
あまり大人な社会性を醸成するものではない気がする。
「自分の意見を押し通す」では「人格と意見の独立」はなされていない。
そうじゃなくて,
「【ロールプレイ】によるディベート」が重要なのですよ。
で,
そういうことこそ,大学教育で,教養として,やるべきじゃないかしらね。
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