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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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昨日は攻撃的に書いたせいで,
元凶ふくめ反応があって,
さらに考えさせられる気分になった。

そうだ!総説を書こう!
ってことで良いのかも。
ってか,
総説しか書かない研究者,
言い換えるなら,
妄想ドリブン研究,
なのかな,
そういうのがいたって良いじゃん。

「手を動かさないとわからないことがある」
ってのは事実だと思うけど,
「手を動かしたヤツがえらい」
ってわけじゃないし,
「手を動かさなきゃ何も語れない」
ってわけでもない。

同じ事の繰り返しになっちゃうけど,
「手を動かす」ことと,
「文献を読む」ことを,
分断させずに,
融合させて,
そこでうまれてくる「世界はこうなっとるに違いない!」っていう,
原著論文的な意味では根拠に基づかない,
でもある種の確信が自分の中にあるものを,
総説に載せて発表するってのは,
それこそ科学を前に進めるために,
へたすると個別の原著論文なんかよりも,
重要なことなんじゃないでしょうか,
と思うわけですね。

とにかく,
彼らの文献読解の量と質が,
ただ単に彼らのものだってのは惜しいし,
外に出しているメディアがブログというのも惜しい。

JpGUの新説ジャーナルにでも,
ドカンと総説を書いてほしいな(はあと



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ボクはあまり(ほとんど)論文を読まないという,
大変に堕落したダメ研究者だという自覚があります。
「そんなこと言って本当は読んでるんでしょ」とかも言われますが,本当に読んでません。
どれぐらい読んでないかって,
ヘタしたらこの半年は一報も読んでないんじゃないか,とか,それぐらいです。
別に自慢でもなんでもないですが,事実として,そんなです。

で,
最近,ボクよりちょっと下の世代に,
文献紹介ブログ活動を活発に行っている人達がいます。
これ(http://palaeo-kuroneko.blogspot.jp/)とか,
これ(http://y-t-yamaguchi.blogspot.jp/)とか,
これ(http://paperlog.blog.fc2.com/)とか。
まぁ元凶(?)は,
これ(http://d.hatena.ne.jp/keikoba/)なんでしょうけども。

もうね,頭が下がります。土下座レベルです。すごい。
これだけ文献をチェックしていることも,
それを(自分の誤読があるかもしれないのに)ウェブに載せてしまうということも,
嫌味でもなんでもなく,本当にすごいと思うわけです。

すごいと思うわけです。
が。
一方で「それってどうなん?」的な感情も同時に抱くわけです。
なんとも記述しにくい感情なのですが,
畏友ヨシザワ氏も同じようなことを言っていたりしまして,
これはいよいよ,ちょっと考えてみるべきなのかな,なんて思うわけです。

タモツさんには記念セミナー時にツッコミましたが,
「世界はこうなってると,ボクは思うんだよね」というような,
特に「ボクは思う」みたいな,
「一人称」で「根拠無し」の「世界観」みたいな,
そういうものが「まず先に」あって,
それを科学的な手法論で解き明かしていくのが,
科学研究って営みなんじゃないのかね,と。

もちろん,
そんな「ボクは思う」ってものを根底から支えるのは文献調査で,
そこに至るには膨大な文献を丁寧に調査することが重要なわけですが,
(そしてそれをしないからボクの仮説は1割以下の打率なのですが)
でもでも,やっぱりそれだけじゃないだろう,とも思うわけですね。

文献をたくさん読んで,
そのイントロや議論の結語で言ってることを「ふむふむ」して,
それをそのまま「三人称的」な「〜〜と言われている」って具合に研究を捉えてて,
なんというか,
自分の研究さえも「誰かの仕事」みたいになってないかな,とか,
そういう風に感じてしまうのです。

別に「ハッタリ」とか「トンデモ」とか,
そういうものをどうこうせいってことじゃなくて,
せっかく,他ではない自分が生きているんだから,
「代替不可能なボクだけのサイエンス」みたいなものを持って良いんじゃないか,と,思うわけです。

知識なんてものは,それ自体は,別に誰が持っていたって構わないわけで,
つまりある仕事が文献になっている以上は,
別に誰がその内容を知っていても(知らなくても),
その文献はもうその文献としてそこにすでにあるわけ。
でもボクの頭の中は,
どこにも文献になってなくて,
いまだ誰にも見えないボクだけのサイエンスなわけで,
それを文献として世に出すことが,
そこがサイエンスなんじゃないかな,ということです(どういうこと?)。


たとえばレビュー論文を書くにあたって,
過去の論文をしっかりフォローして,
それを体系化して理解して記述することはすごく重要だけど,
でもやっぱり,
最初と最後のパラグラフには,
「オレの話を聞け」みたいな「魂の叫び」を見たいよね。

んで,
ブログなんてメディアは,
それこそ「オレの話を聞け」なメディアなんだから,
無味乾燥な文献紹介だけじゃなくって,
もっともっと「オレの話を聞け」って話をして,
そこで身につけた「魂の吐き出し方」みたいなものを,
自分の原稿に活かしていけばいいんじゃないのでしょうかね(誰目線なんだ?)。


ということで,
「他の誰でもないオレ!」
の話が聞きたいです。

ブログでも,
学会発表でも,
論文でも。
そんなん,楽しいか?
文献たくさん読んで,
まだわかってないことが把握できて,
自分は今までコレコレやってきてるから,
じゃあこれやってみようかな,って,
そんな計画で,おもろいんか?
役所の業務計画みたいな研究計画。

なんつーか,「消費的」なんだよね。
誰かが課題を列挙して,
それをかたっぱしから消費していく感じ。
そんなんで良いんかね?

もっと「創造的」じゃないのかね?
あと数十年この世界で生きていくんだったら,
消費じゃなくて創造でしょ。

もちろん,
個別の論文はコツコツやるんですけども,
それとこれとは別として,ね。
まずはアトランティス騒動のニュースをNHKから引用

-----------------------------
(略)
現地調査のリーダーで、海洋研究開発機構の北里洋さんは「実際に潜水調査船に乗って、海底で花こう岩を確認できたときはとても驚き、感激した。伝説のアトランティスとは出来た年代が異なるようだが、大西洋に『大陸のかけら』を見つけた、意義のある発見だと思う」と話しています。
(略)
-----------------------------

ボクが聞いた範囲の調査概要は,
昔,ブラジル沖でドレッジをして,花崗岩が採れたことがあった。
でも転石かもしれないから,今回,そこに潜航してみた。
そしたら花崗岩の露頭が見つかった。
海で出来ないはずの花崗岩帯が海底にあったということは,
・かつて大陸だったものが,
・大陸と分断して,
・海に沈んで,
存在しているということで,
科学的に非常に意義深い観察結果である。
今後,岩石の化学分析をすることで成因・生成年代が明らかになるだろう。

ということです。

これに対してアトランティスをWikipediaから引用すると,,,,
『アトランティスは、古代ギリシアの哲学者プラトンが著書の中で記述した、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことである。強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。』
『プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。』

ということです。


それはさておき,
うちの研究所の研究者が「アトランティスとかいう妄想」を言ったとか,言わないとか,
そういう部分でごちゃごちゃ言ってる人もいるようですが,
まず基本に立ち返って考えるべきだと思います。

そもそも,
科学研究の一義的なモチベーションは,何かを知りたいという欲求なんですよね。
「これってなんだろう」ってことです。
その後に続く感情としては,
「もしかして,アレかな?」ってことでしょう。

「科学的に考えましょう」ってのは,
そういう個人個人が「アレかな?コレかな?」とか言っていると,
いつまでたっても知識が蓄積しないから,
皆が共有できる形で対象を評価して記述していきましょう,ってことだと思う。

そう考えると,
海底がどうなってるか知りたくって,
実際に海底に潜ってみて花崗岩の露頭を見つけ,
「これはアトランティスかもしれん!」って思うことは,
もっと踏み込んで言えばそう外に向けて発言することまでもが,
立派な調査の一部なのではないか,
ということなんです。

「知りたい欲求の発露」「行動」「感覚的理解」「科学的裏付け」
の順に調査が進むのだから,
別に「アトランティスや!」って言っても,
何の問題もないですよね。

今回の騒動の問題をあえていうなら,
「感覚的理解」である「アトランティスや!」と,
「科学的裏付け」が分離されてないことなんじゃないかな。
なんせ,
「アトランティス」自体がそもそも「科学的」でないんだから,
そこに「科学」を持ち出して「年代が違う」とか言って火消しにはしるのは,
かえってアホを露呈していると思うわけです。


そんなわけで,
世間が盛り上がって,
会社の名も下げず,
エセ科学のそしりを受けない文例を考えてみました。

「わたしは露頭を目にした瞬間,『これはプラトンの言ったアトランティスだ!』と感じた。
 それは潜って見た人間にしか感じられない「啓示」のようなものだった。
 もちろんプラトンの言うアトランティスの存在に科学的根拠はない。
 わたしがブラジル沖で見たものが何であったかは,今後の分析が明らかにしてくれるだろう。
 しかし,あえて言いたい。
 「アトランティスを見た!」と。」

ぐらいでしょうか。


一般公開向けに,ワンピースネタでも考えてみました。

「わたしの名前はヒロシ・D・キタザト。
 普段,Dを名乗ることはない。
 それはDを継ぐ者だけが知る存在を世間に知られぬためである。
 わたしの祖父も生涯,Dを名乗ることはなかった。
 しかしいま,QUELLE2013の名をかり,しんかい6500がパンドラの箱を開けてしまった。
 だから私は,一族の掟に従い,世界に向けて発表しなければならない。
 「この世のすべてをブラジル沖に置いてきた。アトランティスは実在する!(ドン!)」。
 (シバサブロウ・D・キタザト) [未完]

という学説を妄想している。
うちのラボの面々の素晴らしき研究成果を統合するに,
そういうことですべてオケーっぽい。

先日,タモツ先生の襲名披露興行で,
「有機物の堆積量とは,つまり,酸素の蓄積量である」
というフレーズを耳にして,
我が意を得たりな気分になったわけですよ。


窒素固定なんてエネルギー効率の悪いことを,
化学合成のエネルギーだけで回して,
さらにその窒素だけで地球上の生物を賄おうと思ったら,
とてもとてもタランティーノ。

でもそこでいきなり「シアノバクテリア最強( ゚д゚ )クワッ!!」となるのは早計。
番長から大魔神の継投にヒゲ魔神が挟まったように,
ワンポイントリリーフ的なアレをアレする必要がありそうだったり。

さらに重要になってくるのが,
昔の地球環境条件での,
非生物的な窒素固定フラックスと,
生物活動も含んだ脱窒のフラックス。
マジメに勉強すればその辺に文献値があるのだろうけど,
それもどうかという感じだろうから,
適当な実験を組んでパパッと数字を出すのが良かろうと思うわけ。

地球科学の先端研究を煮詰めていくと,
高校生物の教科書に描いてあったことが本質だったりして,
やっぱ本質は本質なんやなぁ,と。
リービッヒの最小律

とりあえず,
現世においても熱水活動がリンのソースかシンクか決まってないし,
広義の「脱窒」代謝の多様性みたいなもんもよくわからんし,
そういう基礎的なところからおさえる必要があって,
でも逆に言えば,
「次世代手法がウンタラー」とか言ってるけども,
今時点でもまだまだ(まだまだまだまだまだまだまだまだ)やることはいっぱいあるわけで,
「最先端のー」とか「カッティングエッジのー」とか言ってるけども,
今時点の知見を集約して整理するだけで新たな地平は拓かれるわけで,
そういうことを軽視しないで,
じとっと考えてきたいね。



憲法のことをちょっと考えてみた。
勉強しないで考えただけなので,ツッコミどころがあるかもしんないけど。


今の日本がとっている態度は「立憲主義」で,
「政府の統治を憲法に基づき行う原理で、
 政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠する」(wikipedia)
ということらしい。

ボクの表現で書くなら,
「政府(あるいは国家権力)の役割を一定の枠組みの中に限定することで,
 政府が国民に対して好き勝手に権力を振るうことが出来ぬようにするため,
 憲法というものが存在している」
ということなのだろう。

この立憲主義の理念を明文化しているのが,
日本国憲法第99条の,
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、
 この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」
なのだろう。

ボクが99条でポイントだと思うのは,
「憲法を尊重し擁護する義務を負う」のが,
「すべての国民」ではなくて,
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」という,
国家権力的な人々に限定されていることだ。

これは端的に考えれば,
「憲法は国家権力を制限するためのもの」なのだから,
当然といえば当然のことだ。

でも,ちょっとひねくれて考えると,
「非国家権力の国民は,憲法を尊重し擁護する義務を負わない」
という意味にもとれる。

日本国憲法第19条には,
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
とあるので,
第99条の対象を「すべての国民」にして,
「憲法を尊重し擁護する義務」を国民に負わせてしまうと,
第19条と第99条に矛盾が生じることになるわけだ。

つまり,
ボクのような一国民(独法職員って国家公務員じゃないよね??)が,
「日本国憲法とかマジでクソだよな!」
「9条のせいで軍隊が持てないじゃん!」
「天皇は神聖にて侵すべからずだよ!」
という意見を表明する自由は,
第19条で保障されているとともに,
第99条で制限されていないのである。

一方で,
たとえばアベちゃんやゲルちゃんみたいな国会議員が,
「日本国憲法とか押しつけ憲法で恥ずかしいワン!」とか吠えるのは,
たとえ第19条に保障されているとしても,
第99条的にダメなのである。

そうこう考えると,
憲法改正に関する話題の重要な論点が浮かび上がってきた気がする。

つまり,
「国会議員が憲法を尊重し擁護する」範囲の中で,
「国会議員が憲法を変える手続きをする」ってことを,
「どうやって矛盾無く遂行するのか」こそが,
「憲法,変えようぜ!」とか言う前に議論すべきことなんじゃないだろうか。

これはちょっと話が飛ぶけども,
「憲法を尊重し擁護する態度」を持っていてもなお,
「それでもやはり,ここは改正せねば国家のためにならない」という部分を改正するならば,
それは第99条に矛盾しないだろうし,
そういう部分であれば,
第96条の「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」は,
別段「高すぎるハードル」では無いように思う。

さらに言えば,
ちょっとヘンテコな論理になるけども,
「日本国憲法を尊重し擁護する義務を負った国会議員」のうち,
三分の一以上が「改正反対」と言うのであれば,
それは十分に考慮に値する重みなんじゃないだろうか。


ということで,
2013年現在のボクの意見は,
「日本国憲法,このままで全然問題ないでしょ」
です。

はじめ「安全な接続が・・・」というエラーが出てどうしようもなかったが,
コンピューター自体の時間設定がバッテリー切れでおかしくなってたので,
これを今の時間に戻したら問題解決。
覚え書き。
最近,身の回りの人と話題になった事柄をメモがわりに。


お金と仕事の関係には2種類あって,
「この仕事をやる人にお金を払おう」というものと,
「この仕事をやりたいからお金をください」というものと,
そういう2種類。

前者のパターンは,発信者が金を持っているが労力(能力)を持っていない状態で,
後者のパターンは,発信者が労力(能力)を持っているが金を持っていない状態。

前者のパターンでは,
発信者(発注)側が金額を決めているので,
受注側が仕事自体を安価にすませれば余剰金が発生する場合もあるし,
それはもう引き渡されたお金なので,残りを何に使っても受注側の勝手ということになる。

後者のパターンでは,
発信者側が「仕事に必要な額」という条件で設定した額なので,
発生した余剰金を懐にいれることはある種の「詐欺」になるので,
返金するか,あるいは金額分だけ余分に仕事をすることが求められる。

これを研究と研究費と研究者の関係で考えてみる。

前者のパターンは,
「既存の設備で効率的に研究して適当な結果を出せば,残りの研究費は他の研究に使える」わけで,
求められる成果のメドが容易にたつならば,「おいしい話」ということになる。

後者のパターンは,
「すべて当初の研究目的に見合った形で使用しなければならない」わけで,
求められれば1円単位で使途を報告する必要があるし,目的外使用は断じて許されない。

普通に研究をしていれば(ってのがなんなのかはさておき),
科研費を含め基本的に後者のタイプの研究費としか出会わないんだけど,
時々,怪しい筋から前者タイプの研究費の話が来ることがある。
(大きく見れば運営費交付金も前者パターンなのだろうけど)

怪しい筋の話では,
お金を出す側のやってほしいことを端的に絞り込んで理解し,
お金をもらう側としては何もあらたに要求することなく,
「つまり,これとこれをやれば満足いただけるんですね」
と念を押して確認しておいて,
その分だけ成果を出してしまえば,
余剰金を好きに使えるメリットがうまれる。

一方で,怪しい筋の話が来た時に,
お金をもらう側が増額要求をすると,
それはつまり,
「あんたらの言っている成果を達成するにはお金が足りない」
という意味になってしまうので,
論理的には余剰金は発生しないことになってしまう。
あるいは,
「増額要求しますが,そのかわりに出す成果も割増しますよ」
と言ってしまうと,
立場が前者パターンから後者パターンへと変化してしまう。
だって,
お金をもらう側から提案した成果なんてものは,
お金をはらう側が求めているものではないんだから。
つまり,
増額要求をしてしまうと,もらえる総額は大きくなるけども,
余剰金を自由に使う権利という,前者パターンの最大の”うまみ”を手放してしまうことになるわけだ。


という状況下にいるんじゃないですかね。

「ヒモ付のお金」というククリにしてしまうと,
両者のパターンのどちらであるかが見えなくなってしまうので,
そういう視点はやめておいた方が良いと思うのですよ。

とにかく,
「ボクはこの件に関しては前者パターンのスタンスですよ」
という態度を明確にしておかないと,
ちょっとでもスケベ心で増額要求したり,
あるいは「良かれ」と思って踏み込みすぎた提案をしたりすると,
コロリと立場を入れ替えられてしまうリスクがあるわけですから,
そこはグッとこらえておくのが肝要ではないでしょうか。


名古屋の講演を聞きに来ていた人生に悩む青年と,
少しメイルのやりとりをしていて,
先週のJAM-JAXトークを聞いての疑問を投げかけられた。

[質問]
1.研究に対するモチベーションをどうやって維持しているのですか?
2.モチベーションが下がったときに、元に戻す自分なりの方法はありますか?

[回答]
質問ありがとう。

研究へのモチベーションの維持と対策ということですが,
まずボクは研究自体はあまり好きじゃないので,モチベーションはいつも低いです。
タカイさんのナショジオの連載でも書かれています。
http://nationalgeographic.jp/nng/article/20130405/346613/index2.shtml
いつも低いので,低いまま維持して,それでやってます。

研究以外にも通じる一般論で,前に話したと思いますが,
「嫌いなこと」と「好きじゃないこと」は全然違うモノです。
ボクは研究のことを「好きじゃない」けど「嫌いじゃない」ので,
モチベーションが低くても,苦痛に感じずに実行することはできます。
苦痛なんじゃなくて,メンドクサイだけ,って感じでしょうか。
これって意外と重要で,
嫌いなことを強要されると逃げ出したくなるけど,
好きじゃないことだったら,強要されてやる分にはさほど苦痛じゃなくて,
むしろいつまでも腰を上げない自分を後押しして着手するキッカケになって助かる,
みたいな側面もあるかもしれません。

あとは自分の才能ですね。
ボク以外の他の誰かがやるよりも,
ボクがやった方が必ずうまくいくという確信がある場合には,
「あんたらは寝てなさい,ワシがやっとくから」と考えて,やります。
その程度には,ボクは自分の才能に自信があるので。
逆に言うと,自分の才能に対する自信がモチベーションになっているのかも知れません。

むりやりまとめると,
「嫌いじゃないから頑張れる」
でしょうか。

逆に,意味のない事務書類の仕事なんかは,絶対にやりたくないから,
たとえ自分でやれば1分で出来る書類でも,
担当の部署に電話して10分以上抗議してでも,
極力自分ではやらないように仕向けます。
以前,はと君からお題として出されて考えたので,
ここに記しておこう。


まず今のJリーグの問題点は,大きく分けて2つ。
・過密日程による選手の負担大
・ライト層の取り込みが頭打ち


過密日程の原因は,
J118チームで2回総当たりで年間34試合。
これで年52週末の34週が埋まる。
これにナビスコ・天皇杯・ACL・代表戦が入る。
つまり有力チームの有力選手はほぼ毎週2試合ペース。
もちろんこの間に飛行機や新幹線での移動もある。
たしかにしんどい。
するとすぐに「ナビスコと天皇杯を削れ」となるが,
これは諸々の事情で削れない(らしい)。
ということで,
「リーグ戦の試合数を減らそう」となり,
必然的に「リーグのチーム数を減らす」に至る。
つまり「試合数減−>チーム数減」の結果として「プレミア化」する。
これが「プレミア化論の中の過密日程」の話の根幹。

ライト層の取り込みについて,
最大の問題は「地上波中継/放送の数と質が低い」のが致命的な問題。
まず毎週リーグ戦をやっているのにほとんど放映されない。
また放映されるとしても,延々と試合を見せているだけ。
Jリーグライト層の取り込みを阻害しているのは,
日本代表と海外サッカーだということも考えるべき材料。
最ライト層が代表戦でサッカーにフックしても,
代表選手が海外リーグに所属していて,Jリーグに目が向かないのが現状。
まぁこれはジョホールバルで中田が「Jリーグも見てね」って言って以来だから,
海外組だけの問題ではないのかもしれないけど。


で,J1プレミア化構想。
つまり,J1のチーム数をグッと減らして,
リーグ側から露出させる対象を絞り込むことで,
ライト層にとってフォーカスを合わせやすいようにしよう,
というのが主旨。
ここでいうライト層ってのは,
ライト層をターゲットにするスポンサーも同じ。
ごくごく簡単に言えば,
18チームも覚えられないけど,
10チームなら覚えられるでしょ,とか,
10チームならどのチームにも代表が1人はいる状況になるでしょ,とか,
そういうこと。

ボクはJ1を10~12チームに絞るってこと自体には賛成。
10チームとして話をすすめる。
H&Aで年間18試合。
この次がアイデアで,
さらにあらたに当該チームと関係無い「中立地開催」を入れる。
これが9試合なので,合計リーグ戦は年間27試合。
現状より7週目減りするので国際Aマッチデーの日程を空けられる。

チーム数が減れば,
所属する選手自体の質も平均値が高くなるし,
選手のコンディションも向上するし,
練習もしっかり出来て,
魅力的な試合を提供できるようになる。

またJ1プレミアにはスタジアムなどの基準を厳しくする。
二万人以上収容の専用スタジアムで,交通の便も考慮した立地。
地上波中継でライト層にアピールできるCGなどに対応可能にする。
もちろん45分間にCMを挟まなくて良いスポンサー対応の中継スタイルも確立。
(CLのハイネケンとかみたいな)

中立地開催については,
リーグとしては勝点も換算するガチ試合。
ただ「第三のスタジアム」で開催するだけ。
それでも3つの利点があると考えている。
1つめは単純に日本全国のライト層の掘り起こし。
「おらが町にJ1プレミアがくる」ってこと。
試合翌日には地元の子供と交流するなども抱き合わせて。
2つめはライト層のコア化。
J2やJ3の本拠地でJ2やJ3の試合と連続開催することで,
J1を見に来た現地ライト層をJ2-J3の地元チームのコアサポ化を狙う。
下部チームの運営側としても今後プレミアを狙う予習になるかも。
3つめは試合単体スポンサーの獲得。
Jチームの無い町で試合をする際に,地元企業の冠試合にする。
スタジアムネーミングライツの試合単体版みたいなもの。
ニュースに取り上げられるJ1プレミアだからこその付加価値を最大利用。

もちろん中立地開催には難点もあって,
良いスタジアムがそんなにあるのかって問題は解消しないけど,
代表のアウェーを考えれば,まぁ許容範囲でしょう。
また当該試合中継の質は落ちてしまう。けども,
地上波はJ1スタジアムに任せればライト層的には不満はなかろう,と。
ホーム:アウェイが1:2の比率とも考えられて,
特に選手にとっては移動の負担が大きいかもしれないが,
現状アウェイ17試合が18試合になるだけだし,
プレミア化すればチームの財政も潤って,移動にも金をかけられるから,
全体としては負担軽減のセンスなのではないか,と。

その他のプレミア化の難点としては,
ライト層に露出するチームと選手が限定されてしまうということ。
でも,
現状のJ1でもさほど露出してないんだから,
まずはJ1だけでももっと露出させていくことが,
J3まで含めた全体の利益にかなうんじゃないかな。
選手の移籍が活発になれば,
「おらがチームからプレミアに多数輩出」
「ゆえにおらがチーム最強説」ということもあろう。
(セレッソと代表,あるいはカープとヤンキース,みたいな)
「育成クラブ」と割切って「育てて売る路線」に向かうJ2チームが出来るかも。

J1プレミアとJ2の入替は年1チーム。
そのかわりといってはなんだけど,J1数が減る分だけ,
ナビスコや天皇杯でJ2以下のチームが上位進出できる可能性は増すので,
リーグ戦とは別件になってしまうが,そちらの方で諸々対応。


というような具合で,
周辺の「仕掛け」も整えていくのであれば,
J1プレミア化には賛成するのであります。
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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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