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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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地球のあらゆるフィールドに出向いて,
試料を採取して持ち帰り多種多彩な分析にかけ,
そうして出てきたデータを解析することで,
地球の姿を明らかにしようとしているような,
われわれ地球科学者にとって,
研究分野の人口,つまりはマンパワーというのは,
研究を進める上で重要な要素だ。

たぶん,
生命科学/生物学者にも,同じようなことが言えると思う。
(だからこそ「ピペド」が必要なのだろう)

その一方で,
理論物理学が扱うものが,
終始一貫して「理論」なのであるとすれば,
数量の意味でのマンパワーは研究推進に必ずしも重要では無く,
たとえそれが必要だとしても,
それはとてつもなく低い確率で出現するはずの,
「質」の高い人材,いわゆる天才,が現れる期待値を稼ぐためなのではないのか。
そんな風に考えていた。
たぶん,
ボク以外の多くのフィールド/実験科学者も,
そのように考えていると思う。

そんな疑問がある中で,
理論物理学者であり,
同時にボクと同じくツイッター芸人でもある阪大/理研の橋本さんが,
サイエンスアゴラに(自らを)出展されるということで,
その様子を見た後で,
かねがね抱いていた質問をぶつけてみたのである。

「大天才がポッとあらわれたら,その人だけで理論物理の研究は進むのでは?」

もっと失礼な表現を使ったような気もするが,
まぁそういう質問をしたところ,
橋本さんと,一緒に展示されていた初田さんという理論物理学者が,
口を揃えて「それは違う」とおっしゃられた。

たとえば,ということで,
過去の,いわゆる大天才と言われるような人の例をあげ,説明してくれた。

いわく,
「アインシュタインは様々な人との議論を経て相対性理論を前半生で提案した後,
 後半生は一人で難問に取り組んだが,結局,その問題を解決できなかった」
とか,
「湯川さんのノーベル賞を受賞した仕事の論文は符号が間違っている箇所がある。
 (結果的にそれはマイナーな部分なので仕事の価値を損なってはいないが)」
ということだった。

これで理論物理学と研究者の数について,
かなり印象が変わった。

今回,ボクの抱いたイメージでいうと,
最先端の最先端の,究極真理に到達するためには,
その手前の部分にしっかりとした土台が必要である。
それ無しに最先端を目指しても,
どこかで曲がってしまったり,折れてしまったりする。
(アインシュタイン後半生や湯川論文)

やはり最先端に到達するための土台として,
理論物理学の先端(最先端ではない)を熟知している人間が一定数必要で,
そこでアイデアを出し検証する議論を交わすことこそが,
早く,正確に,最先端を見出し,究極真理に到達する一番の近道である,
もちろんステキなアイデアを出す天才の登場は歓迎されるが,
別にそれが無くとも(?),あるいはそれがあったとしても,
先端研究者の議論(重要なのは検証)を通じてのみ,最先端に到達できるはずだ。
と,
そういう意味で,
理論物理学にたくさんの研究者が必要なのだろう。



で,
急にしょうもない話になる。

やはり,理論物理学においても,
研究の進捗を「急がない」のであれば,
研究者人口が少なくなっても,
つまり,
「いつか必ず究極真理が明らかにされる」
という信念を持って知見を積み上げていくことで,
究極真理に辿り着けるのであれば,
研究者人口が減ることを受け入れることが可能なのではないだろうか。
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格闘色の強いプロレス団体の台頭してきた時代。
そのただ中にあって,
プロレスの老舗新日本プロレスの強さの象徴であるエース橋本真也。

一方の小川直也。
柔道界最強ではあったものの,
柔道体型・柔道技術をベースとしたプロレスではファンの心を掴めず,
プロレスへ転身してからは鳴かず飛ばず。
リングに上がることも少なくなっていた。

そんな中で組まれた橋本vs小川。
花道から現れた小川は脂肪を削ぎ落としすっかり肉体改造。
手にはグローブ,足にはレガース。
マウスピースをはめてギョロ目を剥く。

試合がはじまるや,小川はまったくプロレスをせず,一方的に殴る蹴る。
あっけにとられた橋本はやられるがまま。

強さの象徴である橋本を無残な姿にして言い放った一言が,
「新日本プロレスファンの皆さん,目を覚ましてください!」
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新日本の橋本に強さを見出し会場に足を運んだ観客の心を動かした事件。



研究発表で聴衆の考え・思いを180度ひっくり返そうと思ったら,
これぐらいの劇的な舞台・状況・パフォーマンスが必要なんだよ。

というような話を聞いたのでメモ。
対外試合。
18歳ぐらいとかいう謎の集団が相手。
会場の中学に到着すると,大型スクーターがずらりと並んで,
そこにたむろするガラの悪い若者多数。
実際,サッカーをやったのは15人にも満たなかったが,
全部で30人ぐらいいた。
他の連中はなんだったんだろうか。

で,試合分析。



ピッチの縦が短いのが特徴。
GKが大きく蹴ると相手最終ラインに届く感じ。
両軍ともゴールキックはすべてドカ蹴りだった。

敵軍で抜群にうまいのは,一人でCBをこなす18番。
上背もあるし,動きすぎないで冷静。
攻め手では20番と9番が素早くて足技もあってやっかい。
でも意外と仕掛けてくる感じでもなかった。
この二人が1on1をもっと仕掛けてきたら全然違うゲームになっていただろう。

敵軍の攻め方は中盤高めのサイドで人数をかけて,
崩しながら中に侵入していくパターンばかり。
縦に抜けてクロスを狙っている様子はなかったし,
大きなサイドチェンジも大胆なミドルもなかった。
そこまでキック力がある選手もいなかったのかもしれない。

これに対し自軍は4-2-3-1で中央突破を狙う。
ゴールキックがワントップまで飛ぶので,
こぼれを回収して裏抜けすればシュートまでは容易にいけそうな感じではあった。

という双方の特徴があって,これの噛み合わせ通りの試合展開になった。

自軍は4バック2ボラ(+1トップ下)がしっかりひいて守るので,
サイドの狭いエリアに密集が出来て,
敵軍の足技よりもボールの接点でのボディコンタクトが強調され,
足技と敏捷性では劣りながらも攻撃を食い止められていた。

一方,攻撃に転じると,中央突破を指向しているものの,
しっかり守ってカウンターなため,どうしても攻め手が足りない。
また敵陣角がすっぽり空いているもので,
中央突破指向ながらついついサイドに流れてしまったりして,
統一感のある攻撃が出来ず,ゴールが遠かった。

つまり,
【敵軍がサイドで押し込む】
+【自軍はサイドで攻めない】
=【自軍ウイング不要】
というのが改善ポイントだった。

また相手18番の1CBに対してこちらがワントップで挑むのも,
(トップ下が守備に駆り出されていることもあり)
あまりバランスが良くなかった。

そこでウイングを削って守備要員を増やし,
さらにインサイドでの攻撃要員を増やせば,
たとえば4-3-1-2とか,
守りきりながら攻められたのでは無かったかと。


個人的には,はじめの10分のワントップ以外はサイドバックで,
まったくスピードで叶わない9番20番と対峙してヘロヘロだった。
近づきすぎるとかわしにくるので,ちょっと距離をあけて,
サイドを縦にいくように仕向け,角に追い込んでコースを限定するので精一杯。


深海「特殊」じゃない。
むしろ何をもって「特殊」なのか。
「普通」と「特殊」という考えが,どうかしてる。

たとえば面積で言えば,
地球の七割は海だ。
じゃあ海と陸,どっちが「特殊」だ?

深海はずっと冷たくて暗くてたくさんの水がある。
それが地球の七割を覆っているすべての海域でほとんど同じだ。

そんな深海から見て,
太陽が昇って降りて,
風が吹いて雲がかかって雨が降って,
季節があって地域があって,
そんな陸にこそたくさんの「特殊」があるんじゃないか。

キミたちにとっては今住んでいる「XX」が「普通」かもしれない。
でも,たとえばボクにとっては「宝塚」が「普通」かもしれないし,
「札幌」や「沖縄」だって「普通の日本」かもしれない。

そうやって色々と考えると,
やっぱり地球上のどこかを「普通」って考えるなら,
「深海」こそが「普通」じゃないか。

「深海」にはたくさんの水があって,
それが「深海」を安定した場にせしめている。

たとえば水槽で魚を飼ったら,
水を入れ替えないと死んでしまう。
それは排泄物などが蓄積するから。
でも深海は水がたくさんあるから,
「無限希釈」によって,そういうことは問題にならない。

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話はかわって,
高校の理科では,物理・化学・生物・地学がある。

「生命の起源」を考えるのに,
化学物質から生物をつくる「合成生物学」がある。
これは化学側から生物を考えるというアプローチ。
でも,そうやって出来た完璧な「生物」がいるとして,
キミ達はそれを「生物」だと思うか。
たぶん,直感的には「それは生物じゃない」と思う,と思う。

そもそも「生命の起源」に興味を持つのは,
「ボクはいったいナニモノなんだろうか」みたいな話で,
だから「親の親の,そのまた親の・・」という考えこそが,
「生命の起源」に興味を持つ源泉なんじゃないか。

そうやって遡って考えると,
「今の地球上にいる生物の祖先の祖先の,そのまた祖先の」
ってのは,
1つの生物に辿りつくはずなんじゃないか。

じゃあそうやって,40億年前から生きながらえてきた生物がいるとして,
そいつはどんなところに住んでるんだろうか。
こっちが地学側から生物を考えるアプローチ。
ボクはこれをやっています。

で,
こたえは,はじめに話したことに戻ってくる。
「深海」は安定で,広くて,ずっと同じ。
(もちろん酸素が増えた25億年前とか,環境は変わっているけど,短期的には)

そうやって考えると,
「地球の生命」のどいつが「普通」かっていったら,
深海の微生物だよね。

ちゃんちゃん。
増田聡 ‏@smasuda

「「脱落しているひと」の目線を本当に完全に見失っちゃった」人って確かにおるなあ。ほんまにおる。そういう人は守衛のおじさんとか掃除のおばちゃんとかをそこにいない空気のように扱う。ほんまになにもない空気のように扱う

オレは子供二人おるけど保育園行く道でよく会うゴミ収集車の兄ちゃんと守衛のおじさんに挨拶を欠かしたら叱る。偉い先生とかはまあケースバイケースでええけど、ゴミ収集車の兄ちゃんとか守衛のおじさんには具体的に生活のお世話になってるやろが挨拶せんとは何事やと

すごくええことマスメディアとかでゆうてたり書いてたりする偉い人でも自分より「社会的立場が低いと一般に思われている相手」に対してナチュラルに横柄な態度で接する人がたまにおる。例えば居酒屋の店員を召使い扱いするような人。いったんそういうとこ見てしまうともうあかんな。人として

「すごくええことネットとかで書いてたりする人」でも一緒やねん。ゴミ収集車の兄ちゃんに挨拶してるか?生活の世話になってる人に挨拶できんような連中が偉そうに天下国家論じてもあかんやろ、とおもいます。けっこう気の良い兄ちゃん多いでゴミ収集車の兄ちゃんら。さあ明日から!

職業に貴賎はあるよ。他人の生きる死ぬをいろんなかたちで支えることが目的の仕事は尊くて、自分がカネを儲けたり周囲の羨望を集めたりする目的に純化するほど卑しい。個人的にはそうおもいます
酔っ払いながら書きます。
それも含めてのエントリーなので。
今後の考察のメモとして。

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社会を営む人間として,
本能的な部分を制御して暮らしている側面がある。
その制御しているものの性質を,
「羞恥」と「残虐」にわけてみよう。
これが今日の思考実験の作業仮説。

社会と関係ないのか,社会生物としてなのか,
それはわからないけども,
誰しも「羞恥」と「残虐」の精神を持っている。
(持っていないヒトがいるかもしれないけど)

あ,やっぱり羞恥と残虐は対応してない気がしてきた。

まぁいいや。

心の中にある「理想」を全開にすることの恥ずかしさが「羞恥」で,
心の中にある「欲求」を全開にすることの危険性が「残虐」で,
みたいなイメージ。

高校野球とか,サッカー日本代表とか,
まぁトーナメント的なものを観戦する楽しみは,
そこに生まれる「敗者」に対する哀れみの心で満足する自分,
あるいは「勝者」としての恍惚で満足する自分,
そういうところにあるように思う。
これは「残虐」にあたると思う。

プロ野球とか,Jリーグとか,
リーグ戦的なものを観戦する楽しみは,
結末がわからない,あるいはわかりきった中で,
それでもそのプロセスを歩んでいくその姿を偏愛するところにあり,
それは「羞恥を捨てる」ところにあるかもしれない。

AKBがセックスアピールをウリにしてるのは,
性欲という残虐性を刺激していて,
それはじゃんけん総選挙みたいなトーナメントと親和的で,
そういう「残虐な物語」の刺激が彼女たちの魅力なんだと思う。

ももクロが「全力」をウリにしているといわれるのは,
「わたしたち泣いている人に何ができるだろうそれは力いっぱい歌って踊ること」
に象徴されるように,
「その成否は問わず」という姿勢を「恥じないで」尽くす姿勢に,
「羞恥を捨て去った」パフォーマンスが魅力なんだろうと思う。

まったくうまくかけない。
でもまぁ,そういうことなんだよ。

「野蛮と茶番」って話にすると,
「野蛮」ってのは「動物としてのヒトが持つ本能」という実像に従うことで,
「茶番」ってのは「社会的生物としてかくあるべし」って虚像に従うこと。
あら,こっちの方がスッキリいくかも。

ということで,
どういうこと?

野球とかサッカーとか,
そういうククリで考えている以上は,
「WBCや高校野球は盛り上がるのにNPBは盛り上がらない」とか,
「日本代表は盛り上がるのにJリーグは盛り上がらない」とか,
そういうくだらない考えに拘泥しているうちは,
解決策は出てこない。
だって,
そもそもの「満たしている感情」の種類が違うのだから。

「野球vsサッカー」じゃなくて,
「残虐vs羞恥」というか,
「野蛮vs茶番」というか,
そういう風に考えないと,
ゴールが見えてこない。

死に様と生き様。
これも違うな。

「コアサポ」の一部が問題視さるのも,
あれは残虐に走っているからで,
そういう意味であれは「サポーター」ではないのだよね。
「サポーター」ってのは,むしろ羞恥を捨て去った,母性的なもの。
滅私奉公じゃないけど,そういうことで得られる満足感が,
「サポーターイズム」の本質なんだろう。

あれ?
「父性」と「母性」なのかな?

もう全然ダメだな。
やめやめ。


追記

以前,カツカワさんが,
「匿名でのネットなんて,何を書いてしまうかわからなくて怖い」
みたいな話をしていた。
ボクもこっち側。

こっち側じゃ無いのは,
「匿名なら,こんな残虐なことも吐き出せる」
という側。

どっちがどっちというわけじゃなく,
ボクもそうだけど,
ネット上で実名で書いていることは,
生身で話すと「恥ずかしいようなこと」だったりするわけで,
一方で2chに代表される匿名でのアレは「残虐なこと」だったりして,
そういうことなんじゃないかな。
何かをする時に,
「なんで,何のためにこれをやるのか」
と自問自答することを考えてみる。

自分のやっていることを,
ただ「習慣だから」とか「言われたから」とか,
そういう風な理由で納得してしまうというのは,
精神的には奴隷に等しい。

この精神的な隷従から自己を解放し,
自ら決断して行動できるようになることを,
「大人になる」というのではないか。
「一身独立する」の第一歩だろう。

これに対し,「まだ子供」である人に対して,
「いいから黙ってやれ」ということがある。
ここで「子供」の側を眺めると,
言われるがままに黙ってやるのは,
「良い子供」ではあるが「大人」ではない。
でも,言われても「なんで?」と言ってやらないのは,
自分の判断基準を過信している「バカな大人」である。

この「言い子供」と「バカな大人」を通過して,
「大人」にならしめるためには,
やはり幾分かの「いいから黙ってやれ」が必要なんだろう。

だからこそ,
「大人」は「黙ってやれ」という内容と態度について,
かなり重大な責任を持っていなければならない。
内容や態度が「子供」の成長段階と噛み合わないと,
子供を子供のまま張りつけてしまったり,
バカなままの大人にしてしまったり,
そうなってしまう。

スポーツ指導なんかだと,より顕著かも。
指導者の力量。
「独立の気力なき者は必ず人に依頼す,
 人に依頼する者は必ず人を恐る,
 人を恐る者は必ず人に諂うものなり。」
(福沢諭吉「学問のすすめ」第三編)

「私徳・私情に動かされるのは子供の常であろうが,
 公徳・公情をもって他人との関係を組み立てるのが,
 大人たることの証だといってよい。」
(西部邁「福沢諭吉」p82)



仕事が仕事である以上,
重要なのは成果であって,
その過程ではない。

もちろん,
その人の人生において「自分で成し遂げた」という達成感を得ることは,
仰々しく言うならば,生きている意味ですらあるだろう。

それでも,
他人から見れば仕事は仕事なので,
投下された労力やそこからくる達成感は問題ではなく,
やはり成果の質が重要なのだ。

それは従業員が出資者に対しての責任を果たすという意味での仕事でもあって,
我々のような税金で仕事をしている人間にとっては,
納税者に対しての責任を果たすということだろう。

黒川清さんは,
「Accountability:アカウンタビリティ」を「説明責任」とするのは誤訳であると指摘している。
税金を使って仕事をしている我々が納税者に対して担っている責任(Accountability)は,
「説明責任」ではなく「与えられた責務を実行する責任」ことである。

給料をもらっている時間に,
自己満足のために,
時間を浪費して低劣な成果を作り上げることは,
Accountabilityの観点から見て,どうなのだろうか。

そういう自問自答。
ある職業で口に糊しているということは,
「その職務を遂行する上で必要な能力を有している」と,
周囲から信任を受けていると言えるんじゃないだろうか。

その周囲からの視線から責任感と矜恃を抱いて職務を遂行することは,
いわゆる「いきがいとしての仕事」といえるかもしれない。

でもやっぱり「口に糊」の部分を考えると,
「いきがい」は当人のものであって,
それがあってもなくても,
「職務遂行」はなされなくてはならない。

職をえるにあたって,
事前審査において「能力を有する」と判断されたとしても,
実際に職務にあたって,
「その能力に欠ける」ということが判明したら,
それは「職を失する」という結論に至っても致し方ない。

他人の判断はこの際どうでもいい。

本人に「能力に欠ける」という自覚があるなら,
「職務を遂行する」という名目で給金をえるという事実について,
端的に言えばそれが「詐欺」であるという自覚も有するべきである。

そしておのれが詐欺師であるという事実を引き受けた上で,
また「職務を遂行出来ない」という自覚を持った上で,
それでもその仕事にあたることに「いきがい」を「感じる」ことは,
何人たりともそれを否定する権利を有さない。

しかし,その「いきがい」を「奪う」権利はある。
なぜなら,その職務が与えられているのは,
「職務を遂行できる」という一時の判断によってなされたものであって,
「職務を遂行出来ない」という判断が下された場合においては,
その職務に就かしめる事由が消失したことを意味するからである。

職業人の責任というのは,
「職務を遂行する」ということにあるわけだから,
「職務を遂行できない」と自覚しながらその職にあり続けるのであれば,
「おのれは責任も放棄し,詐欺によって給金をえて,その立場にあるべき人の機会を奪っている」という,
とうてい許されがたい態度にあるということから,目を背けるべきではないだろう。

そしてもし,
当人の自覚において「職務を遂行している」と感じていながら,
それが周囲から見て「職務を遂行できていない」ということであれば,
その自覚を促すか,
あるいは職を解くか,
いずれかの対応をとらなければならないだろう。
それは他の職業人の矜恃を損ない,他の人の機会を不当に奪い,
ひいては世を乱していることに他ならないのだから。

プロフィール
HN:
kawagucci
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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