自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
blogは??
23 鉛筆削り(東京都) :2010/03/09(火) 14:04:49.63 ID:BVzUmc0T
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mixi :糞の見せ合い
twitter:糞の垂れ合い
2ch :糞の投げ合い
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2ch :糞の投げ合い
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行動の動機なんてのはすべて後付けなんですけどね
アウトプットするのため、一般化するための理屈の後付け
実際は「どれだけじっくり考えている時でも瞬間の本能で動いている」のですから
いかがわしい古武術家の甲野さんが言うには、
「人間の運命は完全に決まっているからこそ、人間は運命から完全に自由だ」
ということらしいです
「なるようにしかならない」ってのは、そういう次元の問題なんですよね、本当は、たぶん
「"~だから"やる」「"~だから"やらない」なんていうような目先の次元じゃない
という二つのことを考えると、
「とりあえずやってみる」
という姿勢ってのは、
実はすごく大事なんじゃないかと
何事にも「とりあえずやってみる」ベースで動いてしまうってことが、
「不断の努力」ではないかと
やらないという選択には努力いりませんから
>>
うん。しかも、とりあえず、っていうのも、かなり後付だよね。
「そりゃやっとくでしょ」って、後から人にいわれて、
はじめて自分でそう言葉で判断をつけるけれど、
そんな判断、やっているときとかやる前とかしていない。
当たり前の所作とも言い難いくらいのこと。
だとおもう。
カツカワさん公式ブログより
「減点方式なら何もやらなければ満点」と思ってのんきにしていたら、
「加点方式で零点ですね」という評価しか得られないのである。
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アウトプットするのため、一般化するための理屈の後付け
実際は「どれだけじっくり考えている時でも瞬間の本能で動いている」のですから
いかがわしい古武術家の甲野さんが言うには、
「人間の運命は完全に決まっているからこそ、人間は運命から完全に自由だ」
ということらしいです
「なるようにしかならない」ってのは、そういう次元の問題なんですよね、本当は、たぶん
「"~だから"やる」「"~だから"やらない」なんていうような目先の次元じゃない
という二つのことを考えると、
「とりあえずやってみる」
という姿勢ってのは、
実はすごく大事なんじゃないかと
何事にも「とりあえずやってみる」ベースで動いてしまうってことが、
「不断の努力」ではないかと
やらないという選択には努力いりませんから
>>
うん。しかも、とりあえず、っていうのも、かなり後付だよね。
「そりゃやっとくでしょ」って、後から人にいわれて、
はじめて自分でそう言葉で判断をつけるけれど、
そんな判断、やっているときとかやる前とかしていない。
当たり前の所作とも言い難いくらいのこと。
だとおもう。
カツカワさん公式ブログより
「減点方式なら何もやらなければ満点」と思ってのんきにしていたら、
「加点方式で零点ですね」という評価しか得られないのである。
効率よく仕事をこなすことは非常に重要
仕事の内容と締切りと難易度から優先順位を算出して、
適当な流れを自分で作り出してさばいていく
サラリーマンのことはわからないけども、
研究者ってのも仕事が色々とあって、
たとえば実験も複数抱えて、
書かねばならぬ論文も複数あって、
事務書類やデータの解析やプレゼン作りや、
あるいは学会活動のようなものもある
これに埋没しないためにも、
効率の良い方法で仕事に取り組む必要がある
そうなんだけど、
効率よくしなきゃならないんだけど、
その一方で、
世で提案されている「効率が良くなる仕事術」というものを採用することは、
非常に危険な気がするのです
ここで言いたいことは、
自分で仕事術的なものを編み出してそれに従うことは問題ではないくて、
そうではなくて、
誰かの体験的、あるいは理想的な仕事術を自分に応用することは危険だ、
ということなのです
たとえば金融ビジネスの人が編み出したような仕事術が、
研究者に応用できるとはとても思えない
要素還元論の抱えるメタ情報欠損の危険性というか、
ちょっと具体的に書くのは難しいんだけどね
自分を主体として仕事の順序を構築すると、
突然に向こう側から降りかかる仕事を勘定に入れられ無くって、
そういうことにフレキシブルに対応できないような仕事術は、
かえって混乱を招くと思うわけです
それはたとえば「必ず二日に一回洗濯をする」って決めて、
服を3パターンぐらいしか持っていない人は、
雨の日が三日続いたり、
洗濯機が壊れてしまったら、
着る服がなくって出社できなくなるみたいな、
そういう、窮屈な感じがしてしまうのです
たとえが下手だなぁ
今の研究状況で行くと、
航海があそことここに入っていて、
あの論文をいつまでに書いて、
あの実験をここまでに終わらせて、
とか考えていたのに、
欠員が出た航海に2週間行かねばとなった時に、
順序がグダグダになってしまうようなことが起こるのです
だからって航海断れないしね(嫌がってはみせるけど絶対断り切れないのです)
要するに、
仕事をする上では効率よくするのはもちろん重要だけど、
あと30年以上仕事をし続けていくことを考えたら、
不足の事態に柔軟に対応できるようなフレキシブルな仕事術というのも重要で、
それを突き詰めていくと仕事術的な観念を持たないことになっちゃうね
Tweet
仕事の内容と締切りと難易度から優先順位を算出して、
適当な流れを自分で作り出してさばいていく
サラリーマンのことはわからないけども、
研究者ってのも仕事が色々とあって、
たとえば実験も複数抱えて、
書かねばならぬ論文も複数あって、
事務書類やデータの解析やプレゼン作りや、
あるいは学会活動のようなものもある
これに埋没しないためにも、
効率の良い方法で仕事に取り組む必要がある
そうなんだけど、
効率よくしなきゃならないんだけど、
その一方で、
世で提案されている「効率が良くなる仕事術」というものを採用することは、
非常に危険な気がするのです
ここで言いたいことは、
自分で仕事術的なものを編み出してそれに従うことは問題ではないくて、
そうではなくて、
誰かの体験的、あるいは理想的な仕事術を自分に応用することは危険だ、
ということなのです
たとえば金融ビジネスの人が編み出したような仕事術が、
研究者に応用できるとはとても思えない
要素還元論の抱えるメタ情報欠損の危険性というか、
ちょっと具体的に書くのは難しいんだけどね
自分を主体として仕事の順序を構築すると、
突然に向こう側から降りかかる仕事を勘定に入れられ無くって、
そういうことにフレキシブルに対応できないような仕事術は、
かえって混乱を招くと思うわけです
それはたとえば「必ず二日に一回洗濯をする」って決めて、
服を3パターンぐらいしか持っていない人は、
雨の日が三日続いたり、
洗濯機が壊れてしまったら、
着る服がなくって出社できなくなるみたいな、
そういう、窮屈な感じがしてしまうのです
たとえが下手だなぁ
今の研究状況で行くと、
航海があそことここに入っていて、
あの論文をいつまでに書いて、
あの実験をここまでに終わらせて、
とか考えていたのに、
欠員が出た航海に2週間行かねばとなった時に、
順序がグダグダになってしまうようなことが起こるのです
だからって航海断れないしね(嫌がってはみせるけど絶対断り切れないのです)
要するに、
仕事をする上では効率よくするのはもちろん重要だけど、
あと30年以上仕事をし続けていくことを考えたら、
不足の事態に柔軟に対応できるようなフレキシブルな仕事術というのも重要で、
それを突き詰めていくと仕事術的な観念を持たないことになっちゃうね
結局ひとりの晩ご飯を麻婆豆腐にしたのだけど、
肝心の味噌が赤味噌しかなくって、
なんだか変な具合に仕上がってしまった
山椒などでムリヤリ整えて食べたものの、
やはり残念です
悔しい
20Gに設定したCドライブがカンカンになってしまい、
パーティションを切り直したいんだけども、
OS導入からやるのはさすがにメンドクサイので、
パーティションワークスってのを購入してみた
取説が見やすく簡単に作業は終了し、
無事100Gの確保に成功しましたとさ
めでたし
タダさんの第二作目が受理されたとのこと
めでたい
こちらは小物ネタをペロっと載せるための図をシコシコ
"2010e"を目標にがんばる
Tweet
肝心の味噌が赤味噌しかなくって、
なんだか変な具合に仕上がってしまった
山椒などでムリヤリ整えて食べたものの、
やはり残念です
悔しい
20Gに設定したCドライブがカンカンになってしまい、
パーティションを切り直したいんだけども、
OS導入からやるのはさすがにメンドクサイので、
パーティションワークスってのを購入してみた
取説が見やすく簡単に作業は終了し、
無事100Gの確保に成功しましたとさ
めでたし
タダさんの第二作目が受理されたとのこと
めでたい
こちらは小物ネタをペロっと載せるための図をシコシコ
"2010e"を目標にがんばる
アマチュアとプロの違いについては、
昔から非常に気になって色々と考えてきていましたが、
「プロフェッショナル」を「ペルソナ」と捉えると、
何となくわかりやすい気がしてきました
ペルソナについては、
ココに読みやすい文章が書かれています
これが学術的に正しいかは疑問ですが、
大体のニュアンスはこれでいいんだと思います
単純に「ペルソナ=社会的な仮面」ということでいいのかな
つまりペルソナってのは、
肉体的な存在(役割)とはまったく無関係に存在する、
社会的な存在(役割)で、
つまり本当の意味では「架空の人物」
たとえば、
眠たいけど出社しなければならないという場面では、
眠い私は生身のヒトという生物で、
出社しなければならないのはペルソナ
「会社という制度によって定義される会社員」というペルソナですね
もちろん実際の肉体は共有している
そこで、
会社員というペルソナを考えると、
それは会社(社会)の定義に基づく会社員であり、
たとえば就業中にネットをすることなどはもちろん無く、
あるいはトイレに立つことさえもしないかもしれない
すべての行動は会社の定義に基づいて行われ、
そこに個人の生物学的欲求や、
個人としての社会的欲求は存在しない
完全なる「滅私」の状態
個人的にどれだけ嫌いな人でも会社の付き合いなら好意的に交流するし、
会社のためなら自分の体が壊れることも厭わない
倒産するとわかっていても逃げ出すことなく、
最後まで会社のために働き続ける
しかし現実的には、
会社を軸にしたペルソナを考えると、
完全なる会社員というペルソナはありえない
おしっこのガマンには限界があるように、
自分が人間という生物として生存していくという部分で、
会社員というペルソナと絶対的に矛盾が生じてしまう
また、
会社は一会社員の行動では如何ともしがたく倒産することもありえる
そうすると会社員というペルソナは存在し続けることができなくなる
だから一般的には、
会社にいる時は会社員のペルソナ、
家に帰れば家庭人で、
時には会社でも会社員ペルソナを解放してみたり、
そうやって複数のペルソナを状況に応じて巧みに使い分けながら、
人間という生物の生涯を全うしていく
しかしこの場合、
「ペルソナを着脱する自分」という存在が必要になってしまう
これでは完全なるペルソナではない
そこで、
もう一つ位相を上げた、
より根源的なペルソナを設定すると様子が変わる
つまり、
会社員であり家庭人であり一生物であることを認める一つのペルソナを設定する
それぞれにペルソナがあるのではなくて、
メタペルソナというか、
全部で一つだということにしてしまう
そうすると、
あたかも生身の人間が社会的生活を送っているようになり、
「自分というペルソナの自分」、
という存在が現出する
そうこうしていくと、
もはや自分とペルソナの境界がなくなる
すべて自分でかつすべてペルソナ
この状態は、
完全なるペルソナであると同時に、
完全にペルソナから解放された自分でもある
そこにペルソナの自覚はないのかもしれない
翻ってプロフェッショナル
たとえば研究者を想定すると、
研究をしている時は研究者ペルソナ、
家に帰れば家庭人ペルソナ
よく、
仕事と家庭の両立は難しい、とか、
好きなことでも仕事になるとねぇ、とか、
そういう話があるけども、
それは研究者ペルソナと家庭人ペルソナの着脱(変更)をする自分が存在するから、
研究に対しての姿勢が場合によって変化するということ
たとえば家にいる時に天の声が、
「あなたは研究者ですか」と問うてきたら、
「私はこの家族の一員です」と応えることになる
でも家庭人のペルソナである自分が研究好きでもかまわないという点で、
少しあやふやな状況を生み出してしまう
(家庭人である自分が会社という構造が好き、ってのは珍しいかもね)
一方で位相を上げて、
より根源的に、
家庭人であり研究者でもある一つのペルソナに纏われてしまえば、
研究に対する姿勢は一貫性を持つ
自分は本当に好きで研究をしていて、
研究で飯のタネを得ていて、
それで家族を養って、
もちろん家族と楽しむ時間も持って、
その時間の中でも研究は好きで、
そういうのをすべて一つのペルソナの中で実施する
そうなると、
いつどこでも自分は研究者であり続ける
それは真にプロの研究者であるということにならないか
寝ても覚めても研究のことを考えている、という意味ではなくって、
その比率は変わろうともいつもどこかに研究者としての自分が存在していて、
そんな研究者である自分を家庭に持ち込むことを認めてしまう
あるいは、
どんな状況下であろうとも自分が研究者であることをまったく否定しない
それが真にプロの研究者じゃないかしら
あら、
だいぶ言いたいことと変わってきた
ダメだこりゃ
つまり、
長嶋茂雄は長嶋茂雄という完全なるペルソナに覆われていて、
生身の長嶋茂雄とペルソナの間にはもはや境界が存在しない
明石家さんまやタモリにも同じような感覚を抱く
ペルソナ(=仮面)という意味をはっきりと現出させているのはタイガーマスクで、
マスクマンという存在を許容するプロレスの奥深さは、
人間が社会的営みをする上での根源的な何かを表現しうるものだと思う
お笑い怪獣=タイガーマスク論につながるなぁ
ぐあー
また考えます
Tweet
昔から非常に気になって色々と考えてきていましたが、
「プロフェッショナル」を「ペルソナ」と捉えると、
何となくわかりやすい気がしてきました
ペルソナについては、
ココに読みやすい文章が書かれています
これが学術的に正しいかは疑問ですが、
大体のニュアンスはこれでいいんだと思います
単純に「ペルソナ=社会的な仮面」ということでいいのかな
つまりペルソナってのは、
肉体的な存在(役割)とはまったく無関係に存在する、
社会的な存在(役割)で、
つまり本当の意味では「架空の人物」
たとえば、
眠たいけど出社しなければならないという場面では、
眠い私は生身のヒトという生物で、
出社しなければならないのはペルソナ
「会社という制度によって定義される会社員」というペルソナですね
もちろん実際の肉体は共有している
そこで、
会社員というペルソナを考えると、
それは会社(社会)の定義に基づく会社員であり、
たとえば就業中にネットをすることなどはもちろん無く、
あるいはトイレに立つことさえもしないかもしれない
すべての行動は会社の定義に基づいて行われ、
そこに個人の生物学的欲求や、
個人としての社会的欲求は存在しない
完全なる「滅私」の状態
個人的にどれだけ嫌いな人でも会社の付き合いなら好意的に交流するし、
会社のためなら自分の体が壊れることも厭わない
倒産するとわかっていても逃げ出すことなく、
最後まで会社のために働き続ける
しかし現実的には、
会社を軸にしたペルソナを考えると、
完全なる会社員というペルソナはありえない
おしっこのガマンには限界があるように、
自分が人間という生物として生存していくという部分で、
会社員というペルソナと絶対的に矛盾が生じてしまう
また、
会社は一会社員の行動では如何ともしがたく倒産することもありえる
そうすると会社員というペルソナは存在し続けることができなくなる
だから一般的には、
会社にいる時は会社員のペルソナ、
家に帰れば家庭人で、
時には会社でも会社員ペルソナを解放してみたり、
そうやって複数のペルソナを状況に応じて巧みに使い分けながら、
人間という生物の生涯を全うしていく
しかしこの場合、
「ペルソナを着脱する自分」という存在が必要になってしまう
これでは完全なるペルソナではない
そこで、
もう一つ位相を上げた、
より根源的なペルソナを設定すると様子が変わる
つまり、
会社員であり家庭人であり一生物であることを認める一つのペルソナを設定する
それぞれにペルソナがあるのではなくて、
メタペルソナというか、
全部で一つだということにしてしまう
そうすると、
あたかも生身の人間が社会的生活を送っているようになり、
「自分というペルソナの自分」、
という存在が現出する
そうこうしていくと、
もはや自分とペルソナの境界がなくなる
すべて自分でかつすべてペルソナ
この状態は、
完全なるペルソナであると同時に、
完全にペルソナから解放された自分でもある
そこにペルソナの自覚はないのかもしれない
翻ってプロフェッショナル
たとえば研究者を想定すると、
研究をしている時は研究者ペルソナ、
家に帰れば家庭人ペルソナ
よく、
仕事と家庭の両立は難しい、とか、
好きなことでも仕事になるとねぇ、とか、
そういう話があるけども、
それは研究者ペルソナと家庭人ペルソナの着脱(変更)をする自分が存在するから、
研究に対しての姿勢が場合によって変化するということ
たとえば家にいる時に天の声が、
「あなたは研究者ですか」と問うてきたら、
「私はこの家族の一員です」と応えることになる
でも家庭人のペルソナである自分が研究好きでもかまわないという点で、
少しあやふやな状況を生み出してしまう
(家庭人である自分が会社という構造が好き、ってのは珍しいかもね)
一方で位相を上げて、
より根源的に、
家庭人であり研究者でもある一つのペルソナに纏われてしまえば、
研究に対する姿勢は一貫性を持つ
自分は本当に好きで研究をしていて、
研究で飯のタネを得ていて、
それで家族を養って、
もちろん家族と楽しむ時間も持って、
その時間の中でも研究は好きで、
そういうのをすべて一つのペルソナの中で実施する
そうなると、
いつどこでも自分は研究者であり続ける
それは真にプロの研究者であるということにならないか
寝ても覚めても研究のことを考えている、という意味ではなくって、
その比率は変わろうともいつもどこかに研究者としての自分が存在していて、
そんな研究者である自分を家庭に持ち込むことを認めてしまう
あるいは、
どんな状況下であろうとも自分が研究者であることをまったく否定しない
それが真にプロの研究者じゃないかしら
あら、
だいぶ言いたいことと変わってきた
ダメだこりゃ
つまり、
長嶋茂雄は長嶋茂雄という完全なるペルソナに覆われていて、
生身の長嶋茂雄とペルソナの間にはもはや境界が存在しない
明石家さんまやタモリにも同じような感覚を抱く
ペルソナ(=仮面)という意味をはっきりと現出させているのはタイガーマスクで、
マスクマンという存在を許容するプロレスの奥深さは、
人間が社会的営みをする上での根源的な何かを表現しうるものだと思う
お笑い怪獣=タイガーマスク論につながるなぁ
ぐあー
また考えます
先日ラジオでちらっと聞いたんだけど、
今移設が問題になっているのは海兵隊(?)
海兵隊は家族同居が基本(?)
だから商店街・繁華街などがない、
たとえば離島を丸々基地にするという移設はありえない(?)
日本国内で移設させる以上、
米海兵隊(とその家族)は日本人の生活圏を利用することになる
だから日本人居住区と密接な位置関係になってしまう
一方で海軍の場合は自宅(家族)は米国にあって、
仕事の時に単身赴任ででていく(研究乗船と一緒?)
そんな感じだったんだけど、
運転中であんまりちゃんと聞いてなかったので不明
でもこういうところからちゃんと理解しておかないと、
何が問題なのか、どこに解決の糸口があるのかもわからなくなってしまう
横須賀で外人さん見て思い出したので記録まで
Tweet
今移設が問題になっているのは海兵隊(?)
海兵隊は家族同居が基本(?)
だから商店街・繁華街などがない、
たとえば離島を丸々基地にするという移設はありえない(?)
日本国内で移設させる以上、
米海兵隊(とその家族)は日本人の生活圏を利用することになる
だから日本人居住区と密接な位置関係になってしまう
一方で海軍の場合は自宅(家族)は米国にあって、
仕事の時に単身赴任ででていく(研究乗船と一緒?)
そんな感じだったんだけど、
運転中であんまりちゃんと聞いてなかったので不明
でもこういうところからちゃんと理解しておかないと、
何が問題なのか、どこに解決の糸口があるのかもわからなくなってしまう
横須賀で外人さん見て思い出したので記録まで