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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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相手のクロスがゴールに吸い込まれ0−1。
最後にハンドでもらったPKを本田が決めて1−1。
そのまま試合終了でW杯出場決定。
しかしまぁ,試合内容はダメダメでした。

オーストラリアはケーヒルをトップに残す4−4−1−1っぽい陣形。
かなり縦幅の短いコンパクトな4−4ラインを崩さず,
押し込まれればなすがままにラインを下げブロックごと後退していく。
明らかに「引き分け上等,カウンターはまればごっつぁん」という戦略。

日本はザック以降のベスト布陣で4−2−3−1。
本田が中央でボールをキープして時間を作れてはいるが,
それとて4−4ラインの手前なので時間を使わされているとも言える状況。
前半は内田岡崎長谷部の右サイドを押し込む展開も,
オーストラリアに奪われると内田の裏にロブを落とされて押し返される。

オーストラリアはかなり明確にこの作戦。
4−4ブロックで奪い,短く回して前があいたらロングを内田裏に。
(日本が奪われた後にインテンシティを上げて奪いにいかないからかわされがち)
日本の戻りが遅ければグラウンダを裏に流して走り込み,
日本が戻っていれば日本2CBの奥側までクロス。
ケーヒルは今野の外側で長友側に流れながらヘッドで落とし。
日本は攻撃時に遠藤長谷部があがっているせいで,
CBの前に広い空間が出来てしまっていてルーズを拾えない。

逆に日本がじっくり守った後のカウンターの場面。
オーストラリアは遅攻ではしっかりラインをあげてくるので,
奪ってカウンターならスペースも広く日本にチャンスがうまれる,はずだった。
でもここで日本の前線は,全員がボール保持者と同じスピードで前にスライドするだけ。
オーストラリアブロックはこれにあわせてスライドして守備陣形完成。

たとえば前田や岡崎が一発で裏を狙うダッシュをかければ,
相手最終ラインは後ろに引っ張れるので,
4−4の間を開けられて香川や本田が崩す土台ができる。
あるいは前田が外に逃げながら岡崎が絞ってきて交差すれば,
ブロックの横間隔を狂わせられる。
そういう「受け手の工夫」が全然なかった。
そこがケーヒルと日本の前線の差で,カウンターの威力の分かれ目。

4−4ブロックの崩し方としてはゴール前まで侵入した場面が参考になる。
本田が4−4ブロックの隙間にいて,
サイドから侵入していく香川が本田にあてて2度ワンツーを繰り返した。
あれよ。
本田も香川もブロックの外にいて,
4−4ブロックを舐めるようにU字に回してるうちはチャンスはできない。
4−4の中で受けて,出来ればそこで2タッチ以上ボールを持って,
相手を縮めてから展開していくヤツ。
本田ならそれが出来るわけよ。
(前田やマイクは出来ないけど,大迫は出来るよ)
それよ。

そういう大きな枠組みの攻め方もそうだけど,
いわゆる,攻から守,守から攻,そういう切り替えの部分が,
やっぱり遅いし,ごちゃっとしてしまう。
誰がどこを埋めるか,詰めるかってのが感覚的に出来るのが強豪国で,
日本はどうしても決めごとがないとうまくはまらない感じ。
ザックはポジショニングの修正でこれを矯正しようとしてるけど,
トランジションでのダイナミックなポジショニングはまだまだ出来てない。
(カタカナばっかりだ・・)


とりあえずおつかれ。
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昔からアイドルとかスターが好きなんですけども,
今はももクロに注目してるんですけども,
それについて「キモイ」みたいに言われることが多くて,
もうほんと,おっしゃる通りなんですけども,
でも,ボクの中でのアイドルとかスターってのは,
世間の人が思ってるような見方とはちょっと違ってるんじゃないかな,
そう思うことがあるので,その辺を書いておこうと思う。
(キモイと言われることへの言い訳,ですかね)


「アイドル」というか「スター」なんですけども,
そういうものの存在ってのが,
ボクの心の中でどういうものなのか,ってことです。
「ウソみたいな存在感」なんですよね。
長嶋茂雄とか,郷ひろみとか,松岡修造とか。

彼らは,なんていうか,
自分が生きていて,現実と折り合いを付けていく過程で捨てたモノを,
まったく捨てないまま保持して,
しかもそれをさらけ出して生きている。
みんな,深層心理的には「持っていたい」と思っているけども,
「でもこの世の中で生きていくためには」と思って妥協したモノを,
彼らは逆に,それだけで構成されていて,それを全開にして生きているんだよね。
だから彼らを見ると,それはやっぱり「なりたかった自分」なんだよね。
底抜けの陽気さだったり,格好良さだったり,不屈の努力と根性だったり。
ジョホールバルで山本浩が,
「日本代表は、私たちにとっては「彼ら」ではありません。これは、私たちそのものです。」
って言ってるけど,まさにその通りなんだよ。

そんな彼らとももクロの共通点を考えると,
まぁ共通点は上にあげたようなことなんだけど,
彼らが完成形であるのに対して,
ももクロは形成途上だってことが一番の特徴なんじゃないかな,と。
つまり,
今はまだ,そこら辺の高校生達とそれほど大きな差があるわけじゃない。
でも,間違いなく彼女たちは,普通の人生では思春期あたりで「捨てるモノ」を,
今も持ち続けているし,これからも持ち続けてくれそうで,
その先には長嶋や修造のような存在への昇華がありそうな気がする。
だから,ももクロの楽しみ方として「彼女たちの成長を見守る」ってのがあって,
たとえば五次元アルバムやツアーに対する当初のアレルギー的な反応は,
彼女たちがその魅力である「オリジナルである」ってことを捨てて,
さらに「出来合いの格好良さ」に屈したように見えて,
それに由来するもんだったんじゃないかな,とも。
もちろんそれは杞憂で,彼女たちは昇華しているけども。

プロレスは,こうした属人的なアイドル性・スター性を,
肉体と試合とキャラクターとストーリーで,
集団として保持して動かしているものと見られるんじゃないかな。
超人的な身体だったり,
凶暴で極悪非道だったり,
気は優しく力持ちだったり,
貧弱だけどずる賢かったり,
それぞれ皆が少しずつは持っている性質なんだけど,
それだけで現実世界を生きていくことは難しい。
そんな性質だけをそこまで貫くのか!ってぐらいに突き詰めてキャラを作って,
そんなキャラがそれぞれに交わるストーリーってのは,
私たちがいま生きている現実の相似形の極端系であって,
やっぱり「彼らは私たち」なんだよね。

古典的な女性アイドルも,この枠に入ってくる。
それは純粋さ,可憐さ,可愛らしさだけで存在している人で,
それこそ「アイドルはウンチしない」を具現化したような(?)。

つまり,アイドルとかスターってのは,
三人称の形をとった一人称というか,
一人称の妄想の中の三人称がそのまま具現化したものというか,
そういうものなんだと思う。

そうこう考えた時に,
「あの子たち」ってのは,
どうしても二人称なんだよね。
「触る」ってのは,つまり二人称なんだよ。
幻想じゃなくて現実なんだよ。
一人称の妄想の中の三人称を,
誰かが人為的に操作して作り出して提供してきたもの,なんだよね。
だからどうしても「不純物」が混じってて,
それがどうしても気になってしまう。


まぁ要するに,
アイドルとスターとプロレスが好きだって,
ただそれだけのことですね。

未完
当該会見の文字起こしはリンク先参照。
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2994.html
http://synodos.jp/politics/3894/2
以下は抜粋。

=======
A) 当時の歴史をちょっと調べてみたらね、
日本国軍だけじゃなくて、いろんな軍で慰安婦制度っていうものを活用していた訳なんですよ。

B) ただ慰安婦制度についてね、
意に反して慰安婦になった方に対しては、
やっぱり僕は配慮しなければいけないと思いますけれどもね。

C) 銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命かけて、あの、そこを走っていく時にね、
そりゃそんなあのー、武者集団と言いますか、精神的にも高ぶっているようなそういう集団は
やっぱりどこかでね、そのーー、あのーーーーーー、
まあ、休息じゃないけれども、そういう事をさせてあげようと思ったら
慰安婦制度というのが必要だという事は、これは誰だってわかるわけです。

D) 慰安婦制度じゃなくても風俗業ってものは必要だと思いますよ。それは。だから、僕は沖縄の海兵隊、普天間に行った時に司令官の方に、もっと風俗業活用して欲しいって言ったんですよ。そしたら司令官はもう凍り付いたように苦笑いになってしまって、「米軍ではオフリミッツだ」と「禁止」っていう風に言っているっていうんですけどね、そんな建前みたいなこというからおかしくなるんですよと。法律の範囲内で認められている中でね、いわゆるそういう性的なエネルギーを、ある意味合法的に解消できる場所ってのが日本にはあるわけですから。もっと真正面からそういうところ活用してもらわないと、海兵隊のあんな猛者のね、性的なエネルギーをきちんとコントロールできないじゃないですかと。
=======

橋下さんの発言を抜粋した上で,
論点は,
A) 従軍慰安婦は歴史的事実として各国が”活用”していたのに日本だけ批難されるのはおかしい。
B) 慰安婦について「強制」であったなら配慮が必要だ。
C) 兵士のために慰安婦精度が必要だということは「誰だって」わかる。
D) 兵士の性的エネルギーは,慰安婦の代替として風俗業を活用すれば,コントロールできる。
でしょうか。

(A)について,
「日本だけが批難されるのはおかしい」という意見は理解できる。
それはその通りかもしれない。
でも,それを言いたいのだとしたら,
それ以外の主張とは混ぜないで,
「世界中の軍組織にはびこる慰安婦制度に対する遺憾」
として表明するべきものではないか。
そこの切り分けがないのが問題なのかな,と。
もちろん,軍に限ったことではないのだけど,とりあえずは。
たぶんこの部分の主張が(他の主張に比べ)一番理解がえやすいので,
ガンガン喋った時に,結構ここに立ち返って主張しているようにみえる。

(B)について,
橋下さんの主張は「強制していたならダメだ」ということ。
「自由意思で慰安婦となった人もいる。実際に良い暮らしを手に入れた」
という主張の裏返しなんだろうと思う。
でもそもそも「強制」云々は,
もともと政治的・外向的な文脈の中でのことであって,
「軍が」というのを主語にする「集団/全体」としての話で,
「慰安婦の人権」とか「慰安婦の人生観」とか,
そういう「個人」ものとは別物なんじゃないか。
それは赤紙がきたら形式上は「お国のために」と送り出しながら,
人目に触れぬ家の中では「戦争が無ければ」と涙を流していたような,
そういう話の類型であって,
必ずしも表面上の「証拠」が云々では語れないものだと思う。
「慰安婦自身の告白」のみが証拠である以上,
「あなたたちだって,お金が稼げると思ったからやったんでしょ?」
みたいなことを言うのは,どうなんよ?という感じ。

(C)が大問題。
橋下さんの主張をもう少し分解すると,
1.「戦場で兵士の感情がたかぶる」
2.「性的エネルギーもたかぶる」
3.「性的エネルギーの発散には性行為しかない」
4.「性的エネルギーの暴発は軍の規律や一般人に迷惑」
5.「軍の規律と一般人を守るために職業慰安婦が必要」
6.「(1-5のロジックは)誰だってわかる」
ということなんだと思う。
1-2については,戦場に行ったことが無いのでわからないけども,
そういうものかな,と想像はできる。
4は,現在も沖縄などで事実として問題になっている。

問題は,3と5で,それを受ける6。
橋下さんの考えの根底には,
「性的エネルギーは性行為でしか発散できない」
「発散させなければ暴発する」
という「男性観」がある。
ここで「軍人観」じゃなくて「男性観」というのは,
「誰だってわかる」と軍人経験のない橋下さんが言っているから。
つまりこの部分は,
「興奮した男の性的エネルギー(性欲?)は性行為で発散しないと暴発する」という,
もはや軍とは関係のない一般論なわけです。
でも,
すべての男が興奮したら性的エネルギーが昂ぶるわけでもないし,
すべての男が性的エネルギーは性欲でしか発散できないわけでもないし,
すべての男が性的エネルギーを発散しないと暴発するわけでもない。
従軍経験がないからわからないけど,
もちろん「すべての男」を「すべての兵士」に置換したってかまわない。

「自分の欲望の発露で他人を傷つけないようにしよう」ってのが社会を営む大前提だし,
そのための第一歩は「自制」だと思う。
それを,軍という特殊状況だから,という言い訳のもとに,
欲望を自制することを放棄している,欲望を自制しないことを容認している,というのも,
橋下さんの考えの根底にある気がする。

そして,自制できない欲望があって,それが社会に迷惑をかけるから,
(強制ではなく自分の意思を持つ)女性を活用することで解決しよう,
ということだろう。

つまり橋下さんのこの発言の問題点は,
・「男性は性欲を性行為で発散しないと暴発する」という男性一般に対する愚弄
・「従軍中の性欲は自制できないもので仕方がない」という軍人に対する愚弄
・「社会のために女性の肉体を活用する」という女性一般に対する愚弄
あたりにあるんじゃないか。
女性が性風俗業に従事することに関しては,
ボク自身,これといった意見が固まってないので,ここではこれ以上踏み込まない。

とにかく,こうやって考えると,
(D)でいうところの「建前だ」というのは,
「軍で興奮して高まった性欲を自制できず暴発し事件化している事例が山ほどあるのは,
 軍人が性欲を自制できないことを認めず風俗禁止とか言ってるせいだ。」
ということと解釈できる。

そうすると一連の橋下発言の何よりの問題点は,
【政治家が「(男性は)性欲を自制できないものだ」という認識を持っていること】
なんじゃないだろうか。

ここで大事なのは,
「自制できていない」という現状認識と,
「自制できない」という能力の問題の違いで,
橋下さんの言い分だと,
「努力しても自制できっこない。だって実際,自制できてないじゃないか」
ということになる。

「自制できない」という理性の限界があって,
もうそれはどうにも改善しないから,
「自制できない」ベースで制度設計しましょうね,というのが橋下論。

でも,たぶん世界の一般論としては,
「なんとかして自制しましょう」
「欲望を理性で自制できないことは恥ずべき事だ」
「理性を持ち社会を営むのが人間の尊厳」
ということだと思う。

この部分って,
本当に社会観の根底の部分で,
あまりに根底の部分過ぎて,
だから,まさかそんなことが論点だなんて,って感じ。
不勉強で適当な感じになってしまった。


とにかく,
こういう部分って,
近代社会学・哲学を担ってきた欧州には,
文化的に染みついてるものだと思うから,
明日の外国人特派員会見でそういう人達から踏み込んだことを突っ込まれて,
はたしてどうなるのか,って感じですね。

自分の信条として,
これは絶対にやりたくない,ってことがある。

そんなやりたくないことを強要されるような,
そういう環境に身を置くのは良くない。
別の動機で乗り越えられるかもしれないけども,
その動機が枯渇した時には大変なことになる。

仕事の選択では,特にそれが大事だ。

今のこの国で生きていくためにお金が必要で,
お金を得るためにすることを仕事とするなら,
仕事には自分の生命がかかっている。
そんな生命がかかっていることをするという自分の生活環境が,
自分の信条に反するものであるってのは,
つまりは自分の生存条件と生存理由が相反しているようなもので,
あやうい。

はとくん(http://haliotis-hato.blogspot.jp/)は,
その危険性に身が引き裂かれそうになっていたけど,
(子供の誕生をきっかけに?)
自分の中で大事なものを大事にするために,慣れてきた環境を飛び出した。
このジャンプはすごく勇気のいるもので,
その決断を下したこと自体に敬意を抱くわけです。
ジャンプの着地点に自分の生存条件がかかっていて,
にもかかわらず着地点がほとんど見えない状況で,
それでもジャンプしたってのは,
1つは根底の部分で「どこでも生きていける」っていう自信があって,
もう1つは「やりたくないことはやりたくない」っていう信条があって,
そういうことなんだろう(どういうことなんだ?)

翻ってボク自身には,
「どこでも生きていける」ってほどの自信がないわけで。
「やりたくないことはやりたくない」っていう信条はあるんだけど,
それが「でも生きていくためには」に勝てなくて,
こうして研究を続けている理由にもなってしまっていて,
なんだか良くないなぁ,と思い続けていて,
やっぱりそういう態度ってのがアウトプットにも反映されていて,
それを看破されてしまうとギクリとしてしまって,
フラフラになってしまう。

「科学研究なんてものは,もっと規模を縮小すべきだ」
っていうことに気付いたのが,
ボクが科学研究をして到達した1つの信条で,
もうそこに到達した以上は,
科学研究のステージから降りるべきなんだ。
「中の声で改革」なんてことも一時期は考えたけど,
その間,口に糊する手段が科学研究ってのも,やっぱりおかしい。

ジャンプする勇気。
昨日は攻撃的に書いたせいで,
元凶ふくめ反応があって,
さらに考えさせられる気分になった。

そうだ!総説を書こう!
ってことで良いのかも。
ってか,
総説しか書かない研究者,
言い換えるなら,
妄想ドリブン研究,
なのかな,
そういうのがいたって良いじゃん。

「手を動かさないとわからないことがある」
ってのは事実だと思うけど,
「手を動かしたヤツがえらい」
ってわけじゃないし,
「手を動かさなきゃ何も語れない」
ってわけでもない。

同じ事の繰り返しになっちゃうけど,
「手を動かす」ことと,
「文献を読む」ことを,
分断させずに,
融合させて,
そこでうまれてくる「世界はこうなっとるに違いない!」っていう,
原著論文的な意味では根拠に基づかない,
でもある種の確信が自分の中にあるものを,
総説に載せて発表するってのは,
それこそ科学を前に進めるために,
へたすると個別の原著論文なんかよりも,
重要なことなんじゃないでしょうか,
と思うわけですね。

とにかく,
彼らの文献読解の量と質が,
ただ単に彼らのものだってのは惜しいし,
外に出しているメディアがブログというのも惜しい。

JpGUの新説ジャーナルにでも,
ドカンと総説を書いてほしいな(はあと



ボクはあまり(ほとんど)論文を読まないという,
大変に堕落したダメ研究者だという自覚があります。
「そんなこと言って本当は読んでるんでしょ」とかも言われますが,本当に読んでません。
どれぐらい読んでないかって,
ヘタしたらこの半年は一報も読んでないんじゃないか,とか,それぐらいです。
別に自慢でもなんでもないですが,事実として,そんなです。

で,
最近,ボクよりちょっと下の世代に,
文献紹介ブログ活動を活発に行っている人達がいます。
これ(http://palaeo-kuroneko.blogspot.jp/)とか,
これ(http://y-t-yamaguchi.blogspot.jp/)とか,
これ(http://paperlog.blog.fc2.com/)とか。
まぁ元凶(?)は,
これ(http://d.hatena.ne.jp/keikoba/)なんでしょうけども。

もうね,頭が下がります。土下座レベルです。すごい。
これだけ文献をチェックしていることも,
それを(自分の誤読があるかもしれないのに)ウェブに載せてしまうということも,
嫌味でもなんでもなく,本当にすごいと思うわけです。

すごいと思うわけです。
が。
一方で「それってどうなん?」的な感情も同時に抱くわけです。
なんとも記述しにくい感情なのですが,
畏友ヨシザワ氏も同じようなことを言っていたりしまして,
これはいよいよ,ちょっと考えてみるべきなのかな,なんて思うわけです。

タモツさんには記念セミナー時にツッコミましたが,
「世界はこうなってると,ボクは思うんだよね」というような,
特に「ボクは思う」みたいな,
「一人称」で「根拠無し」の「世界観」みたいな,
そういうものが「まず先に」あって,
それを科学的な手法論で解き明かしていくのが,
科学研究って営みなんじゃないのかね,と。

もちろん,
そんな「ボクは思う」ってものを根底から支えるのは文献調査で,
そこに至るには膨大な文献を丁寧に調査することが重要なわけですが,
(そしてそれをしないからボクの仮説は1割以下の打率なのですが)
でもでも,やっぱりそれだけじゃないだろう,とも思うわけですね。

文献をたくさん読んで,
そのイントロや議論の結語で言ってることを「ふむふむ」して,
それをそのまま「三人称的」な「〜〜と言われている」って具合に研究を捉えてて,
なんというか,
自分の研究さえも「誰かの仕事」みたいになってないかな,とか,
そういう風に感じてしまうのです。

別に「ハッタリ」とか「トンデモ」とか,
そういうものをどうこうせいってことじゃなくて,
せっかく,他ではない自分が生きているんだから,
「代替不可能なボクだけのサイエンス」みたいなものを持って良いんじゃないか,と,思うわけです。

知識なんてものは,それ自体は,別に誰が持っていたって構わないわけで,
つまりある仕事が文献になっている以上は,
別に誰がその内容を知っていても(知らなくても),
その文献はもうその文献としてそこにすでにあるわけ。
でもボクの頭の中は,
どこにも文献になってなくて,
いまだ誰にも見えないボクだけのサイエンスなわけで,
それを文献として世に出すことが,
そこがサイエンスなんじゃないかな,ということです(どういうこと?)。


たとえばレビュー論文を書くにあたって,
過去の論文をしっかりフォローして,
それを体系化して理解して記述することはすごく重要だけど,
でもやっぱり,
最初と最後のパラグラフには,
「オレの話を聞け」みたいな「魂の叫び」を見たいよね。

んで,
ブログなんてメディアは,
それこそ「オレの話を聞け」なメディアなんだから,
無味乾燥な文献紹介だけじゃなくって,
もっともっと「オレの話を聞け」って話をして,
そこで身につけた「魂の吐き出し方」みたいなものを,
自分の原稿に活かしていけばいいんじゃないのでしょうかね(誰目線なんだ?)。


ということで,
「他の誰でもないオレ!」
の話が聞きたいです。

ブログでも,
学会発表でも,
論文でも。
そんなん,楽しいか?
文献たくさん読んで,
まだわかってないことが把握できて,
自分は今までコレコレやってきてるから,
じゃあこれやってみようかな,って,
そんな計画で,おもろいんか?
役所の業務計画みたいな研究計画。

なんつーか,「消費的」なんだよね。
誰かが課題を列挙して,
それをかたっぱしから消費していく感じ。
そんなんで良いんかね?

もっと「創造的」じゃないのかね?
あと数十年この世界で生きていくんだったら,
消費じゃなくて創造でしょ。

もちろん,
個別の論文はコツコツやるんですけども,
それとこれとは別として,ね。
まずはアトランティス騒動のニュースをNHKから引用

-----------------------------
(略)
現地調査のリーダーで、海洋研究開発機構の北里洋さんは「実際に潜水調査船に乗って、海底で花こう岩を確認できたときはとても驚き、感激した。伝説のアトランティスとは出来た年代が異なるようだが、大西洋に『大陸のかけら』を見つけた、意義のある発見だと思う」と話しています。
(略)
-----------------------------

ボクが聞いた範囲の調査概要は,
昔,ブラジル沖でドレッジをして,花崗岩が採れたことがあった。
でも転石かもしれないから,今回,そこに潜航してみた。
そしたら花崗岩の露頭が見つかった。
海で出来ないはずの花崗岩帯が海底にあったということは,
・かつて大陸だったものが,
・大陸と分断して,
・海に沈んで,
存在しているということで,
科学的に非常に意義深い観察結果である。
今後,岩石の化学分析をすることで成因・生成年代が明らかになるだろう。

ということです。

これに対してアトランティスをWikipediaから引用すると,,,,
『アトランティスは、古代ギリシアの哲学者プラトンが著書の中で記述した、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことである。強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。』
『プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。』

ということです。


それはさておき,
うちの研究所の研究者が「アトランティスとかいう妄想」を言ったとか,言わないとか,
そういう部分でごちゃごちゃ言ってる人もいるようですが,
まず基本に立ち返って考えるべきだと思います。

そもそも,
科学研究の一義的なモチベーションは,何かを知りたいという欲求なんですよね。
「これってなんだろう」ってことです。
その後に続く感情としては,
「もしかして,アレかな?」ってことでしょう。

「科学的に考えましょう」ってのは,
そういう個人個人が「アレかな?コレかな?」とか言っていると,
いつまでたっても知識が蓄積しないから,
皆が共有できる形で対象を評価して記述していきましょう,ってことだと思う。

そう考えると,
海底がどうなってるか知りたくって,
実際に海底に潜ってみて花崗岩の露頭を見つけ,
「これはアトランティスかもしれん!」って思うことは,
もっと踏み込んで言えばそう外に向けて発言することまでもが,
立派な調査の一部なのではないか,
ということなんです。

「知りたい欲求の発露」「行動」「感覚的理解」「科学的裏付け」
の順に調査が進むのだから,
別に「アトランティスや!」って言っても,
何の問題もないですよね。

今回の騒動の問題をあえていうなら,
「感覚的理解」である「アトランティスや!」と,
「科学的裏付け」が分離されてないことなんじゃないかな。
なんせ,
「アトランティス」自体がそもそも「科学的」でないんだから,
そこに「科学」を持ち出して「年代が違う」とか言って火消しにはしるのは,
かえってアホを露呈していると思うわけです。


そんなわけで,
世間が盛り上がって,
会社の名も下げず,
エセ科学のそしりを受けない文例を考えてみました。

「わたしは露頭を目にした瞬間,『これはプラトンの言ったアトランティスだ!』と感じた。
 それは潜って見た人間にしか感じられない「啓示」のようなものだった。
 もちろんプラトンの言うアトランティスの存在に科学的根拠はない。
 わたしがブラジル沖で見たものが何であったかは,今後の分析が明らかにしてくれるだろう。
 しかし,あえて言いたい。
 「アトランティスを見た!」と。」

ぐらいでしょうか。


一般公開向けに,ワンピースネタでも考えてみました。

「わたしの名前はヒロシ・D・キタザト。
 普段,Dを名乗ることはない。
 それはDを継ぐ者だけが知る存在を世間に知られぬためである。
 わたしの祖父も生涯,Dを名乗ることはなかった。
 しかしいま,QUELLE2013の名をかり,しんかい6500がパンドラの箱を開けてしまった。
 だから私は,一族の掟に従い,世界に向けて発表しなければならない。
 「この世のすべてをブラジル沖に置いてきた。アトランティスは実在する!(ドン!)」。
 (シバサブロウ・D・キタザト) [未完]

という学説を妄想している。
うちのラボの面々の素晴らしき研究成果を統合するに,
そういうことですべてオケーっぽい。

先日,タモツ先生の襲名披露興行で,
「有機物の堆積量とは,つまり,酸素の蓄積量である」
というフレーズを耳にして,
我が意を得たりな気分になったわけですよ。


窒素固定なんてエネルギー効率の悪いことを,
化学合成のエネルギーだけで回して,
さらにその窒素だけで地球上の生物を賄おうと思ったら,
とてもとてもタランティーノ。

でもそこでいきなり「シアノバクテリア最強( ゚д゚ )クワッ!!」となるのは早計。
番長から大魔神の継投にヒゲ魔神が挟まったように,
ワンポイントリリーフ的なアレをアレする必要がありそうだったり。

さらに重要になってくるのが,
昔の地球環境条件での,
非生物的な窒素固定フラックスと,
生物活動も含んだ脱窒のフラックス。
マジメに勉強すればその辺に文献値があるのだろうけど,
それもどうかという感じだろうから,
適当な実験を組んでパパッと数字を出すのが良かろうと思うわけ。

地球科学の先端研究を煮詰めていくと,
高校生物の教科書に描いてあったことが本質だったりして,
やっぱ本質は本質なんやなぁ,と。
リービッヒの最小律

とりあえず,
現世においても熱水活動がリンのソースかシンクか決まってないし,
広義の「脱窒」代謝の多様性みたいなもんもよくわからんし,
そういう基礎的なところからおさえる必要があって,
でも逆に言えば,
「次世代手法がウンタラー」とか言ってるけども,
今時点でもまだまだ(まだまだまだまだまだまだまだまだ)やることはいっぱいあるわけで,
「最先端のー」とか「カッティングエッジのー」とか言ってるけども,
今時点の知見を集約して整理するだけで新たな地平は拓かれるわけで,
そういうことを軽視しないで,
じとっと考えてきたいね。



憲法のことをちょっと考えてみた。
勉強しないで考えただけなので,ツッコミどころがあるかもしんないけど。


今の日本がとっている態度は「立憲主義」で,
「政府の統治を憲法に基づき行う原理で、
 政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠する」(wikipedia)
ということらしい。

ボクの表現で書くなら,
「政府(あるいは国家権力)の役割を一定の枠組みの中に限定することで,
 政府が国民に対して好き勝手に権力を振るうことが出来ぬようにするため,
 憲法というものが存在している」
ということなのだろう。

この立憲主義の理念を明文化しているのが,
日本国憲法第99条の,
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、
 この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」
なのだろう。

ボクが99条でポイントだと思うのは,
「憲法を尊重し擁護する義務を負う」のが,
「すべての国民」ではなくて,
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」という,
国家権力的な人々に限定されていることだ。

これは端的に考えれば,
「憲法は国家権力を制限するためのもの」なのだから,
当然といえば当然のことだ。

でも,ちょっとひねくれて考えると,
「非国家権力の国民は,憲法を尊重し擁護する義務を負わない」
という意味にもとれる。

日本国憲法第19条には,
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
とあるので,
第99条の対象を「すべての国民」にして,
「憲法を尊重し擁護する義務」を国民に負わせてしまうと,
第19条と第99条に矛盾が生じることになるわけだ。

つまり,
ボクのような一国民(独法職員って国家公務員じゃないよね??)が,
「日本国憲法とかマジでクソだよな!」
「9条のせいで軍隊が持てないじゃん!」
「天皇は神聖にて侵すべからずだよ!」
という意見を表明する自由は,
第19条で保障されているとともに,
第99条で制限されていないのである。

一方で,
たとえばアベちゃんやゲルちゃんみたいな国会議員が,
「日本国憲法とか押しつけ憲法で恥ずかしいワン!」とか吠えるのは,
たとえ第19条に保障されているとしても,
第99条的にダメなのである。

そうこう考えると,
憲法改正に関する話題の重要な論点が浮かび上がってきた気がする。

つまり,
「国会議員が憲法を尊重し擁護する」範囲の中で,
「国会議員が憲法を変える手続きをする」ってことを,
「どうやって矛盾無く遂行するのか」こそが,
「憲法,変えようぜ!」とか言う前に議論すべきことなんじゃないだろうか。

これはちょっと話が飛ぶけども,
「憲法を尊重し擁護する態度」を持っていてもなお,
「それでもやはり,ここは改正せねば国家のためにならない」という部分を改正するならば,
それは第99条に矛盾しないだろうし,
そういう部分であれば,
第96条の「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」は,
別段「高すぎるハードル」では無いように思う。

さらに言えば,
ちょっとヘンテコな論理になるけども,
「日本国憲法を尊重し擁護する義務を負った国会議員」のうち,
三分の一以上が「改正反対」と言うのであれば,
それは十分に考慮に値する重みなんじゃないだろうか。


ということで,
2013年現在のボクの意見は,
「日本国憲法,このままで全然問題ないでしょ」
です。

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