自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
昨日のはあまり言いたいことが言えてなかった。
権力構造でもなんでも,
ある主張とか論説には論理構造があって,
それを否定するのに,
その相似形の論理構造でいくと,
結局,相似的に同じ場所で失敗してしまう。
すごく難しいんだけど,
何かを否定的に見るとか,
何かを否定したいと思って論理を構築する時に,
極めて大事なことで,
かつ,
気を許すとすぐに巻き込まれてしまう。
権力構造はわかりやすくて,
教師ー生徒の関係が,
行政ー学校の関係と相似形で,
権力を用いた強制という部分が,
まさに相似形。
体罰がダメだと言った論理と,
行政が入試停止を命じる論理は,
相似形なのだ。
だから,
今,自分が嫌悪感を抱いている当の事象について,
どういう構造の論理で構築されているかを理解して,
次にそれに対する自分の考えというのが,
それと相似形に陥っていないかを自己点検して,
その上で自分の考えを伝えきらねばならない。
でも,
現在の科学ってのは,
延々と繰り返される相似な論文の積み重ねで進んでいて,
それが何とも,非常に,不愉快なわけです。
必ずどこかで論理と判断(あるいは感覚)のミゾをジャンプせねばならないのに,
論文のフォーマットという相似形にからめとられて,
それが出来ない構造になっている。
まぁ,だから,
招待総説とか,教科書とかで,
シレっと自説を展開するのが面白いのだろうけども。
それは次善の策という気もして。
権力構造でもなんでも,
ある主張とか論説には論理構造があって,
それを否定するのに,
その相似形の論理構造でいくと,
結局,相似的に同じ場所で失敗してしまう。
すごく難しいんだけど,
何かを否定的に見るとか,
何かを否定したいと思って論理を構築する時に,
極めて大事なことで,
かつ,
気を許すとすぐに巻き込まれてしまう。
権力構造はわかりやすくて,
教師ー生徒の関係が,
行政ー学校の関係と相似形で,
権力を用いた強制という部分が,
まさに相似形。
体罰がダメだと言った論理と,
行政が入試停止を命じる論理は,
相似形なのだ。
だから,
今,自分が嫌悪感を抱いている当の事象について,
どういう構造の論理で構築されているかを理解して,
次にそれに対する自分の考えというのが,
それと相似形に陥っていないかを自己点検して,
その上で自分の考えを伝えきらねばならない。
でも,
現在の科学ってのは,
延々と繰り返される相似な論文の積み重ねで進んでいて,
それが何とも,非常に,不愉快なわけです。
必ずどこかで論理と判断(あるいは感覚)のミゾをジャンプせねばならないのに,
論文のフォーマットという相似形にからめとられて,
それが出来ない構造になっている。
まぁ,だから,
招待総説とか,教科書とかで,
シレっと自説を展開するのが面白いのだろうけども。
それは次善の策という気もして。
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体罰については言いたいことが多いのだが,
一方でこれに関して書くのは大変に気が重いので,
なかなか筆が進まなかったわけです。
でも「はよ書け」という要望があったので,
これから仕事をせねばならない朝ではなく,
もう寝るだけの夜に書くことにしました。
まず体罰というと,
体罰は暴力か,みたいな話になりますが,
体罰は例外なく暴力です。
相手の望まない身体への攻撃は,
そこに攻撃的な意図がなかったとしても,
そこには愛情しかなかったとしても,暴力です。
(暴力じゃないケースなんてSMプレイとか競技格闘技ぐらいです)
ここが論点になるってのが信じられないし,
これは暴力論とか体罰論とか以前の,
基本的人権の話なので,これ以上のことはありません。
ボクが体罰でイカンと思うのは,
「権力を持つ側が一方的に強制する」
っていう図式にあるわけです。
権力構造ってのは,理想的には,
その権力が及ぶ範囲について互いに了解したコミュニティ内のみで成立するもので,
生まれながらにして権力構造の中にある,ってことは,
基本的にはありえないわけです。
とはいえ,
親がそういう社会構造の中にいる以上,
どうしても生まれてきた瞬間から子供はその構造に取り込まれてしまうわけで,
だからこそ,
子供がその枠に絡め取られてしまわないために,
「大人」は「子供に教育を受けさせる義務」を負うわけですよね。
話が大きくなった風だけど,
そんなことはなくて,
本当にここが出発点だと思う。
「部活に入るってことは権力構造を了解したということだろ」
という意見があるかもしれないけど,
それが必ず正しいとは限らない。
その部活動に関する指導を受けること,
その代わりに一定の自由が奪われること,
というのは,確かにその通りだと思うし,
それについては教員と生徒の間でも(無言の)了解があると思う。
でも,
その条件の中に「暴力」が含まれているかどうかでいうと,
それは,よほど特殊な事情で言明されていない限り,含まれていない。
社会的にも,肉体的にも強い立場にいるものが,
特別な言及が無いままに暴力をふるう権限を有しているなんてことは,
ありえない。
ましてや部活動は,街の競技クラブとは違って,
学校教育の一環として行われているという建前がある以上は,
あくまで教育活動なわけで,
教育を担う人が暴力に頼るってのがありえないし,
教員が暴力をふるうことが問題というか,
そういう人が教員になれてしまうことが問題で,
教員でありつづけていられることも問題だと思う。
「そんな教員が存在し続けている環境が問題」だから,
「そんな学校は問題」という論理は,
まったくもって,その通りだと思う。
そこには同意する。
でも,
だからといって,
監督責任のある立場として,
行政が入試の停止だなんだということを命じることには,
同意できない。
同意できない理由は,
まさにここまでの体罰の話で述べてきた通りで,
「権力を持つものが互いの了解の範囲を逸脱して権力を行使する」
という部分にある。
行政が学校運営に対して責任と権限を持つから,
学校運営に介入して入試停止を命じるというのは,
この範囲のロジックでは問題無く成立するかもしれない。
でも,
学校には運営する側以外にも,
その学校に在籍している人々,つまりは生徒(になりたい人も含む)がいるわけで,
行政が彼らの権利を侵害することが出来るのかというと,
仮に法的には問題がないのだとしても,
非常に慎重に考えられなければならない問題になってくる。
間に学校運営をする立場が挟まれているとはいえ,
「行政が直接的に生徒の権利を侵害しかねない行為」をしようとする時に,
つまりは権力を有する側が行動しようとして,
それに対する反論があがった時に,
権力側の都合が押し通されてしまうというのは,
まさに権利の侵害ではないのだろうか。
今回のケースに特化すると,
行政が学校の教員群に対して罰を与えようとしている。
しかし,それと同時に生徒に罰が及ぶわけで,
その時に,
無罪の人も含めて両方とも罰するのか,
有罪の人も含めて両方とも罰さないのか,
どちらの立場を取ることが望ましい姿なのか,
そこが今回の考えるべき点なのではないか。
少なくとも,
体罰を実施した教員本人は有罪である。
それを黙認した同僚教員も有罪とする方が妥当であろう。
でも,
生徒は,絶対に無罪だろう。
甘んじて暴力を受け入れていたから,それは体罰を容認している,
なんてロジックは,ありえない。
部分的な勧善懲悪のために,
誰かが傷つかねばならないなんてことは,あってはならない。
================================
権力を持つ側というのは,
権力というものが持つある種の暴力性についてよく把握し,
意図しない行為でも権力の暴力性により誰かを傷つけてしまうことに,
極めて慎重な自己査定を行わなければならない。
また,自己査定のみでは限界があるからこそ,
自ら外部監査を受け,その進言を受け入れるなど,
より慎重な権力運用に努めなければならない。
特に強大な権力を有するものは,
拳を振り下ろすことはもとより,
拳を振り上げただけで恐怖を与えること,
それはつまり発言のみでも十分に暴力的であることを自覚する必要がある。
Tweet
一方でこれに関して書くのは大変に気が重いので,
なかなか筆が進まなかったわけです。
でも「はよ書け」という要望があったので,
これから仕事をせねばならない朝ではなく,
もう寝るだけの夜に書くことにしました。
まず体罰というと,
体罰は暴力か,みたいな話になりますが,
体罰は例外なく暴力です。
相手の望まない身体への攻撃は,
そこに攻撃的な意図がなかったとしても,
そこには愛情しかなかったとしても,暴力です。
(暴力じゃないケースなんてSMプレイとか競技格闘技ぐらいです)
ここが論点になるってのが信じられないし,
これは暴力論とか体罰論とか以前の,
基本的人権の話なので,これ以上のことはありません。
ボクが体罰でイカンと思うのは,
「権力を持つ側が一方的に強制する」
っていう図式にあるわけです。
権力構造ってのは,理想的には,
その権力が及ぶ範囲について互いに了解したコミュニティ内のみで成立するもので,
生まれながらにして権力構造の中にある,ってことは,
基本的にはありえないわけです。
とはいえ,
親がそういう社会構造の中にいる以上,
どうしても生まれてきた瞬間から子供はその構造に取り込まれてしまうわけで,
だからこそ,
子供がその枠に絡め取られてしまわないために,
「大人」は「子供に教育を受けさせる義務」を負うわけですよね。
話が大きくなった風だけど,
そんなことはなくて,
本当にここが出発点だと思う。
「部活に入るってことは権力構造を了解したということだろ」
という意見があるかもしれないけど,
それが必ず正しいとは限らない。
その部活動に関する指導を受けること,
その代わりに一定の自由が奪われること,
というのは,確かにその通りだと思うし,
それについては教員と生徒の間でも(無言の)了解があると思う。
でも,
その条件の中に「暴力」が含まれているかどうかでいうと,
それは,よほど特殊な事情で言明されていない限り,含まれていない。
社会的にも,肉体的にも強い立場にいるものが,
特別な言及が無いままに暴力をふるう権限を有しているなんてことは,
ありえない。
ましてや部活動は,街の競技クラブとは違って,
学校教育の一環として行われているという建前がある以上は,
あくまで教育活動なわけで,
教育を担う人が暴力に頼るってのがありえないし,
教員が暴力をふるうことが問題というか,
そういう人が教員になれてしまうことが問題で,
教員でありつづけていられることも問題だと思う。
「そんな教員が存在し続けている環境が問題」だから,
「そんな学校は問題」という論理は,
まったくもって,その通りだと思う。
そこには同意する。
でも,
だからといって,
監督責任のある立場として,
行政が入試の停止だなんだということを命じることには,
同意できない。
同意できない理由は,
まさにここまでの体罰の話で述べてきた通りで,
「権力を持つものが互いの了解の範囲を逸脱して権力を行使する」
という部分にある。
行政が学校運営に対して責任と権限を持つから,
学校運営に介入して入試停止を命じるというのは,
この範囲のロジックでは問題無く成立するかもしれない。
でも,
学校には運営する側以外にも,
その学校に在籍している人々,つまりは生徒(になりたい人も含む)がいるわけで,
行政が彼らの権利を侵害することが出来るのかというと,
仮に法的には問題がないのだとしても,
非常に慎重に考えられなければならない問題になってくる。
間に学校運営をする立場が挟まれているとはいえ,
「行政が直接的に生徒の権利を侵害しかねない行為」をしようとする時に,
つまりは権力を有する側が行動しようとして,
それに対する反論があがった時に,
権力側の都合が押し通されてしまうというのは,
まさに権利の侵害ではないのだろうか。
今回のケースに特化すると,
行政が学校の教員群に対して罰を与えようとしている。
しかし,それと同時に生徒に罰が及ぶわけで,
その時に,
無罪の人も含めて両方とも罰するのか,
有罪の人も含めて両方とも罰さないのか,
どちらの立場を取ることが望ましい姿なのか,
そこが今回の考えるべき点なのではないか。
少なくとも,
体罰を実施した教員本人は有罪である。
それを黙認した同僚教員も有罪とする方が妥当であろう。
でも,
生徒は,絶対に無罪だろう。
甘んじて暴力を受け入れていたから,それは体罰を容認している,
なんてロジックは,ありえない。
部分的な勧善懲悪のために,
誰かが傷つかねばならないなんてことは,あってはならない。
================================
権力を持つ側というのは,
権力というものが持つある種の暴力性についてよく把握し,
意図しない行為でも権力の暴力性により誰かを傷つけてしまうことに,
極めて慎重な自己査定を行わなければならない。
また,自己査定のみでは限界があるからこそ,
自ら外部監査を受け,その進言を受け入れるなど,
より慎重な権力運用に努めなければならない。
特に強大な権力を有するものは,
拳を振り下ろすことはもとより,
拳を振り上げただけで恐怖を与えること,
それはつまり発言のみでも十分に暴力的であることを自覚する必要がある。
うちの大将と話をしていて,
「生命探査」に代表される「アストロバイオロジー」,あるいは,
「生命とは何か」
について考えていたことがクリアになってきたので記録しておく。
まずは2012年7月時点で書いた奨励賞講演の要旨を転載。
====
「生命」(life)とは活動であって「生物」(living thing)とは生命を担う物質である。このため,ある生物が生命を失ったその瞬間(というものがあるとすると),その生物は生物でなくなるが,かつて生物であった物質群はその物質群のままである。また生命は活動であるから,時間的に異なる二点の比較によって初めて検出される。このため,地球の始原生命あるいは地球外生命を考える時,つまり痕跡物質のみから生命の有無を議論せねばならない時,かつて生物であっただろう物質(複雑な有機物群)を探索することはあまり有効ではない。
====
こんなことを漠然と考えているのだけれども,
中でも重要だと思っているのが,
【生命は活動であるから,時間的に異なる二点の比較によって初めて検出される】
という部分。
この文章を書いた時点で念頭にあったのが,
「隕石に有機物が!すわ宇宙生物!」
みたいな現状の否定というか,
「生命ってそういうことじゃないだろ」
っていうアンチテーゼだったので,
かなり偏った書き方になってしまっている。
そしてそれが自縄自縛として作用していて,
自分に身近な科学分野の考え方が置き去りだった。
上記の文を読んで感じることは,
「物質というのは,本質的に時間の情報を持たない」
という安易な仮定を置いてしまっていること。
化学分析では,物質から時間の情報を取り出すことはできない。
放射性同位体による年代測定は時間の情報じゃないか,
と言われるかもしれないが,
あれは「ある時間」の情報ではあるが,
「時間的に異なる二点」の情報ではないので,
ここでの議論とは意味合いが違う。
でも,だからといって,
本当に物質には時間の情報がないのか,といえば,
そんなことは,まったくない。
たとえば海底堆積物は,
鉛直方向の空間分布が,
そのまま時間軸となって記録されているわけで,
化学分析のミクロな視点(物質)ではなく,
地質学的なマクロな視点(物質群)で見た場合,
「物質(群)は確かに時間の情報を有している」
のである。
例に出したので海洋堆積物を用いて話を進めると,
海底堆積物を単純に海洋からふりそそぐ物質の堆積物として,
つまり鉛直軸を時間軸の記録として見るのが,
古典的な海底堆積学だったのだろう。
あるいは地球化学的な視点で,
つまり海洋と物質を授受する1つのリザーバーとして,
海底堆積物を構成する物質と間隙水組成が調べられていた。
その後,
生命地球科学的な研究が進展してきたことで,
堆積物は活動的な生命活動の場として見られるようになり,
膨大な体積を有する極限環境生命圏として考えられ,
その場における生命活動自体に強い関心が持たれるようになっている。
たとえば採取した堆積物をラベルして,
代謝活性試験などを行っているわけである。
でも,
あるいは一定の生命地球科学的な海底堆積学が進捗したからこそ,
本質的な部分を見落としていたのかもしれない。
それは,ごくごく単純で,
堆積物は鉛直方向には,やはり時間の情報だということ。
海底堆積物の中で起こっていることを議論する時,
直感的な理解を助けるため,実際に合わせて,
縦軸に深さを,横軸に物質濃度をとって記載している。
しかしこれを反時計回りに90度まわしてやれば,
つまり,
横軸を深さ,縦軸を物質濃度にしてやれば,
ある物質の時間的な変化に読み替えられ,
それは堆積物をマクロな視点で一個の生物と捉えた時の,
その生物体内で起こる代謝を見ていることと等しくなる。
もちろん堆積物中では,生命活動以外にも,
物理的なモノの移動や,非生物化学反応も起こる。
しかし「物の運動」や「化学反応」は,
運動が位置と時間の関数で,
反応が元素と時間の関数で,
それらは厳密な法則に支配されていて,
理論と実際が無矛盾で説明が可能である。
だから,
理論的に予想される部分からの逸脱は,生物活動の仕業と見なせる。
もっと踏み込んで言えば,
物理運動・化学反応の法則性からの逸脱こそが「生命」なのだ。
海底堆積物の柱状試料の一部を切り取って,
生物に特異なDNAのような有機物を見つけたり,
ラベル培養で活性を取ったりしなくても,
柱状試料の化学組成の鉛直分布それ自体が「生命」の証拠なのだ。
この考え方は地球科学的な部分を取り除いても成り立つ。
まず生物がいて,
それが促進する化学反応群が生命活動で,
だから生命活動を把握することで生物の存在を把握しよう,
ということではない。
そうではなくて,
物理や化学ではどうにも説明できない化学反応(群)があれば,
それこそが生命活動であって,
仮にそれを担う物質群が存在しているならば,
それを(あるいは便宜的に)生物と呼ぼうではないか,
という考え方である。
この考え方は海底堆積物でも宇宙でも同じ事で,
つまり大事なことは,
「ある場における連続的な地質記録と物質分布の把握」
である。
研究者が議論しているもので言えば,
シーケンスとかプロファイルと呼ばれるものがインポータントなのである。
異なる時間の情報を1つの物質群の中に有するモノがあり,
そこに不自然な何かが見出されれば,
そしてそれが外的な要因が作用したものでなければ,
それこそがその場に起こった生命活動の履歴であるのだから,
まさに「生命探査」の目的を達したことになるのである。
こういうような考え方は,
もしかすると皆は当然のこととして持っているのかもしれない。
この話をすると,
「そんなん当然でしょ」
「XXがYYに書いてるじゃない」
みたいに言われるかもしれない。
それについては,本当に不勉強で申し訳ない,としか言えないです。
Tweet
「生命探査」に代表される「アストロバイオロジー」,あるいは,
「生命とは何か」
について考えていたことがクリアになってきたので記録しておく。
まずは2012年7月時点で書いた奨励賞講演の要旨を転載。
====
「生命」(life)とは活動であって「生物」(living thing)とは生命を担う物質である。このため,ある生物が生命を失ったその瞬間(というものがあるとすると),その生物は生物でなくなるが,かつて生物であった物質群はその物質群のままである。また生命は活動であるから,時間的に異なる二点の比較によって初めて検出される。このため,地球の始原生命あるいは地球外生命を考える時,つまり痕跡物質のみから生命の有無を議論せねばならない時,かつて生物であっただろう物質(複雑な有機物群)を探索することはあまり有効ではない。
====
こんなことを漠然と考えているのだけれども,
中でも重要だと思っているのが,
【生命は活動であるから,時間的に異なる二点の比較によって初めて検出される】
という部分。
この文章を書いた時点で念頭にあったのが,
「隕石に有機物が!すわ宇宙生物!」
みたいな現状の否定というか,
「生命ってそういうことじゃないだろ」
っていうアンチテーゼだったので,
かなり偏った書き方になってしまっている。
そしてそれが自縄自縛として作用していて,
自分に身近な科学分野の考え方が置き去りだった。
上記の文を読んで感じることは,
「物質というのは,本質的に時間の情報を持たない」
という安易な仮定を置いてしまっていること。
化学分析では,物質から時間の情報を取り出すことはできない。
放射性同位体による年代測定は時間の情報じゃないか,
と言われるかもしれないが,
あれは「ある時間」の情報ではあるが,
「時間的に異なる二点」の情報ではないので,
ここでの議論とは意味合いが違う。
でも,だからといって,
本当に物質には時間の情報がないのか,といえば,
そんなことは,まったくない。
たとえば海底堆積物は,
鉛直方向の空間分布が,
そのまま時間軸となって記録されているわけで,
化学分析のミクロな視点(物質)ではなく,
地質学的なマクロな視点(物質群)で見た場合,
「物質(群)は確かに時間の情報を有している」
のである。
例に出したので海洋堆積物を用いて話を進めると,
海底堆積物を単純に海洋からふりそそぐ物質の堆積物として,
つまり鉛直軸を時間軸の記録として見るのが,
古典的な海底堆積学だったのだろう。
あるいは地球化学的な視点で,
つまり海洋と物質を授受する1つのリザーバーとして,
海底堆積物を構成する物質と間隙水組成が調べられていた。
その後,
生命地球科学的な研究が進展してきたことで,
堆積物は活動的な生命活動の場として見られるようになり,
膨大な体積を有する極限環境生命圏として考えられ,
その場における生命活動自体に強い関心が持たれるようになっている。
たとえば採取した堆積物をラベルして,
代謝活性試験などを行っているわけである。
でも,
あるいは一定の生命地球科学的な海底堆積学が進捗したからこそ,
本質的な部分を見落としていたのかもしれない。
それは,ごくごく単純で,
堆積物は鉛直方向には,やはり時間の情報だということ。
海底堆積物の中で起こっていることを議論する時,
直感的な理解を助けるため,実際に合わせて,
縦軸に深さを,横軸に物質濃度をとって記載している。
しかしこれを反時計回りに90度まわしてやれば,
つまり,
横軸を深さ,縦軸を物質濃度にしてやれば,
ある物質の時間的な変化に読み替えられ,
それは堆積物をマクロな視点で一個の生物と捉えた時の,
その生物体内で起こる代謝を見ていることと等しくなる。
もちろん堆積物中では,生命活動以外にも,
物理的なモノの移動や,非生物化学反応も起こる。
しかし「物の運動」や「化学反応」は,
運動が位置と時間の関数で,
反応が元素と時間の関数で,
それらは厳密な法則に支配されていて,
理論と実際が無矛盾で説明が可能である。
だから,
理論的に予想される部分からの逸脱は,生物活動の仕業と見なせる。
もっと踏み込んで言えば,
物理運動・化学反応の法則性からの逸脱こそが「生命」なのだ。
海底堆積物の柱状試料の一部を切り取って,
生物に特異なDNAのような有機物を見つけたり,
ラベル培養で活性を取ったりしなくても,
柱状試料の化学組成の鉛直分布それ自体が「生命」の証拠なのだ。
この考え方は地球科学的な部分を取り除いても成り立つ。
まず生物がいて,
それが促進する化学反応群が生命活動で,
だから生命活動を把握することで生物の存在を把握しよう,
ということではない。
そうではなくて,
物理や化学ではどうにも説明できない化学反応(群)があれば,
それこそが生命活動であって,
仮にそれを担う物質群が存在しているならば,
それを(あるいは便宜的に)生物と呼ぼうではないか,
という考え方である。
この考え方は海底堆積物でも宇宙でも同じ事で,
つまり大事なことは,
「ある場における連続的な地質記録と物質分布の把握」
である。
研究者が議論しているもので言えば,
シーケンスとかプロファイルと呼ばれるものがインポータントなのである。
異なる時間の情報を1つの物質群の中に有するモノがあり,
そこに不自然な何かが見出されれば,
そしてそれが外的な要因が作用したものでなければ,
それこそがその場に起こった生命活動の履歴であるのだから,
まさに「生命探査」の目的を達したことになるのである。
こういうような考え方は,
もしかすると皆は当然のこととして持っているのかもしれない。
この話をすると,
「そんなん当然でしょ」
「XXがYYに書いてるじゃない」
みたいに言われるかもしれない。
それについては,本当に不勉強で申し訳ない,としか言えないです。
とある友人が下記のつぶやきをしていました。
「人材育成については様々なところで以前より議論されていますが、私の理解では、そういった枠組みでは実質的に人材を育成することになる「取り巻く環境」まで変えることが難しいところが共通する課題です。もちろん、時代は変わりつつあると思いますが。」
まったくもってその通りだと思います。
(ボクの理解が彼の言わんとするところと合致していれば,ですが)
ナンタラ委員会やらナンタラ部会やらで理念やプランを話し合っても,
それが実践にまで落とし込まれることは多くなく,
むしろ実践に落とし込めることしか実施しない,というのが,
実態に近いのではないかと思います。
というか,
それ以前の問題でもあると言えましょう。
それはつまり,
「育成」というものが,
「いまだかつてメソッドとして確立されたことのないものである」ということです。
ここでいう「メソッド」ってのは,
人材育成をしようとする組織の組織人が共有するもののことで,
まぁ意識でも実質的なカリキュラムでも,どちらでもかまいません。
とにかく,
「メソッドがない」のに,
「メソッドの確立」より先に,
「実施」がうたわれているというのが,
いつまでたっても同じ議論を繰り返している根源的な理由だと思うわけです。
さらに踏み込んで,もっと言ってしまえば,
「人材育成」なんてものは,
そもそもメソッドに落とし込めるようなものではないのですよ。
育てようとする側も育つ側も,
それぞれがそれぞれ,百人が百個の人格であり,
それを高等教育段階で十把一絡げに扱おうなんていうのが,
ナンセンスなのです。
というようなことを踏まえると,
「研究業界の人材育成」の実態は,
いわゆる「良い人材」をいかに研究業界に流入させるか,という,
つまりは「育成」ではなく「発掘」「確保」なのでありましょう。
この部分についても古い議論で,
「とにかく院生を大量に集めて良いものをピックアップ」ということと,
「研究者の仕事としての魅力をアピールして優秀な人材を確保」というふたつが,
大体の場合の結論として出てきます。
しかしそれがうまく機能していないことも事実で,
前者については,
確保したい人材を確保した後の,
「人材以外の卒業生」をどうやって「処分」するかという問題があり,
それは実際に起こっている「ポスドク問題」が何よりの証拠です。
後者については,
「人材」はオリコウサンなので,
「ポスドク問題」みたいなものがあるブラックな業界を敬遠し,
華やかでサラリーの高い一流民間企業を指向していきます。
人材育成の大体の現状は,こんな感じだと思います。
では現実問題として,今後どうすれば良いのか。
大事なことは,
冒頭の友人氏の指摘するところの,
[実質的に人材を育成することになる「取り巻く環境」まで変える]
ということです。
ボクの提案は,
・研究業界で働く人数の増加
・研究業界内での職種の多様化
・各職種の専門性強化と職種間の階層(意識)の排除
です。
「研究業界で働く人数の増加」というのは,
先の人材確保論で述べたように,
全体の人数が多ければ,確率的に出現する人材の数が増加するということです。
「研究業界内での職種の多様化」というのは,
技術や事務,広報といった支援職を,
パートタイムではなく正規の職種として設定することです。
・各職種の専門性強化と職種間の階層(意識)の排除
たとえば技術職は「研究者くずれ」ではなく,
「技術専門職」であるというような専門性の確立です。
意外と根深い問題だと思っています。
こうすることで,
院生を大量にしても「自前で」「人材以外」を「処分」出来るので,
「業界のブラックさ」は解消に向かい,
「研究者」という職種の魅力も向上するのではないでしょうか。
というようなことを,
細かいことはすべてすっ飛ばして考えると,
一番の問題は,
財源の確保です。
そこですぐに「だからパイを大きくしろ」と訴えるから,
いつまでたっても同じ場所にいるんだと思います。
パイの切り分け方で解決しようじゃないですか,と。
研究機器のシェアだとか,
時間の配分だとか,
あるいは給与水準だとか,
そういう部分を工夫して,
「個々の研究/私生活の実体的な実入り」は悪くなるかもしれないけども,
「人材が流入する」とか「いわゆる雑用が減る」とか,
「業界がハッピーになる」ということでは,
納得できないものでしょうかね。
「いいからオレにカネをよこせ」
って皆が言ってる現状では,
何をどう議論したって,
人材育成なんてうまくいきませんよ。
ってか,
「いいからオレにカネをよこせ」
みたいな思想の人が,
「人材育成」によって生み出されると思うと,
グッタリしてしまいますね。
またグダグダしちゃった。
Tweet
「人材育成については様々なところで以前より議論されていますが、私の理解では、そういった枠組みでは実質的に人材を育成することになる「取り巻く環境」まで変えることが難しいところが共通する課題です。もちろん、時代は変わりつつあると思いますが。」
まったくもってその通りだと思います。
(ボクの理解が彼の言わんとするところと合致していれば,ですが)
ナンタラ委員会やらナンタラ部会やらで理念やプランを話し合っても,
それが実践にまで落とし込まれることは多くなく,
むしろ実践に落とし込めることしか実施しない,というのが,
実態に近いのではないかと思います。
というか,
それ以前の問題でもあると言えましょう。
それはつまり,
「育成」というものが,
「いまだかつてメソッドとして確立されたことのないものである」ということです。
ここでいう「メソッド」ってのは,
人材育成をしようとする組織の組織人が共有するもののことで,
まぁ意識でも実質的なカリキュラムでも,どちらでもかまいません。
とにかく,
「メソッドがない」のに,
「メソッドの確立」より先に,
「実施」がうたわれているというのが,
いつまでたっても同じ議論を繰り返している根源的な理由だと思うわけです。
さらに踏み込んで,もっと言ってしまえば,
「人材育成」なんてものは,
そもそもメソッドに落とし込めるようなものではないのですよ。
育てようとする側も育つ側も,
それぞれがそれぞれ,百人が百個の人格であり,
それを高等教育段階で十把一絡げに扱おうなんていうのが,
ナンセンスなのです。
というようなことを踏まえると,
「研究業界の人材育成」の実態は,
いわゆる「良い人材」をいかに研究業界に流入させるか,という,
つまりは「育成」ではなく「発掘」「確保」なのでありましょう。
この部分についても古い議論で,
「とにかく院生を大量に集めて良いものをピックアップ」ということと,
「研究者の仕事としての魅力をアピールして優秀な人材を確保」というふたつが,
大体の場合の結論として出てきます。
しかしそれがうまく機能していないことも事実で,
前者については,
確保したい人材を確保した後の,
「人材以外の卒業生」をどうやって「処分」するかという問題があり,
それは実際に起こっている「ポスドク問題」が何よりの証拠です。
後者については,
「人材」はオリコウサンなので,
「ポスドク問題」みたいなものがあるブラックな業界を敬遠し,
華やかでサラリーの高い一流民間企業を指向していきます。
人材育成の大体の現状は,こんな感じだと思います。
では現実問題として,今後どうすれば良いのか。
大事なことは,
冒頭の友人氏の指摘するところの,
[実質的に人材を育成することになる「取り巻く環境」まで変える]
ということです。
ボクの提案は,
・研究業界で働く人数の増加
・研究業界内での職種の多様化
・各職種の専門性強化と職種間の階層(意識)の排除
です。
「研究業界で働く人数の増加」というのは,
先の人材確保論で述べたように,
全体の人数が多ければ,確率的に出現する人材の数が増加するということです。
「研究業界内での職種の多様化」というのは,
技術や事務,広報といった支援職を,
パートタイムではなく正規の職種として設定することです。
・各職種の専門性強化と職種間の階層(意識)の排除
たとえば技術職は「研究者くずれ」ではなく,
「技術専門職」であるというような専門性の確立です。
意外と根深い問題だと思っています。
こうすることで,
院生を大量にしても「自前で」「人材以外」を「処分」出来るので,
「業界のブラックさ」は解消に向かい,
「研究者」という職種の魅力も向上するのではないでしょうか。
というようなことを,
細かいことはすべてすっ飛ばして考えると,
一番の問題は,
財源の確保です。
そこですぐに「だからパイを大きくしろ」と訴えるから,
いつまでたっても同じ場所にいるんだと思います。
パイの切り分け方で解決しようじゃないですか,と。
研究機器のシェアだとか,
時間の配分だとか,
あるいは給与水準だとか,
そういう部分を工夫して,
「個々の研究/私生活の実体的な実入り」は悪くなるかもしれないけども,
「人材が流入する」とか「いわゆる雑用が減る」とか,
「業界がハッピーになる」ということでは,
納得できないものでしょうかね。
「いいからオレにカネをよこせ」
って皆が言ってる現状では,
何をどう議論したって,
人材育成なんてうまくいきませんよ。
ってか,
「いいからオレにカネをよこせ」
みたいな思想の人が,
「人材育成」によって生み出されると思うと,
グッタリしてしまいますね。
またグダグダしちゃった。
年始の宴会を過ぎた頃からダイエットをはじめた。
動機は色々とあって,もう一度フルマラソンとか,体質の改善とか,
まぁとにかく太り気味で醜かったことは間違いないのでやってみた。
やったことは,
体重と食事内容を朝晩に記録する,夕食は炭水化物を抜く,の2点。
夕食の茶碗に白米を盛るかわりに冷や奴を盛って,それ以外は普通の食事。
間食は控え,朝食のコンビニパンもやめ,牛丼や弁当にした。
2月末時点で86から70まで16キロも落ちて,あとはそのまま今に至る。
体重の数字はさておき,体型は完全に変わった。
脂肪とともに筋肉も落ちたようで,体感的には衰えた。
痩せたことで体質が今まで以上に繊細になった。
酒でも船でも酔いやすくなったし,すぐに胃が痛くなるようになった。
今までが鈍感だったと考えれば,
これも改善と捉えられるのかもしれないけど。
肉体的には疲労の回復が遅くなった。
痩せていきながら筋肉をつけるべきだったが,何もしないまま。
2013年は簡単なトレーニングを日々続けようと思う。
あとは飲食習慣の改善。
東洋医学的に見てボクの症状は「冷・甘・水」が過剰で,
特に消化器系の内臓機能が低下している状態らしい。
中国整体のオッサンに言うには,
「生活習慣病は,生活習慣から病気になることではなくて,
そんな生活習慣が常態化していること自体がそもそも病気」らしい。
ということで,
最大悪とされるコーラ・ビールはもとより,
ケーキやチョコなどの加工砂糖製品もダメとのこと。
良い代替品を模索していかねばならないが,
とりあえず2013年は「冷・甘・水」を控える生活にしてみよう。
職業的には1月に面接をして3月にポスドクではない研究員になった。
いわゆる「読売グループ内の人事異動」もあって所属はかわったが,
仕事をする上では何も変化がないまま。
2012年は首席2回以外は航海に行っていない。D3以来の少なさ。
さらにコバヤシさんも卒業,コンノの加入もあって,
実験とか観測とかいう意味では本当に何もしていない1年だった。
その割には論文が出たわけでもなく,本当に何をしていたのかわからない。
6月に息子がうまれ7月から家族4人での生活をはじめた。
これまで目覚ましを使わず朝起きたらそのまま出勤する生活だったが,
朝は子供たちとご飯を食べてお風呂に入れてからの出勤になった。
朝のフレッシュな頭で仕事に向かうことが出来なくなった。
家庭内に書斎を作ろうと模索もしたが,
そもそも家で勉強や仕事をする習慣が無いし,
時間的な制約が大きくてうまく機能しなかった。
さらに子供が2人になると,母親1人ではカバー出来ないことが多く,
なにかと家庭的な任務に従事せねばならなくなった。
そんな生活をする中で,
核家族・専業主婦という形態に対する疑問が前よりも深まり,
精神的にしんどくなってきた。
自分が一人で家族を養うだけのカネを稼がねばならない中で,
その自分がカネを稼ぐ意味の仕事に従事できないというのは,
どう考えても矛盾に満ちていて,自分の現状に対して納得が出来ない。
何をもって家族なのかとか考え出すとキリがないので,
今に至ってなお悶々としながらの生活が続いている。
研究を続けること自体に対する罪悪感も日に日に増してきている。
科学が人の生活を豊かにするとしても,
やはり負の側面みたいなものもあって,
だから,
大勢で必死になってスピードをあげて取り組むものじゃないと思う。
科学の本質的な部分を考えると,
ってそれが何なのかは明確には言えないのだけれども,
「ゆっくりで良いじゃない」
「立ち止まって考えて,また歩き出せば良いじゃない」
と思っている。
でも今の科学業界は競争原理ばかりで,
科学の負の側面に気付きながらも,それを「必要悪」と言い張っている。
ボクの中にそれを「下品」と感じる部分があって,
そういうところから距離を置きたいと考えている。
とか言いながら,
当面の自分の生活のための稼ぎを得るために科学を続けていて,
そういう自分も下品だなぁと思っている。
政治や経済や社会の諸々をながめていて,
実質的な意味での教育の不調を感じる。
それは先に言った科学の負の側面に対する態度も含まれるけど,
日本人の知性や態度が,かなり危険な水域にきていると思う。
そう考えた時に,
教育という部分に自分が携わるべきなんじゃないか,
という気持ちが強い。
家庭内の教育,学校教員としての教育,それ以外の方法での教育。
今一番現実的な選択肢である,
「自身の子供と暮らしながら大学教員」
というのが,
自分が関わることができる人間の数と強度を考えた時に,
果たして最適解なのかどうか,と悩む。
ものすごく身近にいる人に対して,
かなり強い強度で話をしても伝わっていないということがあったり,
逆にパッと会って話しただけで感じ入っていたり,
その辺りは判断が難しい。
極論的には,
家庭的な密着感で双方向性を重視するのか,
マスに対して投げっぱなしでいくのか,になるのかな。
ボクは「ああせい,こうせい」というのは極力言わないで,
「自分はこう考えている」「お前はどう考えているんだ」
というスタンスで他人と接するようにしている(つもり)。
でも,ボクがボクの意見を伝えた時に,
それを強要や強制や絶対解みたいに受け取られることが多くて,困る。
これまた悩ましい。
細かいところのあれこれはさておき,
つまるところ現実的な落としどころとしては,
「科学研究をしない大学教員」になりたいわけです。
理想的には「私塾」なのだけれども,
そうなると家族の問題がまたしても浮上したりして,
ぐるぐるしてしまいます。
2013年は,
「消費型科学研究からの脱却」とか,
「高等教育の理想と実践」とか,
そういうようなものを模索していくってことになるんだろうか。
まぁ,ゆっくりやっていこう。
Tweet
動機は色々とあって,もう一度フルマラソンとか,体質の改善とか,
まぁとにかく太り気味で醜かったことは間違いないのでやってみた。
やったことは,
体重と食事内容を朝晩に記録する,夕食は炭水化物を抜く,の2点。
夕食の茶碗に白米を盛るかわりに冷や奴を盛って,それ以外は普通の食事。
間食は控え,朝食のコンビニパンもやめ,牛丼や弁当にした。
2月末時点で86から70まで16キロも落ちて,あとはそのまま今に至る。
体重の数字はさておき,体型は完全に変わった。
脂肪とともに筋肉も落ちたようで,体感的には衰えた。
痩せたことで体質が今まで以上に繊細になった。
酒でも船でも酔いやすくなったし,すぐに胃が痛くなるようになった。
今までが鈍感だったと考えれば,
これも改善と捉えられるのかもしれないけど。
肉体的には疲労の回復が遅くなった。
痩せていきながら筋肉をつけるべきだったが,何もしないまま。
2013年は簡単なトレーニングを日々続けようと思う。
あとは飲食習慣の改善。
東洋医学的に見てボクの症状は「冷・甘・水」が過剰で,
特に消化器系の内臓機能が低下している状態らしい。
中国整体のオッサンに言うには,
「生活習慣病は,生活習慣から病気になることではなくて,
そんな生活習慣が常態化していること自体がそもそも病気」らしい。
ということで,
最大悪とされるコーラ・ビールはもとより,
ケーキやチョコなどの加工砂糖製品もダメとのこと。
良い代替品を模索していかねばならないが,
とりあえず2013年は「冷・甘・水」を控える生活にしてみよう。
職業的には1月に面接をして3月にポスドクではない研究員になった。
いわゆる「読売グループ内の人事異動」もあって所属はかわったが,
仕事をする上では何も変化がないまま。
2012年は首席2回以外は航海に行っていない。D3以来の少なさ。
さらにコバヤシさんも卒業,コンノの加入もあって,
実験とか観測とかいう意味では本当に何もしていない1年だった。
その割には論文が出たわけでもなく,本当に何をしていたのかわからない。
6月に息子がうまれ7月から家族4人での生活をはじめた。
これまで目覚ましを使わず朝起きたらそのまま出勤する生活だったが,
朝は子供たちとご飯を食べてお風呂に入れてからの出勤になった。
朝のフレッシュな頭で仕事に向かうことが出来なくなった。
家庭内に書斎を作ろうと模索もしたが,
そもそも家で勉強や仕事をする習慣が無いし,
時間的な制約が大きくてうまく機能しなかった。
さらに子供が2人になると,母親1人ではカバー出来ないことが多く,
なにかと家庭的な任務に従事せねばならなくなった。
そんな生活をする中で,
核家族・専業主婦という形態に対する疑問が前よりも深まり,
精神的にしんどくなってきた。
自分が一人で家族を養うだけのカネを稼がねばならない中で,
その自分がカネを稼ぐ意味の仕事に従事できないというのは,
どう考えても矛盾に満ちていて,自分の現状に対して納得が出来ない。
何をもって家族なのかとか考え出すとキリがないので,
今に至ってなお悶々としながらの生活が続いている。
研究を続けること自体に対する罪悪感も日に日に増してきている。
科学が人の生活を豊かにするとしても,
やはり負の側面みたいなものもあって,
だから,
大勢で必死になってスピードをあげて取り組むものじゃないと思う。
科学の本質的な部分を考えると,
ってそれが何なのかは明確には言えないのだけれども,
「ゆっくりで良いじゃない」
「立ち止まって考えて,また歩き出せば良いじゃない」
と思っている。
でも今の科学業界は競争原理ばかりで,
科学の負の側面に気付きながらも,それを「必要悪」と言い張っている。
ボクの中にそれを「下品」と感じる部分があって,
そういうところから距離を置きたいと考えている。
とか言いながら,
当面の自分の生活のための稼ぎを得るために科学を続けていて,
そういう自分も下品だなぁと思っている。
政治や経済や社会の諸々をながめていて,
実質的な意味での教育の不調を感じる。
それは先に言った科学の負の側面に対する態度も含まれるけど,
日本人の知性や態度が,かなり危険な水域にきていると思う。
そう考えた時に,
教育という部分に自分が携わるべきなんじゃないか,
という気持ちが強い。
家庭内の教育,学校教員としての教育,それ以外の方法での教育。
今一番現実的な選択肢である,
「自身の子供と暮らしながら大学教員」
というのが,
自分が関わることができる人間の数と強度を考えた時に,
果たして最適解なのかどうか,と悩む。
ものすごく身近にいる人に対して,
かなり強い強度で話をしても伝わっていないということがあったり,
逆にパッと会って話しただけで感じ入っていたり,
その辺りは判断が難しい。
極論的には,
家庭的な密着感で双方向性を重視するのか,
マスに対して投げっぱなしでいくのか,になるのかな。
ボクは「ああせい,こうせい」というのは極力言わないで,
「自分はこう考えている」「お前はどう考えているんだ」
というスタンスで他人と接するようにしている(つもり)。
でも,ボクがボクの意見を伝えた時に,
それを強要や強制や絶対解みたいに受け取られることが多くて,困る。
これまた悩ましい。
細かいところのあれこれはさておき,
つまるところ現実的な落としどころとしては,
「科学研究をしない大学教員」になりたいわけです。
理想的には「私塾」なのだけれども,
そうなると家族の問題がまたしても浮上したりして,
ぐるぐるしてしまいます。
2013年は,
「消費型科学研究からの脱却」とか,
「高等教育の理想と実践」とか,
そういうようなものを模索していくってことになるんだろうか。
まぁ,ゆっくりやっていこう。
論文には「英語の文法」以上に,
「論文としての体裁的な文法」ってのがある。
「型」みたいなもの。
パラグラフの構成,パラグラフ内の文の構成。
どんな論文でも,
たいていは一定の型にはまった中で,
それぞれの主張を展開しているわけで,
たくさん読んでそれを骨身に染み渡らせておけば,
論文を書くこと自体はそこまで苦痛にならないはず。
はず,というのは,
自分がいまだその境地に到達できていないから。
わかっちゃいるんだけど,
書き出すとダメになってしまう。
論文を読む習慣をつけないとね。
このサイエンスの世界で,
今すべき研究テーマみたいなものは,
もう何も考えなくてもどうにかなるところまできているから。
読もうね。
研究を続けるのなら。
Tweet
「論文としての体裁的な文法」ってのがある。
「型」みたいなもの。
パラグラフの構成,パラグラフ内の文の構成。
どんな論文でも,
たいていは一定の型にはまった中で,
それぞれの主張を展開しているわけで,
たくさん読んでそれを骨身に染み渡らせておけば,
論文を書くこと自体はそこまで苦痛にならないはず。
はず,というのは,
自分がいまだその境地に到達できていないから。
わかっちゃいるんだけど,
書き出すとダメになってしまう。
論文を読む習慣をつけないとね。
このサイエンスの世界で,
今すべき研究テーマみたいなものは,
もう何も考えなくてもどうにかなるところまできているから。
読もうね。
研究を続けるのなら。
将来を悩んだってはじまらないのだ。
今,目の前のことをやるしかないのだ。
そういう言葉ってのは,
ある意味で救いで,
あるいは逃げ道を用意してくれているわけで。
じゃあ他ならぬお前がすることは,
むこうから流れ着いたものを処理するだけなのかい,ってことで,
悩ましい。
悩ましい日々。
困った。
Tweet
今,目の前のことをやるしかないのだ。
そういう言葉ってのは,
ある意味で救いで,
あるいは逃げ道を用意してくれているわけで。
じゃあ他ならぬお前がすることは,
むこうから流れ着いたものを処理するだけなのかい,ってことで,
悩ましい。
悩ましい日々。
困った。
要領よく勉強してそれなりに良い大学に入り,
大学では授業もそこそこにサークル活動を謳歌し,
研究室に配属されてからは先生の言うことをよく聞き,
若手の会などにいそしみつつ,
「この仕事を終えたら」と言いつつドクターに進み,
学振DCをもらい周囲からも優秀と言われ,
無事学位を取得し特任助教などになり,
引き返せなくなり教員職にたくさんアプライして,
どこかの教員に採用される。
って考えて,
そんなやつが大学教員なのかと思う。
もちろん,あくまで悲観的に妄想した場合の一例。
Tweet
大学では授業もそこそこにサークル活動を謳歌し,
研究室に配属されてからは先生の言うことをよく聞き,
若手の会などにいそしみつつ,
「この仕事を終えたら」と言いつつドクターに進み,
学振DCをもらい周囲からも優秀と言われ,
無事学位を取得し特任助教などになり,
引き返せなくなり教員職にたくさんアプライして,
どこかの教員に採用される。
って考えて,
そんなやつが大学教員なのかと思う。
もちろん,あくまで悲観的に妄想した場合の一例。
教員という身分をえたものであれば,
教育というモノについては誰しもが,
「かくあるべし」
というような考えがあるのだろうと思う。
でもその「かくあるべし」が本当に理想的なモノなのか。
もちろん教育には絶対解などないのだけれども。
いま現在の実態として,
まず個人が自身の人生キャリアとして,
自身が「教員になる」ことが先立っていて,
あくまで「教育かくあるべし」はその後付けであったり,
あるいは方便でしかなかったり,
そういうことはないだろうか。
小中高の教員の場合は,
教育=教員なので,
その思いや技術の質は横に置いておいたとしても,
あくまで教員と教育は強く結びついているように思われる。
大学教員公募は,
その実態が一般の大学生にはまったく知られていないだろうけど,
基本的には教育能力・資金獲得能力などが審査されており,
教育方針や教育技術といった部分はほとんど問われない。
そうして選らばれた人が教員になり,大学教育を担う。
そんな教員に学ぶところが,大学なのである。
研究を大学の存在意義の第一義とするならば,
それでも問題はないのかもしれない。
でもやはり「教育大学」とか言い出すと,
この部分は大問題になってくる。
もう「最先端の研究を通じた教育」というのは詭弁ですらなくなる。
どうするの?
Tweet
教育というモノについては誰しもが,
「かくあるべし」
というような考えがあるのだろうと思う。
でもその「かくあるべし」が本当に理想的なモノなのか。
もちろん教育には絶対解などないのだけれども。
いま現在の実態として,
まず個人が自身の人生キャリアとして,
自身が「教員になる」ことが先立っていて,
あくまで「教育かくあるべし」はその後付けであったり,
あるいは方便でしかなかったり,
そういうことはないだろうか。
小中高の教員の場合は,
教育=教員なので,
その思いや技術の質は横に置いておいたとしても,
あくまで教員と教育は強く結びついているように思われる。
大学教員公募は,
その実態が一般の大学生にはまったく知られていないだろうけど,
基本的には教育能力・資金獲得能力などが審査されており,
教育方針や教育技術といった部分はほとんど問われない。
そうして選らばれた人が教員になり,大学教育を担う。
そんな教員に学ぶところが,大学なのである。
研究を大学の存在意義の第一義とするならば,
それでも問題はないのかもしれない。
でもやはり「教育大学」とか言い出すと,
この部分は大問題になってくる。
もう「最先端の研究を通じた教育」というのは詭弁ですらなくなる。
どうするの?
尖閣の問題と,
在沖縄米軍の問題と,
それぞれを考えてみる。
尖閣は,
中国としては,
周辺海域の資源が目的,
日本としては,
「日本の領土が奪われる」ことが問題。
在沖縄米軍は,
米軍としては,
中・朝・露に睨みの効く地理的要因と,
在外米軍維持による経済効果が目的。
日本としては,
事故事件など地元民の生活環境が悪いという問題と,
国内に米軍がいるという問題。
そう考えると,
「尖閣国有化」とか,
「国外,最低でも県外」とか,
なんか大事な部分を外しているように思うわけで。
諸々の問題を解決できる方策として,
禁じ手無しとして色々と考えて,
EU設立にならったりして,
かわぐちかいじの「太陽の黙示録」にも影響を受けたりして,
考えてみた。
【台沖亜連】構想
骨子としては,
・台湾と沖縄諸島を統合し独立国とする
・国連もしくはEUのアジア版(亜連)の本部を置く
というもの。
頭文字で【台沖亜連】たいちゅーあれん
三方一両損的に,
・中国は台湾の独立を承認
・日本は沖縄を失う
・米国は在沖米軍を失う
という側面も。
「沖縄に生活している人の心情を」とかいうのは,
ちょっと先送り。
あくまでシステム論というか,
本当の意味での机上の空論というか,
そういうもの。
現地の人の心情は,現地の人にしかわからないので,
「ヒドイ」とも「飲み込め」とも言えない。
だからそこは本論では考慮しない。
新しく出来る国(台沖)は,
・国の本体は現台湾がベース
・現沖縄本当に亜連本部などを設置
・周辺海域資源・IT・環太平洋物流拠点・観光などで経済活動。
・周辺海域での漁業は自国内消費に留め,黒潮/東シナ生態系の保護区に
・現米軍基地の譲渡を受け台沖自衛隊の拠点に,武装するも非戦(スイス式?)
などを想定し,軍事的/経済的/外向的な緩衝地帯となる。
亜連は,
・常任理事国に拒否権を与えず,日中が常任理事国入り
・常任理事国に拒否権を与えるが,日中は常任理事国に入らない
など,日中で影響力を等しくしておく。
中国は台湾と東シナ資源を失うも,
太平洋への航路から日本がいなくなるという利点が。
日本は在日米軍問題が(現地問題としてではなく国家間問題としてのみ)解決し,
対中尖閣問題も争点から消失。
米国は新たな経済マーケットとして利用すれば良い。
(台沖は一次産業が弱く,三次産業・輸入依存となるため)
まさに机上の空論だけど,
たとえば20年後の世界を想定すると,
こういうことを考える方がリアリスティックなんじゃないか,
と考えたりするわけです。
Tweet
在沖縄米軍の問題と,
それぞれを考えてみる。
尖閣は,
中国としては,
周辺海域の資源が目的,
日本としては,
「日本の領土が奪われる」ことが問題。
在沖縄米軍は,
米軍としては,
中・朝・露に睨みの効く地理的要因と,
在外米軍維持による経済効果が目的。
日本としては,
事故事件など地元民の生活環境が悪いという問題と,
国内に米軍がいるという問題。
そう考えると,
「尖閣国有化」とか,
「国外,最低でも県外」とか,
なんか大事な部分を外しているように思うわけで。
諸々の問題を解決できる方策として,
禁じ手無しとして色々と考えて,
EU設立にならったりして,
かわぐちかいじの「太陽の黙示録」にも影響を受けたりして,
考えてみた。
【台沖亜連】構想
骨子としては,
・台湾と沖縄諸島を統合し独立国とする
・国連もしくはEUのアジア版(亜連)の本部を置く
というもの。
頭文字で【台沖亜連】たいちゅーあれん
三方一両損的に,
・中国は台湾の独立を承認
・日本は沖縄を失う
・米国は在沖米軍を失う
という側面も。
「沖縄に生活している人の心情を」とかいうのは,
ちょっと先送り。
あくまでシステム論というか,
本当の意味での机上の空論というか,
そういうもの。
現地の人の心情は,現地の人にしかわからないので,
「ヒドイ」とも「飲み込め」とも言えない。
だからそこは本論では考慮しない。
新しく出来る国(台沖)は,
・国の本体は現台湾がベース
・現沖縄本当に亜連本部などを設置
・周辺海域資源・IT・環太平洋物流拠点・観光などで経済活動。
・周辺海域での漁業は自国内消費に留め,黒潮/東シナ生態系の保護区に
・現米軍基地の譲渡を受け台沖自衛隊の拠点に,武装するも非戦(スイス式?)
などを想定し,軍事的/経済的/外向的な緩衝地帯となる。
亜連は,
・常任理事国に拒否権を与えず,日中が常任理事国入り
・常任理事国に拒否権を与えるが,日中は常任理事国に入らない
など,日中で影響力を等しくしておく。
中国は台湾と東シナ資源を失うも,
太平洋への航路から日本がいなくなるという利点が。
日本は在日米軍問題が(現地問題としてではなく国家間問題としてのみ)解決し,
対中尖閣問題も争点から消失。
米国は新たな経済マーケットとして利用すれば良い。
(台沖は一次産業が弱く,三次産業・輸入依存となるため)
まさに机上の空論だけど,
たとえば20年後の世界を想定すると,
こういうことを考える方がリアリスティックなんじゃないか,
と考えたりするわけです。