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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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眞子さん、一人で出てきてカメラに挨拶。
振り返って見送りに出てきた父・母・妹と向き合う。
全員マスク姿で口元が見えない。
父、母の順に、会釈の後に少し会話をしている様子。
最後に妹と向き合って会釈。
少し言葉を交わしたように見えた直後、佳子さまがバッと手を広げて姉をハグ。
パッと離れてマスク越しでもわかる笑顔。

ここまでの経緯もあって、父・母とのカタい挨拶が「皇室ゆえのカタさ」とも「祝福されていない」とも取れるビミョーなラインだったところで、妹が全身で「私は姉を祝福している」と表現したわけですよ。あの場面でハグをするというアイデアは「たしかに、これしかない」というもの。

皇族と私人、家族仲、現代の若者、そして自身が当事者になりうる立場という多面的な論点がある状況のただ中にあって報道陣に囲まれ生中継される場面で、ハグ以外に、どんな行動がありえただろうか。もちろん、本心がどこにあるかはわからない。報道ウケを狙ってやった行為かもしれない。でも、だとしても、たった数秒で、完全にすべてを掌握したよね。動画、紙面、誌面。どう使っても絵になる。

そしてハグというアイデアを完璧に遂行した「間」が素晴らしかった。あれより早くても遅くてもダメ。あれより速くても遅くてもダメ。あれより短くても長くてもダメ。

父母からきた流れを受けてのカタめの会釈から、バッと手を広げた時の、あの「バッ」がとにかく絶妙。あそこで優雅に「スーッ」と開いていたら嘘くさくなるし、いきなり「ガバッと」飛びかかると妹の暴走にも映ってしまう。姉のリアクションを待つ間合いがあったことで、そこに対話が見えた。さらにパッと離れたところもうまくて、あまり長く続けたら撮られることを意識している感じになっただろうし、あれより短いと本当はハグしたくない感じになったかもしれない。

佳子ハグは、眞子さん結婚に対してポジティブな気持ちを持つ国民の「象徴」だった。
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ネット上だけのお友達であるらむさんの奨励賞受賞論文に触発された。
https://lambtani.hatenablog.jp/entry/2021/10/22/141349

「賞に無縁で自信喪失的で論文をテンポよく出版できぬ、真面目だがいかに無精者だったかを、意味ある形で、おもに私より若いステージの方へ向けて、述べたい」というらむさん。これがボクとは正反対なのです。ボクは「論文をテンポ良く出版できただけの不真面目な無精者」です。色んなところでバラバラと書いたり喋ったりしているが、せっかくの機会なので、らむさんの素晴らしい論文への御礼がてら、あらためて書き連ねてみる。

中卒時点まで遡ろう。兵庫県の公立高校入試は「総合選抜」という謎ルールで運営されていた。県立高校の普通科については、県の一括試験を受けて、合格者は住んでいる場所に基づいて高校を振り分けられる。個別の高校を選ぶことが出来るのは、一括試験で上位一割の成績を取るか、普通科ではないところを別途受験した場合に限られる。ボクは中学時の成績が良くなくて、地元では一番の名門である「北高の理数科」の受験資格がなかった。「西高の英語科」には興味がなかった。総合選抜の結果、「県宝の普通科」に行くことになった。県宝は大学進学率が3割ぐらい、1学年8クラス中で理系は1クラスのみという、地元で一番ダメな高校。いわゆる偏差値が50を下回っている。なおこの時点で、兄は隣の西校普通科から京大に現役合格していた。

「最終的に東大に行ったらええのよ」という謎な家庭方針に従い、中学卒業直後の春休みから河合塾に通っていた。ここからボクのショートカット人生というか、効率厨な生き方が加速していったのだと今では思う。アホに合わせたしょーもない授業が展開される高校では適当に遊んで過ごし、河合塾には熱心に通った。高一から河合塾に通うのは、進学校から東大京大を狙う熱心な層ばかりだった。場違いな存在だった。そんなこんなで高三になって、第一志望を北大薬学部にするぐらいの成績にはなっていた。「病弱だから薬学部」というピュアな考えだった。前期入試で落ちて、浪人して東大を目指すことも考えたけど、浪人は面倒だなと思って、得意科目だけで受験して北大の理学部に行くことになった。

大学の授業は、高校に輪をかけてつまらなかった。いま思うと、それは理解できないことをツマらないと逆ギレしていただけなのだが。大学一年の成績は116名中114番、下2名ならびに上数名は留年だった。進級者の中で最低順位だったので、学科選択では4学科中最低希望にした地球惑星に回された。地惑での授業は、これまたつまらなかった。そもそも地質や岩石や鉱物にまったく興味がなかった。3年になってから、2年の時に落とした授業を2年生に代返してもらって、単位を回収して無事に4年になった。なお、この時の一個下世代が、コンノでありオオクボである(←わかる人にはわかる)。

4年次の研究室は、3年までの生活で「こいつは頭が良いな」と思った角皆先生のラボに申し込んだ。先生には「キミ、ボクの授業とってないよね?」と、とても嫌がられた。嫌がられたけど、結果的に受け入れてくれた。与えられたテーマは、入れ替わりで修士を出た工藤先輩の仕事の始末だった。卒論時でさえラボにはほとんど行かなかったが、先生としても早く世に出したいネタだったようで、コンビニで立ち読みしていると携帯に着信があって「すぐに来い」と呼ばれて実験をするのが常だった。引き継いだテーマなので下地がしっかりしていて、わりとすぐに結果が出た。

経緯は覚えていないけど、先生から「論文を書け」と言われた。M1の夏ぐらいだったはず。当時、論文を書くということの意味がわかっていなかった。卒論時から論文を読んではいたが、数としても、読み込みの深さとしても、お遊びみたいなレベルだった。これは今に至るまで変わらない。勉強をせずにきたので、勉強の仕方がわからない。そう。ボクは授業を聞いてもノートを取らないで生きてきたので、インプットした情報を、整理しながらアウトプットすることができない。インプットした情報は、即座に覚えやすいことだけ脳内に記録して他は捨ててしまう。だから論文の精緻な議論の内容など、ちゃんと理解できない。今も理解できていないと思う。

当時のラボにはD3+の先輩が数名いて、みんな「論文を書かないで苦労している」らしかった。本人達は朗らかだったけど、先生は快く思っておらず「アイツらは論文を書かない」とぐちっていた。「論文を書く」という行為の難易度がわからないままに、「論文を書かないでいる」という状態が人生の難易度をあげることが何となく理解できた。ここで効率厨的なボクは「論文を書いた」という状態に辿り着けば、今後の人生の難易度が下がるのだと考えた、のだと思う。正確には覚えていない。そして書いた。便所の落書きのような原稿ができた。どうせ真っ赤にされるのだからと、特に推敲もせず先生にわたした。もちろん真っ赤になって返ってきた。それを数往復したのだと思う。10回も往復はしていない。その原稿は、完全に先生が書いた文だけで出来上がっていた。M1の2月に投稿して、3月にレビューが返ってきて、5月にアクセプトされた(2005 Anal Chem)。

学振DC1の存在をどうやって知ったのかは覚えていない。とにかく論文出版がDC1申請に間に合った。面接免除で通った。これで完全に自分の中の図式が完成した。「論文を書けば職にありつける」。論文を書く苦労を知らないまま(なぜなら1本目は先生がすべて書いたようなものだから)「論文を書けば良いんだろ、簡単な業界じゃないか」という、学術に対する敬意など微塵もないダメ院生が出来上がった。業績至上主義の権化。M2の頃には先生と修復不能な状態に陥っており、博士からはラボを移った。余談ながらここで図らずも「最終的に東大に行ったらええのよ」を満たした。親孝行。

博士課程のラボにはボクしか学生がいなかった。D1の冬に、先生がずっと取り組んでいたインド洋の航海に参加して、その時の発見についてすぐ書いて、D2の冬には受理された(2008 G3)。この論文は「発見モノ」だったので、議論は特に必要なかった。これと並行して、修論の仕事は、ケンカ別れした先生から完全に無視される中で書いた。こちらの出来は酷かった。効率厨なボクには、すでに止めた研究の内容をまとめるために勉強をすることは苦痛だった。知識欲はなく、単に執筆に要請される苦労だと認識していた。この時のエディターが親切で(いま読み直すと親切というよりはイラつきながら)付き合ってくれて、最終的には先生も手を貸してくれて、なんとかD3のうちに出版できた(2008 ACP)。この時のやりとりはジャーナルのサイトに残されているが、本当にヒドい。 https://acp.copernicus.org/articles/8/6189/2008/acp-8-6189-2008-discussion.html

とにかくD3の秋には主著3報の業績リストが出来上がった。うちの分野では「主著が1報あれば学位審査に進める」ぐらいが標準なので、正直言って同期連中からは(業績リストだけは)抜きん出ていた。でも、ここまで書いた通り、先輩の引き継ぎ仕事、先生のテーマの丁稚でアタリ、修論データの仕事、の3報なのだ。今に至るまで、この「誰かが発案して着手した仕事がデータになって転がっているから代表してまとめる」というスタイルの論文ばかりを書いてきた。たくさん勉強して研究をデザインしたことはほとんどない。場当たり的に進んでいる。データが先にあって、これを論文にするためだけの勉強をする。細かい議論には立ち入らない。「詳細は論文の主旨からズレるから議論しない」とか書いて、逃げる。逃げ切る。

ポスドクの就職も棚ぼただった。博士で進学したラボには、前年までポスドクでいた先輩(トキ)が途中まで組み上げた分析装置と、これで分析するはずだった試料があった。先輩からこれを引き継いで装置を作って分析を終わらせた(2010 JGR)。その試料が、高井研からの依頼物だった。D1の3月の集会で高井さんに挨拶した。「トキのサンプルを分析したのはボクです」と。それでD2の夏の航海に誘われて(2011 GJ, 2013 ChemGeol)、まだラボに出入りしていた高井さんがドンドンと培養して培地ガスを送りつけてくるので延々とこれを分析した(未発表)。毎週日曜には1時間超の電話をしていた。そんなこんなでD3の秋には「科研費取れたからポスドクで来いや」と釣られて加入。それから先月まで12年間、高井さんの部下をやっていたのだから、ノンキなもんである。

これまでたくさん国際学会に参加して、2度の短期留学にも行った。しかし外国人と十分に交流したとは言い難い。本当のところは「言い難い」では生ぬるい。ずっと逃げていた。英語がとにかく苦手なことと、特に話したいことがないことと。お喋りは好きだが、それが英語になることで言いたいことも言えずストレスを感じるから、楽しくないし面倒くさい。英語は仕事のツールでしかない。益川さんじゃないけども、読み書きできれば十分だ。十分と言えるほど読み書きも出来ないが。海外で街を巡るのは楽しいから、その程度のツールとして使えるぐらいに英語だけは覚えようかとも思うが、それはそれで十分なので、心を通わすような交流をするべく頑張る気はない。だからいまだに海外にお友達はいない。

2012年に地球化学会の奨励賞をもらうことになった。受賞記念講演では推薦者が紹介者となるナラワシがあるのだが、推薦者である蒲生先生は航海か何かで不在で、高井さんも不在で、結果的に角皆先生にお願いすることになった。角皆先生とはまだちゃんと和解していなかったけど「キミが良いなら、ボクは引き受ける」と言ってくれた。当時は短期留学後だったり、震災後だったり、子育てのことだったりでとにかくピリピリしていて、さらに研究を進めることにも色々と思うところもあって、とりあえず受賞講演をスライドなしで喋ることだけは決めて当日を迎えた。

紹介者の角皆先生が喋りはじめた時点で、ボクはもう泣きそうになっていた。先生は予想通りに「彼はとにかく言うことを聞かない不良学生で、ここにいる若い皆さんは彼のことを見習わないで欲しい」という内容のことを述べた。それはそれで嬉しくって、それだけでも十分だった。なのに先生は続けて「でも、とにかく論文だけは書いた。これだけは若い人に見習ってほしい」と言った。もうダメだった。勉強もしなかったし、実験もしなかった。とにかく逃げて、最短距離だけを見定めて業界で生きてきた。そんな自分に後ろめたさがあった。直前の短期留学でも部屋に籠もっていた。でも、本心から言ったかどうかはさておき、それでも「論文だけは書いた」と言ってもらえた。先生の紹介が終わって登壇したのだけども、すっかり感動してしまっていて、あろうことかスライドも用意していないから場繋ぎも出来なくて、何分間もただただ壇上で泣き続けるという謎の状況だった。もうすっかり何も喋れないでいるボクを見て、一番前に座っていた小嶋稔さんが大きな拍手をしてくれた。それでみんなも拍手をしてくれて、少し落ち着いてきて、あとは適当なことを適当な時間だけ喋って降壇した。ボクはあれ以下の受賞講演は見たことがないし、これからもあれ以上の受賞講演を出来る気がしない。

もう奨励賞をもらってから10年が経とうとしている。ボクはいまだに「論文だけは書いて」研究者生活を送っている。日頃のボクの姿を見ている人は、ずっとウロウロしながら喋っていて、たびたび船に乗って、研究と関係がない外回り仕事ばかりしていて、でもなんか論文だけは出続けている、と思っているはずだ。それはすべて正しい。ボクは「論文だけは書いて」いるけども、それ以外の研究に関わること、たとえば勉強も実験もほとんどやっていない。かといって論文を書く秘訣を知っているわけではない。ただ、効率厨で、堪え性がなくて、拘りがないので、「ここで論文にする」という見切りが早いのだと思う。「もう一手間を加えれば見違えるほど良くなる」ということを考えない。本当のことを言えば、それはちょっとしたポリシーでもあって、ボクのやっている観測報告のような研究は、無味無臭に確かな観測データが報告されている方が、ちょっとした手間をかけた仕事とパッケージになっているよりも、後世の人にとって有用であると思っている。もちろんそれさえも、勉強や追加実験をしない言い訳として作った後付けのポリシーなのだけど。

ということで。良い子のみんなは勉強も実験もして、さらに論文も書きましょう。勉強も実験もしないボクでも「論文だけは書ける」んだから、論文を書くなんてのはその程度のことなんです。怖くない怖くない。
2017年8月にスイスから日本に帰国する際、ETHからの給料などを入れていた現地口座を解約した都合で、20,000スイスフラン(CHF)の現金が手元に残ってしまいました。1,000CHF札で20枚。レートは2016年7月の渡欧準備時にちょうどブレクジットがあって、ガクンと落ちた時で105 JPY/CHF、その後はずっと115JPY/CHF程度ということで、1,000CHF札って1枚で11万円ぐらいなんです。つまり200万円ぐらい。

なんと言ってもスイスのフランなので、国際的な金融波乱があった時に強かろうと保持し続けようと思っていました。しかし世界的なマネーロンダリングの問題などがあって、紙幣更新のタイミングで換金不可となる可能性が議論されていて、これでウッカリ箪笥貯金のまま忘れていたらシャレにならない。それで箪笥貯金じゃない方法でスイスフランを維持しようと考えました。

CHF現金を銀行に持ち込んで、CHFとして口座に保持しようと考えました。しかしこれに対応している銀行が見つからない。名目上「対応している」という銀行も、よくよく話を聞くと「一旦日本円に替えたのと同等の手数料を取って、さらにスイスフラン入金の手数料を取る」ということで、何の意味もありません。

横浜銀行が「ネットバンクでCHF口座を先に作れば、日本円への両替1回分の手数料でCHFのまま口座に入れられる」というので、これを利用することにしました。ネットバンクで1CHFだけの口座をまず作ってから、横浜にある本店に現金を持ち込みました。事前に電話で話を通していたので担当の方もパパッと作業を進めてくれます。免許証、パスポート、現地で生活していたことを示すモノ(現地ドライバーライセンス)を出して、色んな書類を書いてハンコを押して、さぁ入金というところで、なんと偽札判定機に引っ掛かりました。正確には、どうやら判定機に1,000CHF紙幣の情報が入っていなかったようで「こんなお札は知りません」という反応のようです。そんなことがあって、横浜銀行には1CHFだけ入った口座が残されています。

すっかり気持ちも萎えて、このまま箪笥貯金でいこうかと思っていたところ、2021年10月になって円安がはじまります。124 JPY/CHFです。渡欧準備時に108 JPY/CHFで両替したので、手数料で損をしないレベルで日本円に戻せるんじゃないか。もちろん為替のことなのでもっと円安が進むこともありえるが、それは本当にわからないので、やはり替え時なんじゃないか。それでもう現金から現金への両替でいいやということで対応窓口を探しはじめたところ、三井住友銀行は両替事業をやめているとか何とか。マネーロンダリング対応が面倒なのでしょうか。さらにスイスフランの取扱があっても1,000CHF札を扱ってくれる店舗は少なく、困ってしまいます。

結局、三菱UFJ銀行の本店ならば両替できるということで、電話して話を聞きました。すると両替後の日本円が100万円を超える場合は口座への直接入金になるとのことで、昔の口座を掘り起こして準備。ちょうど都内外勤用務が発生したので、善は急げと丸の内に立ち寄りました。さすが本店、荘厳な内装で、しかしコロナ禍のためか客はまばら。両替は驚くほどあっけなく、自己申告で入手理由(給料)と両替使途(生活費)を紙に書くだけで、紙幣も目視確認だけ。ハンコを押すこともなく完了でした。三菱UFJがこれで、横浜銀行はあれで、そんなものかいなと思ったり。(あとから機械にかけるのかもしれないけど)。両替時のレートは店頭124で実質118だと説明を受けました。

降って湧いたような日本円なので、どっかの投資銘柄に突っ込んでしまいましょう。
「ルッキズムとはなんぞや」ということの専門家ではありません。でも何となく「こんなことだよな」という感覚はあります。それはたぶん、幼少期にそれなりにヒドいアトピーだったことと無関係ではないでしょう。「美肌」とかいう流行の宣伝文句に対して、いわゆる普通の人以上に嫌悪感を抱いていると自己分析しております。私的な感情で言えば、劣等感の裏返しですね。

揶揄の意味で使われることの方が多い「ポリコレ」ですが、その意味通りに「ポリ的に言えばコレ」なわけなので、完全に無視するわけにはいかないでしょう。私的な領域での言動に対してまで、とりわけ第三者が、ポリコレ棒を振りかざして殴りかかるのは、やり過ぎだろうと思います。しかし、公的な機関、あるいは公的な性質を帯びた立場にある者が「そらまぁアカンでしょうな」というラインの言動をしてしまったら、盛大にポリコレ棒でタコ殴りにされることも致し方なしという世情ではないでしょうか。

この国では「イケメン」とかなんとか、そういうことを公の立場で言ってしまったりしていますね。ポリコレ警察ルッキズム支庁の観点からイエローカードは間違いないですよ。「なんでやねん!褒めてるんやからええやろ!」という声が聞こえてきそうですが、褒めても貶めても、生来的な性質で本人の努力では如何ともしがたい容姿を話題に取り上げていることが、イエローカード対象なわけです。「顔が良いから研究者じゃなくても仕事に困らない」なんてのもVAR対象ですね。もちろん「ブサイク」とか言ったらレッドカード1発退場に加えて減俸&5試合出場停止は免れません。

と、ここまでが前置きであります。本題は弊所がルッキズム丸出しの宣伝動画作成をシリーズ化していて「いやいや、このポリコレ全盛の御時世にこれはないでしょ」「公的(研究)機関のアウトリーチとしてこれで喜ぶ層を狙いに行くのはアカンでしょ」ということであります。実験室の様子を(多少デコって)伝えることとか、好印象を持ってもらう宣伝動画を作ることは、悪くない。むしろ良いかもしれない。しかしそれとて、小保方案件の反省があれば、二の足を踏んでも良いところ。そんな中、研究と無関係な職員をあからさまにルックス重視で選抜して出演させるのは、さすがに違うでしょうよ。もちろん、こうして「あからさまにルックス重視で選抜している」というボクの断定も、担当者に直接聞いたわけではないし、これまたルッキズム丸出しなわけなんですが、しかしまぁそういう意図じゃ無きゃああいう人選にはならないよね、と。そんなこんなで、とてつもないモヤリを抱えていて、落ち込む事もあるけれど、私この会社が好きです。
◎編集後記(早め)
実質の初仕事。通読して、触れたいこと、言いたいことの整理。
引用してばかりでもツマらないので、スッと落としたい。

◎某推薦書(早め)
頼っていただけることはありがたい。
英語で書かねば。

◎白鳳丸3カ年シンポ(月火)
今回は発表者ではなく委員での参加。
迂闊に提案したSlack主体の意見交換会という試み。

◎共同研究うちあわせ(水金)
これは成功したら「バケる」案件。
ガッチリとキメたい。

◎東京都の取材(木)
東京都じゃないかもしれない。
断れないスジからきたので引き受けた。

◎飲み会(2件)
いよいよ解禁ということで。
お誘いも増えてきたぞ。

◎某編集委員会の後処理
みなさん思うところあるようで。
副編集長代理補佐的なワタシで良ければお付き合いします。

◎厚めの家庭任務
今週はアレなので。
これで一安心。
緊急事態宣言が解除されて1回目の飲み会を終えました。気の置けない友人と美味しい店で飲むのは格別な娯楽です。気付いたら7杯飲んでいました。4時間ほど店にいたので飲酒量としては少なくはないが多すぎでもないぐらいでしょうかね。酔っ払いました。

驚いたことは、飲み会そのものではなく、帰路から寝るまでの一連のムーブがスムースでないことです。店を出る直前にトイレへ行く、ササッと口をゆすいでおく、駅で飲物を買って10分の乗車中に飲み干す、地元のコンビニでポカリを買う、シャワーを浴びながら歯を磨く、トイレに行って寝る。書き出してしまえばこれだけの作業で、これまでは自然とこなしていたことなのに、まったく身体が覚えていない。でも、なんとなく何かをしなきゃいけない気持ちだけはあって、「あれ?次は何だったかな...」という困惑だけが漂います。不思議。

いまは「まだワクチン2回目が終わっていない」と言って参加を見送る友人が残っている状況だけど、12月ぐらいには全員集合で楽しめるでしょう。と言いつつ、その頃に感染拡大がどれほどのものかは、予想がなかなか難しいところ。ワクチン効果でクラスター化しにくくなり感染拡大ペースは緩やかになるだろうけども、飲み会頻度は上昇するだろうし生活の細々したところの注意は雑になる。

衆院選の結果いかんにもよるけど、11月に飲食店の全面解禁。感染者自体は緩やかに上昇し続けるのだけども、無症状あるいは軽微な発症者が多く、病院は逼迫していないという12月。忘年会・帰省・新年会を2年ぶりに完全体で堪能し、1月中旬にいよいよ怪しい気配が見え始める。2月になるとDP号からちょうど2年。北京冬季五輪。最後の一押しとして「給付金アリで3週間程度の制限」。
10月1日付で所内異動しました。新しい所属は『海洋研究開発機構地球環境部門海洋生物環境影響研究センター海洋環境影響評価研究グループ』です。海洋と環境と研究が3回、影響が2回出てきますね。大体そんなアンバイの仕事をしていくと思います。

研究業界でいう「部局」の層で異動したので、最上位の上司や担当してくれる事務職員までも完全に入れ替わりました。まだ数日ですが、別の会社に転職したぐらい文化が違っていて戸惑っていますが、面白いです。簡単に言うと「ルールはルール」というフレーズの意味が正反対なんですよね。たぶんその後に続く「何かあったら○○が責任を取る」という点が違うのでしょう。どちらの言い分もよくわかります。しばらくは適応していくのにクラクラしそうですが、ちょうどしばらく仕事の負荷も低い状況なので、余裕を持って適応できるのは好材料です。

新しい居室スペースは、広さが4倍ぐらいになり、とても快適です。テラスにも出られる北西向きの大きな窓がありテニスコートと夏島の緑を眺められ、日射で困ることはなさそうですが、冬は窓からキンキンに冷えると言われております。どうなることやら。
実験室については、誰からも何も言われなかったので、これまで通り、3台のIRMSと自作ラインの充満した部屋を使い続けることになります。各種気体成分の安定同位体分析の実質無料分析&試料採取コンサルティングなどを進めておりますので、どうぞお気軽にお声がけ下さい(宣伝)。

マジメな話、日本が本気でカーボンニュートラルに向けて動くとしたら、沿岸風力発電をはじめとする海洋利用発電あるいは海域CCSは、絶対に避けて通れない(広義にはアルプス水放出も海洋利用ですね)。そんな国家事業が進められようという時に、1つには感情度外視の科学的・技術的な見地から「これはスケールさせて実施可能である」「これを大規模にやるとこんな影響が出る」みたいなことを言うことが海洋学者には求められ、もう1つには実際に海洋の現場で事業のパイロット作業や環境影響評価を実施するにあたり「この日程でこの予算だとこれぐらいまでしか出来ない」みたいな現場感覚を持って実現可能な立案に関わることも求められると思うんで、そこをガッチリ担おうというのが、今回の異動の主旨です。この主旨、後付けです。

自分でも本当にどうなるかわかんないけど、いっちょやってみます。
ダメになったらスゴスゴと立ち去りますので。
10月2日(土)午前に都庁でモデルナワクチン2回目を接種して40時間が経過しました。20時間目にあたる10月3日(日)の朝食後から昼食後、夕食後とカロナールを2錠ずつ飲んで、ゴロゴロして1日を終えたところ。いま10月4日(月)朝です。副反応は、1回目同様、肩に棒で突かれたような痛みがある他は、頭がボーッとして少しズキッと痛むかなという程度。感覚としては軽めの船酔いに近いのだが、普通の人は船酔いのバリエーションを経験していないだろうから、これは参考にならないね。2週間前にヒドめの花粉症からの咳喘息になり、シムビコート吸入をしていたのがどうなるかと思ったけども、何ともなかった模様です。

2回目を打ち終わると、なんか無敵モードになって「よっしゃ街に出ていくぜー」ってなるかと思ったのだけど、特にそういう盛り上がりはない。9月4日(土)の1回目の後はとても安堵感があったのとは対照的で、何かに対する気持ちのリアクションってのは自分でもよくわからないところがありますね。状況の背景によるものかもしれない。1回目の時は、よこすかクラスター発生からの新青丸非乗船選択で慌てて予約して打ったし、世間でも感染拡大ピークだったので、緊張感があったかもしれない。2回目は、9月中にグングンと市井の感染状況が良くなって、10月1日(金)から飲み屋が解禁になったタイミングだったので、祭に参加できなかった寂しさもあった。

そもそもぶっちゃけ、ボクは自分が感染するとは思っていないのです。クラスター船に2度遭遇した高井さん曰く「ワシらには『もやしもん能力』があるから」とのことで、つまりこれです。日頃から溶存化学組成や微生物のような目に見えないものを処理していることで『見えないものを見る』ことが訓練されているのですね。内田樹がいう「サイドミラーを擦った時にイテっとなるヤツ」です。呼気の流れとか、呼気からの飛沫とか、主要な接触感染経路とか、いわゆるコンタミの原因そのものなので、生活の場面でも気を付けようとアラートをかけておけば、回避できる自信がある。似たような話では、多田が「オレは素手で採水してもコンタミさせない自信がある」と言ったことがありましたね。しかし、家族からの感染だけは避けようがない。もちろん同居していても、しっかりやれば避けられるけども、家庭内でアラートをビンビンにして毎日を過ごすのは無理がある。しんどい。とはいえ近いうちにヨメ氏が2回目を接種する見込みで、そこまでいけばもう大丈夫だろう、と信じている。

飲みに行かねば。
2021年では1報目となる主著論文が出版されました。

Kawagucci, S., Matsui, Y., Makabe, A., Fukuba, T., Onishi, Y., Nunoura, T., and Yokokawa, T.: Hydrogen and carbon isotope fractionation factors of aerobic methane oxidation in deep-sea water, Biogeosciences, 18, 5351–5362, https://doi.org/10.5194/bg-18-5351-2021, 2021.

「年1報は最低ライン」と厳しく言われる会社にあって、今年もなんとか最低ラインは突破できたので安堵しております。2009年に学位を取っての2010年以降、筆頭著者の論文が出なかったのは2015年と2017年の2回ありますが、2015年は日英総説2報が出ており、2017年は最終責任著者論文が1報出ているので、最低ラインは突破し続けてきたといっても許してもらえるのではないでしょうか。なお現状、東北案件は共著者に預けてあり、サウジ案件は軽く書くだけ状態、さらに冷凍装置案件はリジェクトのまま追加観測待ちで塩漬け状態と、2022年と2023年への貯金は十分に用意されている状況であります。貯蓄は大事です。投資ばかりじゃ疲れます。

さて今回の論文のネタですが、2017年春に「みらい」で実施した観測の結果をまとめたものです。2017年春というと、ちょうどスイスに滞在していた時期で、航海計画のアレコレをメイルで連絡していたことを思い出します。当時は、もちろんコロナ禍前ですし、今ほどネット会議は流行していませんでした。一部の方が熱心に繋ごうとしてくれて、でも手慣れていないからトラブル続出、といった具合でしたね。4,5年前ですか。時代を感じます。航海で採取した試料を、科研費雇用の技術スタッフ(実質ポスドク)だった大西雄二さん(現・京大生態研)にも手伝ってもらい同位体分析を進めました。その他のデータは、一緒に乗船したみなさんと、ウチのラボメンバーの頑張りですね。

2018年12月のAGUで同内容を発表していますから、わりとチャッチャか分析を進めてデータを整理していたようです。たぶん当時は「大西さんに書いてもらおう」とか思っていたのだと記憶していますが、その後わりと早い段階で大西さんは転出されてしまい(斡旋したのはボクなので自業自得ですが)、整理されたデータが取り残された状態が続いていました。ようやく今年度になって、2021年4月3日からプロジェクト関係で名ばかり首席の3週間の航海があったもので、時間だけはある(ただしネットには繋がらない)ので暇つぶしがてら執筆に取り掛かったのでした。書き始めたら数日でしたね。いつも通りチェン氏に英文を見てもらって(大幅に修正加筆されて)、共著者に連絡して、6月中旬に投稿。特に厳しいコメントのない査読を経て9月受理。

この論文は「熱水プルーム」「メタン」「同位体比」「微生物代謝」というボクの研究のド真ん中、100%中の100%な内容です。恩師蒲生&師匠角皆の系譜であるプルームメタン同位体の仕事に、高井軍の微生物生態学的なデータも加えたものですから、ここまでの研究者人生の総決算のようなものです。というのは言い過ぎです。そこまでではない。しかしちょうど移籍と時期が重なったのでシンミリした風味が出てしまった。

肝心の内容については、論文を読んでいただければ結構なんですが、とにかくデータが美しい。CTD多連採水器を使って鉛直15m間隔で熱水プルームを採水して色んな成分を分析したところ、鉛直分布で見るとバタバタしたように見える。これに対して、マンガン濃度は熱水海水混合でしか変動しないと仮定して、他成分を規格化することで混合以外での挙動を抽出する。メタン/マンガン比は単調減少が見えて、これはメタン消費だろう、と。メタン/マンガン比とメタン同位体比をプロットすると、概ね1つのトレンドに見える。でもまだパラパラと外れ値がある。そこで1細胞辺りのATP量を見て一桁高い細胞がいた水深にフォーカスすると、16S群集でも明らかに熱水プルームを消費している連中がいる。この層のデータだけを使ってあらためて濃度と同位体組成の関係を見てやると、ものすごくキレイなトレンドが見える。そしてそれはピッタリとレイリー蒸留の対数変化に合うから(かなり小さな誤差で)分別係数を求められる。熱水プルームはメタンが濃いので炭素だけじゃなく水素の同位体比も分析できて、炭素と水素の変動はキレイに直線を示す。おぉ素晴らしい。素晴らしい。

ついつい「オタクの早口」になってしまうわけですが、こういう天然環境観測でこれほど美しいデータが取れると、もう本当に感動してしまうわけです。2つの意味で。

1つには環境と微生物との交わりが分子レベルの基質ー酵素関係で説明できることで、なんだかよくわからない自然ではあるけども、科学が磨き上げた理解で見ると整然と機能しているのだということ。実験室でコントロールした培養系じゃなくって、どこかの海にあるカルデラに充満していた水の中でさえ、こんなにも整然と物事が進行しているのか、と。

もう1つは、そんな自然の働きについての科学の理解を、完全に追認できるだけの技術が存在していて、それを自分とその周辺の人間で上手に利用できていること。船上作業も分析作業も、現代化された奴隷のようなもので、汲んだ水を瓶に移し替える作業とか、瓶に入った水からガスを抽出して冷やしたり温めたりする作業とか、延々と同じことを繰り返して、同じようにすることこそがキモだから本当に同じように繰り返すので、ときに人間としての尊厳を失っている気分にはなるのだけど、その結果がこうして人類の知の到達点のようなものを示してくれるというのは、やはりグッとくるものがあるわけです。ボクはこの論文の範疇では乗船も分析も一切やっていませんけども、感動します。

こうしてウッカリ感動してしまうから、また「嫌だなぁ」とか思いながらも、船に乗って水を汲んできつつお金のかかる実験室を維持してしこしこと分析する毎日を過ごしてしまうのですね。
かつての同僚である筑波大学の浦山俊一さんから誘われて筑波会議2021のS-2セッション 「2050年の社会像:いかに科学技術はより良い社会に貢献できるか?」に登壇したました。

このセッションは、内閣府「ムーンショット・ミレニア・プログラム」という資金の連動企画のようです。通称ミレニアは「新たなムーンショット目標のアイデアを持ち、そのアイデアを具体化・精緻化するための調査研究を行う、目標検討チームを21採択」ということで、ムーンショットでさえ絵に描いた餅感がするのに、さらにその「目標のアイデアから具体化する調査研究」ということで「餅の絵を描くための道具を探そう」というような話にも思えます。

いずれにせよ、ボクはムーンショットのような浮世離れしたキラキラ系の科学技術の未来像的なヤツがそれほど好きではないのです(オブラート)。ムーンショット公募の前段階でも「こんなことやっている場合じゃないでしょ」とコメントしたし、ミレニア公募に「ぜひ応募を」と言われた際も断りましたり、浦山さんがどうやら応募するらしいという話を聞いた時も「やめときなよ」とコメントしました。

そんな経緯もあって、あまり気乗りはしなかったわけですが、盟友うらちゃんから請われては仕方がないので登壇しました。役割は「科学技術の視点からの討論者」ということでした。この師弟討論者システムというのは、きっと人文・社会科学系では行われていることなのでしょうが、何だかよくわかりませんでした。事前にミレニアからの講演者の資料を拝見して、それにコメントするような話をすれば良い、と。

ミレニアからは「こんな技術が出来たらこんな社会になる」みたいなキラキラ系だと想像して、なぜコンビニサンドイッチ製造が機械化されないかという労働問題の話題をマクラに、横井軍平「枯れた技術の水平思考」論を紹介して、科学技術ではなく科学技術者として語らないとアカンのと違いますかと(御題をひっくり返す)意見を述べた後に、現在を生きる科学技術者としての社会貢献には「予測と構想で未来に貢献」「目的は関係なく技術開発で貢献」「過去の技術を現代に活用して貢献」の3点がありえるだろうという結論めいたものを提示しました。

専門である地球規模での物質・エネルギーの循環から「日本にとっては気候変動以上にエネルギーと食糧の確保が安全保障として大事じゃないか」という論でも良かったのですが、人文社会の視点での討論者が『人新世の資本論』斎藤幸平氏だったので、意見対立するとややこしいと思い、その辺は触らないようにしたのでした。

肝心の討論は、討論にもならず、各人が長い時間お喋りになられました。シンポジウムあるあるの「パネルディスカッション、他人の意見を拾わず勝手に喋りがち」ってヤツですね。

いずれにせよ「突然サンドイッチの話をした海の研究者」ということで、傷跡は残せたのではないかと自負しております。
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