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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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ネット上だけのお友達であるらむさんの奨励賞受賞論文に触発された。
https://lambtani.hatenablog.jp/entry/2021/10/22/141349

「賞に無縁で自信喪失的で論文をテンポよく出版できぬ、真面目だがいかに無精者だったかを、意味ある形で、おもに私より若いステージの方へ向けて、述べたい」というらむさん。これがボクとは正反対なのです。ボクは「論文をテンポ良く出版できただけの不真面目な無精者」です。色んなところでバラバラと書いたり喋ったりしているが、せっかくの機会なので、らむさんの素晴らしい論文への御礼がてら、あらためて書き連ねてみる。

中卒時点まで遡ろう。兵庫県の公立高校入試は「総合選抜」という謎ルールで運営されていた。県立高校の普通科については、県の一括試験を受けて、合格者は住んでいる場所に基づいて高校を振り分けられる。個別の高校を選ぶことが出来るのは、一括試験で上位一割の成績を取るか、普通科ではないところを別途受験した場合に限られる。ボクは中学時の成績が良くなくて、地元では一番の名門である「北高の理数科」の受験資格がなかった。「西高の英語科」には興味がなかった。総合選抜の結果、「県宝の普通科」に行くことになった。県宝は大学進学率が3割ぐらい、1学年8クラス中で理系は1クラスのみという、地元で一番ダメな高校。いわゆる偏差値が50を下回っている。なおこの時点で、兄は隣の西校普通科から京大に現役合格していた。

「最終的に東大に行ったらええのよ」という謎な家庭方針に従い、中学卒業直後の春休みから河合塾に通っていた。ここからボクのショートカット人生というか、効率厨な生き方が加速していったのだと今では思う。アホに合わせたしょーもない授業が展開される高校では適当に遊んで過ごし、河合塾には熱心に通った。高一から河合塾に通うのは、進学校から東大京大を狙う熱心な層ばかりだった。場違いな存在だった。そんなこんなで高三になって、第一志望を北大薬学部にするぐらいの成績にはなっていた。「病弱だから薬学部」というピュアな考えだった。前期入試で落ちて、浪人して東大を目指すことも考えたけど、浪人は面倒だなと思って、得意科目だけで受験して北大の理学部に行くことになった。

大学の授業は、高校に輪をかけてつまらなかった。いま思うと、それは理解できないことをツマらないと逆ギレしていただけなのだが。大学一年の成績は116名中114番、下2名ならびに上数名は留年だった。進級者の中で最低順位だったので、学科選択では4学科中最低希望にした地球惑星に回された。地惑での授業は、これまたつまらなかった。そもそも地質や岩石や鉱物にまったく興味がなかった。3年になってから、2年の時に落とした授業を2年生に代返してもらって、単位を回収して無事に4年になった。なお、この時の一個下世代が、コンノでありオオクボである(←わかる人にはわかる)。

4年次の研究室は、3年までの生活で「こいつは頭が良いな」と思った角皆先生のラボに申し込んだ。先生には「キミ、ボクの授業とってないよね?」と、とても嫌がられた。嫌がられたけど、結果的に受け入れてくれた。与えられたテーマは、入れ替わりで修士を出た工藤先輩の仕事の始末だった。卒論時でさえラボにはほとんど行かなかったが、先生としても早く世に出したいネタだったようで、コンビニで立ち読みしていると携帯に着信があって「すぐに来い」と呼ばれて実験をするのが常だった。引き継いだテーマなので下地がしっかりしていて、わりとすぐに結果が出た。

経緯は覚えていないけど、先生から「論文を書け」と言われた。M1の夏ぐらいだったはず。当時、論文を書くということの意味がわかっていなかった。卒論時から論文を読んではいたが、数としても、読み込みの深さとしても、お遊びみたいなレベルだった。これは今に至るまで変わらない。勉強をせずにきたので、勉強の仕方がわからない。そう。ボクは授業を聞いてもノートを取らないで生きてきたので、インプットした情報を、整理しながらアウトプットすることができない。インプットした情報は、即座に覚えやすいことだけ脳内に記録して他は捨ててしまう。だから論文の精緻な議論の内容など、ちゃんと理解できない。今も理解できていないと思う。

当時のラボにはD3+の先輩が数名いて、みんな「論文を書かないで苦労している」らしかった。本人達は朗らかだったけど、先生は快く思っておらず「アイツらは論文を書かない」とぐちっていた。「論文を書く」という行為の難易度がわからないままに、「論文を書かないでいる」という状態が人生の難易度をあげることが何となく理解できた。ここで効率厨的なボクは「論文を書いた」という状態に辿り着けば、今後の人生の難易度が下がるのだと考えた、のだと思う。正確には覚えていない。そして書いた。便所の落書きのような原稿ができた。どうせ真っ赤にされるのだからと、特に推敲もせず先生にわたした。もちろん真っ赤になって返ってきた。それを数往復したのだと思う。10回も往復はしていない。その原稿は、完全に先生が書いた文だけで出来上がっていた。M1の2月に投稿して、3月にレビューが返ってきて、5月にアクセプトされた(2005 Anal Chem)。

学振DC1の存在をどうやって知ったのかは覚えていない。とにかく論文出版がDC1申請に間に合った。面接免除で通った。これで完全に自分の中の図式が完成した。「論文を書けば職にありつける」。論文を書く苦労を知らないまま(なぜなら1本目は先生がすべて書いたようなものだから)「論文を書けば良いんだろ、簡単な業界じゃないか」という、学術に対する敬意など微塵もないダメ院生が出来上がった。業績至上主義の権化。M2の頃には先生と修復不能な状態に陥っており、博士からはラボを移った。余談ながらここで図らずも「最終的に東大に行ったらええのよ」を満たした。親孝行。

博士課程のラボにはボクしか学生がいなかった。D1の冬に、先生がずっと取り組んでいたインド洋の航海に参加して、その時の発見についてすぐ書いて、D2の冬には受理された(2008 G3)。この論文は「発見モノ」だったので、議論は特に必要なかった。これと並行して、修論の仕事は、ケンカ別れした先生から完全に無視される中で書いた。こちらの出来は酷かった。効率厨なボクには、すでに止めた研究の内容をまとめるために勉強をすることは苦痛だった。知識欲はなく、単に執筆に要請される苦労だと認識していた。この時のエディターが親切で(いま読み直すと親切というよりはイラつきながら)付き合ってくれて、最終的には先生も手を貸してくれて、なんとかD3のうちに出版できた(2008 ACP)。この時のやりとりはジャーナルのサイトに残されているが、本当にヒドい。 https://acp.copernicus.org/articles/8/6189/2008/acp-8-6189-2008-discussion.html

とにかくD3の秋には主著3報の業績リストが出来上がった。うちの分野では「主著が1報あれば学位審査に進める」ぐらいが標準なので、正直言って同期連中からは(業績リストだけは)抜きん出ていた。でも、ここまで書いた通り、先輩の引き継ぎ仕事、先生のテーマの丁稚でアタリ、修論データの仕事、の3報なのだ。今に至るまで、この「誰かが発案して着手した仕事がデータになって転がっているから代表してまとめる」というスタイルの論文ばかりを書いてきた。たくさん勉強して研究をデザインしたことはほとんどない。場当たり的に進んでいる。データが先にあって、これを論文にするためだけの勉強をする。細かい議論には立ち入らない。「詳細は論文の主旨からズレるから議論しない」とか書いて、逃げる。逃げ切る。

ポスドクの就職も棚ぼただった。博士で進学したラボには、前年までポスドクでいた先輩(トキ)が途中まで組み上げた分析装置と、これで分析するはずだった試料があった。先輩からこれを引き継いで装置を作って分析を終わらせた(2010 JGR)。その試料が、高井研からの依頼物だった。D1の3月の集会で高井さんに挨拶した。「トキのサンプルを分析したのはボクです」と。それでD2の夏の航海に誘われて(2011 GJ, 2013 ChemGeol)、まだラボに出入りしていた高井さんがドンドンと培養して培地ガスを送りつけてくるので延々とこれを分析した(未発表)。毎週日曜には1時間超の電話をしていた。そんなこんなでD3の秋には「科研費取れたからポスドクで来いや」と釣られて加入。それから先月まで12年間、高井さんの部下をやっていたのだから、ノンキなもんである。

これまでたくさん国際学会に参加して、2度の短期留学にも行った。しかし外国人と十分に交流したとは言い難い。本当のところは「言い難い」では生ぬるい。ずっと逃げていた。英語がとにかく苦手なことと、特に話したいことがないことと。お喋りは好きだが、それが英語になることで言いたいことも言えずストレスを感じるから、楽しくないし面倒くさい。英語は仕事のツールでしかない。益川さんじゃないけども、読み書きできれば十分だ。十分と言えるほど読み書きも出来ないが。海外で街を巡るのは楽しいから、その程度のツールとして使えるぐらいに英語だけは覚えようかとも思うが、それはそれで十分なので、心を通わすような交流をするべく頑張る気はない。だからいまだに海外にお友達はいない。

2012年に地球化学会の奨励賞をもらうことになった。受賞記念講演では推薦者が紹介者となるナラワシがあるのだが、推薦者である蒲生先生は航海か何かで不在で、高井さんも不在で、結果的に角皆先生にお願いすることになった。角皆先生とはまだちゃんと和解していなかったけど「キミが良いなら、ボクは引き受ける」と言ってくれた。当時は短期留学後だったり、震災後だったり、子育てのことだったりでとにかくピリピリしていて、さらに研究を進めることにも色々と思うところもあって、とりあえず受賞講演をスライドなしで喋ることだけは決めて当日を迎えた。

紹介者の角皆先生が喋りはじめた時点で、ボクはもう泣きそうになっていた。先生は予想通りに「彼はとにかく言うことを聞かない不良学生で、ここにいる若い皆さんは彼のことを見習わないで欲しい」という内容のことを述べた。それはそれで嬉しくって、それだけでも十分だった。なのに先生は続けて「でも、とにかく論文だけは書いた。これだけは若い人に見習ってほしい」と言った。もうダメだった。勉強もしなかったし、実験もしなかった。とにかく逃げて、最短距離だけを見定めて業界で生きてきた。そんな自分に後ろめたさがあった。直前の短期留学でも部屋に籠もっていた。でも、本心から言ったかどうかはさておき、それでも「論文だけは書いた」と言ってもらえた。先生の紹介が終わって登壇したのだけども、すっかり感動してしまっていて、あろうことかスライドも用意していないから場繋ぎも出来なくて、何分間もただただ壇上で泣き続けるという謎の状況だった。もうすっかり何も喋れないでいるボクを見て、一番前に座っていた小嶋稔さんが大きな拍手をしてくれた。それでみんなも拍手をしてくれて、少し落ち着いてきて、あとは適当なことを適当な時間だけ喋って降壇した。ボクはあれ以下の受賞講演は見たことがないし、これからもあれ以上の受賞講演を出来る気がしない。

もう奨励賞をもらってから10年が経とうとしている。ボクはいまだに「論文だけは書いて」研究者生活を送っている。日頃のボクの姿を見ている人は、ずっとウロウロしながら喋っていて、たびたび船に乗って、研究と関係がない外回り仕事ばかりしていて、でもなんか論文だけは出続けている、と思っているはずだ。それはすべて正しい。ボクは「論文だけは書いて」いるけども、それ以外の研究に関わること、たとえば勉強も実験もほとんどやっていない。かといって論文を書く秘訣を知っているわけではない。ただ、効率厨で、堪え性がなくて、拘りがないので、「ここで論文にする」という見切りが早いのだと思う。「もう一手間を加えれば見違えるほど良くなる」ということを考えない。本当のことを言えば、それはちょっとしたポリシーでもあって、ボクのやっている観測報告のような研究は、無味無臭に確かな観測データが報告されている方が、ちょっとした手間をかけた仕事とパッケージになっているよりも、後世の人にとって有用であると思っている。もちろんそれさえも、勉強や追加実験をしない言い訳として作った後付けのポリシーなのだけど。

ということで。良い子のみんなは勉強も実験もして、さらに論文も書きましょう。勉強も実験もしないボクでも「論文だけは書ける」んだから、論文を書くなんてのはその程度のことなんです。怖くない怖くない。
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海洋系の某独法で働く研究者が思ったことをダラダラと綴っています
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