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自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
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ずっとずっと悩んでいるわけですが,
「よりよい社会のためには科学技術の開発が」
ってのは違うと思う。

やっぱり科学研究のモチベーションの根底は,
単に「好奇心」の発露であって,
いわば人間の持つ「欲望」そのものなんじゃないか,と。

それは「食欲」や「性欲」なんかと同じで,
ヒトが生きていく上で抱かずにはいられないものであって,
その「好奇心」が「未知のもの」に向いた時に,
それが「研究」になって,
それが積み重なって「科学研究」になってきた,
と考えるのが自然なんじゃないかな。

そう考えていくと,
「先端科学研究をやっている」ということは,
何も外に向かって胸を張って言うようなことではなくて,
むしろ食事や性行為のように,
イエの内側で,当事者のみによって行われる,
ある種の「秘め事」であるべきなのではないか。

科学者が「科学は社会に不可欠だ」と社会に向けて言うのは,
あるヒトが「性行為は社会に不可欠だ」と言うのと同じで,
その事実自体は真理として正しいのだけれども,
それと同時に,
「そんなことを公に言うなよ」
というものである気がする。



吉本隆明が原発について下のように語っている。

「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完襞な防御装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です」

この話は科学と人類社会の交点を明確に論じていると思う。

「科学が発達を遂げてしまった」ことが問題なのである。
人類が原始的に持つ好奇心にまかせておいたら,
(自動的に)科学が発達を「遂げてしまった」と考える。
しかし「もう到達した場所」から後戻りは出来ない。
それは人類の積み重ねてきた歴史を否定することだからだ。
その歴史は,われわれ今を生きる人間が「人類の原罪」として引き受けるしかない。
だからこそ,
知恵を集め,防御装置をつくるのもまた,人類のすべきことである。

しかし一方で,
(科学が)さらに発達すること,少なくともその速度にブレーキをかけることは,
人類を否定することにはならない。
人類の好奇心にまかせておいたら,
科学技術がもたらす厄災が人類に降りかかるのだ。
それを原子力のみならず多くの環境問題から学び取って,
「さらなる科学の発達で解決する」のではなく,
「(今ある)知恵を集め」て対応していけばいい。



科学の発展と経済成長は同じ方向を向いているので,
現代社会は「科学の暴走」に歯止めがかからない。

科学研究などは人類の持つ欲望でしかない。
その副産物は,
人類社会に革命を起こすが,
同時に厄災ももたらす。

「好奇心」を「社会的な罪」とはしない。
むしろ人類を代表して,
「好奇心」という「人類の原罪」を背負う科学者は一定数必要だろう。
しかし社会はそれにブレーキをかけねばならない。
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