自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
まずはアトランティス騒動のニュースをNHKから引用。
-----------------------------
(略)
現地調査のリーダーで、海洋研究開発機構の北里洋さんは「実際に潜水調査船に乗って、海底で花こう岩を確認できたときはとても驚き、感激した。伝説のアトランティスとは出来た年代が異なるようだが、大西洋に『大陸のかけら』を見つけた、意義のある発見だと思う」と話しています。
(略)
-----------------------------
ボクが聞いた範囲の調査概要は,
昔,ブラジル沖でドレッジをして,花崗岩が採れたことがあった。
でも転石かもしれないから,今回,そこに潜航してみた。
そしたら花崗岩の露頭が見つかった。
海で出来ないはずの花崗岩帯が海底にあったということは,
・かつて大陸だったものが,
・大陸と分断して,
・海に沈んで,
存在しているということで,
科学的に非常に意義深い観察結果である。
今後,岩石の化学分析をすることで成因・生成年代が明らかになるだろう。
ということです。
これに対してアトランティスをWikipediaから引用すると,,,,
『アトランティスは、古代ギリシアの哲学者プラトンが著書の中で記述した、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことである。強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。』
『プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。』
ということです。
それはさておき,
うちの研究所の研究者が「アトランティスとかいう妄想」を言ったとか,言わないとか,
そういう部分でごちゃごちゃ言ってる人もいるようですが,
まず基本に立ち返って考えるべきだと思います。
そもそも,
科学研究の一義的なモチベーションは,何かを知りたいという欲求なんですよね。
「これってなんだろう」ってことです。
その後に続く感情としては,
「もしかして,アレかな?」ってことでしょう。
「科学的に考えましょう」ってのは,
そういう個人個人が「アレかな?コレかな?」とか言っていると,
いつまでたっても知識が蓄積しないから,
皆が共有できる形で対象を評価して記述していきましょう,ってことだと思う。
そう考えると,
海底がどうなってるか知りたくって,
実際に海底に潜ってみて花崗岩の露頭を見つけ,
「これはアトランティスかもしれん!」って思うことは,
もっと踏み込んで言えばそう外に向けて発言することまでもが,
立派な調査の一部なのではないか,
ということなんです。
「知りたい欲求の発露」「行動」「感覚的理解」「科学的裏付け」
の順に調査が進むのだから,
別に「アトランティスや!」って言っても,
何の問題もないですよね。
今回の騒動の問題をあえていうなら,
「感覚的理解」である「アトランティスや!」と,
「科学的裏付け」が分離されてないことなんじゃないかな。
なんせ,
「アトランティス」自体がそもそも「科学的」でないんだから,
そこに「科学」を持ち出して「年代が違う」とか言って火消しにはしるのは,
かえってアホを露呈していると思うわけです。
そんなわけで,
世間が盛り上がって,
会社の名も下げず,
エセ科学のそしりを受けない文例を考えてみました。
「わたしは露頭を目にした瞬間,『これはプラトンの言ったアトランティスだ!』と感じた。
それは潜って見た人間にしか感じられない「啓示」のようなものだった。
もちろんプラトンの言うアトランティスの存在に科学的根拠はない。
わたしがブラジル沖で見たものが何であったかは,今後の分析が明らかにしてくれるだろう。
しかし,あえて言いたい。
「アトランティスを見た!」と。」
ぐらいでしょうか。
一般公開向けに,ワンピースネタでも考えてみました。
「わたしの名前はヒロシ・D・キタザト。
普段,Dを名乗ることはない。
それはDを継ぐ者だけが知る存在を世間に知られぬためである。
わたしの祖父も生涯,Dを名乗ることはなかった。
しかしいま,QUELLE2013の名をかり,しんかい6500がパンドラの箱を開けてしまった。
だから私は,一族の掟に従い,世界に向けて発表しなければならない。
「この世のすべてをブラジル沖に置いてきた。アトランティスは実在する!(ドン!)」。
(シバサブロウ・D・キタザト) [未完]
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(略)
現地調査のリーダーで、海洋研究開発機構の北里洋さんは「実際に潜水調査船に乗って、海底で花こう岩を確認できたときはとても驚き、感激した。伝説のアトランティスとは出来た年代が異なるようだが、大西洋に『大陸のかけら』を見つけた、意義のある発見だと思う」と話しています。
(略)
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ボクが聞いた範囲の調査概要は,
昔,ブラジル沖でドレッジをして,花崗岩が採れたことがあった。
でも転石かもしれないから,今回,そこに潜航してみた。
そしたら花崗岩の露頭が見つかった。
海で出来ないはずの花崗岩帯が海底にあったということは,
・かつて大陸だったものが,
・大陸と分断して,
・海に沈んで,
存在しているということで,
科学的に非常に意義深い観察結果である。
今後,岩石の化学分析をすることで成因・生成年代が明らかになるだろう。
ということです。
これに対してアトランティスをWikipediaから引用すると,,,,
『アトランティスは、古代ギリシアの哲学者プラトンが著書の中で記述した、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことである。強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。』
『プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。』
ということです。
それはさておき,
うちの研究所の研究者が「アトランティスとかいう妄想」を言ったとか,言わないとか,
そういう部分でごちゃごちゃ言ってる人もいるようですが,
まず基本に立ち返って考えるべきだと思います。
そもそも,
科学研究の一義的なモチベーションは,何かを知りたいという欲求なんですよね。
「これってなんだろう」ってことです。
その後に続く感情としては,
「もしかして,アレかな?」ってことでしょう。
「科学的に考えましょう」ってのは,
そういう個人個人が「アレかな?コレかな?」とか言っていると,
いつまでたっても知識が蓄積しないから,
皆が共有できる形で対象を評価して記述していきましょう,ってことだと思う。
そう考えると,
海底がどうなってるか知りたくって,
実際に海底に潜ってみて花崗岩の露頭を見つけ,
「これはアトランティスかもしれん!」って思うことは,
もっと踏み込んで言えばそう外に向けて発言することまでもが,
立派な調査の一部なのではないか,
ということなんです。
「知りたい欲求の発露」「行動」「感覚的理解」「科学的裏付け」
の順に調査が進むのだから,
別に「アトランティスや!」って言っても,
何の問題もないですよね。
今回の騒動の問題をあえていうなら,
「感覚的理解」である「アトランティスや!」と,
「科学的裏付け」が分離されてないことなんじゃないかな。
なんせ,
「アトランティス」自体がそもそも「科学的」でないんだから,
そこに「科学」を持ち出して「年代が違う」とか言って火消しにはしるのは,
かえってアホを露呈していると思うわけです。
そんなわけで,
世間が盛り上がって,
会社の名も下げず,
エセ科学のそしりを受けない文例を考えてみました。
「わたしは露頭を目にした瞬間,『これはプラトンの言ったアトランティスだ!』と感じた。
それは潜って見た人間にしか感じられない「啓示」のようなものだった。
もちろんプラトンの言うアトランティスの存在に科学的根拠はない。
わたしがブラジル沖で見たものが何であったかは,今後の分析が明らかにしてくれるだろう。
しかし,あえて言いたい。
「アトランティスを見た!」と。」
ぐらいでしょうか。
一般公開向けに,ワンピースネタでも考えてみました。
「わたしの名前はヒロシ・D・キタザト。
普段,Dを名乗ることはない。
それはDを継ぐ者だけが知る存在を世間に知られぬためである。
わたしの祖父も生涯,Dを名乗ることはなかった。
しかしいま,QUELLE2013の名をかり,しんかい6500がパンドラの箱を開けてしまった。
だから私は,一族の掟に従い,世界に向けて発表しなければならない。
「この世のすべてをブラジル沖に置いてきた。アトランティスは実在する!(ドン!)」。
(シバサブロウ・D・キタザト) [未完]
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という学説を妄想している。
うちのラボの面々の素晴らしき研究成果を統合するに,
そういうことですべてオケーっぽい。
先日,タモツ先生の襲名披露興行で,
「有機物の堆積量とは,つまり,酸素の蓄積量である」
というフレーズを耳にして,
我が意を得たりな気分になったわけですよ。
窒素固定なんてエネルギー効率の悪いことを,
化学合成のエネルギーだけで回して,
さらにその窒素だけで地球上の生物を賄おうと思ったら,
とてもとてもタランティーノ。
でもそこでいきなり「シアノバクテリア最強( ゚д゚ )クワッ!!」となるのは早計。
番長から大魔神の継投にヒゲ魔神が挟まったように,
ワンポイントリリーフ的なアレをアレする必要がありそうだったり。
さらに重要になってくるのが,
昔の地球環境条件での,
非生物的な窒素固定フラックスと,
生物活動も含んだ脱窒のフラックス。
マジメに勉強すればその辺に文献値があるのだろうけど,
それもどうかという感じだろうから,
適当な実験を組んでパパッと数字を出すのが良かろうと思うわけ。
地球科学の先端研究を煮詰めていくと,
高校生物の教科書に描いてあったことが本質だったりして,
やっぱ本質は本質なんやなぁ,と。
(リービッヒの最小律)
とりあえず,
現世においても熱水活動がリンのソースかシンクか決まってないし,
広義の「脱窒」代謝の多様性みたいなもんもよくわからんし,
そういう基礎的なところからおさえる必要があって,
でも逆に言えば,
「次世代手法がウンタラー」とか言ってるけども,
今時点でもまだまだ(まだまだまだまだまだまだまだまだ)やることはいっぱいあるわけで,
「最先端のー」とか「カッティングエッジのー」とか言ってるけども,
今時点の知見を集約して整理するだけで新たな地平は拓かれるわけで,
そういうことを軽視しないで,
じとっと考えてきたいね。
Tweet
うちのラボの面々の素晴らしき研究成果を統合するに,
そういうことですべてオケーっぽい。
先日,タモツ先生の襲名披露興行で,
「有機物の堆積量とは,つまり,酸素の蓄積量である」
というフレーズを耳にして,
我が意を得たりな気分になったわけですよ。
窒素固定なんてエネルギー効率の悪いことを,
化学合成のエネルギーだけで回して,
さらにその窒素だけで地球上の生物を賄おうと思ったら,
とてもとてもタランティーノ。
でもそこでいきなり「シアノバクテリア最強( ゚д゚ )クワッ!!」となるのは早計。
番長から大魔神の継投にヒゲ魔神が挟まったように,
ワンポイントリリーフ的なアレをアレする必要がありそうだったり。
さらに重要になってくるのが,
昔の地球環境条件での,
非生物的な窒素固定フラックスと,
生物活動も含んだ脱窒のフラックス。
マジメに勉強すればその辺に文献値があるのだろうけど,
それもどうかという感じだろうから,
適当な実験を組んでパパッと数字を出すのが良かろうと思うわけ。
地球科学の先端研究を煮詰めていくと,
高校生物の教科書に描いてあったことが本質だったりして,
やっぱ本質は本質なんやなぁ,と。
(リービッヒの最小律)
とりあえず,
現世においても熱水活動がリンのソースかシンクか決まってないし,
広義の「脱窒」代謝の多様性みたいなもんもよくわからんし,
そういう基礎的なところからおさえる必要があって,
でも逆に言えば,
「次世代手法がウンタラー」とか言ってるけども,
今時点でもまだまだ(まだまだまだまだまだまだまだまだ)やることはいっぱいあるわけで,
「最先端のー」とか「カッティングエッジのー」とか言ってるけども,
今時点の知見を集約して整理するだけで新たな地平は拓かれるわけで,
そういうことを軽視しないで,
じとっと考えてきたいね。
憲法のことをちょっと考えてみた。
勉強しないで考えただけなので,ツッコミどころがあるかもしんないけど。
今の日本がとっている態度は「立憲主義」で,
「政府の統治を憲法に基づき行う原理で、
政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠する」(wikipedia)
ということらしい。
ボクの表現で書くなら,
「政府(あるいは国家権力)の役割を一定の枠組みの中に限定することで,
政府が国民に対して好き勝手に権力を振るうことが出来ぬようにするため,
憲法というものが存在している」
ということなのだろう。
この立憲主義の理念を明文化しているのが,
日本国憲法第99条の,
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、
この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」
なのだろう。
ボクが99条でポイントだと思うのは,
「憲法を尊重し擁護する義務を負う」のが,
「すべての国民」ではなくて,
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」という,
国家権力的な人々に限定されていることだ。
これは端的に考えれば,
「憲法は国家権力を制限するためのもの」なのだから,
当然といえば当然のことだ。
でも,ちょっとひねくれて考えると,
「非国家権力の国民は,憲法を尊重し擁護する義務を負わない」
という意味にもとれる。
日本国憲法第19条には,
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
とあるので,
第99条の対象を「すべての国民」にして,
「憲法を尊重し擁護する義務」を国民に負わせてしまうと,
第19条と第99条に矛盾が生じることになるわけだ。
つまり,
ボクのような一国民(独法職員って国家公務員じゃないよね??)が,
「日本国憲法とかマジでクソだよな!」
「9条のせいで軍隊が持てないじゃん!」
「天皇は神聖にて侵すべからずだよ!」
という意見を表明する自由は,
第19条で保障されているとともに,
第99条で制限されていないのである。
一方で,
たとえばアベちゃんやゲルちゃんみたいな国会議員が,
「日本国憲法とか押しつけ憲法で恥ずかしいワン!」とか吠えるのは,
たとえ第19条に保障されているとしても,
第99条的にダメなのである。
そうこう考えると,
憲法改正に関する話題の重要な論点が浮かび上がってきた気がする。
つまり,
「国会議員が憲法を尊重し擁護する」範囲の中で,
「国会議員が憲法を変える手続きをする」ってことを,
「どうやって矛盾無く遂行するのか」こそが,
「憲法,変えようぜ!」とか言う前に議論すべきことなんじゃないだろうか。
これはちょっと話が飛ぶけども,
「憲法を尊重し擁護する態度」を持っていてもなお,
「それでもやはり,ここは改正せねば国家のためにならない」という部分を改正するならば,
それは第99条に矛盾しないだろうし,
そういう部分であれば,
第96条の「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」は,
別段「高すぎるハードル」では無いように思う。
さらに言えば,
ちょっとヘンテコな論理になるけども,
「日本国憲法を尊重し擁護する義務を負った国会議員」のうち,
三分の一以上が「改正反対」と言うのであれば,
それは十分に考慮に値する重みなんじゃないだろうか。
ということで,
2013年現在のボクの意見は,
「日本国憲法,このままで全然問題ないでしょ」
です。
Tweet
勉強しないで考えただけなので,ツッコミどころがあるかもしんないけど。
今の日本がとっている態度は「立憲主義」で,
「政府の統治を憲法に基づき行う原理で、
政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠する」(wikipedia)
ということらしい。
ボクの表現で書くなら,
「政府(あるいは国家権力)の役割を一定の枠組みの中に限定することで,
政府が国民に対して好き勝手に権力を振るうことが出来ぬようにするため,
憲法というものが存在している」
ということなのだろう。
この立憲主義の理念を明文化しているのが,
日本国憲法第99条の,
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、
この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」
なのだろう。
ボクが99条でポイントだと思うのは,
「憲法を尊重し擁護する義務を負う」のが,
「すべての国民」ではなくて,
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」という,
国家権力的な人々に限定されていることだ。
これは端的に考えれば,
「憲法は国家権力を制限するためのもの」なのだから,
当然といえば当然のことだ。
でも,ちょっとひねくれて考えると,
「非国家権力の国民は,憲法を尊重し擁護する義務を負わない」
という意味にもとれる。
日本国憲法第19条には,
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
とあるので,
第99条の対象を「すべての国民」にして,
「憲法を尊重し擁護する義務」を国民に負わせてしまうと,
第19条と第99条に矛盾が生じることになるわけだ。
つまり,
ボクのような一国民(独法職員って国家公務員じゃないよね??)が,
「日本国憲法とかマジでクソだよな!」
「9条のせいで軍隊が持てないじゃん!」
「天皇は神聖にて侵すべからずだよ!」
という意見を表明する自由は,
第19条で保障されているとともに,
第99条で制限されていないのである。
一方で,
たとえばアベちゃんやゲルちゃんみたいな国会議員が,
「日本国憲法とか押しつけ憲法で恥ずかしいワン!」とか吠えるのは,
たとえ第19条に保障されているとしても,
第99条的にダメなのである。
そうこう考えると,
憲法改正に関する話題の重要な論点が浮かび上がってきた気がする。
つまり,
「国会議員が憲法を尊重し擁護する」範囲の中で,
「国会議員が憲法を変える手続きをする」ってことを,
「どうやって矛盾無く遂行するのか」こそが,
「憲法,変えようぜ!」とか言う前に議論すべきことなんじゃないだろうか。
これはちょっと話が飛ぶけども,
「憲法を尊重し擁護する態度」を持っていてもなお,
「それでもやはり,ここは改正せねば国家のためにならない」という部分を改正するならば,
それは第99条に矛盾しないだろうし,
そういう部分であれば,
第96条の「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」は,
別段「高すぎるハードル」では無いように思う。
さらに言えば,
ちょっとヘンテコな論理になるけども,
「日本国憲法を尊重し擁護する義務を負った国会議員」のうち,
三分の一以上が「改正反対」と言うのであれば,
それは十分に考慮に値する重みなんじゃないだろうか。
ということで,
2013年現在のボクの意見は,
「日本国憲法,このままで全然問題ないでしょ」
です。
最近,身の回りの人と話題になった事柄をメモがわりに。
お金と仕事の関係には2種類あって,
「この仕事をやる人にお金を払おう」というものと,
「この仕事をやりたいからお金をください」というものと,
そういう2種類。
前者のパターンは,発信者が金を持っているが労力(能力)を持っていない状態で,
後者のパターンは,発信者が労力(能力)を持っているが金を持っていない状態。
前者のパターンでは,
発信者(発注)側が金額を決めているので,
受注側が仕事自体を安価にすませれば余剰金が発生する場合もあるし,
それはもう引き渡されたお金なので,残りを何に使っても受注側の勝手ということになる。
後者のパターンでは,
発信者側が「仕事に必要な額」という条件で設定した額なので,
発生した余剰金を懐にいれることはある種の「詐欺」になるので,
返金するか,あるいは金額分だけ余分に仕事をすることが求められる。
これを研究と研究費と研究者の関係で考えてみる。
前者のパターンは,
「既存の設備で効率的に研究して適当な結果を出せば,残りの研究費は他の研究に使える」わけで,
求められる成果のメドが容易にたつならば,「おいしい話」ということになる。
後者のパターンは,
「すべて当初の研究目的に見合った形で使用しなければならない」わけで,
求められれば1円単位で使途を報告する必要があるし,目的外使用は断じて許されない。
普通に研究をしていれば(ってのがなんなのかはさておき),
科研費を含め基本的に後者のタイプの研究費としか出会わないんだけど,
時々,怪しい筋から前者タイプの研究費の話が来ることがある。
(大きく見れば運営費交付金も前者パターンなのだろうけど)
怪しい筋の話では,
お金を出す側のやってほしいことを端的に絞り込んで理解し,
お金をもらう側としては何もあらたに要求することなく,
「つまり,これとこれをやれば満足いただけるんですね」
と念を押して確認しておいて,
その分だけ成果を出してしまえば,
余剰金を好きに使えるメリットがうまれる。
一方で,怪しい筋の話が来た時に,
お金をもらう側が増額要求をすると,
それはつまり,
「あんたらの言っている成果を達成するにはお金が足りない」
という意味になってしまうので,
論理的には余剰金は発生しないことになってしまう。
あるいは,
「増額要求しますが,そのかわりに出す成果も割増しますよ」
と言ってしまうと,
立場が前者パターンから後者パターンへと変化してしまう。
だって,
お金をもらう側から提案した成果なんてものは,
お金をはらう側が求めているものではないんだから。
つまり,
増額要求をしてしまうと,もらえる総額は大きくなるけども,
余剰金を自由に使う権利という,前者パターンの最大の”うまみ”を手放してしまうことになるわけだ。
という状況下にいるんじゃないですかね。
「ヒモ付のお金」というククリにしてしまうと,
両者のパターンのどちらであるかが見えなくなってしまうので,
そういう視点はやめておいた方が良いと思うのですよ。
とにかく,
「ボクはこの件に関しては前者パターンのスタンスですよ」
という態度を明確にしておかないと,
ちょっとでもスケベ心で増額要求したり,
あるいは「良かれ」と思って踏み込みすぎた提案をしたりすると,
コロリと立場を入れ替えられてしまうリスクがあるわけですから,
そこはグッとこらえておくのが肝要ではないでしょうか。
Tweet
お金と仕事の関係には2種類あって,
「この仕事をやる人にお金を払おう」というものと,
「この仕事をやりたいからお金をください」というものと,
そういう2種類。
前者のパターンは,発信者が金を持っているが労力(能力)を持っていない状態で,
後者のパターンは,発信者が労力(能力)を持っているが金を持っていない状態。
前者のパターンでは,
発信者(発注)側が金額を決めているので,
受注側が仕事自体を安価にすませれば余剰金が発生する場合もあるし,
それはもう引き渡されたお金なので,残りを何に使っても受注側の勝手ということになる。
後者のパターンでは,
発信者側が「仕事に必要な額」という条件で設定した額なので,
発生した余剰金を懐にいれることはある種の「詐欺」になるので,
返金するか,あるいは金額分だけ余分に仕事をすることが求められる。
これを研究と研究費と研究者の関係で考えてみる。
前者のパターンは,
「既存の設備で効率的に研究して適当な結果を出せば,残りの研究費は他の研究に使える」わけで,
求められる成果のメドが容易にたつならば,「おいしい話」ということになる。
後者のパターンは,
「すべて当初の研究目的に見合った形で使用しなければならない」わけで,
求められれば1円単位で使途を報告する必要があるし,目的外使用は断じて許されない。
普通に研究をしていれば(ってのがなんなのかはさておき),
科研費を含め基本的に後者のタイプの研究費としか出会わないんだけど,
時々,怪しい筋から前者タイプの研究費の話が来ることがある。
(大きく見れば運営費交付金も前者パターンなのだろうけど)
怪しい筋の話では,
お金を出す側のやってほしいことを端的に絞り込んで理解し,
お金をもらう側としては何もあらたに要求することなく,
「つまり,これとこれをやれば満足いただけるんですね」
と念を押して確認しておいて,
その分だけ成果を出してしまえば,
余剰金を好きに使えるメリットがうまれる。
一方で,怪しい筋の話が来た時に,
お金をもらう側が増額要求をすると,
それはつまり,
「あんたらの言っている成果を達成するにはお金が足りない」
という意味になってしまうので,
論理的には余剰金は発生しないことになってしまう。
あるいは,
「増額要求しますが,そのかわりに出す成果も割増しますよ」
と言ってしまうと,
立場が前者パターンから後者パターンへと変化してしまう。
だって,
お金をもらう側から提案した成果なんてものは,
お金をはらう側が求めているものではないんだから。
つまり,
増額要求をしてしまうと,もらえる総額は大きくなるけども,
余剰金を自由に使う権利という,前者パターンの最大の”うまみ”を手放してしまうことになるわけだ。
という状況下にいるんじゃないですかね。
「ヒモ付のお金」というククリにしてしまうと,
両者のパターンのどちらであるかが見えなくなってしまうので,
そういう視点はやめておいた方が良いと思うのですよ。
とにかく,
「ボクはこの件に関しては前者パターンのスタンスですよ」
という態度を明確にしておかないと,
ちょっとでもスケベ心で増額要求したり,
あるいは「良かれ」と思って踏み込みすぎた提案をしたりすると,
コロリと立場を入れ替えられてしまうリスクがあるわけですから,
そこはグッとこらえておくのが肝要ではないでしょうか。
名古屋の講演を聞きに来ていた人生に悩む青年と,
少しメイルのやりとりをしていて,
先週のJAM-JAXトークを聞いての疑問を投げかけられた。
[質問]
1.研究に対するモチベーションをどうやって維持しているのですか?
2.モチベーションが下がったときに、元に戻す自分なりの方法はありますか?
[回答]
質問ありがとう。
研究へのモチベーションの維持と対策ということですが,
まずボクは研究自体はあまり好きじゃないので,モチベーションはいつも低いです。
タカイさんのナショジオの連載でも書かれています。
http://nationalgeographic.jp/nng/article/20130405/346613/index2.shtml
いつも低いので,低いまま維持して,それでやってます。
研究以外にも通じる一般論で,前に話したと思いますが,
「嫌いなこと」と「好きじゃないこと」は全然違うモノです。
ボクは研究のことを「好きじゃない」けど「嫌いじゃない」ので,
モチベーションが低くても,苦痛に感じずに実行することはできます。
苦痛なんじゃなくて,メンドクサイだけ,って感じでしょうか。
これって意外と重要で,
嫌いなことを強要されると逃げ出したくなるけど,
好きじゃないことだったら,強要されてやる分にはさほど苦痛じゃなくて,
むしろいつまでも腰を上げない自分を後押しして着手するキッカケになって助かる,
みたいな側面もあるかもしれません。
あとは自分の才能ですね。
ボク以外の他の誰かがやるよりも,
ボクがやった方が必ずうまくいくという確信がある場合には,
「あんたらは寝てなさい,ワシがやっとくから」と考えて,やります。
その程度には,ボクは自分の才能に自信があるので。
逆に言うと,自分の才能に対する自信がモチベーションになっているのかも知れません。
むりやりまとめると,
「嫌いじゃないから頑張れる」
でしょうか。
逆に,意味のない事務書類の仕事なんかは,絶対にやりたくないから,
たとえ自分でやれば1分で出来る書類でも,
担当の部署に電話して10分以上抗議してでも,
極力自分ではやらないように仕向けます。
Tweet
少しメイルのやりとりをしていて,
先週のJAM-JAXトークを聞いての疑問を投げかけられた。
[質問]
1.研究に対するモチベーションをどうやって維持しているのですか?
2.モチベーションが下がったときに、元に戻す自分なりの方法はありますか?
[回答]
質問ありがとう。
研究へのモチベーションの維持と対策ということですが,
まずボクは研究自体はあまり好きじゃないので,モチベーションはいつも低いです。
タカイさんのナショジオの連載でも書かれています。
http://nationalgeographic.jp/nng/article/20130405/346613/index2.shtml
いつも低いので,低いまま維持して,それでやってます。
研究以外にも通じる一般論で,前に話したと思いますが,
「嫌いなこと」と「好きじゃないこと」は全然違うモノです。
ボクは研究のことを「好きじゃない」けど「嫌いじゃない」ので,
モチベーションが低くても,苦痛に感じずに実行することはできます。
苦痛なんじゃなくて,メンドクサイだけ,って感じでしょうか。
これって意外と重要で,
嫌いなことを強要されると逃げ出したくなるけど,
好きじゃないことだったら,強要されてやる分にはさほど苦痛じゃなくて,
むしろいつまでも腰を上げない自分を後押しして着手するキッカケになって助かる,
みたいな側面もあるかもしれません。
あとは自分の才能ですね。
ボク以外の他の誰かがやるよりも,
ボクがやった方が必ずうまくいくという確信がある場合には,
「あんたらは寝てなさい,ワシがやっとくから」と考えて,やります。
その程度には,ボクは自分の才能に自信があるので。
逆に言うと,自分の才能に対する自信がモチベーションになっているのかも知れません。
むりやりまとめると,
「嫌いじゃないから頑張れる」
でしょうか。
逆に,意味のない事務書類の仕事なんかは,絶対にやりたくないから,
たとえ自分でやれば1分で出来る書類でも,
担当の部署に電話して10分以上抗議してでも,
極力自分ではやらないように仕向けます。
以前,はと君からお題として出されて考えたので,
ここに記しておこう。
まず今のJリーグの問題点は,大きく分けて2つ。
・過密日程による選手の負担大
・ライト層の取り込みが頭打ち
過密日程の原因は,
J118チームで2回総当たりで年間34試合。
これで年52週末の34週が埋まる。
これにナビスコ・天皇杯・ACL・代表戦が入る。
つまり有力チームの有力選手はほぼ毎週2試合ペース。
もちろんこの間に飛行機や新幹線での移動もある。
たしかにしんどい。
するとすぐに「ナビスコと天皇杯を削れ」となるが,
これは諸々の事情で削れない(らしい)。
ということで,
「リーグ戦の試合数を減らそう」となり,
必然的に「リーグのチーム数を減らす」に至る。
つまり「試合数減−>チーム数減」の結果として「プレミア化」する。
これが「プレミア化論の中の過密日程」の話の根幹。
ライト層の取り込みについて,
最大の問題は「地上波中継/放送の数と質が低い」のが致命的な問題。
まず毎週リーグ戦をやっているのにほとんど放映されない。
また放映されるとしても,延々と試合を見せているだけ。
Jリーグライト層の取り込みを阻害しているのは,
日本代表と海外サッカーだということも考えるべき材料。
最ライト層が代表戦でサッカーにフックしても,
代表選手が海外リーグに所属していて,Jリーグに目が向かないのが現状。
まぁこれはジョホールバルで中田が「Jリーグも見てね」って言って以来だから,
海外組だけの問題ではないのかもしれないけど。
で,J1プレミア化構想。
つまり,J1のチーム数をグッと減らして,
リーグ側から露出させる対象を絞り込むことで,
ライト層にとってフォーカスを合わせやすいようにしよう,
というのが主旨。
ここでいうライト層ってのは,
ライト層をターゲットにするスポンサーも同じ。
ごくごく簡単に言えば,
18チームも覚えられないけど,
10チームなら覚えられるでしょ,とか,
10チームならどのチームにも代表が1人はいる状況になるでしょ,とか,
そういうこと。
ボクはJ1を10~12チームに絞るってこと自体には賛成。
10チームとして話をすすめる。
H&Aで年間18試合。
この次がアイデアで,
さらにあらたに当該チームと関係無い「中立地開催」を入れる。
これが9試合なので,合計リーグ戦は年間27試合。
現状より7週目減りするので国際Aマッチデーの日程を空けられる。
チーム数が減れば,
所属する選手自体の質も平均値が高くなるし,
選手のコンディションも向上するし,
練習もしっかり出来て,
魅力的な試合を提供できるようになる。
またJ1プレミアにはスタジアムなどの基準を厳しくする。
二万人以上収容の専用スタジアムで,交通の便も考慮した立地。
地上波中継でライト層にアピールできるCGなどに対応可能にする。
もちろん45分間にCMを挟まなくて良いスポンサー対応の中継スタイルも確立。
(CLのハイネケンとかみたいな)
中立地開催については,
リーグとしては勝点も換算するガチ試合。
ただ「第三のスタジアム」で開催するだけ。
それでも3つの利点があると考えている。
1つめは単純に日本全国のライト層の掘り起こし。
「おらが町にJ1プレミアがくる」ってこと。
試合翌日には地元の子供と交流するなども抱き合わせて。
2つめはライト層のコア化。
J2やJ3の本拠地でJ2やJ3の試合と連続開催することで,
J1を見に来た現地ライト層をJ2-J3の地元チームのコアサポ化を狙う。
下部チームの運営側としても今後プレミアを狙う予習になるかも。
3つめは試合単体スポンサーの獲得。
Jチームの無い町で試合をする際に,地元企業の冠試合にする。
スタジアムネーミングライツの試合単体版みたいなもの。
ニュースに取り上げられるJ1プレミアだからこその付加価値を最大利用。
もちろん中立地開催には難点もあって,
良いスタジアムがそんなにあるのかって問題は解消しないけど,
代表のアウェーを考えれば,まぁ許容範囲でしょう。
また当該試合中継の質は落ちてしまう。けども,
地上波はJ1スタジアムに任せればライト層的には不満はなかろう,と。
ホーム:アウェイが1:2の比率とも考えられて,
特に選手にとっては移動の負担が大きいかもしれないが,
現状アウェイ17試合が18試合になるだけだし,
プレミア化すればチームの財政も潤って,移動にも金をかけられるから,
全体としては負担軽減のセンスなのではないか,と。
その他のプレミア化の難点としては,
ライト層に露出するチームと選手が限定されてしまうということ。
でも,
現状のJ1でもさほど露出してないんだから,
まずはJ1だけでももっと露出させていくことが,
J3まで含めた全体の利益にかなうんじゃないかな。
選手の移籍が活発になれば,
「おらがチームからプレミアに多数輩出」
「ゆえにおらがチーム最強説」ということもあろう。
(セレッソと代表,あるいはカープとヤンキース,みたいな)
「育成クラブ」と割切って「育てて売る路線」に向かうJ2チームが出来るかも。
J1プレミアとJ2の入替は年1チーム。
そのかわりといってはなんだけど,J1数が減る分だけ,
ナビスコや天皇杯でJ2以下のチームが上位進出できる可能性は増すので,
リーグ戦とは別件になってしまうが,そちらの方で諸々対応。
というような具合で,
周辺の「仕掛け」も整えていくのであれば,
J1プレミア化には賛成するのであります。
Tweet
ここに記しておこう。
まず今のJリーグの問題点は,大きく分けて2つ。
・過密日程による選手の負担大
・ライト層の取り込みが頭打ち
過密日程の原因は,
J118チームで2回総当たりで年間34試合。
これで年52週末の34週が埋まる。
これにナビスコ・天皇杯・ACL・代表戦が入る。
つまり有力チームの有力選手はほぼ毎週2試合ペース。
もちろんこの間に飛行機や新幹線での移動もある。
たしかにしんどい。
するとすぐに「ナビスコと天皇杯を削れ」となるが,
これは諸々の事情で削れない(らしい)。
ということで,
「リーグ戦の試合数を減らそう」となり,
必然的に「リーグのチーム数を減らす」に至る。
つまり「試合数減−>チーム数減」の結果として「プレミア化」する。
これが「プレミア化論の中の過密日程」の話の根幹。
ライト層の取り込みについて,
最大の問題は「地上波中継/放送の数と質が低い」のが致命的な問題。
まず毎週リーグ戦をやっているのにほとんど放映されない。
また放映されるとしても,延々と試合を見せているだけ。
Jリーグライト層の取り込みを阻害しているのは,
日本代表と海外サッカーだということも考えるべき材料。
最ライト層が代表戦でサッカーにフックしても,
代表選手が海外リーグに所属していて,Jリーグに目が向かないのが現状。
まぁこれはジョホールバルで中田が「Jリーグも見てね」って言って以来だから,
海外組だけの問題ではないのかもしれないけど。
で,J1プレミア化構想。
つまり,J1のチーム数をグッと減らして,
リーグ側から露出させる対象を絞り込むことで,
ライト層にとってフォーカスを合わせやすいようにしよう,
というのが主旨。
ここでいうライト層ってのは,
ライト層をターゲットにするスポンサーも同じ。
ごくごく簡単に言えば,
18チームも覚えられないけど,
10チームなら覚えられるでしょ,とか,
10チームならどのチームにも代表が1人はいる状況になるでしょ,とか,
そういうこと。
ボクはJ1を10~12チームに絞るってこと自体には賛成。
10チームとして話をすすめる。
H&Aで年間18試合。
この次がアイデアで,
さらにあらたに当該チームと関係無い「中立地開催」を入れる。
これが9試合なので,合計リーグ戦は年間27試合。
現状より7週目減りするので国際Aマッチデーの日程を空けられる。
チーム数が減れば,
所属する選手自体の質も平均値が高くなるし,
選手のコンディションも向上するし,
練習もしっかり出来て,
魅力的な試合を提供できるようになる。
またJ1プレミアにはスタジアムなどの基準を厳しくする。
二万人以上収容の専用スタジアムで,交通の便も考慮した立地。
地上波中継でライト層にアピールできるCGなどに対応可能にする。
もちろん45分間にCMを挟まなくて良いスポンサー対応の中継スタイルも確立。
(CLのハイネケンとかみたいな)
中立地開催については,
リーグとしては勝点も換算するガチ試合。
ただ「第三のスタジアム」で開催するだけ。
それでも3つの利点があると考えている。
1つめは単純に日本全国のライト層の掘り起こし。
「おらが町にJ1プレミアがくる」ってこと。
試合翌日には地元の子供と交流するなども抱き合わせて。
2つめはライト層のコア化。
J2やJ3の本拠地でJ2やJ3の試合と連続開催することで,
J1を見に来た現地ライト層をJ2-J3の地元チームのコアサポ化を狙う。
下部チームの運営側としても今後プレミアを狙う予習になるかも。
3つめは試合単体スポンサーの獲得。
Jチームの無い町で試合をする際に,地元企業の冠試合にする。
スタジアムネーミングライツの試合単体版みたいなもの。
ニュースに取り上げられるJ1プレミアだからこその付加価値を最大利用。
もちろん中立地開催には難点もあって,
良いスタジアムがそんなにあるのかって問題は解消しないけど,
代表のアウェーを考えれば,まぁ許容範囲でしょう。
また当該試合中継の質は落ちてしまう。けども,
地上波はJ1スタジアムに任せればライト層的には不満はなかろう,と。
ホーム:アウェイが1:2の比率とも考えられて,
特に選手にとっては移動の負担が大きいかもしれないが,
現状アウェイ17試合が18試合になるだけだし,
プレミア化すればチームの財政も潤って,移動にも金をかけられるから,
全体としては負担軽減のセンスなのではないか,と。
その他のプレミア化の難点としては,
ライト層に露出するチームと選手が限定されてしまうということ。
でも,
現状のJ1でもさほど露出してないんだから,
まずはJ1だけでももっと露出させていくことが,
J3まで含めた全体の利益にかなうんじゃないかな。
選手の移籍が活発になれば,
「おらがチームからプレミアに多数輩出」
「ゆえにおらがチーム最強説」ということもあろう。
(セレッソと代表,あるいはカープとヤンキース,みたいな)
「育成クラブ」と割切って「育てて売る路線」に向かうJ2チームが出来るかも。
J1プレミアとJ2の入替は年1チーム。
そのかわりといってはなんだけど,J1数が減る分だけ,
ナビスコや天皇杯でJ2以下のチームが上位進出できる可能性は増すので,
リーグ戦とは別件になってしまうが,そちらの方で諸々対応。
というような具合で,
周辺の「仕掛け」も整えていくのであれば,
J1プレミア化には賛成するのであります。
何度か触れてきたけども,
大学教員って「教育をする側」になる特別な訓練を受けてないわけですよね。
それって,家庭教育と同じだなって,そう思ったわけです。
子供が出来ると,放棄しない限りは,
親は家庭教育というものの「教育をする側」になるわけで,
そういう意味で言ってしまえば,
たいていの大人は「教員」なんですね。
大学の教員がする教育なんてものは「そういうもの」なんです。
研究室における研究指導は,研究に特化している分だけ,
ある程度「研究者としての能力」に比例する部分があるので,
「教員としての実力」が問われにくいかもしれませんが,
まぁそれでも,その辺の会社の「OJT」と同じようなものかもしれません。
要するに「習うより慣れよ」「教わるな盗め」という名の下に,
別に何もしないでフルイにかけているだけ,みたいな。
これが大学の授業となると,
自分の人生体験の中で「あれは良かったな」「こうしたいな」みたいなものを,
おそるおそる,現場で試しながら,反応をみつつ,取り組んでいるわけで,
まぁ家庭での子供の教育と同じですよね。
ここで結構バカに出来ないのは,
基本的に教えたら教えっぱなしでその成否は問われないし,
だからこそ毎回のフィードバックも曖昧で,
とにかくシステムとして「いい加減」なわけですね。
そんなわけで,
各家庭で色々と方針が違っても,
社会とか周辺の人間とかの影響があったりして,
親という教員の思いもしないように子供は成長していくわけで,
別に大学教育を今すぐ違うモノに変えたって,
あるいは授業を誰がやったって,
たかがしれているというか,
まぁそういうことなんでしょうね。
なんか予定していたのと全然違う話になっちゃった。
Tweet
大学教員って「教育をする側」になる特別な訓練を受けてないわけですよね。
それって,家庭教育と同じだなって,そう思ったわけです。
子供が出来ると,放棄しない限りは,
親は家庭教育というものの「教育をする側」になるわけで,
そういう意味で言ってしまえば,
たいていの大人は「教員」なんですね。
大学の教員がする教育なんてものは「そういうもの」なんです。
研究室における研究指導は,研究に特化している分だけ,
ある程度「研究者としての能力」に比例する部分があるので,
「教員としての実力」が問われにくいかもしれませんが,
まぁそれでも,その辺の会社の「OJT」と同じようなものかもしれません。
要するに「習うより慣れよ」「教わるな盗め」という名の下に,
別に何もしないでフルイにかけているだけ,みたいな。
これが大学の授業となると,
自分の人生体験の中で「あれは良かったな」「こうしたいな」みたいなものを,
おそるおそる,現場で試しながら,反応をみつつ,取り組んでいるわけで,
まぁ家庭での子供の教育と同じですよね。
ここで結構バカに出来ないのは,
基本的に教えたら教えっぱなしでその成否は問われないし,
だからこそ毎回のフィードバックも曖昧で,
とにかくシステムとして「いい加減」なわけですね。
そんなわけで,
各家庭で色々と方針が違っても,
社会とか周辺の人間とかの影響があったりして,
親という教員の思いもしないように子供は成長していくわけで,
別に大学教育を今すぐ違うモノに変えたって,
あるいは授業を誰がやったって,
たかがしれているというか,
まぁそういうことなんでしょうね。
なんか予定していたのと全然違う話になっちゃった。
昨日の「人格と意見は対立する」話に対して,
ツンデレ芸人の銭本さんがやや斜めな方向に反応したので,
さらに斜めの方向に話を進めてみよう。
ボクにとって【部活】ってのは,かなり大きなテーマで,
扱いが難しいというか,軽々に議論の俎上に上げたくないものなわけです。
それはたぶん,
ボク自身の体験として,非常に大きな部分を占めていて,
客観性・一般性を保ちきれない不安があるからなんだろう。
もっと突っ込んで言えば,
ボクの中には,いまだに,「部活」に関わりたいという欲求が大きくて,
その思いが爆発してしまうのが怖いということでもある。
まぁそれは今日は置いておこう。
色々と話が発散しがちなので,
とりあえずココでの部活は運動部ということにしよう。
運動競技というのは,
一定のルールの下で勝敗を競うもので,
だから選手(や監督やマネージャー)は,
そのルールの範囲で行動する人という,
まさに「ロールプレイヤー」だと言える。
競技の「ロールプレイ性」については,
これまでに「野蛮と茶番」というキーワードで語ってきているうちの,
「茶番」に該当するのだと再認識した次第で,
これまでの文章もぜひ読んでもらって次も読んでもらおう。
・茶番と野蛮
・茶番と野蛮 2012夏
・代表戦は代理戦争か
よく「部活は単純な勝負論の世界ではなく教育の場だ」と言われます。
ごく最近で言えば済美高校のエース安楽くんの「投げすぎ」論とか,
部活指導における「体罰」の是非とか,
定期的に問題視されるのに,
それでもいっこうに解決される方向に向かわないのは,
個別の事象を超えた次元で,
「部活」ってものを語ってこなかったせいだと思うわけです。
ボクの「部活を通じた教育」に対する意見は明確です。
競技はロールプレイです。
だから部活で大事なことはロールプレイに徹することです。
指導者も競技者も「競技力の向上」のみに注力します。
そのために,
自分の感情とか,肉体の限界とか,競技技術とか,
そういうものを把握して,抑制して,改善して,
「競技力」を最大化する方向に向けて努力します。
それは日々の練習でも,特別な試合でも,同じ事です。
また団体競技であっても本質はかわりません。
ここで大事なことは,
「競技力」というのは競技のルールの下でのみ成立する能力であって,
本質的に「非普遍的」で「他のことには役に立たない力」です。
それでも「競技力の向上」のために考えた頭や,動いた体は,
ロールプレイをしていても,していなくても,自分の頭であり体であるので,
たとえロールプレイに徹していたとしても,
「意図せず」個々人の生身に「普遍的な能力」が開発されていきます。
それが「部活を通じた教育」の意味だと考えます。
だから,
部活の中で競技とは無関係な「教育」を行う必要はありません。
この考えに基づいて,
たとえば安楽くんの「投げすぎ」について解釈しよう。
監督は済美野球部の監督で,
安楽は済美野球部の投手で,
野球部の目的は「野球競技」での「競技力の向上」,
野球部は「勝利」を目的とするロールプレイ集団なわけです。
だから,
監督は「野球部の勝利のために」安楽に投げさせるし,
安楽も「野球部の勝利のために」自分が投げることを選びます。
「監督は安楽の体のことを考えていない」と言っても,
それはロールプレイの範囲外の話で,
「野球部の監督」として勘案すべき案件では無い。
だから,
また同じような場面があったとしても,
監督は連投させ,エースは連投を望むと思う。
それが「競技のルールの下でチームの競技力を最大化」するための最良の策なので,
当然の帰結なのです。
でも,
安楽くんの体は,高校野球というロールプレイゲームを離れても,
安楽くんの体であり続けます。
競技で壊れた体は,競技を離れても治りません。
じゃあどうすべきなのか。
出口は一つしかありません。
「ルールを変える」ことです。
ルール上で「球数制限」があれば,
その範囲内でチームの競技力を向上させる方向に努力します。
「選手を多数集められる私立校が有利」とかいうのは,
あくまで「競技力の出発地点」の問題であって,
高校三年間での「競技力の向上」とは基本的に無関係です。
長くなってきたので,体罰にからめた話は割愛。
で。
院生になって周りを見渡すと,
学部時代にちゃんと授業に出ていた連中よりも,
授業に出ずにガチ系部活に出ていた連中の方が,
研究が進んでいることが,ままある。(自慢みたいですけど)
イタイくんとか,トーナイさんとか。
それについて「何かに打ち込む力が強い」みたいな言い方をされるけど,
まぁそれはそうなんだろうけど,
じゃあそれは「大学の授業では開発できないのか」って疑問で,
逆に言うと,
部活と授業の違いってなんなんだろうってことで,
そのヒントが「ロールプレイ性」に隠されているんじゃないのかな,と。
学生競技っていう,年限が決まっていて,指導者もロクにいない中で,
いかに競技力を向上させるか,ってことに向き合って暮らすことが,
情報収集・立案・実行・解析・フィードバックという,
まさに研究と同じ作業を,
違う競技のロールプレイとして体験することになっていたわけだ。
そういう意味で,
部活をやっていた連中は「研究の経験者」で,
授業を聞いていた連中は「研究の初心者」なわけだ。
って考えれば,
大学の授業でやるべきことは,
ロールプレイ上,研究と同じ作業をするような「競技」であって,
もちろんいきなり「研究」をさせても良いけども,
「ディベート」とか「演劇」とか,そういうものであって,
「講義と聴講」ではないと確信するわけです。
Tweet
ツンデレ芸人の銭本さんがやや斜めな方向に反応したので,
さらに斜めの方向に話を進めてみよう。
ボクにとって【部活】ってのは,かなり大きなテーマで,
扱いが難しいというか,軽々に議論の俎上に上げたくないものなわけです。
それはたぶん,
ボク自身の体験として,非常に大きな部分を占めていて,
客観性・一般性を保ちきれない不安があるからなんだろう。
もっと突っ込んで言えば,
ボクの中には,いまだに,「部活」に関わりたいという欲求が大きくて,
その思いが爆発してしまうのが怖いということでもある。
まぁそれは今日は置いておこう。
色々と話が発散しがちなので,
とりあえずココでの部活は運動部ということにしよう。
運動競技というのは,
一定のルールの下で勝敗を競うもので,
だから選手(や監督やマネージャー)は,
そのルールの範囲で行動する人という,
まさに「ロールプレイヤー」だと言える。
競技の「ロールプレイ性」については,
これまでに「野蛮と茶番」というキーワードで語ってきているうちの,
「茶番」に該当するのだと再認識した次第で,
これまでの文章もぜひ読んでもらって次も読んでもらおう。
・茶番と野蛮
・茶番と野蛮 2012夏
・代表戦は代理戦争か
よく「部活は単純な勝負論の世界ではなく教育の場だ」と言われます。
ごく最近で言えば済美高校のエース安楽くんの「投げすぎ」論とか,
部活指導における「体罰」の是非とか,
定期的に問題視されるのに,
それでもいっこうに解決される方向に向かわないのは,
個別の事象を超えた次元で,
「部活」ってものを語ってこなかったせいだと思うわけです。
ボクの「部活を通じた教育」に対する意見は明確です。
競技はロールプレイです。
だから部活で大事なことはロールプレイに徹することです。
指導者も競技者も「競技力の向上」のみに注力します。
そのために,
自分の感情とか,肉体の限界とか,競技技術とか,
そういうものを把握して,抑制して,改善して,
「競技力」を最大化する方向に向けて努力します。
それは日々の練習でも,特別な試合でも,同じ事です。
また団体競技であっても本質はかわりません。
ここで大事なことは,
「競技力」というのは競技のルールの下でのみ成立する能力であって,
本質的に「非普遍的」で「他のことには役に立たない力」です。
それでも「競技力の向上」のために考えた頭や,動いた体は,
ロールプレイをしていても,していなくても,自分の頭であり体であるので,
たとえロールプレイに徹していたとしても,
「意図せず」個々人の生身に「普遍的な能力」が開発されていきます。
それが「部活を通じた教育」の意味だと考えます。
だから,
部活の中で競技とは無関係な「教育」を行う必要はありません。
この考えに基づいて,
たとえば安楽くんの「投げすぎ」について解釈しよう。
監督は済美野球部の監督で,
安楽は済美野球部の投手で,
野球部の目的は「野球競技」での「競技力の向上」,
野球部は「勝利」を目的とするロールプレイ集団なわけです。
だから,
監督は「野球部の勝利のために」安楽に投げさせるし,
安楽も「野球部の勝利のために」自分が投げることを選びます。
「監督は安楽の体のことを考えていない」と言っても,
それはロールプレイの範囲外の話で,
「野球部の監督」として勘案すべき案件では無い。
だから,
また同じような場面があったとしても,
監督は連投させ,エースは連投を望むと思う。
それが「競技のルールの下でチームの競技力を最大化」するための最良の策なので,
当然の帰結なのです。
でも,
安楽くんの体は,高校野球というロールプレイゲームを離れても,
安楽くんの体であり続けます。
競技で壊れた体は,競技を離れても治りません。
じゃあどうすべきなのか。
出口は一つしかありません。
「ルールを変える」ことです。
ルール上で「球数制限」があれば,
その範囲内でチームの競技力を向上させる方向に努力します。
「選手を多数集められる私立校が有利」とかいうのは,
あくまで「競技力の出発地点」の問題であって,
高校三年間での「競技力の向上」とは基本的に無関係です。
長くなってきたので,体罰にからめた話は割愛。
で。
院生になって周りを見渡すと,
学部時代にちゃんと授業に出ていた連中よりも,
授業に出ずにガチ系部活に出ていた連中の方が,
研究が進んでいることが,ままある。(自慢みたいですけど)
イタイくんとか,トーナイさんとか。
それについて「何かに打ち込む力が強い」みたいな言い方をされるけど,
まぁそれはそうなんだろうけど,
じゃあそれは「大学の授業では開発できないのか」って疑問で,
逆に言うと,
部活と授業の違いってなんなんだろうってことで,
そのヒントが「ロールプレイ性」に隠されているんじゃないのかな,と。
学生競技っていう,年限が決まっていて,指導者もロクにいない中で,
いかに競技力を向上させるか,ってことに向き合って暮らすことが,
情報収集・立案・実行・解析・フィードバックという,
まさに研究と同じ作業を,
違う競技のロールプレイとして体験することになっていたわけだ。
そういう意味で,
部活をやっていた連中は「研究の経験者」で,
授業を聞いていた連中は「研究の初心者」なわけだ。
って考えれば,
大学の授業でやるべきことは,
ロールプレイ上,研究と同じ作業をするような「競技」であって,
もちろんいきなり「研究」をさせても良いけども,
「ディベート」とか「演劇」とか,そういうものであって,
「講義と聴講」ではないと確信するわけです。
どんなにダメなヤツでも,言っていることが「ごもっとも」なことはあるし,
どんなにスゴイヤツでも,言っていることが「トンデモ」なこともある。
ダメとかスゴイを,「好き」「嫌い」に置き換えても良いかもしれない。
なにか議論をしようという時に,
メンバーを見て,端から「アイツはアレだから」みたいな色眼鏡でいると,
何も話が進まない。
議論をしていて,
認めていない人格から良い意見が出た時に,
意見には同意するんだけど,
認めていない人格から出た意見にそのまま同意するのはシャクだから,
あらを探して,難癖をつけたり,注釈をつけたり,
そうやって,
相手と自分の「人格の格付け」を変えないようにするってのは,
「良い意見」を確立しようとする場に,
「人格」を持ち込んで混乱させているだけなんだよね。
逆に,
全然まともな意見が出ない議論ってのは,
意見を人格と結びつけられることを恐れているせいなんだと思う。
たとえば,知識が足らずに見当違いな意見を言ったとして,
その意見は即座に否定されるだろうけど,
実際は意見が否定されること以上に,
それが「自分を否定された」ことにつながることを恐れてるんだろう。
実際,そうやって意見と人格を同一視する圧力が強いわけだし。
幼馴染みのスタイリストTATSUOが紹介してくれた,
「表現と自己表現は違う」
ってのも,
まさにこれに該当する話だと思う。
こういう話の類型で,
「科学的な考え方」って話題がある。
「科学的」ってのは,
ようするに「人格」を徹底的に排除して,
事実ベースで客観的な「意見」を抽出すること,と言っても良いかもしれない。
だから「科学的な考え方」を身につけることは重要だ,
みたいな話。
「科学研究」を通じて,
人格と意見の独立を身につけられるってのは,
ある意味でその通りだけど,ある意味でその限りではないとも思う。
それはつまり,
科学者ってのが,
自分の人格から発せられる欲求があって,
それに基づいて研究に取り組んでいるわけで,
ある一個の研究自体に完全に客観的に取り組んでいても,
そのテーマを選んだこと,
科学的なアプローチを選んだこと,
他ならぬ「あなた」が研究をしていること,などは,
どう考えても,主観的にならざるをえない。
だから,
科学研究に取り組んだら必ず人格と意見を独立させる考え方が身につくかって言うと,
ボクはそこにはむしろ懐疑的で,
今まさに直面している事象に対して客観的な解析が出来たとしても,
それは「科学的に見る」ってことを盲信しているという点で,
言い換えるなら,
「科学的でないこと」を言外に否定している点で,不十分だと思う。
なんか脱線してきた。
着地点にしたかったのは,
「人格と意見を独立させて会話できる」ことが社会生活において重要で,
科学研究というのは「人格と意見の独立」を標榜してはいるけども,
かといって,科学研究に従事することは,
「人格と意見を独立させて会話できるようになる」ために,必ずしも良い方法ではない。
むしろ他に,その能力を身につけるのに特化した方法があるならば,
その方法を採用すれば良いのだと思う。
それはたとえば「ロールプレイを含んだ議論」だと思う。
たとえば,
クラスの半分を原発賛成,半分を原発反対に,
個人の信条とは無関係に分割して,議論の準備をさせて,議論をする。
そういう自分自身の中で人格と意見を対立させるような体験を積み重ねることで,
身につけていけるんじゃないかな,と思うわけです。
たぶん,
教育メソッドとして名前がついていて,
注意点とかコツとか,
まとめられていると思う。
たとえばディベートの教育効果の話をすると,
大抵がアメリカの子供たちを例にだして,
「ディベートを授業に盛り込むべき」
「意見を表明することが大事だ」
みたいな論調だと思う。
でもアメリカのそれは,
「人格から発せられる意見の対決によるディベート」であって,
それはそれで,初等教育的な入り口ではあるけども,
あまり大人な社会性を醸成するものではない気がする。
「自分の意見を押し通す」では「人格と意見の独立」はなされていない。
そうじゃなくて,
「【ロールプレイ】によるディベート」が重要なのですよ。
で,
そういうことこそ,大学教育で,教養として,やるべきじゃないかしらね。
Tweet
どんなにスゴイヤツでも,言っていることが「トンデモ」なこともある。
ダメとかスゴイを,「好き」「嫌い」に置き換えても良いかもしれない。
なにか議論をしようという時に,
メンバーを見て,端から「アイツはアレだから」みたいな色眼鏡でいると,
何も話が進まない。
議論をしていて,
認めていない人格から良い意見が出た時に,
意見には同意するんだけど,
認めていない人格から出た意見にそのまま同意するのはシャクだから,
あらを探して,難癖をつけたり,注釈をつけたり,
そうやって,
相手と自分の「人格の格付け」を変えないようにするってのは,
「良い意見」を確立しようとする場に,
「人格」を持ち込んで混乱させているだけなんだよね。
逆に,
全然まともな意見が出ない議論ってのは,
意見を人格と結びつけられることを恐れているせいなんだと思う。
たとえば,知識が足らずに見当違いな意見を言ったとして,
その意見は即座に否定されるだろうけど,
実際は意見が否定されること以上に,
それが「自分を否定された」ことにつながることを恐れてるんだろう。
実際,そうやって意見と人格を同一視する圧力が強いわけだし。
幼馴染みのスタイリストTATSUOが紹介してくれた,
「表現と自己表現は違う」
ってのも,
まさにこれに該当する話だと思う。
こういう話の類型で,
「科学的な考え方」って話題がある。
「科学的」ってのは,
ようするに「人格」を徹底的に排除して,
事実ベースで客観的な「意見」を抽出すること,と言っても良いかもしれない。
だから「科学的な考え方」を身につけることは重要だ,
みたいな話。
「科学研究」を通じて,
人格と意見の独立を身につけられるってのは,
ある意味でその通りだけど,ある意味でその限りではないとも思う。
それはつまり,
科学者ってのが,
自分の人格から発せられる欲求があって,
それに基づいて研究に取り組んでいるわけで,
ある一個の研究自体に完全に客観的に取り組んでいても,
そのテーマを選んだこと,
科学的なアプローチを選んだこと,
他ならぬ「あなた」が研究をしていること,などは,
どう考えても,主観的にならざるをえない。
だから,
科学研究に取り組んだら必ず人格と意見を独立させる考え方が身につくかって言うと,
ボクはそこにはむしろ懐疑的で,
今まさに直面している事象に対して客観的な解析が出来たとしても,
それは「科学的に見る」ってことを盲信しているという点で,
言い換えるなら,
「科学的でないこと」を言外に否定している点で,不十分だと思う。
なんか脱線してきた。
着地点にしたかったのは,
「人格と意見を独立させて会話できる」ことが社会生活において重要で,
科学研究というのは「人格と意見の独立」を標榜してはいるけども,
かといって,科学研究に従事することは,
「人格と意見を独立させて会話できるようになる」ために,必ずしも良い方法ではない。
むしろ他に,その能力を身につけるのに特化した方法があるならば,
その方法を採用すれば良いのだと思う。
それはたとえば「ロールプレイを含んだ議論」だと思う。
たとえば,
クラスの半分を原発賛成,半分を原発反対に,
個人の信条とは無関係に分割して,議論の準備をさせて,議論をする。
そういう自分自身の中で人格と意見を対立させるような体験を積み重ねることで,
身につけていけるんじゃないかな,と思うわけです。
たぶん,
教育メソッドとして名前がついていて,
注意点とかコツとか,
まとめられていると思う。
たとえばディベートの教育効果の話をすると,
大抵がアメリカの子供たちを例にだして,
「ディベートを授業に盛り込むべき」
「意見を表明することが大事だ」
みたいな論調だと思う。
でもアメリカのそれは,
「人格から発せられる意見の対決によるディベート」であって,
それはそれで,初等教育的な入り口ではあるけども,
あまり大人な社会性を醸成するものではない気がする。
「自分の意見を押し通す」では「人格と意見の独立」はなされていない。
そうじゃなくて,
「【ロールプレイ】によるディベート」が重要なのですよ。
で,
そういうことこそ,大学教育で,教養として,やるべきじゃないかしらね。