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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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子供の頃に学校で第一次産業とかなんだとか習って,
その分類はテストに出てきたと思うんだけども,
分類基準みたいなものがなかなか飲み込めなくて,
なんとなく苦手意識みたいなものがあったことを覚えている。
ものすごく偏った記憶だけども。。。
なのであらためて考えてみた。

自分で考えてみたことなので,
元々の教科書的なクラークの分類とは異なるのだろうけど,
それはそれ,これはこれ。

はじめにまるっと書いてしまうと,
・一次産業:人間が食料を獲得するための産業
・二次産業:一次産業の効率を向上させるための産業
・三次産業:二次産業の効率を向上させるための産業
・以下続く
ということにしてみた。

考え方としては,
人間は食料が無いと生きていけない。
これを逆に見直して,
生きていくのに不可欠なものだけを一次産業ということにする。
だから農業とか漁業とかは一次産業。
一次産業の成否で人間がコントロールできるのは効率だけで,
食料の総量は食料となる生命の繁栄力に依存する。
人間はコントロールできないから,その部分は産業では無い。
あくまで食料を獲得することが一次産業。

つづいて二次産業は,
一次産業の効率を向上させるための産業としてみた。
たとえば農業重機があれば農地面積を拡大できるし収穫も効率化する。
だから,その重機を作る産業は二次産業。
漁業だったら船をはじめとする漁具の生産が二次産業だし,
岸壁の整備も二次産業に分類できる。
車や道路だって人や食料を運搬する効率を向上させるモノだから,
これらの作成や整備も二次産業。
さらに言えば,
天候に強く外敵から襲われない環境の整備(家の建築)も,
生存のための家事負担を軽減させ,
一次産業に従事する時間を増加させるという意味で,
二次産業に分類できる。

じゃあ他の職業が三次産業なんだろうか。
広告とか金融とか人材派遣とかは,
二次産業の円滑化という意味で三次産業っぽい気はする。
でも中間マージンであって産業じゃ無い感じもする。
飲食業や医療に関わる職業は,
どう扱っていいのかわかんないけど,
一次産業や二次産業の従事者が元気になって作業効率があがる,
って考えるなら,
三次産業と呼んでもいい気もする。


と,
簡単にまとめるとこんな感じのことを考えて,
そこを出発点にしてみると,
三つのことを考えることができる。


一つ目は,グローバル経済と国家経済。
「日本はモノ作り立国」とか何とか言ってるけど,
それはつまり二次以上の高次産業のことなわけだ。
でも二次産業は一次産業あってのことだろうから,
じゃあ一次産業はどこにいったのよ,と思い,
それはたぶん輸入なんだろう。
「産業の空洞化」って言葉を使う時は,
「部品と製品化」の分業が国内外に分離することを指すのだろうけど,
「一次産業と二次産業が国内外で分離」することは,
なんて言えば良いのだろうか。
グローバル経済の観点で見れば,国内外に垣根は無いから,
空洞化なんてことは原理的に存在し得ないんだけども,
実際には国家という枠組みで地球上の人類が生活しているわけで,
(今まさに日本と周辺諸島の領土問題が大変なわけで)
国家経済を考えると,
一次産業の空洞化は大変な問題かもしれない。
何が問題って,
食料自体を輸入に頼っていることも大問題なんだろうけども,
それに加えて,
「一次産業なき二次産業」は成立しないわけで,
つまりは,
「一次産業しかない国」と「二次産業しかない国」があって,
グローバル経済でグルグルしている間は問題ないけども,
ある時にそれぞれの国家経済に分断されるとなると,
どっちが生き残るのって,そりゃもちろん前者なわけで,
今なんとなく後者の方が先進的みたいな考えでいるかもしれないけど,
そんなこと全然なくて,
我々が人間で,国家という枠組みで生きている以上,
最低限,人口をまかなうだけは,
国内に一次産業があるべきだし,
その一次産業を支える二次産業も必要だろう。
そのパッケージが国内に整備されていて,
その前提があってはじめて,
残りの余剰人口的な部分で,
三次産業なりグローバル経済なりを回せば良い。


二つ目は,燃料エネルギーや鉱物などの非食料資源について。
こうした資源は,直接人間が食べるわけじゃ無いので,
資源の獲得は一次産業には分類されない。
一方で,
こうした資源は二次産業に不可欠な基礎となっている。
それはつまり,
二次産業より一段低次ということであって,
そうすると一次産業なのか,ということになる。
ボクはこの部分,つまり,
「資源獲得は一次産業なのか」
という問いは,結構重要な意味を持っていると思っている。
今,一般に世間に流通している観念的には,
資源獲得は自然からモノを取り出すという意味で,
感覚的には一次産業ということになっている気がする。
でも,決定的に,
資源は食料では無いし,
二次産業が無ければ無用の長物である。
だから資源獲得は,
二次産業の一部と見なす方が良いと思う。
まぁこの部分の考え方が,
先のグローバル経済と国家経済の部分の要諦でもあって,
難しいところなのだろうけども。

で,
最後の一つは,科学研究は何次産業なの,ってこと。
科学に対する「なんの役に立つんですか」は,
科学研究活動を高次産業として捉えているものだと思う。
たしかに先端的な科学からうまれる技術は,
高次産業にあたるし,
その技術を生み出すための科学は,
その技術より一次分だけ高次な産業と捉えられるだろう。
でも,
技術開発のためじゃない科学は,
どう扱ったら良いんだろうか。
つまり,
超高次産業なのか,否か。
否,というのは,
そもそも産業構造にカウントできないものってことで,
何次産業でもありませんよ,という立場。
芸術関係も,同じようなことを考えてしまう。


ということをボンヤリ考えていたら,
水泳の雑誌で,
鈴木大地と佐藤克さんが対談していて,
そこでの佐藤さんの,
「科学は考え方の幅を広げるもの」
という考えに膝を打った次第。
なるほどね。
(しかしバイオロギング装置でバサロを解析ってのは面白い)

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8月6日はいわゆるヒロシマの日です。

戦争のない平和な世界に思いをはせる日を持つことは,
それで意味があると思います。
とはいえ,
オシム爺に言わせれば,
「戦争から教訓を得たら,戦争が必要だったということになってしまう」
わけで,
ヒロシマがあったから,ではなく,
日々の生活の中で絶えず平和な世界を願っていたいモノでもあります。

以前,石破茂の本だったか,出典は忘れてしまいましたが,
とにかく政治の世界の人の言葉で印象に残っているものがあります。
それは,
『「唯一の被爆国」という言葉/ロジックは,まったく受け入れられない』
ということです。
これはボクの直感とも一致します。

日本が「唯一の被爆国」であることが,
たとえば「核兵器の廃絶」や「核の平和利用」を訴える上で,
本当に意味があることなのでしょうか。
ボクはそう思えません。
たとえ日本が被爆国でなくても,
平和を思う気持ちから「核兵器の廃絶」を訴えることの意味や価値は,
まったく損なわれるものではないと思います。

そうであるにもかかわらず,
「唯一の被爆国」ということを,日本が自ら訴えることに,
どういう意味があるのでしょうか。

たぶんそれは,現代日本に蔓延している,
「弱者の声こそ聞くべき」
「私は弱者である」
「だから私の声を聞け」
という三段論法の正義なのだと思います。

でも,世界から見て,
核大国アメリカの軍事力の庇護下にあり,
原子力エネルギーを大いに利用し,
戦後の混乱を脱し先進国として確固たる地位を築いている日本は,
少なくとも弱者ではないし,
つっこんで言えば,
「本気で核廃絶を願っているとは思えない」
でしょう。

本質的な部分を見つめると,
核廃絶の理念の真意は,
「核」の放棄ではなくて,
「大量破壊/殺人兵器」の放棄なのだと思うのです。
つまり,
他の国では今なお戦争状態にあり,
いつ大量破壊兵器の引き金が引かれるかわからない状況にあり,
現実に今日もまた人が殺されている現実があるわけで,
そんな状況下で,
「日本は唯一の被爆国」
という言葉からは,
魂を揺さぶるような訴えを感じることができないだろう。

もちろん,個々人の思いとして,
被爆経験から核兵器や戦争を憎み,保障を求めることは,
この論とはまったく別の次元で存在してかまわないと思うし,
ボクは現実を把握できていないけど,
心を配っていくべきことだと思う。

話が行ったり来たりしてきた。

とにかく,
ボクが言いたいことは,
「唯一の被爆国」とか「非核三原則」とか,
そういう目先の事象を掲げるのでは無くて,
「誰もが誰かに殺されることの無い世界を」
ということじゃないか。
細かく言えば,
「人が殺される」
というのは生物学的なものを超えて,
「人格を否定する」
ような社会的なことも含まれる。
これが戦争や兵器に対しての立場や経験を超えて宣言できる真理であり,
それこそ「ヒロシマの日」という機会に,
真剣に考えたい世界の未来なのではないだろうか。


最後に蛇足とわかっていながら書き記すと,
ヒロシマの日において,
「唯一の被爆国」と並んで「原発事故」を言い立てて,
あげく「原発廃止」を訴えることは,
はっきり言って,冒涜だ。

前回は「論理と判断は直結しない」と言ってみた。
今回は「判断」を決める「判断基準」について。

判断ってのが論理と直結しない以上,
判断基準は本質的にすごく私的なものということになる。
個々人の人生哲学のようなものだ。

たとえば肉を買いに行って,
1000円の米産と,
1500円の日本産とが並んでいて,
「同じ肉なんだから安い方が良い」と思うか,
「日本産の方が安全安心な気がする」と思うか,
「日本の(あるいは米国の)農家を応援します」と思うか,
そんな判断基準は大変に私的なことだ。
誰でも自分で決めて勝手にやれば良い。

でもそんな私的な判断基準を貫こうというのは,
なかなか簡単なものではない。
たとえば自分自身で「日本の農家を応援したい」と思っていても,
もう本当に経済的に困窮してしまっていたら,
1500円より1000円の方が大変に助かるわけで,
1000円の米国産を買ってしまいたい気持ちが大きくなってくる。
自分の哲学を,自分の置かれた状況が許さない,ように思える。

そこで米国産に手を出す人もいるだろう。
それを「君は軟弱だ」と言って責めようとは思わない。
なぜなら「確たる判断基準を持たない」というのも,
それはそれで何の問題もなく存在していい1つの判断基準だから。
もちろん「毎回毎回判断に悩む」ということはあるだろうけども,
悩むことすらも楽しめてしまえば,本当に何の問題もない。
楽しい人生を送ることが出来るだろう。

そういう意味で,
確たる判断基準を持つということは,
大変に窮屈で息苦しい人生を歩むことを受け入れることかもしれない。
たとえば「米国産は汚染が懸念されるから」と考えて忌避し,
しかし日本産を買うほどの経済的な余力もない。
そんな状態に陥ってもなお,
「汚染した(しているかもしれない)モノなど食べたくない」と言って,
栄養失調に陥り死に至ることもあるだろう。
「健康を害するものを食べるぐらいなら餓死する」という判断は,
他人から見れば滑稽に映るかもしれない。
でも当の本人からすれば,自らの信条を貫徹したに過ぎない。
判断基準というのはそういうものだ。


では,
私が何を食べるかのような極めて私的なことではなく,
たとえば会社での振る舞いなど,
公的な場での判断ではどうだろうか。

会社で上司から仕事を言い渡される。
1つは,
自分ではやりたくない仕事であっても,
「会社の業績のためだ」と思ったり,
「上司に逆らうのは面倒だから」と思ったり,
「出世したいから」と思ったり,
判断基準は色々とあるかもしれないが,
とにかく実際には言われたことをやるケース。
仕事が大好きで進んでやるというのもコチラだ。
一方で,
「やりたくないことはやりたくない」と思ったり,
「この仕事は会社のためにならない」と思ったり,
「あの上司の言うことは聞きたくない」と思ったり,
結果的に見れば,とにかく仕事をしないケース。

いずれにしても,
個人の判断基準については,他人が強要することは出来ない。
しかし,
公的な機能に属している以上,
振る舞いは公的な判断基準に則したモノであることが求められる。
それは個人に対して公的な機能が判断基準を強要しているわけではない。
繰り返すが,判断基準は哲学であり,強要される性質のものではない。
そうではなくて,
私的な判断基準とは別物として,
公的な機能の判断に従うことが求められるということである。

だから,
公的な機能の判断と私的な判断が異なった場合に,
個人がとれる態度は基本的には2つで,
自らの判断基準を歪めるか,
公的な機能から離脱するか,だ。
いずれも個人に多大な負担が襲いかかる。
自身の判断基準を持つということは,
そういう負担を抱え込むことを引き受けると言うことだ。
そこまでして判断基準を持つ必要なんて無いとすら思える。
しかしそう言っても論理と判断は直結しないわけで,
判断基準というのは何かわからないが自分の中にあるモノなのだから,
それはもう,いかんともしがたい。
確たる判断基準を持って社会生活を営むと言うことは,
公に属しながら私を貫かんとすることであり,
本質的には矛盾を抱えており,
それは自分の身に怪物を飼っているようなものであろう。

少し話は変わる。

先の話の中で,
公と私の判断が異なった場合に個人がとれる態度は基本的に2つとしたが,
これには前提がある。
それは「公的な機能自体が確たる判断基準を有している」ということだ。
つまり上記の基本的な2つの態度以外に,
もう1つの態度がありえる。
それは「公的な機能の判断基準を変える」ということ。

通常,公的なものは,
私的なものに比して大きな存在であり,
多数の私の複雑な関係性の上に成立しているものであるから,
判断基準を変更することは容易ではない。
ましてや一個の私的な提案を受けて公的な判断基準を変えることは,
意図せずとも他の多数の私を軽視することにもつながる。

ここでこの論の重要な部分なので,あらためて記述するけども,
「私」というのは完全に「私」であって,
それぞれ互いに平等かつ独立した存在であり,
身分や立場による「重み付け」を持たないものである。
仮に「私」に「重み付け」がされて,
ある「私」ともう1つの「私」の間に差が生じるならば,
それはもはや「公」と見なされるべきである。

話は戻って,
公的な判断基準は私的な提案によって変わるか。
変わるためには,どのような条件が満たされるべきか。
絶対に守られるべきは,
公に属する「すべての私」に資する方向に向かう提案であること。
「特定の私」あるいは「大多数の私」に資するとしても,
「一部の私」が不利益を被るのであれば,
そのような変更には極めて慎重な態度が要求される。
しかし,
この「一部の私」にも例外はある。
それは「提案する私」である。
つまりこういうことだ。

「私は,この公に属するすべての私に資すると考え,
 公の判断基準を変更することを提案する。
 この変更に際して,私個人は不利益を被るが,
 そのことについては考慮にいれていただかなくて結構」

こうした私からの提案が,
むしろこうした提案のみが,
公をより良きものにしていくのだろう。
また,
こうした公のために私をなげうった個人に対して,
同じ公に属する私が出来ることは,
公としてでなく,私として,
温かい眼差しを向けることだけである。


今のこの国の一般的な組織論では,
「多数の私の幸福」や「政治判断」が重視されているように思う。
ボクが懸念するのは,
公の組織で一定の権限を持つ立場にある人間が,
その個人の私的な判断基準のみに基づいて,
「すべての私の幸福」ではなく,
「多数派の幸福」のために,
公的な判断基準を変更していてることだ。

権限のある立場の人は,
たぶん,自身の判断基準に照らして,
最適と思われる判断を下しているのだろう。
そこに計画的な悪意はないと思う。
しかし,
完全に公に資すると判断した行動が,
あるいは「未必の故意」となっているかもしれない,
そういうことに対する自己評価が甘いのではないだろうか。
これは,
「自分の私的な判断基準の正しさを盲信している」
と言い換えられるかもしれない。
私的な判断基準というのは自身の思考の隅々まで浸透した怪物である,
という認識が不足しているのではないか。

もちろん,
権限を持つ立場の人が,
自分の利益のために公的判断基準を変更することは論外である。
しかしそんなことは,はなから論外であるし,
それを摘発,告発することは私的な領域を超えている。
別個の公的な機関による監視に期待するしかないのだ。

もちろん,
そういった現状のうまくいっていないこの国の組織を担っているのは,
多数の私である。
彼らが私的な満足を甘受しておきながら,
公的な判断基準に襲われる一部の私に気付かないことや,
あるいは,
公に属するすべての私の幸福を願う切実かつ純粋な私の要求に対し,
「私的な利益誘導」と冷ややかな視線を投げかける態度こそが,
この国の公的な活動を誤らせる要因である。

まとめると,
権限ある立場の人の誤った判断以上に,
こうした多数の私の,
他の私への無関心こそが,
一番の問題である。

それはつまり,
「自分が良ければそれで良い」という判断基準こそが,
この国を住みにくくしている原因であり,
「自分は少し不利益を被るけれども」という判断を皆が少しずつすることこそが,
すべての人にとって幸せな社会を構築する秘訣なのではないだろうか。



論理と判断は直結しない

どれだけ論理的に考えても,
判断というのは絶対に恣意的なものになる。

それは論理的といえどもそれは究極的には確率論であって,
さらに判断には未来への予測が幾分か含まれているわけで,
どうあがいても,
どれだけ考えに考えても,
最後の最後の判断の部分では,
絶対に絶対に論理と判断は直結しない。

それを飲み込んで,
その上で,
議論しない限り,
色んなことは結論を出せない。

つまりは,
「双方に理がある」なかで,
「いずれかを選択せねばならない」ということがままあって,
その中での判断に迷うことがあるかもしれないが,
それは単に両者の結論に関わる確率が近しいだけであって,
逆に言えば,
どんな判断であれ,
少なからずそういう側面があるのだから,
確率が近しい時にばかり,
「恣意的にならぬように,フェアに」などと言わず,
「恣意的ではある」ということを飲み込めばいい。


そこで大事になってくるのが,
論理を超越した部分での,
自分の中での判断基準の確立。

たとえばボクは,
「じゃんけんではグーしか出さない」と決めている。
それで負けても悔いがないから,
毎回悩んで出して,その結果と自分の判断に悶えるよりも,
精神的にはずいぶんと楽だ。

その他にも,
「誘いは断らない」というのもある。
何かに誘われる度に,
その事象が自分にとって役に立つかとか,
他の物事との兼ね合いが云々とか,
そんなことは考えたって論理的な結論が出ない。
だったらすべて受け入れようじゃないか。
(明らかに先約があったり体調が悪い場合は断るけども)

まぁこれらは細かいことで,
もっと大きな意味でも確たる判断基準があるわけだが,
それはなんとも文章にするのが難しい。
「生身を大切にする」とか,
「意見は立場を超越する」とか,
そういったこと。

あとそこで大事なことは,
この判断基準が,
その場その場の感情に左右されないこと。
もちろん,自分の感情に従うってのはピュアなことで,
それ自体は尊重したいところなんだけども,
それをやっては社会がたちいかなくなるわけでもあって,
やはり「自分の感情」というのは判断基準には採用できない。


で,
また何が言いたいのかということだけど,
論理的な思考が出来ない上に,
判断基準が「自分の感情」と「金勘定」な人が,
あまりにも多くて辟易する,という話です。

そしてそれは明らかに教育不調によるものです。
子供の頃から,
「ナンバーワンよりオンリーワン」とか,
「友情や愛情は金では買えない」とか,
クソの役にも立たない空虚な論理でしか教育されてないから,
空っぽな大人(というか大人になれない子供)ばかりになってしまうのだ。


「一身独立して一国独立する」(学問のすすめ,福澤諭吉)


結婚・出産は(特に女性にとって)人生の一大イベントらしい。
こうして「女性」をひとくくりにする言論というもの自体が、
大変に気持ち悪く不愉快なのだが、
今日はそういう話についてなので、
そこは現在の一般論的な部分として、
そのまま話を続けてみようと思う。

結婚業界や出産業界で蔓延する、
「めでたいめでたい」
「女性の晴れ舞台」
的な言い分には、
一理あるように思えるかもしれないが、
まったく理由になっていない気もする。
学校の文化祭だって、
受験だって就活だって、
その人の人生の一大イベントだと思う。

だから結婚出産について何をことさらに騒ぐのかと疑問だった。
でも少しわかってきた気がする。

結婚出産は、
他の誰でもない「ワタシ」が主体のイベントなのだね。
だから結婚式などで「二人で」とか言っているのも、
「ワタシ」が「二人で」と思っているだけで、
あくまであれは「ワタシ」の晴れ舞台でしかない。

それと同じ仕組みの感情で、
出産も「子の誕生」ではなくて、
「ワタシの出産」なのだね。
妊娠しているワタシを写真におさめる「妊婦ヌード」や、
出産しているワタシを他人に見せつける「出産立会い」は、
女性による激しい自己顕示欲の発露なんだ。
そう思った。

で、
これって女性自身が自然とそういう意識を持つってのもあるだろうけど、
多分に結婚・出産業界のプロモーションの影響もあると思うのです。
ゼ○シィなど結婚イベント関連の企業などの、
あの妙なテンションと世界観っていうのは、
女性の自己顕示欲を呼び起こす麻薬のようなものなんだろう、と。
「ほかでもない、アナタが主役なんですよ」と何度も何度も言い聞かせ、
その気にさせるビジネスモデルなのでしょう。

また、
生活観とは無縁なはずの芸能人たちが、
こうした結婚出産業界のシンボルとして機能していることも、
彼女たち芸能人、特にモデルや女優が、
自分自身を見せることを売りにする自己顕示欲の権化であることを考えると、
当然のことだと思えてくる。

女性の「野蛮」な部分につけこんだ、
巧妙なビジネスモデルであり、
現代モラルハザードの一端が、
ここにあると思うわけです。

ところで、
そう考えると、
それに対応する男性のイベントって、ないよね。
それが、
結婚・出産に関する女性の意気込みを、
男性がなかなか理解できない原因なのだとも思うのです。

まとまらないし、ひどい偏見だけど、
私的なブログだし、
思ったことは書いておこう。



人間社会のあれこれを、
「茶番」と「野蛮」に分類して捉えるというのは、
4・5年前の学生時代によく話題にした。

きれいな線引きが出来ているわけではないのだけれども、
簡単に言うと、
人間が生物として本能的に抱く感情から発露する言動を「野蛮」、
理性や知性、社会制度に基づく言動を「茶番」と呼ぶことにしている。

そう考えると、
茶番に該当するものはすべて、
何らかの決まりや思惑の範疇での言動なので、
本当の本当の本質的には、
特にその決まりや思惑の外部にいる人にとっては、
なんら意味をもたないことである可能性が高い。

たとえば、
野蛮というと格闘技などを思い浮かべるわけだけども、
ボクシングを例にとると、
確かに殴り合うさまは一般的な意味で野蛮に見えるかもしれない。
しかしあれは、
両者が合意の上でリングにあがり、
手以外は使わないなどのルールがあり、
ダウンしたらそれ以上は攻撃を加えないという決まりがあり、
という枠組みの中での話にすぎない。
そういう意味で、
ボクシングは茶番であるといえる。

ボクサーはどうだろうか。
荒ぶる攻撃的な精神性(=野蛮)で相手を攻撃している部分もあるだろう。
それでもルールの範疇でのことであり、やはり茶番である。
(耳を食いちぎるなんてのは野蛮だけども・・・)

ではボクシングの観客はどうだろう。
野球やサッカーを観戦するようにスポーツとして見ているなら、
それは茶番を楽しんでいるのだろうけども、
人が殴り殴られる様を見て興奮しているのであれば、
それは彼の中の野蛮さを満足させているのだろう。

トレーニングを積むにあたって、
メダルや順位など外的要因に動機づけられているのであれば、
それは茶番のためのトレーニングで、
自分の体と向き合って単にうまくなりたいというのが動機であれば、
それは野蛮なトレーニングだろう。

自分の成し遂げた研究成果を誇るのなら、
それは研究業界という範疇での茶番であろうけども、
素晴らしい成果を上げた自分を誇るのであれば、
それは自己顕示欲や名誉欲にかられた野蛮なメンタリティだろう。


こうして世の中の物事を茶番と野蛮で分類していくと、
生物的で、本能的で、感情的で、私的なものが、野蛮
社会的で、理性的で、知的で、公的なものが、茶番
というようなことになるのか。


そしてこれはボクの考えだけども、
自分の野蛮な部分は他人に見せるべきではないし、
同時に、
他人の野蛮な部分には踏み込むべきではない。


ここからは本当にまとまっていないのだけども、
社会を形成し生活を営んでいる人間関係において、
野蛮さは社会を崩壊させうる危険性があると思う。
(非社会性の心象・事象だから)
にもかかわらず、
最近、社会でもてはやされているものは、
多くが茶番であった領域に野蛮が侵食したものが多い。

たとえば政治。
従来、政治といえば、
フィクションにフィクションを重ね、
利害関係を調整し、
互いにそろばんをはじいて、
持ちつ持たれつで、
物事を決定する方式を採用してきた。
壮大な茶番であった。
しかし近年は、
有権者の感情を扇動し、
政敵を完全に否定し、
勝者が正義であるという方式が跋扈している。
これは野蛮である。

たとえばテレビ番組。
いまテレビで流行しているのは、
グルメ・クイズ・容姿の美醜。
いずれも「楽しむ」という茶番的感情の前に欲望があり、
欲望(食欲・知識欲・性欲)が満たされるがゆえに「楽しい」と感じるものである。

たとえばスポーツ。
一年を通して覇を競うプロスポーツ興業が不人気である一方、
学生スポーツやオリンピック、W杯といった「負けたらおしまい」的なコンペが人気なのは、
実際のところはスポーツ自体は楽しまれておらず、
単に結果論、生物におきかえれば「生死を賭けた」勝負という、
残虐な物語に関心があるのみだからであろう。


といった具合で、
世の中には茶番と野蛮があって、
野蛮は本来、公に語られるべきでない、
いわゆる秘め事であるべきものであるのに、
最近では秘め事の魔力に侵されてしまって、
つまりは倫理のタガが外れており、
それが社会という茶番システムの不調の根源的な部分にある、という話です。


いや、
こんな着地点の予定ではなかったのだけどね。

そろそろここらで中締めということで。
続きはまた。


アタシは地球科学のことしかわかりません。

研究をすることの第一の目的は,
地球というもので何が起こっているのか,
ということを知ることにある。
それは地球上の生命活動も,
他の天体と地球との比較も,
同じことなのだろうとは思う。

今日は特にまとまっていないので,
ダラダラと書きすすめていく。

ようするに,
「地球」の「真理」に触れるために,
「科学」という手段をつかって取り組んでいる。
それが今の「研究」である,と。

また,
もちろん1人で完遂することなど出来ない大事業だから,
「巨人の肩の上に立つ」ことで知見を繋いでいく必要があり,
「科学研究」の手法の1つとして「論文」というものを経由している。

論文は知を伝承するための手段であるから,
極力客観的に書かれていなければならない。
もちろん,一方で,著者の観念を載せることも重要である。

すべての論文は「真理」に触れるための足場であるが,
ときに誤っていたり,嘘を書いていたりする可能性がある。
そのリスクを除去するために採用されているのが,
専門家による相互検証,ピアレビューシステムだ。

ピアレビューでは,
難点の修正もさることながら,
さらなる利点の掘り出しを要求することもある。
そうして著者と査読者による共同作業で,
論文が作り上げられる。
そもそも研究者は,著者であろうが査読者であろうが,
論文を経由して真理に触れんとする人間であるから,
この著者と査読者の共同作業については,
原理原則にのっとった妥当な方法だと言える。


と,いうようなことなのだけど,
一方で,
論文を経由しなければならないというのは,
大変にまどろっこしい。

研究をしていると,
論理性を追求した論文という体裁では伝えきれない,
「ニュアンス」のようなものがある。

たとえば実験室でのデータしか見たことがない人と,
実際に観測に出かけた人とでは,
データの見え方も違うだろう。
極端に言ってしまえば,
観測データを再現できるモデルが構築できても,
モデルで描写したことは現場では明らかに起こりえない,
なんてこともある。

「真理」に近づくには,
論理性とともに,
感性のようなものが,
あるいは論理性以上に必要だと思う。

まぁいわゆる「帰納と演繹」の話なのだけどね。

つまり,
研究者として,
穴だらけではあってもビジョンを持っていることが大前提で,
それがあるからこそ,
個々の論文が意味を持つのだと思う。
「vision-driven」と「result-driven」になるのかなぁ。


なんか違う話になってきたな。

論文を投稿して,
「それは統計的に有意なのか?検定せよ」
とかコメントがくると,
「統計的に有意じゃなくても直感的にそうに決まってる」
と感じる。
もちろん,
統計解析は真理に近づくための1つの有効な手段ではある。
しかし,
「統計的な有意性が”正しさ”と同義」
と決めつけたような思考では,
真理から離れてしまうリスクがある。
ボクはそう思う。

でも論文は査読を通らなければ公表されないので,
”査読を通るために”,
査読を受ける前にあらかじめ統計解析を実施する,
という態度が発生してしまう。
こうなってくると,
統計解析は単に査読をくぐり抜ける作法に過ぎず,
真理に近づかんとする当初の目的から離れていってしまう。

これはピアレビュー制度のリスクで,
議論が真理のためでなく査読のためになった時,
論文も,そのための研究も,
単なる研究者社会での「おままごと」に成り下がってしまう。

あるいは,
査読を通るため,というスケベ心がなかったとしても,
いつの間にか「既報論文と同じ議論をすることが正しい」と思い込んで,
どんなデータでも一律に同様の解析を施してしまうのは,
リスクが大きいと思う。
科学という手段の矮小化と言えるかもしれない。
そういう研究の仕方は,本当につまんない。


で,まぁ何が言いたいのか,です。

「論文だけで真理に近づくのは限界がある」ということです。

じゃあどうするのか,ですが,
口頭での議論です。
論理性と直感を寄せ集めて,
議論を繰り返し,
「きっと真理はこうなっている」という,
根拠のない確信のようなものを醸成し,
それに基づいて論文を執筆するのです。

要するに,
論理性と直感は並び立たねばならないもので,
「論文=科学/研究」という風潮には,
大変な違和感を覚えている,ということです。


むりくりまとめると,
論理と証拠の積み立てである論文執筆と,
論文と直感から醸成される確信的ビジョンを,
行ったり来たりしながら,
研究を進めていきたいと思っている,ということでしょうかね。
航海に参加すると,
「このサンプルは自分のじゃなくて誰それのサンプルです」
とか言う人がいる。
まったくもってなっとらん。
それに関わった以上,
関わったすべての人にとって,
それは「自分の試料」だろう。

分析についても同じことがままある。
「これは自分の分析じゃなくて誰それさんの分析です」
なんて人がいる。
でもそんなことはありえないだろ。

じゃあ今お前がやっている作業はなんなんだ?分析じゃないのか?
その分析の主体はお前じゃないのか?じゃあ誰なんだ?
その分析値はどうなるんだ?論文にはならないのか?
論文になった時に誰がどうやって分析したと記述するんだ?

「It's none of your business」と,
「It's none of my business」とは,
対称ではない。

共同作業において,
前者には自己の分担に対する責任と自覚があり,
後者では共同作業全体に対しての責任と自覚が皆無だ。

激しい自己主張で他人の権利を侵害しない範囲で,
各々が当事者意識を持って物事に取り組まないと,
世の中は無責任な無法地帯になってしまう。

他人の権利を侵害することと,
自分が責任を持って物事にあたるのは,
まったくもって別問題だ。

この国の人間関係においては,
「It's none of my business」というあっさりした態度が好まれるが,
それと仕事上の立場でのあるべき態度は違う。

研究者は職業柄,仕事とプライベートの線引があいまいではあるが,
あいまいであるからこそ,
その線引に自覚的である必要がある。

と,
自戒も込めて。


河本問題。

事実だけでとらえると,
・河本母・河本ともに本当に困窮していた時に生活保護を受け始めた
・河本が年収数千万に至った
・その後も河本母は生活保護を受け続けた
・河本はその事実を把握し「もらえるならもらっとけ」と言った(という雑誌の第一報)
だろうか。

この話は,
法律に不備(親族の収入と支給の関係)があるとか,
運用(保護支給の審査)に問題があるとか,
そういう問題じゃ無い。

たとえ子に収入があろうとも,
手続き上は問題とされずに受給資格が認められているわけで,
その点で河本一家には非は無い。
(罪を犯していても裁判で無罪になれば被告に非は無いことになるのと同じ論理)

このほかにも色々な側面から色々なことが言われているけども,
大原則に立ち返ると,
「ある人の権利の行使を,第三者が否定することはできない」
ということだろう。

河本母に受給の権利があると判断された以上,
受給することには手続き上,問題は無い。
こうした状況下で,
第三者が「受給を辞退しろ」と強要することは,
「権利を侵すべからず」という大原則に反する。

ただし,
あくまで「権利」であって「義務」ではないので,
「受給しなければならない」わけではなく,
自発的に権利を放棄することは何の問題もない。

ということで,
今回の騒動から教訓というか問題点を洗い出すなら,
「実際は生活に足る金を持っていながら,
 権利を行使して生活保護を受給していた,という,
 河本家の卑しく醜い精神性」
だろう。


では醜いのは河本家だけなのだろうか。


30歳の平均年収は400万ほどらしい。
アレな話だけども,
ボクはこれより多くはもらっている。
なので,
生活に困るほど貧窮しているわけでもない。
ということもあって,
ボク自身,
子ども手当を受け取ることに逡巡があり,
子ども手当受給手続きをしないでおこうと思っていた。
しかし,
まぁ色々とあって,完全に納得したわけでは無いけども,
現在は子ども手当を受け取っている。

「子供が成長することが社会のためになり,
 ボクはその代行をしているにすぎない。
 私腹を肥やすためでは無い」
と思う(思い込む)ことで,
なんとか自分を納得させたのだと思う。
しかしこの騒動で忘れていたそうした初志を思い出し,
それこそ現状の自分の醜さに吐き気がする思いだ。


なんともタイムリーなことに,
昨日はうちの会社で給与減額に関する説明会があったらしく,
相当な不満の声があがったらしい。
(出てないから詳しくはわからないけども)

法的にも年度当初の雇用契約に反して減額するのは問題があるし,
任期付という特殊で不安定な契約形態の職員まで,
国家公務員に準じて一律減額というのはおかしくもある。
そもそも今回の公務員減給は政治パフォーマンスだと見る向きが大勢で,
そんなのに付き合わされるのは迷惑だという気持ちも理解はできる。

確かにボクもそう思う。
立ち話や飲み会では,
「任期付の減額が大きすぎる。
 理事長は半額にしろ!」
とか楽しんで言っている。

とはいえ,
とはいえ,だ。

普通の会社であれば,
会社の業績が傾けば給料は下がるだろうし,
無い袖は振れないわけだ。
逆に考えれば,
今までが超厚遇であっただけで,
(多くの人は)減給されたって今すぐ生活が立ち行かなくなるわけでも無い。
「任期付で不安定な若手研究者」とか言って嘆いている連中も,
実際のところは「晩酌はプレモルじゃないと」とか言ってる始末。
この現代社会で,
数パーセントの減給なんてことは容易に起こりうるわけで,
(経済自体がシュリンクしてるんだから)
「うちのローンが」とか「子供がたくさん」とか
あまり騒ぐのもどうか,と思うわけで,
実際のところ,
ボク自身は,
ボク自身の減給について特にごねることもなく受け入れるつもりでいる。


で,
話を元に戻すと,
いったい何が問題だったのか,ということ。


うちの会社の人々が,
「減給,受け入れ難し!」
「契約違反だ!」と言って,
自身の雇用契約上の権利を主張する。

河本母が,
権利が認められたから生活保護を受給していた。

何の違いがあるのか。

どちらも等しく「権利の行使」であって,
どちらも等しく「卑しく醜い」と思う。

ある人が卑しくて醜い。
でもそれは,その人がそういう人であるということであって,
それ以上の意味はまったくない。
だから社会問題ではない。

これを社会問題とするならば,
「品性下劣な人々で社会が構成されている」ということが,
問題なのだろう。
だから生活保護の支給基準の見直しとかそういう施策には意味がなく,
やはり本質的な教育の問題なのだ。(もちろん学校教育だけの話じゃない)


もう1つ。
ここまで考えてきた通り,
河本一家は権利を行使しただけであって,
これを糾弾することは重大な権利の侵害である。
それを国会議員が,
ネットを通じて「調査する」と宣言したことの方が,
よほど大きな問題だと思う。

その程度の社会観念しか持たないものが国会議員をしていて,
それを後押しする国民が多いという現状は,
生活保護の不正受給者が多数いるという事実を凌駕するほどに,
この国が「品性下劣」であることを示していると思う。


端的に「未熟」である。
卑しく醜いと言うことは,つまりは未熟であるということだ。
こうして他人を攻撃する文章を書かずにはいられないボクも未熟だ。
福澤諭吉の言うところの「独立自尊の精神」が必要だ。
観測ベースの,
しかも再現性のないモノ(不均質・現場培養)ばかり扱ってきたので,
研究プラン・デザインというものに対して,
曖昧な態度でいることが多かった。
特に潜航調査などでは,
試料自体が通常は入手困難なので,
「採れたモノの中で議論」という逃げ道があった(今もあるけど)。

でも最近になって培養実験や分析法の精査などをしていると,
やはり大事なことは,
「実験デザイン」なのだと痛感させられる。

「コレがわかれば世界はひらける」ということに気付くのは,
あるいはある種の才能が効いてくるのかもしれない。

一方で,
「じゃあ,何をどうすれば,それが明らかになるか」
という部分については,
才能なんか関係なくて,
「不断の文献調査」と「思考実験に基づく実験デザイン構築」だ。
とはいえ,
それだって別に仰々しいものではない。

修士をとったぐらいで普通に身につけているべきもので,
目の前の可能性と,その分岐した先にまたある分岐とを,
アミダクジだかトーナメント表だかフローチャートだかのようにして,
自分の到達したい部分に至るために,
どの可能性でポジティブ(応答あり)な結果を得て,
どの可能性でネガティブ(応答なし)の結果が得られれば良いのか。
証明したい事実に対して,
1つの実験操作が逆・裏・対偶のどの関係にあるのか。
それらをしっかりと考えて,考えて,取り組む。

ここでの見定めがハッキリしていないと,
実験なんてモノは無限にできてしまうものなので,
ただ時間を浪費するだけに終わってしまう。
そんなのは自分のカネでやる趣味であって,研究ではない。

よくよく考えてデザインしたプランで実験に取り組みはじめた後も,
予想だにしない結果が出てきた時は,
はじめにデザインをした際のプリンシプルに立ち返って,
「結局,どういう結果が得られれば自分の研究はゴールするのか」
を自分自身(と実験結果)に問い続けねばならない。

それはたとえば,
論文が「導入ー手法ー結果ー考察」から構成されているように,
一個一個の実験操作にも「導入ー手法ー結果ー考察」が必要だということだろう。

良い論文,良い研究というのは,
やはりデザインがはっきりしていて,
最小のデータで主張を押し出すことにあるんじゃないか。

学生の場合,何も考えずにバカみたいに時間を使って実験しても,
「結果ー考察」の部分はゼミなりで先生が修正してくれるので,
なんとなく通過できてしまうかもしれない。
でも,博士をとって独り立ちした研究者と呼ばれるに至るに,
そこの部分は,自分でしっかりと見定める必要がある。
それが出来ないのであれば,
それは学位こそ持っていれども独り立ちした研究者ではない。

航海・プロポ・外部発表に追われている中でも,
少しの時間でもしっかりと整理していれば,
一点突破の美しい実験デザインは可能なはず。

特に「特殊培養×特殊分析技術」なのだから,
良い結果が出るのは当たり前。
実験デザインの時点で勝負は決まっているのだ。
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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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