自由と信念の箱船で恍惚と不安を抱きストロングスタイルで爆進します!
スポーツ競技は,第一義には,そのルールの中で勝敗を決めるものである。であるから「競技者が複数集まって多数の試合を実施して競技として最高位になるものを決定する集会」=競技会においては,勝利することにしか価値がない。各種競技の世界選手権はその最高峰である。プロ化あるいはプロ部門がない競技のことを考えれば,非常に素直に理解できる。日本人に親しみがある競技で言えば,柔道や競泳がこれにあたるだろう。
五輪もこの延長線上にある。ロサンゼルス五輪以降,大会そのものは商業化が進んでいるものの,競技者への報酬は,競技において勝利者になるという「栄誉」のみであり,メダルもその象徴たる物質にすぎない。繰り返すが,当該競技のルールにおいて勝ち抜くことのみが「正義」である。それ以外の価値はない。これはサッカーW杯においても同様である。
五輪やW杯では,観客から入場料を徴収し,テレビ放映権料を介して視聴者からも徴収する。しかしそこに競技者は介在しない。「商売」は主催者と観客のみで完結する。競技者は商売に介在しない。
一方で,プロ興行はどうか。プロ興行は,興行主側に競技者が含まれている。競技者は興行主・興行を介して,観客から金銭報酬を受けとる。競技者は金銭報酬に相当する「価値」を観客に提示する必要がある。ここでその「価値」は,必ずしも競技における勝敗のみに限られない,という点が重要である。サッカーで言えば,ドン引きからのドカ蹴りカウンターでロースコアゲームを連発し無敗優勝するチームと,猛烈なフォアチェックと華麗なパスサッカーでハイスコアゲームを連発し勝点をこぼすチームと,どちらにも観客は「価値」を見出しうる。その「価値」は,もはやフィールド内に留まらず,単に「地元のチーム」というだけでも,それはそれで十分な「価値」である。
柔道において世界選手権4度制覇および五輪銀メダルの実績を引っさげてプロレスラー・プロ格闘家に転じた暴走王・小川直也という選手がいる。プロのリングにあがるにあたって小川直也は言った。「単に勝敗を決めるだけだったら,アマチュアの方がよっぽど裾野が広く,頂点は険しい。プロの世界で頂点に立つことは,それに比べれば難しくない。でもプロが相手にするのは観客なんだよ。観客をどれだけ満足させるか。そここそが勝負なんだ」(意訳)。
話は脱線するが,この「プロとは何たるか」を小川直也に仕込んだ男が,アントニオ猪木であり,小川直也はその確立されたプロ思想のバックボーンを持ちながらも「魅せる」という点で凡百のレスラーであった。(思想を持つことと実現することとは別次元であることの教訓である)
ここでややこしいのは,現代サッカーにおいて,選手達はプロチームに所属していると同時に,各国代表のチームにも参加している。つまりプロ選手であり,同時にアマチュア選手でもあるのだ。
サッカーW杯はアマチュアの大会である。観客の満足は関係が無い。勝利のみが価値である。それは揺るぎない事実だ。その一方で,W杯は(プロリーグ以上に)見られる存在となっている。ここに倒錯がある。そしてこの倒錯(W杯は見られる存在であるという事実)は,日常のプロリーグとも地続きになっている。W杯で名を上げることが,その後に行われる興行(あるいは個々の選手の価値)に大きな影響を及ぼすのだ。
選手の担う「W杯のいま・ここにいるアマチュア選手」と「これからもずっとプロ選手」というアンビバレンツ。それゆえに生じる各選手のエゴとエゴのシーソーゲーム。
学生スポーツが必死なのは,学生生活には年限があるため「負けたら死ぬ」からである。また観客はそれを知っていて,その「死」と隣り合わせで戦う姿に感動するのである(極めて残虐である)。この「死」との距離において,学生スポーツはアマチュア競技としてかなり異質である。日本人が五輪に感情を移入しがちなのは,4年というタイムスパンによる前後の隔絶という意味において,ある種「死」を感じさせるためだろうと考えている。毎年開催されるならば,敗れても翌年に機会がめぐってくるので「死」の意味合いは薄い。
「プロは手を抜くことを知っている」というのは,学生スポーツとは違って,「負けても死なない」という余裕から「手を抜いても大丈夫」と考えているからであろう。だがガットッゥーゾや岡崎や米本といった「手を抜かない闘犬」に心が揺さぶられるのも事実である。怪我を恐れぬ飛び込み。スタミナが切れてもなお追いかける精神力。プロの世界においても,勝利や妙技と同様に,「手を抜かない」という「価値」が存在するのだ。
ということで,プロアマ論。
観客は,プロアマ気にせず,どんなものでも好きなように無邪気に楽しめば良い。しかしプロアマ論をからめた評論をするのであれば,W杯がアマチュア大会であることは外せないし,他のプロ・アマの大会・魅力との区別はすべきだと思うぞ。
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五輪もこの延長線上にある。ロサンゼルス五輪以降,大会そのものは商業化が進んでいるものの,競技者への報酬は,競技において勝利者になるという「栄誉」のみであり,メダルもその象徴たる物質にすぎない。繰り返すが,当該競技のルールにおいて勝ち抜くことのみが「正義」である。それ以外の価値はない。これはサッカーW杯においても同様である。
五輪やW杯では,観客から入場料を徴収し,テレビ放映権料を介して視聴者からも徴収する。しかしそこに競技者は介在しない。「商売」は主催者と観客のみで完結する。競技者は商売に介在しない。
一方で,プロ興行はどうか。プロ興行は,興行主側に競技者が含まれている。競技者は興行主・興行を介して,観客から金銭報酬を受けとる。競技者は金銭報酬に相当する「価値」を観客に提示する必要がある。ここでその「価値」は,必ずしも競技における勝敗のみに限られない,という点が重要である。サッカーで言えば,ドン引きからのドカ蹴りカウンターでロースコアゲームを連発し無敗優勝するチームと,猛烈なフォアチェックと華麗なパスサッカーでハイスコアゲームを連発し勝点をこぼすチームと,どちらにも観客は「価値」を見出しうる。その「価値」は,もはやフィールド内に留まらず,単に「地元のチーム」というだけでも,それはそれで十分な「価値」である。
柔道において世界選手権4度制覇および五輪銀メダルの実績を引っさげてプロレスラー・プロ格闘家に転じた暴走王・小川直也という選手がいる。プロのリングにあがるにあたって小川直也は言った。「単に勝敗を決めるだけだったら,アマチュアの方がよっぽど裾野が広く,頂点は険しい。プロの世界で頂点に立つことは,それに比べれば難しくない。でもプロが相手にするのは観客なんだよ。観客をどれだけ満足させるか。そここそが勝負なんだ」(意訳)。
話は脱線するが,この「プロとは何たるか」を小川直也に仕込んだ男が,アントニオ猪木であり,小川直也はその確立されたプロ思想のバックボーンを持ちながらも「魅せる」という点で凡百のレスラーであった。(思想を持つことと実現することとは別次元であることの教訓である)
ここでややこしいのは,現代サッカーにおいて,選手達はプロチームに所属していると同時に,各国代表のチームにも参加している。つまりプロ選手であり,同時にアマチュア選手でもあるのだ。
サッカーW杯はアマチュアの大会である。観客の満足は関係が無い。勝利のみが価値である。それは揺るぎない事実だ。その一方で,W杯は(プロリーグ以上に)見られる存在となっている。ここに倒錯がある。そしてこの倒錯(W杯は見られる存在であるという事実)は,日常のプロリーグとも地続きになっている。W杯で名を上げることが,その後に行われる興行(あるいは個々の選手の価値)に大きな影響を及ぼすのだ。
選手の担う「W杯のいま・ここにいるアマチュア選手」と「これからもずっとプロ選手」というアンビバレンツ。それゆえに生じる各選手のエゴとエゴのシーソーゲーム。
学生スポーツが必死なのは,学生生活には年限があるため「負けたら死ぬ」からである。また観客はそれを知っていて,その「死」と隣り合わせで戦う姿に感動するのである(極めて残虐である)。この「死」との距離において,学生スポーツはアマチュア競技としてかなり異質である。日本人が五輪に感情を移入しがちなのは,4年というタイムスパンによる前後の隔絶という意味において,ある種「死」を感じさせるためだろうと考えている。毎年開催されるならば,敗れても翌年に機会がめぐってくるので「死」の意味合いは薄い。
「プロは手を抜くことを知っている」というのは,学生スポーツとは違って,「負けても死なない」という余裕から「手を抜いても大丈夫」と考えているからであろう。だがガットッゥーゾや岡崎や米本といった「手を抜かない闘犬」に心が揺さぶられるのも事実である。怪我を恐れぬ飛び込み。スタミナが切れてもなお追いかける精神力。プロの世界においても,勝利や妙技と同様に,「手を抜かない」という「価値」が存在するのだ。
ということで,プロアマ論。
観客は,プロアマ気にせず,どんなものでも好きなように無邪気に楽しめば良い。しかしプロアマ論をからめた評論をするのであれば,W杯がアマチュア大会であることは外せないし,他のプロ・アマの大会・魅力との区別はすべきだと思うぞ。
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